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「そんなに掲げて見て頂かなくても、何も変わらないですよ」
カウンターの内側で、白と黒のカッチリとした制服に身を包んだバーテンダーが言う。
「ああいやそうじゃなくて…」
青から透明へと変わる綺麗なグラデーションのカクテル。このアルコールはどういう原理なのか、下から覗き見ても混ざること無く層を成したままだ。
「なんだか綺麗だなあと」
「ありがとうございます」
礼を言う店員の笑顔は柔和だ。
平顔ともいうのだろうか。塩気の強い顔の男は店員に笑顔で返し、カクテルの層が混ざらないようにゆっくりとグラスを置くと、手持ち無沙汰なのか黒短髪の襟足をサリサリと触りながら周りを見渡す。
ふらりと気分に任せ立ち寄ったこの店は人気があるらしく、静けさが売りであろうバーとは異なり、ザワザワと人の声の漣が耳を打つ。
壁際にはカウチ、バーカウンターにはチェアが置いてあり、店内中央のホール部分はスタンディング仕様なのか足の長いテーブルがいくつも置かれている。内装も木製調度品が多く、少し古ぼけた埃臭さも相まり、男は昔訪れたイギリスのバルを思い出した。
老若男女が入り乱れ酒が飛び交い、そこかしこから湧く歓声にも似た笑い声。見知らぬ人に話し掛けられ異国から来たと言えば、冷えたエールを一杯ご馳走してくれる。
このバルの名物は食べたかと聞かれまだだと言えば、明日の夜まで何も食べなくて済む胸焼けが最高な、油が染みに染みたフィッシュチップスがいいぞと皮肉を教えてもらえる。
南米方面に行った時はもっと凄い。一人でバルに入ろう物なら、次から次へと人に構われいつの間にやら自分の周りは人だかりができる。
コイツ日本から来たんだってよ!
そう言って彼らは自分が寂しいのではないかと危惧してなのか、持ち前の陽気さでなのかそこらに居る他人を呼び寄せては、一緒に飲もうとビールを掲げる。
大皿に盛られたスパイスの利く様々な料理を食え食えと勧められ、腹を膨らませて気付けば自分は金を払わないということもあった。
――きっと旅人は盛り上がるための口実なんだろう
そう気付いたのは、三カ国目の出張で久々に足を踏み入れたこの日本だった。
ホテル最寄りの駅周辺、その裏通りにあるよく栄えた飲み屋街。手羽揚げが売りだと看板を出している店にふらりと寄れば、十六時を過ぎた明るい頃だというのに既に狭い店内のカウンターは埋まって居るのだ。席に付けば隣の恰幅の良い壮年男性が、キャップ帽を上げながら自分に気軽に話しかける。
こんな時間に兄ちゃん、仕事はどうしたんだ。自分のことを棚に上げて、赤ら顔でそう言った男に笑ってしまったのをよく覚えている。久々に日本に来たと言えば、そこから自分を巻き込んでの大宴会だ。常連客は目新しい自分を酒の肴に、少し変化した日常を楽しんだようで、結局ここでも回ってくるツマミを貰い受けるばかりで酒代くらいしか払った記憶がない。
「お次は何を作りますか」
甘いカクテルを飲み干した自分に、バーテンダーの若い男性が問い掛ける声でハッと意識が今に戻る。未だ鼻先には思い出の日々で掠った煙草の匂いがしている気がした。
「カクテルに詳しくなくって…」
パッと名前が浮かんでこない。手渡されたメニュー表を眺めて見ても、名前と現物が脳内で紐付かずまごついてしまう。
その時、どかりと乱暴に隣の椅子に誰かが座り、同時に若い声がした。
「オレンジジュースってあります?」
思わず自分の右隣に顔ごと向け、声の主を不躾に見てしまう。
華奢で線の細い、耳を覆い隠す癖毛が暴れたような風貌の若者だった。
レトロ配色でスリートーンになっている薄手のウィンドブレーカーは、体のラインよりも幾らも大きい。細身の黒いボトムと、白いスニーカーが、その大きな上着を引き立たせていて野暮ったくない。
背高のカウンターチェアから垂らされた双脚が床から程遠いところを鑑みるに、身長もそれほど高くはないのだろう。
「ございますよ」
「じゃあ一つ下さい」
バーテンダーは流れる所作で、細長いグラスに氷とオレンジジュースを注ぎレモンの輪切りをグラス縁に添えると、ストローとペーパーコースターと共にカウンターへ静かに置いた。
