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cafe all-sorts Day&Night
生まれ変わる決意1
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葵は大学受験が終了すると、すぐに家を出た。そして、最短距離での司法試験合格をやり遂げ、卒業と同時に弁護士として働き始めている。
一年目の多忙な時期にも関わらず、優希のそばにいるという約束を変わらずに果たしてくれていた。
学生時代ほどすぐに駆けつけてもらうことは出来なくなっていたが、数時間待てば葵に会えるという希望が、この頃の優希を支えていた。
この時葵がかけた電話は、上司から頼まれて知人の店の手伝いをさせられているという話をするためだった。そこに来るお客さんの中に、どうしても優希に合わせたい人物がいるのだという。
優希の心の奥底に潜み続ける真っ黒な生き物は、そろそろ自分を食い破りそうなほどに大きくなっていた。
その息の根を止められるのなら、少しでもこの苦しみから解放されるのであれば、行くという選択肢しか無い。
そして、呼び出された場所へと向かう。その場所がオールソーツだった。
当時のオールソーツはバー営業しかしておらず、優希は久しぶりに夜の繁華街へ向かった。自分の問題が明らかになって以来、人との接触は最低限しかしておらず、賑やかな人の波の中へ入り込むこと自体が久しぶりだった。
仕事の付き合いであれば紛らわせる事の出来るものも、一人でいては溺れてしまうような息苦しさを感じた。
そんな彼を最も理解している葵がわざわざ呼び出すのだから、これから会う人はよほど信頼のおける人なのだろう。そう何度も言い聞かせながらも、優希は不安を抱えたままだった。
気が進まないことに鉛のように重くなる体を引きずりながら、重い店の扉を開く。そのノブには閉店を示す看板がかかっていた。
——閉店? でも、店に来てって言ってたよな。
訝しげにドアを引くと、カランと軽くて乾いた金属音が鳴る。その音に、二つの影が振り返るのが見えた。
「こんばんわ」
「おー来たな、優希。ここ、座って」
葵はスーツ姿のままカウンターに入っており、髪も仕事のためにキッチリとセットされた姿のままだ。どうやらこの店は、今日は営業日していないらしい。
「わー、葵のスーツ姿始めて見た。かっこいいねえ」
数時間前には死のうと思って追い詰められていた優希の口からは、自然と軽口が溢れる。葵はそれを聞いて、優しく微笑んだ。
「お、そうだろ。今日はグレーだけど、ブラウン系の時の俺もかっこいいんだぜ。今度見せてやるよ」
そう言うと優しい目で優希を見た。おそらく彼には、優希が今日しようとしたことはお見通しなのだろう。だからこそ、次を約束する言葉をかけてくれている。
その優しさに、優希の鼻がつんと痛んだ。
「こんばんは。あの、お隣失礼します」
涙を堪えながら案内されたカウンターに座る。そこには、長い髪を一つに束ねた長身の男性が座っていた。
「こんばんは。……佐藤優希さんですよね? 初めまして、世理了と申します」
ダウンライトに照らされて、銀縁のメガネがきらりと光った。同じ色をした長い髪が、黒いジャケットの上をさらりと滑る。長身痩躯ながらも、どこか力強いエネルギーに満ちた男だった。
反してその声は、深く柔らかく耳をくすぐる優しさを持ち、相手に安心感を与えてくれる。優希は、その吸い寄せられるように光る瞳に、思わず目を奪われた。
「実はサトルは俺の大学の先輩なんだ。ここの常連だったんだよ。医学部を卒業してしばらく医者やってたんだけど、犯罪の抑止に貢献したくて今の研究所に移ったんだ」
葵がそう紹介すると、サトルは優希に名刺を渡してくれた。
「犯罪心理研究所 抑止力強化チーム……抑止力を強化するチーム……犯罪を防ぐ研究をしてるってことですか?」
