追いかけて

皆中明

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追いかけて

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 そこへ秘書の森村さんが、スープ皿の載ったトレイを持って戻ってきた。

「森村と申します。失礼ながら、ご挨拶は後ほど改めてさせていただきたく存じます。まずは真島様、前を失礼致します。お食事が摂りづらくなっていると伺っておりまして、少しでも栄養が取れるようにと、こちらをお持ち致しました」

 そう言うと、温かそうなスープを一皿出してくれた。それは、新木家でも滅多にお目にかかることは無く、特別な日にだけ使うという金縁の装飾のあるスープ皿に注がれていた。
 深いバーガンディーカラーの液面に、少量のパセリとクネルが浮かんでいる。超庶民の俺には滅多に出会うことの無い、ホテルのレストランくらいでしかお目にかかれそうもないような、深い香りのするスープだった。

「……お、お気遣いありがとうございます。いただきます」

 いきなり会ったばかりの人から唐突に食べ物を勧められるなんて、本当は恐ろしくて仕方がなかった。ただ、仁木さんが何も言わずただニコニコと笑っているのだから、信用しても大丈夫なのだろう。そう思い、戴くことにした。
 
 スープを、トレイに載せられていたコロンと丸い形のスープスプーンで掬い、ゆっくりと口へ運ぶ。力尽きている手には、スープスプーンを口に運ぶ事すら大仕事だ。それでもどうにかゆっくりと近づけると、途端に野菜とスパイスの香りが鼻に抜ける。

——ほんの少しだけ懐かしい感じがするな……。

 飲み込んでもそれは続いた。久しぶりに感じた味と香りは、記憶の中のどれよりもずっと深くよりふくよかなもので、あまりの感動に思わず大声をあげてしまった。

「なんだこれ、うんまっ!」

 そうして飛び出した下品な感想を耳にしながら、会長は心の底から嬉しそうに微笑んでいる。その顔を見てはっと我に返ったが、もう口から漏れてしまったものはどうしようもない。恥ずかしさに顔を赤ながらも、正直に自分らしく伝えることにした。

「あ、申し訳ありません。下品な感想がつい。びっくりするくらい美味しくて、思わず……」

 俺を気遣ってかややぬるめに仕上げてあるスープは、幸せと嬉しさの枯れた体にそれを満たしていく。まるで今の俺に足りないものを理解している人が作ったかのようだった。飲んでいるだけで涙が溢れそうになるほどに優しい。その味を堪能しながらも、気づけば夢中になって飲み干していた。

「ごちそうさまでした」

 皿を空にする頃には、久しぶりの滋味に体が高揚しているのを感じた。食べた物の内容もそうなのだろうけれど、作った人の思いが感じられるような味がしたのだ。

 そして、食欲という本能が満たされたからだろうか、急激に会長の存在が気になり始めた俺は、仁木さんにその詳細を尋ねたくなった。本人を目の前にして聞いてもいいのだろうかと躊躇したのだが、この状況で聞かずにいるのもまた失礼だろうと思い、思い切って訊ねることにした。

「あの、お訊きしてもよろしいですか? 会長って……どちらの会長なんですか?」

 すると、仁木さんはニヤリと不適な笑みを浮かべる。彼がこんな悪戯めいた顔をすることなど珍しい。

「気になりますか?」

 もったいつける仁木さんに多少の苛立ちを感じながらも、それに軽く戯けながら、

「いやあ、普通気になるでしょう。だってこんなお偉いさんが俺のファンだって言うし、何でかその方からスープご馳走になってるし。そんな状態で名前もわからないのって、変でしょう?」

 と返した。すると、会長はひどく慌てたようで、

「そうだね、確かにそうだ。名乗りもせずにファンだと騒いでしまって、申し訳ない」

 と頭を下げてお詫びしてくれた。仁木さんはそれを見て、

「会長、そうやって簡単に頭を下げるのは良くありませんよ。森村さんも注意されないのですか?」

 と秘書を咎める。すると、森村さんはふっとまとう空気を緩め、

「いいんですよ、今日は半分はプライベートのようなものですから。それに、会長は本当に時間がある限りチルカを追いかけていましたからね。真島隼人を前にして冷静でいられるわけはありませんよ」

 と笑った。

「まあ、それはそうかもしれませんね……。では、私からご紹介しましょう。隼人さん、こちらは、スパークルレーベルが所属する輝島グループの創業者で現会長、輝島郁郎きじまいくおです。つまり、うちの会社の一番偉い人ですね」

「えっ! うちの?」

 まさか自分の事務所とレーベルが所属するグループの会長だとは思わず、驚いて大きな声を上げてしまった。

 俺のいるレーベルは事務所と同じ系列だ。グループ企業内でその両方を担うことも、そう珍しいことでも無い。それくらいのことは知っている。

 ただ、一般的にミュージシャンが会社の会長や役員の顔を覚えたりすることも、まず無い。メジャーデビューしているような奴らは、大半がそんなことを気にするほどの時間を持ち合わせてい無い。基本的に何よりも音楽に興味が強いのが俺たちだからだ。

 それでも、俺は一応会社員を経験している。自分がお世話になっている偉い人が目の前に急に現れたら、粗相をしていないかどうかを気にするくらいの感覚は、幸か不幸か持ち合わせていた。今日これまでの行動を振り返りつつ慌てている俺を見て、会長と仁木さんは楽しそうに笑い声を上げ始めた。

「そんなに驚くことだったかい? すまないね、先に言っておけば良かったかな」

 そして、会長がその表情を見せるたびに、最初に見た時から感じていた思いが、俺の中で確信へと変わっていった。
 この人には、もう一つ俺を驚かせる肩書きがあるに違いない。その真偽の程を確かめたい。そう思っていると気が逸って落ち着かなくなってしまう。

「あの」

 辛抱たまらずとなって、どうせならもうそのまま尋ねてしまおうと思い、口を開いた。すると、会長の方も早くそれを暴露したくてたまらなくなったのだろう。ワクワクと期待に胸を膨らませた子供のように、車椅子から身を乗り出すようにして俺の方へと顔を近づけてくる。

「似てるかい?」

 柔らかく耳あたりのいい低音に包まれているのに、騒音を掻き分けて相手にしっかりと届くような、強くて優しい素敵な声をしている。俺はそれに似た声を初めて聞いたあの日を思い出した。

『……死ぬなよって言わねーの?』

 胸に詰まった思い出の欠片が、俺の内側を刺激する。それは、なかなか思い出せずにいた甘い気持ちを呼び起こした。スルスルと心地よく心を撫で、孤独に囲まれて小さく冷えていたものが、ゆっくりと膨らむように開いていく。

 実感ほど強い刺激は無い。いくら思い出に浸ろうと、それは所詮自己完結するものだ。それに比べて、意図せず受け取った好意的な外部からの刺激は、より強いものとなって人を動かす。
 消えていたはずの感情という伝達経路が、突然息を吹き返す。画面の向こうのように温度を失いつつあった孝哉の笑顔が、それに似た質量を持ったものとしてそこに存在するだけで、俺の起動スイッチを入れ直した。

「はい、似てます。驚くほどに。孝哉の笑顔と声にそっくりです……」

——愛しているよ、孝哉。

 その気持ちが素直に胸に咲き戻るのを感じて、俺はそこをぎゅっと抑えて逃さないようにした。
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