青年と呼ぶのもおこがましく思える幼い体躯の隣人は、一瞬逡巡の手付きでレモンをオレンジジュースの中に絞り入れると、ストローも使わずがさつにグビグビと橙色の液体をあおり飲み干す。
「プハーッ」
高い音階で嬉しそうにそう漏らす様は、冷えたビールを煽る中年男性のようで、男は思わず吹き出してしまった。
バーの喧騒あれど、流石に隣の席で嘲り笑われたことに気付いたのか、青年が非難がましい目付きで自分の方を振り向く。暗がりの店内でよくは見えないが、色素の薄い双眼を縁取る豊かな長い睫毛。男は隣の青年を見、美少女のような美青年だと素直に思った。
「……何だよ」
警戒と侮蔑にほんのり染まった双眼は大きく眠たげで、あどけなさをより際立たせる。筋の通った鼻筋を通り、下向きの鼻尖を下った先の唇は不機嫌に突き出されていた。
「ああすいません、あまりに気持ちの良い飲みっぷりだったもので。オレンジ系のアルコールってあります?甘さ控えめの」
それを一つとバーテンダーにオーダーして、もう一度隣を見る。
「何か飲みます?失礼をしたお詫びに一杯奢らせて下さい」
飲み干したグラスの氷を食べようとしていた青年にそう提案してふと、自分も世界中の居酒屋で出会った年上の男たちとそう変わらないなと、むず痒い気持ちになった。
――一期一会だ
そういう便利な言葉が日本にはあったなと、退屈しのぎに青年を使う自分を正当化する。
「えっ、いいの?」
自分の提案を青年は快く受け入れた。しかも先程浮かべたあの警戒の眼色は何だったのか、という程嬉しげな光を瞳に宿しているではないか。喜びに開かれた双眼が美しい。
「じゃあコーラフロート」
そんなメニューもあるのかと、青年の眺めていたメニュー表を横目で盗み見る。
先にオーダーしたオレンジサワーのようなカクテルが出されたタイミングで、カウンターテーブルに置かれていた青年の左手首に巻かれるリストバンドに気付いた。しっかりとした白いシリコン製のバンドと、蛍光グリーンの簡易ビニールバンド。シリコンバンドは薄青く発光し、現在の時刻をデジタルに示す。
「アンタこれ付けてる?」
目線に気付いたのか、青年は自分のビニールバンドを指差した。テーマパークやライブ会場で付けるようなその安っぽいビニールには、蛍光グリーン地に黒で何やら書いてある。
「いえ…流行ってるんですか?」
「いや、流行ってはない」
ハハと浅く笑った青年の、綺麗な歯並びの犬歯が印象的だった。
「お守りか何かですかね」
「あーえっと、今ここでイベントやってんの。それの参加者区別用のバンドでさ」
「あれっ、俺普通に入って来ちゃったけど、大丈夫でした?」
コーラフロートを出したバーテンダーに聞いてみると、問題ないですと返ってくる。通常営業と並行しイベントを開催しているだけで、一般客の入場規制も何も無いとのことだった。
「へえ、面白いですね」
「アンタも参加してみる?」
参加費は一応取ると思うけど、そう付け足した青年はスプーンでフロートのバニラアイスを掬うと、パクッと嬉しそうに頬張る。
「誘っていただいて嬉しいんですが、残念ながら明日仕事があるので」
「土曜なのに仕事?可哀想に。こんな良いスーツ着てんのに、ままなんないもんだね」
正面を向いていた青年は、くるりと椅子ごと四分の一回転を見せ、男の方を向いて不躾にジロジロと眺めてくる。まるで先程の仕返しと言わんばかりに。
「ちょっとこっち向いてくんね?」
「え?」
顔だけでそちらを向けば、そうじゃなくてと彼と向き合うように椅子を回された。
「アッハッハ!すげえ。 ねえ、アンタどこのパーティー抜け出してきたの?もしかして好きだった女の結婚式?」
「そ、そんなに変ですかね…。仕事の打ち合わせの帰りなんですけど」
「誰と打ち合わせしてきたんだよ!」
彼は手を叩いて笑いまでした。
「胸にポケットチーフまで立ててさあ。色は照明でちゃんとは見えないけど、濃紺のテーラードに濃い金糸のステッチ。縫い目と襟の形、あと……この布の手触り。凄いじゃん」
するりと伸びてきた彼の右手のひらが、自分のジャケットの左袖口に差し込まれ、布地を確かめるように人差し指と親指の腹で擦られる。サリ、サリ……衣擦れの微動と一緒に、残りの三本の指が手首に回され握られた。
「イタリア?」
突然の国名に男は思わずオウム返しをする。
「これ、イタリアで作ったでしょ」
青年がニヤリと意地悪げに笑う。