「そうですね。それも、私のチームはより現実的に再犯を防ぐ研究と、自覚のある犯罪者予備軍の方に予防措置の治験協力をしてもらっています」
「予防措置の治験協力……葵、もしかして……」
「サトルは異常性愛者の犯罪予防が専門なんだ。医者しながら心理の勉強してるって言ってたから詳しく話を聞いたら、お前を助けられそうだなと思ったんだよ」
サトルは優希の方へと向き直ると、銀縁の奥に光る狐のような目で彼を見た。だが、その視線が厳しかったのはほんのわずかな時間だけで、その後にはすぐにそれを緩め、温かい笑顔で接してくれた。
「私は特にペドフィリアを専門にしています。佐藤さん、失礼ですが葵から話は聞かせていただいてます。あなたは正式に診断を受けては無くても、その自覚があると伺いました。間違いありませんか?」
「あ……あの、僕……」
優希は困った。彼はこれまで、このことを葵以外の人には話したことが無い。言葉にするのも恥ずかしいと思っていることを話さなければならないというこの状況は、想像していたよりも辛かった。それも、相手は今日初めて会った人だ。どうしても言葉が喉に引っかかって出て来なくなってしまう。
「恥ずかしいですか? その気持ちがあるうちは、治療はまだ楽に進みます。治験に参加するのであればその気持ちがあることが大切です。お辛かったでしょうに、自分を正当化しなかったのですね。その精神力の強さは素晴らしい。ただ、詰まるところ、あなたが抱えている問題は、その強さを持ってしても太刀打ちが出来ないものだということです」
サトルは、これまでの優希の行動を最大に肯定する言葉を選んで彼を励ました。そうしながら、自分のことも紹介していく。
サトルはペドフィリア治療の専門家として、投薬と行動療法を合同で行う研究チームに所属しているという。この時、まだこの治療法は非公開の治験段階であったため、葵に相談していなければ、この治療法には出会えなかったに違いない。
この日の出会いは、葵が繋いだ奇跡の出会いだった。優希はこの時、初めて葵以外の人に素直な感情を見せた。涙に頬を濡らし、サトルに素直に助けを求めた。
「助けて……ください。お願いします。もう、僕は死ぬしか無いところまで来てしまいました。どうか……お願いします。助けて、僕も、あの二人のことも」
今初めて会ったばかりの人のジャケットを握りしめて、縋り付いて泣いた。それまで体に溜め込んでいた悲しみが、空になるまで泣き続けた。
サトルがふとカウンターの内側に目を向けると、葵も黙ったまま涙を流していた。長く苦しんでいる幼馴染を助けるための方法をあらゆる方面で探していたことを、彼は人伝に聞いて知っていた。
その中には、葵と優希を揶揄するものが多くあった。その噂を耳にした葵の家族が、困っている優希を見捨てるようにと言ってきたため、葵は大学入学と同時に家族と縁を切っている。そこまでして誰かを助けようとする後輩を、サトルもまた心配している。
「あの、僕がこの治療を受けようとするなら、長期間入院することになりますよね? 仕事はどうにかなると思うんですけど、二人の世話をどうするか……」
その懸念は解決済みとばかりに、葵は身を乗り出す。オレンジ色の巻き毛の下にある目をしっかりと見つめながら、ある疑問を投げかけた。
「なあ、優希。リョウのご両親はネグレクトなんだろ? どうして児相に通報しないんだ? お前なら、まずそうするんじゃないのか?」
葵の言葉に、優希は目に悲しげな色を浮かべて俯いた。そして、力なく笑う。
「実は何度かしたことはあるんだ。その時はちゃんと反省して改めようとしてくれるんだよ。でも、すぐ元に戻っちゃうんだよね。だから、次に通報すると、施設に行くしか無くなるんだと思うんだ。でも、そうなると二人は多分離れ離れになるだろうから、それは避けたいんだよ」
「……これ以上の喪失体験をさせたくない、ということですか?」
やや呆れたように尋ねるサトルに、優希は小さく「はい」と答えた。それを聞いて、葵はふわりと微笑んだ。
