追いかけて

皆中明

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音の中へ

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 二本のフェーダーを0dbまで上げる。それぞれ癖のようなものなのだろう、二人はきちんとボーカルマイクで自分の声が入るベストなポジションを選んで立っていた。ただ今は遊びの延長のような感じで歌い始めているため、ヘッドフォンをせずに素の声のままで歌いあっている。

「あ、これ……。スワングダッシュだね」

 歌い始めの言葉を聞いて、二人はすぐに反応した。コントロールルームの壁に設置されている巨大なスピーカーから流れてくる二人の歌を聴きながら、表情が次第に熱を帯びていく。そして、そのグルーヴに突き動かされたのか、まるでセッションに参加しているかのように、そわそわと体が反応し始めていた。

 純は、ドラムを叩いている時のようにリズムに揺れていて、手も足も今すぐにでもその音の中へと飛び込もうとしているようだった。耀もまた、その隣でブースへ目を釘付けにしたまま、手は弦を弾いているかのように動いていた。そして、二人とも初めて四人で音を合わせた頃のように嬉々とした笑顔を見せている。それは、まだただ好きな音を追いかけていた頃のような、掛け値のない音楽への喜びに溢れていた。

「やべえ。孝哉くんの声すごいね。めっちゃくちゃドキドキしてんだけど。色田の声になかったものが補われて、あいつの声もすげえかっこよく聞こえる。これ二人で歌うと最強なんじゃない? 見ろよ、あいつ幸せそうな顔してる」

「本当だよな。めちゃくちゃいい顔してる。俺たちあんな顔見たことねえよ」

 浮遊感を大切にするために、あえてテンポを抑えめに作ったこの曲は、すべてのフレーズで音が生まれてから消えていくまでを意識して歌うようにしてもらっていた。そうして、レコーディングする際には、きっちりと音の定位まで相談して決めていき、音源を聞くと音が自分の周りを駆け巡り、波のように跳ねて消えるような感覚を味わえるようにしてもらっていた。

 色田の声だけでは、その余韻がうまく描けなかった。ただ、当時は俺がいたから、俺がコーラスでその部分を補うようにしていた。今の孝哉は、その俺がやっていたことだけでなく、エフェクトによる効果までを、一人で出来るようなコントロール能力を持っている。

 リバーブやフィルターに頼らなくても、孝哉が曲をしっかり聞いて理解し、自らの体にそれを満たす。そして、自分と曲の持つグルーヴを混ぜてそれを声として放てば、それだけで人の心を揺るがす力を持つことが出来る。

 孝哉を通って生まれた音は、相手の心の中の届きたいところへと的確に行きつく。それは感動させてやろうという心情面でのアプローチではなく、音が直接的に神経を刺激すると言った方が近い。聴覚を抜けて全身へと駆け巡る神経の興奮が、聞いている人そのものを揺らす。それほどに、その影響力は大きいものだ。

「ボーカルのテクニックとか素質とかっていうよりは、彼自身が音を体に通してそれを鳴らすと、幸せだって思ってるのが伝わってくるって感じだな」

「そう、そうなんだよ。あいつの幸せがバシバシ伝わるんだよな。そして、孝哉のすごいところは、同じ空間にいるとそれが伝染するんだ。強い共感を得るっていうかさ。色田の顔を見たらわかるだろう?」

 色田は、ずっと楽しそうに笑ったまま歌い続けている。それはまるで、幼い子供が大好きな大人に遊んでもらっている時に見せる顔のようだった。今日初めて会ったにも関わらず、その心の柔らかいところまでするりと入り込み、それを優しく温めてくれるような声に出会えたことで、どうしようもなく高揚している。それは、俺たちには引き出せなかった、あいつの素直な気持ちだった。

「ああ、わかる。俺たちにはしてやれなかったことが、これで良くわかったよ。あいつ、あんな顔するんだな」

「なんか……めちゃくちゃ申し訳ないし、嬉しい。色田が幸せになった顔が見れたね」

 チルカを愛する二人が、歌うことを生き甲斐にしている二人が、揃って最も好きな曲を歌っている。まるで子供のように手を叩き合ってリズムをとり、フェイクを挟んで自由に歌う。

 あの雷雨の日、俺がギターを弾きながら孝哉と歌ったものとは、また違った顔を見せるスワングダッシュを、孝哉は頬を紅潮させながら気持ちよさそうに歌い上げた。

——十分だよ。

 飛び降りをしようとしていたところに出会し、それをやめて俺の世話をするためだけに生きると言った、あの日の孝哉。その顔が、本当の自由を取り戻して輝いていた。

 ちくり、と心が痛む。俺は僅かに寂しさを感じていた。最初からわかっていたことだが、孝哉ほどの才能がある者が音楽をやらずに生きていくのは、おそらく難しいだろう。

 持って生まれたものがあるということは、それをするべきだという道標を持って生まれて来ているのだと、俺は思っている。そこから外れた状態で幸せを感じることは、そういう人たちにはかなり難しい。

 実際、あいつは一度死のうとしたのだ。襲われた事実よりも、歌を奪われたことが、あいつにとっては死刑宣告のようなものだったのだから。

 外階段で会った少年は、歌を取り戻した。それだけで輝く笑顔を取り戻し、今ならどこへでも行けるだろう。それはこういう知る人ぞ知る場所なのかもしれない。でも、そこに閉じ込めておくことには、多少なりとも罪悪感があった。

「本来いるべきは、間違いなくステージなんだよなあ」

 俺がそう呟くと、「じゃあ、戻りますか?」という声が聞こえてきた。
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