そういえばそうだ。イタリアに出張した時、同行の上司に言われて作ったのだ。これから必要になる場面があるからと、これを機に良いスーツくらい作れと。
「でも少し型が古いね。流行は繰り返すけど、三年はまだそのサイクルの中じゃあ、真新しくないよ。むしろ型落ちだ」
三年前のイタリアで、三十歳になる自分への祝いとして、上司がプレゼントしてくれた一張羅がこのスーツだ。彼のおかげで今日のようなパーティーでも恥ずかしい思いはしないで済んでいると言っても過言ではない。
「どうよ、当たった?」
絶句する自分に、彼は悪戯好きな少年のような笑みで問い掛けた。小悪魔的といえばいいのだろうか、彼のような男は年上の女に大層モテるに違いない。
「いや……大正解ですよ。これは三年前に上司がプレゼントしてくれたイタリアの老舗ブランドのスーツなんです。凄いなあ、よく分かりましたね」
「まあこれくらいなら普通でしょ。でも靴は安物だし、ポケットチーフは色が合ってない。セットアップで買わなかったの?」
確か買って貰ったはずだが、無くしてしまったのか見当たらなかった。去年買ったこの革靴も間に合わせで、家の近所のモールで買ったのか、出張先で見繕ったのか。それすらも覚えていない。
青年の指摘が妙に恥ずかしく思えた。
「靴とかポケットチーフとか、誰も見てないだろうなって思って気を抜いてました」
苦笑いでアルコールをちびりと口に含む。
「いや普通は見ないでしょ。でも統制が取れてないと目に刺さる。服に詳しくなくても、良いものを着てる人間は目が肥えてるだろうし、上手く言えないけどこう…浮いて見えるから」
「なるほど。仕事柄そういうのが分かるんですか?」
「いや趣味」
趣味でここまで見透かすだなんて、怖い趣味もあったものだ。
「人の身形を言い当てるのが?」
「……なに、怒った?だったら謝る」
「まさか!素直に驚いて感心してるんですよ。偶然入ったバーで、こんな面白いことが起こるなんて。それだけで今日は良い日になったって思える」
横目で青年を見れば、驚いた顔をしたあと恥ずかしげに拳で口元を隠したものだから、何だか気分が良い。
どうせ一期一会、自分も何かで彼を驚かせて楽しませてやりたいものだ。
さて自分には一体何ができるだろうかと考えていると、未だ左手首に絡んだままの青年の指に少し力が入ったのを感じた。
「アンタ、名前何ていうの」
「名前?あー…そう」
「あっそう?」
「ソウっていうんですよ。ほら、草冠に倉って書く。青いって意味の」
「ああ、はいはい」
青年はようやく手首から指を離すと、グラスの水滴をすくってカウンターテーブルに蒼の字を書いた。
「これ?」
「正解」
水滴で書かれた文字の外周をなぞり、採点するかのように指先で花丸を描く動作をする。
「ふはッ なに、花丸?」
「賢い子にはあげないと」
「ふーん、俺って賢いんだ」
子供扱いに気分を害するでもなく、青年は密かに上がった口角に嬉しさを隠そうともしないのが愛らしい。
「ねえ、俺の名前聞いて」
可愛らしくそう強請るものだから、抗わず素直に尋ねる。
「お名前は?」
「俺はねー、ヒロムって言って、開拓のタクに、睦み合うのムツで拓睦」
「いい名前ですねえ」
「普通じゃね?」
「そうですか?愛を拓く人って感じがして素敵じゃないですか。愛を知って愛を説く感じがして俺は好きですよ」
そう伝えるとまたも青年はふーんと嬉しそうに、誇らしげに、しかし何でも無いという風を装った。
「アンタ…じゃない、ソウさんは何歳なの?」
「三十二ですね」
「おっさんじゃん」
屈託のない若者は、残酷だ。無垢な棘を遠慮もなくこちらの心に押し付けてくる。自分にもこんな頃合いがあったのだろうかと考えて、そう考えてしまう自分はまさしく彼の言うおっさんなのだと実感した。
「ヒロムさんは高校生みたいですね」
無垢な棘の意趣返しにそういうと、彼は目をそらしむくれる。
「ハタチだから」
「それは失礼しました」
「……ごめんって」
「ハハ、怒ってませんよ」
気付けば職場でも最年少ではなくなっていたし、自分より若い人材は増える一方だ。それが社会で生きるということ。
二十歳そこらの彼からすれば、一回りも離れた自分はおっさんと呼ばれて然るべきだ。自己卑下ではなく、自覚の問題である。
「ほんとに?」
