追いかけて

皆中明

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追いかけて

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 大好きだった香りを吸い込んでは訪れる孤独。それに呑まれてしまうと、酷い倦怠感に襲われる。ずるりと音がするように体から力が抜け、ただそのまま蹲ることしか出来ない。俺を最も壊しているもののうちの一つは、間違いなくこの香りで、そしてそれに伴うこの一連の流れの疲労だった。

「大丈夫ですか」

 少し先を行っていた仁木さんが、突然座り込んだ俺に驚き、慌てて玄関へと戻ってきた。心配そうにこちらを見ている彼に、無理のある笑顔を必死になって作りあげ、「すみません、大丈夫です」と返した。

「……でも、何かしなければならないとは思ってます。このままじゃダメなのはわかってるんです。ただ、何かをするのであれば、その時にはプロデューサーを変えてもらう必要があります。条野と組んだままじゃ、俺は同じことを何度も繰り返すだけです。でも、あいつを外す事ができる人なんて、あの会社にはいないでしょう?」

 倒産しかけた会社を立て直すほどに売れたバンドのギタリスト。当時の経営陣が条野に頭が上がらないっていう話は、あの会社の中では有名だ。その実績が買われているのか、あいつはいつの間にか色んな人脈を手に入れていき、今や常務取締役だ。
 あいつより下の人間が何を言っても、条野は聞き入れようとはしない。そして、あいつより上の人間は、なぜか必要以上に条野を可愛がっている。人事をどうこう言えるような人がいないとなると、俺はまた条野にいいように弄ばれて潰れるし、次はもう立ち直ることは出来ないだろう。
 孝哉の香りに苦しめられながら、条野への恨みを口にする。良くない感情に押し流されそうになりながらも、歯を食いしばりながら耐えた。

——考えるな、考えすぎては飲み込まれてしまう。

 そう思いながらも、条野に奪われた孝哉との日々を思わずにはいられなかった。

「しかも今回は、音楽だけじゃなくて、孝哉との関係性まで壊されてしまったんですよ。もう打ち合わせに同席するのすら苦痛なんです」

 あの何度もかかってきていた電話と、それに対する孝哉の反応から察するに、条野が孝哉に何かを吹き込んだのは間違いない。それはかつて色田がされていたことのように、有りもしない事をまるで然もあったかのように変えていくあの口車に乗せられ、その純粋な心はそれを素直に受け取ってしまったのだろう。

 孝哉に何か考えがあって行動したのか、もしくはただ色々と面倒になって逃げただけなのか、何れにせよ辛いのは孝哉自身なのだろうから、どう行動してももらっても構わないと思っていた。あの男が絡んでいたのであれば、その苦しみは相当なものだっただろうと思うし、それを俺にはどうすることも出来ない事も理解はしている。

 ただ、俺はそれを俺にも話して欲しかった。あんなに素晴らしいものを共有出来る関係なのだから、苦しみさえ分けあえると思っていたのだ。そして、孝哉もそう感じてくれているのだと、俺は信じて疑わなかった。結婚の誓いではないけれど、病める時も健やかなる時も俺は孝哉の隣にいて、その背中を支えていくことを許されているのだと思っていた。

「……もしかしたら、条野の件が無くてもこうなっていたのかもしれませんけれどね」

 そうだ、実際には今俺の隣にあいつはいない。強烈な記憶だけを残して何も言わずに消えてしまい、今日まで俺は何も知らされないままだ。周囲とは連絡を取り合っているにも関わらず、俺にはメッセージの一つも返してくれていない。そのことが、俺をさらに悲しみの底へと叩き落としていくのだ。

 香りに胸が潰されそうになりながら、同じ場所に抱えている無力感に苛まれる。冷たい廊下と壁に身を寄せるようにして倒れ込み、仁木さんに気づかれないようにひっそりと悲しみを吐き出した。

 この苦しみの正体だって、本当はたかが知れている。自分だけが何も知らされないままで恋人に去られてしまったという事実に、情け無さを感じているというだけだ。
 だから傷ついたふりをして、食事を摂らず、眠らず、弱っているというアピールを続けている。そううっすらと感じられるくらいには、俺は回復し始めている。つまり、この行動が不毛であることなんて、本当は頭では理解していた。それでも、どうしても前を向くことは出来ない。

 もうここまで落ちてしまった以上は、変化を起こすには自力では不可能だ。外部からの助けを求めるしかないのだろう。そして、俺自身がそれを感じた上で、誰かに相談しようかと思っていたことも確かだ。仁木さんの提案は、その矢先のものだった。

——この人は、本当に俺のことを思ってくれているんだな。

 俺に目線を合わせるようにして膝をつき、労わるような視線を送ってくれている仁木さんの目を覗き込んだ。ついさっきまで孝哉以外の気持ちなど迷惑でしかないと思っていたはずなのに、そこにほんの僅かながらも変化が生まれる。

 大変なバンドを担当させられて苦しんでいるのは、彼も同じはずなのだ。その事にふと思い至り、その思いに感謝する。すると、それと同時に急激に羞恥心が顔を覗かせ始めた。

 俺は一体何をしているんだろうか。わがままや文句や呪詛を吐き続けるだけて、実は前向きになれることは何もしていないんじゃないだろうか。社会人経験がある分、うまくやっていけるだろうと思っていた二度目のミュージシャン人生を、むしろ最初の頃よりも下手に潰している。もがき過ぎて、一人で溺れそうになっているように感じた。

——まるで子供だな。

 そう気がついてしまった俺は、愕然とした。恋人に振られて傷つくのは当然のことだとしても、その後の生き方があまりに幼稚だ。そして、それを今の今まで実感することなく過ごしてきた。

 俺が自分の心境の変化に慄いていると、仁木さんがふわりと微笑みかけてくれた。
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