「なあ、言った通りだろ? こんな状態でここまで我慢してきて、こんなこというんだぜ。ちょっと呆れるだろ?」
「本当だな。ちょっと優し過ぎて心配になるよ。でも、だからこそ」
サトルは優希の背中にそっと手を当てた。そして、その温もりが伝わるように、優しく押し当てる。
「だからこそ、協力させてください。私は医師になる夢を叶えた後に、葵からこの相談を受けました。相手が誰なのかは、昨日電話をもらうまでは知りませんでした。ただ、二人であなたのように生まれ持ったもので困っている人を助ける仕事をしようという話になったんです。そこで二人で負担を分け合うことにしました。私は治療が出来る研究機関に所属するために資格を取りました。そして、葵は犠牲になる子供たちを見守るために、最も信用の固い職業である弁護士になったんです」
「……え? それ、どういうことですか?」
優希は葵を見た。気がつくと、その涙は流れ始めてから乾く間も無く溢れている。葵がこんな風に感情を露わにすることも、そうあることではない。優希はそれを見て、彼の自分への思いの深さを思い知った。
「自分の人生なのに……どうしてそこまでしてくれるんだ。あなたもですよ。葵から聞いたからって、僕は全くの他人じゃ無いですか。それなのに、所属先を僕のために決めるなんて……」
優希の言葉は最もだ。二人は揃って優希に優し過ぎると言いはしたが、自分たちも似たようなものだと気がついている。二人は顔をお互いを見ると、ふっと楽しそうに笑った。
「そうですね。私たちもあなたのことを言えたものじゃありません。でも、そんなになるまで人のために自分を律していることを知ったら、助けたくなるものですよ。その手段が、たまたま自分の進みたい道と合致していた。だからちょうどいいと思ってその道に進んだ。あなただけのためじゃないから、負担に思う必要はありません。ただそれだけです。なあ、葵。お前もそうだろう?」
「そうだよ。俺たちのしたいことが、偶然お前を救える道だったってだけだ。だから、気にするな。それで、リョウとミドリのことだけど、俺がリョウの未成年後見人になるよ。後藤さんからこの店の昼営業の相談を受けた時に、俺をその時間帯のスタッフとして雇ってくれって頼んだんだ。弁護士は登録さえしてたら資格は失わないから、二人が成人したらまたやるよ。あ、最初にご両親にその手続きに協力していただかないといけないから、そこだけは頑張ろうぜ。抵抗されたら叶わなくなるから、慎重に行かないとな」
「未成年後見人? 両親健在でもなれるものなの? いやそれよりも、弁護士辞めちゃうの? いくら葵でもあんなに早く弁護士になったのは大変だっただろ? それなのに……」
葵は意外な提案をしてきた。未成年後見人になるということだけでも驚くべきことであるのに、弁護士を休業すると言い出すとは想像もし得ない。それには優希だけで無く、サトルも驚いていた。
「お前もお前で献身ぶりがすごいな」
呆れるサトルに、葵は微笑んだ。
「だって、俺も優希がいたからここまで生きてこられたんだよ。こいつはそれをわかってないけど、俺だって救われてんの」
優希は狼狽えた。自分のわがままで、葵にこれ以上の負担をかけることを強いていいのだろうかという問いがのし掛かる。でも、今の葵の言葉を聞く限り、ここでそれを固辞するのもまた違うような気がした。
それに、どう考えても今抱えている問題を解決するためには、現実的にそうしてもらうしか手がないのも確かだった。
「なあ、優希。もともと弁護士の業務の一つに、未成年後見人を請け負うってのもあるんだよ。だから、俺にとってはこの制度自体はそんなに特別なものでもない。実際にやったことはないけどね。まあでも、一般の人よりは抵抗は少ないと思うよ。あまり気に病むな。今の優希を放っておく方が俺は辛いよ。何より、お前を失いたくない。それに、俺もあの二人を見守ってあげたいし」