「君もいずれはそう呼ばれるようになるんですよ。何事も循環です。ふらりと寄った見知らぬバーで、十二歳下の若者におっさんと呼ばれる日が来るんですから」
「……根に持つタイプ?」
「アハハ、いや逆ですね。寝て起きれば忘れてますよ」
都合がいいでしょ?そう付け加え、グラスに残ったソーダを飲み干す。
モバイル端末を確認すればもう二十二時前だ。既に今日のパーティー内容をテキスト化して本社に送ってあるから、そろそろ通話ミーティングに備えておかなければ。赴任後初回のミーティングなんて、上司への報告も兼ねての雑談としか言いようがないが。
「なに、もう帰んの」
「仕事がありますからね。すいませんチェックで」
バーテンダーが懐から出したリーダーに、腕時計型の端末をサッと翳し会計を済ませ椅子から降りる。
「今日はありがとうございました。思いがけず楽しかったです。それじゃ、またどこかで会えたら」
悪い一期一会じゃなかった、そう思いながら踵を返そうとした自分の腕を、青年が引いた。
驚きで振り返れば、眉根を寄せた美しい青年が真剣な眼差しで自分を見つめ言う。
「俺のことも寝て起きたら忘れる?」
別にそこまで自分のことを年寄りだという気はないが。
――なるほど、若く眩い目だ
『やあ蒼慈郎、久々の母国はどうだ』
遅れてやってきた上司は、タブレットの画面越しに戯ける。シックにきめた濃灰色のスリーピース、覗く薄緑の細いボーダーの入ったカッターシャツは糊がきいていて眩い。
一方蒼慈郎と呼ばれた男は、風呂上がりのTシャツ姿だ。
「飛行機からパーティーに直行したんですから、どうもこうも無いですよ」
三十分も遅刻してきた割に、悪びれもしない。相変わらず世界は時間にルーズだ。渡米して何度それに驚いたことか知れない。
『仕方がないだろう?来たるべき未来が来たとて、人間に天候は操れないんだから』
本来ならば四日程前乗りするはずだった今回の来日も、東部アメリカで起きたハリケーンのお陰で飛行機は欠便となり、何とか取れた席はスケジュールを大いに狂わせたのだ。
綺麗に撫でつけられた鮮やかな赤毛の上司は、人差し指を立てると天空を指差す。
『神のみぞ知る』
敬虔な訳ではない彼の口癖だ。バグが出ても、急な仕様変更があっても、彼はこの一言で乗り切ろうとする。そして乗り切ってしまう。無茶振りをその一言で乗り切る彼に、一体幾人が落胆と羨望を綯い交ぜにした視線を投げかけることか。
「ビル、俺は怒ってますよ」
『私にハリケーンを止める神業があれば良かったんだが』
「三十分遅刻したことにです」
『三十分くらいなんだ』
「そっちは始業直後なんでしょうけど、日本は深夜二時なんですよ」
『オーケー、報告を聞こう』
戯けた動作でホールドアップの真似をする上司に浅く溜め息を吐き、タブレットのモニター上で資料の画面共有を始める。
今回の出向もいつも通りの内容だ。企業に合わせたAIシステムの導入と調整、そして利用に関する指導。この度は日本の大手医薬品メーカーの工場ラインボット操作用とのオーダーだ。
しかもその大手メーカーの新規立ち上げ事業、新設子会社の序幕パーティーにAI開発者を呼ぼうと言うんだからおかしな話だ。主任ポストの自分を招待して一体何になるのやら。
毎度そういった催事に呼ばれる度に愚痴を零す蒼慈郎を、人脈の重要性を持ってビルは説き伏せるのだ。彼の言うことも最もで、営業職ではなく開発職である蒼慈が足を運ぶと案外喜ばれるのか、集まる他企業の役員たちも興味深いと言わんばかりに質問を投げ掛けてくる。
「今回も質問攻めでしたよ」
『私たちより上の世代の人間は、こういうことに疎いからな。それに役員のポストまで行った人間なら、多少の探究心と好奇心を持っていなければ務まらないだろう。そんな中に格好の餌が自分で歩いてやってくるんだ、飛びつきもする』
まず君はどこの企業の人間だ、ポストは何だと聞かれる。これは自己紹介の場を設けてくれていると同時に、こちら側の力量を測るために探りを入れている。そしてその自己紹介に端を発し、自分は無料の講習会を開くことになる。
御社の製品や分野はよく耳にはするがどういったことが可能か。弊社はこういう職種の企業だが、簡略化できるものだろうか等々。そういう漠然とした稚拙な質問もあれば、少し知識のある人間からの込み入った相談事もある。