葵はそういうと、ビアグラスを持ち、タップを引いてビールを注ぎ始めた。そして、
「お前、ビール好きなんだろう? 一度二人が泊まりのイベントでいなかった時、一緒に飲んだ時の顔が忘れられなくてさ。施設に入ったら飲めなくなるから、今日は好きなだけ飲んでいいぞ。俺がちゃんと連れて帰ってやる。リョウとミドリは俺のうちで姉さんが面倒見てくれてるから、心配すんな。ほら、サトルもどうぞ」
そう言って、琥珀色で満たされたグラスを並べた。
いっぱいに注がれたビールと泡が、柔らかなライトの光を反射してキラキラと煌めいている。優希はその黄金色の輝きに見惚れてしまった。
確かにビールが好きなのだが、飲めることを喜んでいるわけではない。目の前にある綺麗に輝くものに、意識が向かうことに喜びを感じていた。
自分の心が、美しいという感覚を失っていなかったことに、心から安堵したのだ。
「……ありがとう」
二人の身の安全が保障されるのなら、それが一番いい。そして、それが叶うのなら、自分は治療に専念しようと優希は誓った。
きっと葵なら、リョウとうまくやっていけるだろう。リョウの両親への説明も、うまくやれるだろう。そう考えると、体が軽くなるような気さえした。
「長年の苦しみから解放されて来い。長い戦いになるだろうけれど、俺に出来ることはするから。ミドリのことも、俺がちゃんと世話をするよ」
涙を流しながらビールを飲む優希の姿を、葵は満足そうな笑みを浮かべて見守った。サトルも隣で同じようにグラスを傾けながら、「頑張りましょう」と優希に握手を求めてきた。優希は迷いなく、その手を握りしめた。
「あなた、今まで誰一人として苦しめていないんでしょう? 会わないのであればそれも可能かもしれません。でも毎日一緒に暮らしながらそんなこと……普通は無理です。そんなの奇跡でしかない。そこまで頑張ったんですから、これからはたくさん周りを頼ってください」
そう言って、握手の力を少しだけ強めた。それはとても心地良い痛みとなって伝わってきた。
——この人に任せてみよう。
優希は、翌日から研究所の宿泊施設へ入ることを決めた。
そこから五年。
新しく長い戦いが待っていた。
一年目の多忙な時期にも関わらず、優希のそばにいるという約束を変わらずに果たしてくれていた。
学生時代ほどすぐに駆けつけてもらうことは出来なくなっていたが、数時間待てば葵に会えるという希望が、この頃の優希を支えていた。
この時葵がかけた電話は、上司から頼まれて知人の店の手伝いをさせられているという話をするためだった。そこに来るお客さんの中に、どうしても優希に合わせたい人物がいるのだという。
優希の心の奥底に潜み続ける真っ黒な生き物は、そろそろ自分を食い破りそうなほどに大きくなっていた。
その息の根を止められるのなら、少しでもこの苦しみから解放されるのであれば、行くという選択肢しか無い。
そして、呼び出された場所へと向かう。その場所がオールソーツだった。
当時のオールソーツはバー営業しかしておらず、優希は久しぶりに夜の繁華街へ向かった。自分の問題が明らかになって以来、人との接触は最低限しかしておらず、賑やかな人の波の中へ入り込むこと自体が久しぶりだった。
仕事の付き合いであれば紛らわせる事の出来るものも、一人でいては溺れてしまうような息苦しさを感じた。
そんな彼を最も理解している葵がわざわざ呼び出すのだから、これから会う人はよほど信頼のおける人なのだろう。そう何度も言い聞かせながらも、優希は不安を抱えたままだった。
気が進まないことに鉛のように重くなる体を引きずりながら、重い店の扉を開く。そのノブには閉店を示す看板がかかっていた。
——閉店? でも、店に来てって言ってたよな。
訝しげにドアを引くと、カランと軽くて乾いた金属音が鳴る。その音に、二つの影が振り返るのが見えた。
「こんばんわ」
「おー来たな、優希。ここ、座って」