前時代のAIで知識が止まっている彼らに対して、無料相談と無料講習を二時間程みっちりと半ば強制的に開催させられる。オードブルだってアルコールだって、口にする暇もないのだ。
「まあこちらも初歩知識すらない目上の人間に、噛み砕いて説明するいい練習台になりますからね」
『ハハハ、君のそういうドライで貪欲な姿勢、私は好きだな』
「ありがとうございます」
『それで?』
ああこの催促も何度聞いたことか。
「今回は三社ほどですかね」
『上出来だ』
今日のパーティーで交換した幾枚ものデジタルビジネスカードの内、好色を示し後日再度の打ち合わせを打診してきたのは製薬二社、医療品一社だ。担当者が来場していた訳ではないので、今後の打ち合わせからどの様に化けるのかは、追って来日するであろうスポークスマンの腕次第だ。
「送ってある資料、ちゃんと読んで下さいね。あと早めに人材の補填をお願いします。俺一人じゃどうにもならないですよ」
『ああ、君は従来の業務に集中してくれるだけでいい。雑事はこちらで見繕った人員で行う』
画面外の誰かにハンドサインで待てと指示したビルが、恭しく手のひらを組んだ。ああ、ここからは雑談パートだ。
『よし人払いは済んだぞ』
「勘弁してくださいよ…」
『君の話す各国の酒場事情は私の密かな楽しみなんだ』
「じゃああなたも、そろそろ現場復帰したらどうですか?」
『上が許してくれないのは君も分かってるだろ?それに子供が生まれてまだ二年だ。今は側に居たい。しかしあの日々が懐かしいのも確かだ。君とまるで根無し草みたいにフラフラと、会社の金で世界中を飛び回れるなんて最高じゃないか』
「そして美味い酒と食べ物?」
『御名答。さて今回はどうだった』
ビルが手のひらをスリスリと擦り合せ、まるでメインディッシュを待望する食いしん坊のごとき輝きを瞳に宿した。
「疲れてましたからね、ホテル近くのバーで軽く済ませた程度ですよ。今も疲労困憊なんですけどね」
オーバーに溜め息を吐いてみせると、そんな非情なと言わんばかりにビルが大袈裟な落胆の声を上げる。
『君っていつからそんな酷い奴になったんだい?』
「あなたの下で七年も働いていればこうもなりますよ」
『心外だな。でも君のことだ、いつもみたくまた口説かれたんだろう?』
その言葉に思わずグッと喉を鳴らして口を噤んでしまった。万年面白い事象に飢えている上司を持つとろくなことがない。
『ほら見たことか。あるじゃないか、楽しいことが!』
「ハァ…プライバシー侵害じゃないんですか、こういうのって」
『そうさ、立派なプライバシー侵害だ。でもまあ君がその誘いを受けたと言うんなら、私は細かく聞きはしないよ』
「受けてたら今ここには居ないですよ」
『じゃあ良いじゃないか』
「ビル、ゴシップ好きも程々にしてください…。じゃなきゃあなたをパワハラで訴えなきゃならなくなりますから」
そう前置きして、数時間前にバーで出会った青年のことを話す。スーツの形状や生地から産地を見破ったこと、蒼慈郎と年齢が十二歳も離れていること。そして最後に縋るように誘われたこと。
『ワオ…凄いな、日本人にそんな積極性があったなんて新発見だ。いや、別に蒼慈郎が消極的だって言っているんじゃない。いや君は消極的だな。誰が誘ったって頷かないアイアンメイデンマン?』
「誰にも興味が湧かないだけですよ」
鋼鉄の乙女野郎、同僚にも先輩にもそう揶揄されて七年だ。そして七年も共に働いているこの調子の良い紳士然とした上司は、近年は蒼慈郎の行く末を案じる程にまでなってしまった。
世話焼きが好きなのか仲介屋になりたいとばかりに、様々な人間と蒼慈郎を引き合わせる。色々な場面に蒼慈郎を引きずって連れて行く。
上司の言うことだしと彼が引き合わせる男女両方と付き合ってみたこともある。しかし結果は悲惨なもので、蒼慈郎の無関心が祟って相手が音を上げる。
ビルに勧められた彼らは遜色ない素敵な人間だ。才能も性格も申し分ない、むしろ自分には勿体無い程の人格者だと蒼慈郎は評する。しかしどうしてか、興味が湧かない。面白く素晴らしい人間だと思う程度で終わる。いくら自分を見てくれとお願いされても、いくらベッドに引き倒されても。関心が湧いてくることはない。
『連絡先の交換くらいしたんだろ?』
「ええまあ、それだけですけどね」