葵はスーツ姿のままカウンターに入っており、髪も仕事のためにキッチリとセットされた姿のままだ。どうやらこの店は、今日は営業日していないらしい。
「わー、葵のスーツ姿始めて見た。かっこいいねえ」
数時間前には死のうと思って追い詰められていた優希の口からは、自然と軽口が溢れる。葵はそれを聞いて、優しく微笑んだ。
「お、そうだろ。今日はグレーだけど、ブラウン系の時の俺もかっこいいんだぜ。今度見せてやるよ」
そう言うと優しい目で優希を見た。おそらく彼には、優希が今日しようとしたことはお見通しなのだろう。だからこそ、次を約束する言葉をかけてくれている。
その優しさに、優希の鼻がつんと痛んだ。
「こんばんは。あの、お隣失礼します」
涙を堪えながら案内されたカウンターに座る。そこには、長い髪を一つに束ねた長身の男性が座っていた。
「こんばんは。……佐藤優希さんですよね? 初めまして、世理了と申します」
ダウンライトに照らされて、銀縁のメガネがきらりと光った。同じ色をした長い髪が、黒いジャケットの上をさらりと滑る。長身痩躯ながらも、どこか力強いエネルギーに満ちた男だった。
反してその声は、深く柔らかく耳をくすぐる優しさを持ち、相手に安心感を与えてくれる。優希は、その吸い寄せられるように光る瞳に、思わず目を奪われた。
「実はサトルは俺の大学の先輩なんだ。ここの常連だったんだよ。医学部を卒業してしばらく医者やってたんだけど、犯罪の抑止に貢献したくて今の研究所に移ったんだ」
葵がそう紹介すると、サトルは優希に名刺を渡してくれた。
「犯罪心理研究所 抑止力強化チーム……抑止力を強化するチーム……犯罪を防ぐ研究をしてるってことですか?」
「そうですね。それも、私のチームはより現実的に再犯を防ぐ研究と、自覚のある犯罪者予備軍の方に予防措置の治験協力をしてもらっています」
「予防措置の治験協力……葵、もしかして……」
「サトルは異常性愛者の犯罪予防が専門なんだ。医者しながら心理の勉強してるって言ってたから詳しく話を聞いたら、お前を助けられそうだなと思ったんだよ」
サトルは優希の方へと向き直ると、銀縁の奥に光る狐のような目で彼を見た。だが、その視線が厳しかったのはほんのわずかな時間だけで、その後にはすぐにそれを緩め、温かい笑顔で接してくれた。
「私は特にペドフィリアを専門にしています。佐藤さん、失礼ですが葵から話は聞かせていただいてます。あなたは正式に診断を受けては無くても、その自覚があると伺いました。間違いありませんか?」
「あ……あの、僕……」
優希は困った。彼はこれまで、このことを葵以外の人には話したことが無い。言葉にするのも恥ずかしいと思っていることを話さなければならないというこの状況は、想像していたよりも辛かった。それも、相手は今日初めて会った人だ。どうしても言葉が喉に引っかかって出て来なくなってしまう。
「恥ずかしいですか? その気持ちがあるうちは、治療はまだ楽に進みます。治験に参加するのであればその気持ちがあることが大切です。お辛かったでしょうに、自分を正当化しなかったのですね。その精神力の強さは素晴らしい。ただ、詰まるところ、あなたが抱えている問題は、その強さを持ってしても太刀打ちが出来ないものだということです」
サトルは、これまでの優希の行動を最大に肯定する言葉を選んで彼を励ました。そうしながら、自分のことも紹介していく。
サトルはペドフィリア治療の専門家として、投薬と行動療法を合同で行う研究チームに所属しているという。この時、まだこの治療法は非公開の治験段階であったため、葵に相談していなければ、この治療法には出会えなかったに違いない。
この日の出会いは、葵が繋いだ奇跡の出会いだった。優希はこの時、初めて葵以外の人に素直な感情を見せた。涙に頬を濡らし、サトルに素直に助けを求めた。
「助けて……ください。お願いします。もう、僕は死ぬしか無いところまで来てしまいました。どうか……お願いします。助けて、僕も、あの二人のことも」