連絡先を教えてほしいと言われれば、今までもそうしてきた。会って食事をと乞われればそうしてきた。
『日本の法律には詳しくないが、二十歳に手を出すのは犯罪なのかな?』
「まさか。成人と見なされてますから。俺からすれば十八歳に手を出せる国の方が恐ろしいですよ」
そうバカ真面目に答えてから、彼の言わんとすることに気付いて呆れた。
「ビル、俺はそんな気無いですから」
『未来は分からないさ。これも神のみぞ知る、そうだろう?自分の可能性の芽を自分で摘み取るのは君の悪い癖だ』
画面の向こう側で、ビルが組んでいた手のひらをパッと解き開いた。今日のミーティングはこれでお終いだという、その合図。
『遅くにすまなかったね。ゆっくりと休んでくれ』
「ありがとうございます」
『さてと……このことはじっくりと君の信徒に伝えねばなるまい』
「またですか…厄介事を増やさないで下さいね」
『さっき払った人間も彼らだからね。まったく、熱心で敬虔な信徒を持ったものだ』
「部下と言って下さい」
『ハァ…君はちっとも私に敬虔ではなかったくせに』
「ビル」
嗜めるように名を呼べば、拗た上司はそのまま通話ソフトをシャットダウンし、ふつりと画面は黒に染まった。
深い溜め息を一つ吐き、面倒臭いという気持ちを払拭したくて蒼慈郎は大きく伸びをする。
今日はもう寝てしまおう。寝て忘れてしまおう。
そう考えた時、あの青年の言葉を思い出す。
自分のことも寝て起きれば忘れるのかと問うた、彼の華美な睫毛に縁取られた残念そうな眼差しは、真っ直ぐに蒼慈郎の瞳を射抜かんばかりのスピードと鋭さがあった。
――ああいうのは久々だったな
自身に振りまかれる口説き文句はもっと分かりやすい。ずっと君と居たいだの、君を知りたいだの、見た目や物腰が好きだと腰や肩に腕を回されて耳元で囁かれる。もしくはあっけらかんとした口調で、君に興味はないが連絡先を交換してあげてもいいというようなナルシズム調。
付き合う気もなければ、その場で鼻っ柱を折ることも面倒で、笑顔でええ喜んでと連絡先を交換してしまう。その後はいくら好意を踏みにじろうと、連絡を絶ってしまえば終わりだ。
だってそうだろう、口論や暴力に発展するよりも、無視という手段は存外に相手に好意の無さを伝えることに役立つのだ。長くて半年しか滞在しない国で、仮住まいを定期的に変える予防策のおかげか、未だ衝突は起こらないのだから蒼慈郎も存外に悪手の人間だ。
遠回しの必死の懇願を投げ掛けてくれたあの青年には悪いが、きっと今回も通例と同様になることだろう。
――面白かったけどなあ
ベッドに横になりながら、蒼慈郎は瞼裏に焼き付いて離れない彼の瞳から目をそらすように、眠りの淵へ身を投げたのだった。
カウンターの内側で、白と黒のカッチリとした制服に身を包んだバーテンダーが言う。
「ああいやそうじゃなくて…」
青から透明へと変わる綺麗なグラデーションのカクテル。このアルコールはどういう原理なのか、下から覗き見ても混ざること無く層を成したままだ。
「なんだか綺麗だなあと」
「ありがとうございます」
礼を言う店員の笑顔は柔和だ。
平顔ともいうのだろうか。塩気の強い顔の男は店員に笑顔で返し、カクテルの層が混ざらないようにゆっくりとグラスを置くと、手持ち無沙汰なのか黒短髪の襟足をサリサリと触りながら周りを見渡す。
ふらりと気分に任せ立ち寄ったこの店は人気があるらしく、静けさが売りであろうバーとは異なり、ザワザワと人の声の漣が耳を打つ。
壁際にはカウチ、バーカウンターにはチェアが置いてあり、店内中央のホール部分はスタンディング仕様なのか足の長いテーブルがいくつも置かれている。内装も木製調度品が多く、少し古ぼけた埃臭さも相まり、男は昔訪れたイギリスのバルを思い出した。
老若男女が入り乱れ酒が飛び交い、そこかしこから湧く歓声にも似た笑い声。見知らぬ人に話し掛けられ異国から来たと言えば、冷えたエールを一杯ご馳走してくれる。
このバルの名物は食べたかと聞かれまだだと言えば、明日の夜まで何も食べなくて済む胸焼けが最高な、油が染みに染みたフィッシュチップスがいいぞと皮肉を教えてもらえる。
南米方面に行った時はもっと凄い。一人でバルに入ろう物なら、次から次へと人に構われいつの間にやら自分の周りは人だかりができる。
コイツ日本から来たんだってよ!
そう言って彼らは自分が寂しいのではないかと危惧してなのか、持ち前の陽気さでなのかそこらに居る他人を呼び寄せては、一緒に飲もうとビールを掲げる。
大皿に盛られたスパイスの利く様々な料理を食え食えと勧められ、腹を膨らませて気付けば自分は金を払わないということもあった。
――きっと旅人は盛り上がるための口実なんだろう
そう気付いたのは、三カ国目の出張で久々に足を踏み入れたこの日本だった。
ホテル最寄りの駅周辺、その裏通りにあるよく栄えた飲み屋街。手羽揚げが売りだと看板を出している店にふらりと寄れば、十六時を過ぎた明るい頃だというのに既に狭い店内のカウンターは埋まって居るのだ。席に付けば隣の恰幅の良い壮年男性が、キャップ帽を上げながら自分に気軽に話しかける。
こんな時間に兄ちゃん、仕事はどうしたんだ。自分のことを棚に上げて、赤ら顔でそう言った男に笑ってしまったのをよく覚えている。久々に日本に来たと言えば、そこから自分を巻き込んでの大宴会だ。常連客は目新しい自分を酒の肴に、少し変化した日常を楽しんだようで、結局ここでも回ってくるツマミを貰い受けるばかりで酒代くらいしか払った記憶がない。
「お次は何を作りますか」
甘いカクテルを飲み干した自分に、バーテンダーの若い男性が問い掛ける声でハッと意識が今に戻る。未だ鼻先には思い出の日々で掠った煙草の匂いがしている気がした。
「カクテルに詳しくなくって…」
パッと名前が浮かんでこない。手渡されたメニュー表を眺めて見ても、名前と現物が脳内で紐付かずまごついてしまう。
その時、どかりと乱暴に隣の椅子に誰かが座り、同時に若い声がした。
「オレンジジュースってあります?」
思わず自分の右隣に顔ごと向け、声の主を不躾に見てしまう。
華奢で線の細い、耳を覆い隠す癖毛が暴れたような風貌の若者だった。
レトロ配色でスリートーンになっている薄手のウィンドブレーカーは、体のラインよりも幾らも大きい。細身の黒いボトムと、白いスニーカーが、その大きな上着を引き立たせていて野暮ったくない。
背高のカウンターチェアから垂らされた双脚が床から程遠いところを鑑みるに、身長もそれほど高くはないのだろう。
「ございますよ」
「じゃあ一つ下さい」
バーテンダーは流れる所作で、細長いグラスに氷とオレンジジュースを注ぎレモンの輪切りをグラス縁に添えると、ストローとペーパーコースターと共にカウンターへ静かに置いた。
青年と呼ぶのもおこがましく思える幼い体躯の隣人は、一瞬逡巡の手付きでレモンをオレンジジュースの中に絞り入れると、ストローも使わずがさつにグビグビと橙色の液体をあおり飲み干す。
「プハーッ」
高い音階で嬉しそうにそう漏らす様は、冷えたビールを煽る中年男性のようで、男は思わず吹き出してしまった。
バーの喧騒あれど、流石に隣の席で嘲り笑われたことに気付いたのか、青年が非難がましい目付きで自分の方を振り向く。暗がりの店内でよくは見えないが、色素の薄い双眼を縁取る豊かな長い睫毛。男は隣の青年を見、美少女のような美青年だと素直に思った。
「……何だよ」
警戒と侮蔑にほんのり染まった双眼は大きく眠たげで、あどけなさをより際立たせる。筋の通った鼻筋を通り、下向きの鼻尖を下った先の唇は不機嫌に突き出されていた。
「ああすいません、あまりに気持ちの良い飲みっぷりだったもので。オレンジ系のアルコールってあります?甘さ控えめの」
それを一つとバーテンダーにオーダーして、もう一度隣を見る。
「何か飲みます?失礼をしたお詫びに一杯奢らせて下さい」