今初めて会ったばかりの人のジャケットを握りしめて、縋り付いて泣いた。それまで体に溜め込んでいた悲しみが、空になるまで泣き続けた。
サトルがふとカウンターの内側に目を向けると、葵も黙ったまま涙を流していた。長く苦しんでいる幼馴染を助けるための方法をあらゆる方面で探していたことを、彼は人伝に聞いて知っていた。
その中には、葵と優希を揶揄するものが多くあった。その噂を耳にした葵の家族が、困っている優希を見捨てるようにと言ってきたため、葵は大学入学と同時に家族と縁を切っている。そこまでして誰かを助けようとする後輩を、サトルもまた心配している。
「あの、僕がこの治療を受けようとするなら、長期間入院することになりますよね? 仕事はどうにかなると思うんですけど、二人の世話をどうするか……」
その懸念は解決済みとばかりに、葵は身を乗り出す。オレンジ色の巻き毛の下にある目をしっかりと見つめながら、ある疑問を投げかけた。
「なあ、優希。リョウのご両親はネグレクトなんだろ? どうして児相に通報しないんだ? お前なら、まずそうするんじゃないのか?」
葵の言葉に、優希は目に悲しげな色を浮かべて俯いた。そして、力なく笑う。
「実は何度かしたことはあるんだ。その時はちゃんと反省して改めようとしてくれるんだよ。でも、すぐ元に戻っちゃうんだよね。だから、次に通報すると、施設に行くしか無くなるんだと思うんだ。でも、そうなると二人は多分離れ離れになるだろうから、それは避けたいんだよ」
「……これ以上の喪失体験をさせたくない、ということですか?」
やや呆れたように尋ねるサトルに、優希は小さく「はい」と答えた。それを聞いて、葵はふわりと微笑んだ。
「なあ、言った通りだろ? こんな状態でここまで我慢してきて、こんなこというんだぜ。ちょっと呆れるだろ?」
「本当だな。ちょっと優し過ぎて心配になるよ。でも、だからこそ」
サトルは優希の背中にそっと手を当てた。そして、その温もりが伝わるように、優しく押し当てる。
「だからこそ、協力させてください。私は医師になる夢を叶えた後に、葵からこの相談を受けました。相手が誰なのかは、昨日電話をもらうまでは知りませんでした。ただ、二人であなたのように生まれ持ったもので困っている人を助ける仕事をしようという話になったんです。そこで二人で負担を分け合うことにしました。私は治療が出来る研究機関に所属するために資格を取りました。そして、葵は犠牲になる子供たちを見守るために、最も信用の固い職業である弁護士になったんです」
「……え? それ、どういうことですか?」
優希は葵を見た。気がつくと、その涙は流れ始めてから乾く間も無く溢れている。葵がこんな風に感情を露わにすることも、そうあることではない。優希はそれを見て、彼の自分への思いの深さを思い知った。
「自分の人生なのに……どうしてそこまでしてくれるんだ。あなたもですよ。葵から聞いたからって、僕は全くの他人じゃ無いですか。それなのに、所属先を僕のために決めるなんて……」
優希の言葉は最もだ。二人は揃って優希に優し過ぎると言いはしたが、自分たちも似たようなものだと気がついている。二人は顔をお互いを見ると、ふっと楽しそうに笑った。
「そうですね。私たちもあなたのことを言えたものじゃありません。でも、そんなになるまで人のために自分を律していることを知ったら、助けたくなるものですよ。その手段が、たまたま自分の進みたい道と合致していた。だからちょうどいいと思ってその道に進んだ。あなただけのためじゃないから、負担に思う必要はありません。ただそれだけです。なあ、葵。お前もそうだろう?」
「そうだよ。俺たちのしたいことが、偶然お前を救える道だったってだけだ。だから、気にするな。それで、リョウとミドリのことだけど、俺がリョウの未成年後見人になるよ。後藤さんからこの店の昼営業の相談を受けた時に、俺をその時間帯のスタッフとして雇ってくれって頼んだんだ。弁護士は登録さえしてたら資格は失わないから、二人が成人したらまたやるよ。あ、最初にご両親にその手続きに協力していただかないといけないから、そこだけは頑張ろうぜ。抵抗されたら叶わなくなるから、慎重に行かないとな」
「未成年後見人? 両親健在でもなれるものなの? いやそれよりも、弁護士辞めちゃうの? いくら葵でもあんなに早く弁護士になったのは大変だっただろ? それなのに……」
葵は意外な提案をしてきた。未成年後見人になるということだけでも驚くべきことであるのに、弁護士を休業すると言い出すとは想像もし得ない。それには優希だけで無く、サトルも驚いていた。
「お前もお前で献身ぶりがすごいな」
呆れるサトルに、葵は微笑んだ。
「だって、俺も優希がいたからここまで生きてこられたんだよ。こいつはそれをわかってないけど、俺だって救われてんの」
優希は狼狽えた。自分のわがままで、葵にこれ以上の負担をかけることを強いていいのだろうかという問いがのし掛かる。でも、今の葵の言葉を聞く限り、ここでそれを固辞するのもまた違うような気がした。
それに、どう考えても今抱えている問題を解決するためには、現実的にそうしてもらうしか手がないのも確かだった。
「なあ、優希。もともと弁護士の業務の一つに、未成年後見人を請け負うってのもあるんだよ。だから、俺にとってはこの制度自体はそんなに特別なものでもない。実際にやったことはないけどね。まあでも、一般の人よりは抵抗は少ないと思うよ。あまり気に病むな。今の優希を放っておく方が俺は辛いよ。何より、お前を失いたくない。それに、俺もあの二人を見守ってあげたいし」
葵はそういうと、ビアグラスを持ち、タップを引いてビールを注ぎ始めた。そして、
「お前、ビール好きなんだろう? 一度二人が泊まりのイベントでいなかった時、一緒に飲んだ時の顔が忘れられなくてさ。施設に入ったら飲めなくなるから、今日は好きなだけ飲んでいいぞ。俺がちゃんと連れて帰ってやる。リョウとミドリは俺のうちで姉さんが面倒見てくれてるから、心配すんな。ほら、サトルもどうぞ」
そう言って、琥珀色で満たされたグラスを並べた。
いっぱいに注がれたビールと泡が、柔らかなライトの光を反射してキラキラと煌めいている。優希はその黄金色の輝きに見惚れてしまった。
確かにビールが好きなのだが、飲めることを喜んでいるわけではない。目の前にある綺麗に輝くものに、意識が向かうことに喜びを感じていた。
自分の心が、美しいという感覚を失っていなかったことに、心から安堵したのだ。
「……ありがとう」
二人の身の安全が保障されるのなら、それが一番いい。そして、それが叶うのなら、自分は治療に専念しようと優希は誓った。
きっと葵なら、リョウとうまくやっていけるだろう。リョウの両親への説明も、うまくやれるだろう。そう考えると、体が軽くなるような気さえした。
「長年の苦しみから解放されて来い。長い戦いになるだろうけれど、俺に出来ることはするから。ミドリのことも、俺がちゃんと世話をするよ」
涙を流しながらビールを飲む優希の姿を、葵は満足そうな笑みを浮かべて見守った。サトルも隣で同じようにグラスを傾けながら、「頑張りましょう」と優希に握手を求めてきた。優希は迷いなく、その手を握りしめた。
「あなた、今まで誰一人として苦しめていないんでしょう? 会わないのであればそれも可能かもしれません。でも毎日一緒に暮らしながらそんなこと……普通は無理です。そんなの奇跡でしかない。そこまで頑張ったんですから、これからはたくさん周りを頼ってください」
そう言って、握手の力を少しだけ強めた。それはとても心地良い痛みとなって伝わってきた。
——この人に任せてみよう。
優希は、翌日から研究所の宿泊施設へ入ることを決めた。
そこから五年。
新しく長い戦いが待っていた。
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