飲み干したグラスの氷を食べようとしていた青年にそう提案してふと、自分も世界中の居酒屋で出会った年上の男たちとそう変わらないなと、むず痒い気持ちになった。
――一期一会だ
そういう便利な言葉が日本にはあったなと、退屈しのぎに青年を使う自分を正当化する。
「えっ、いいの?」
自分の提案を青年は快く受け入れた。しかも先程浮かべたあの警戒の眼色は何だったのか、という程嬉しげな光を瞳に宿しているではないか。喜びに開かれた双眼が美しい。
「じゃあコーラフロート」
そんなメニューもあるのかと、青年の眺めていたメニュー表を横目で盗み見る。
先にオーダーしたオレンジサワーのようなカクテルが出されたタイミングで、カウンターテーブルに置かれていた青年の左手首に巻かれるリストバンドに気付いた。しっかりとした白いシリコン製のバンドと、蛍光グリーンの簡易ビニールバンド。シリコンバンドは薄青く発光し、現在の時刻をデジタルに示す。
「アンタこれ付けてる?」
目線に気付いたのか、青年は自分のビニールバンドを指差した。テーマパークやライブ会場で付けるようなその安っぽいビニールには、蛍光グリーン地に黒で何やら書いてある。
「いえ…流行ってるんですか?」
「いや、流行ってはない」
ハハと浅く笑った青年の、綺麗な歯並びの犬歯が印象的だった。
「お守りか何かですかね」
「あーえっと、今ここでイベントやってんの。それの参加者区別用のバンドでさ」
「あれっ、俺普通に入って来ちゃったけど、大丈夫でした?」
コーラフロートを出したバーテンダーに聞いてみると、問題ないですと返ってくる。通常営業と並行しイベントを開催しているだけで、一般客の入場規制も何も無いとのことだった。
「へえ、面白いですね」
「アンタも参加してみる?」
参加費は一応取ると思うけど、そう付け足した青年はスプーンでフロートのバニラアイスを掬うと、パクッと嬉しそうに頬張る。
「誘っていただいて嬉しいんですが、残念ながら明日仕事があるので」
「土曜なのに仕事?可哀想に。こんな良いスーツ着てんのに、ままなんないもんだね」
正面を向いていた青年は、くるりと椅子ごと四分の一回転を見せ、男の方を向いて不躾にジロジロと眺めてくる。まるで先程の仕返しと言わんばかりに。
「ちょっとこっち向いてくんね?」
「え?」
顔だけでそちらを向けば、そうじゃなくてと彼と向き合うように椅子を回された。
「アッハッハ!すげえ。 ねえ、アンタどこのパーティー抜け出してきたの?もしかして好きだった女の結婚式?」
「そ、そんなに変ですかね…。仕事の打ち合わせの帰りなんですけど」
「誰と打ち合わせしてきたんだよ!」
彼は手を叩いて笑いまでした。
「胸にポケットチーフまで立ててさあ。色は照明でちゃんとは見えないけど、濃紺のテーラードに濃い金糸のステッチ。縫い目と襟の形、あと……この布の手触り。凄いじゃん」
するりと伸びてきた彼の右手のひらが、自分のジャケットの左袖口に差し込まれ、布地を確かめるように人差し指と親指の腹で擦られる。サリ、サリ……衣擦れの微動と一緒に、残りの三本の指が手首に回され握られた。
「イタリア?」
突然の国名に男は思わずオウム返しをする。
「これ、イタリアで作ったでしょ」
青年がニヤリと意地悪げに笑う。
そういえばそうだ。イタリアに出張した時、同行の上司に言われて作ったのだ。これから必要になる場面があるからと、これを機に良いスーツくらい作れと。
「でも少し型が古いね。流行は繰り返すけど、三年はまだそのサイクルの中じゃあ、真新しくないよ。むしろ型落ちだ」
三年前のイタリアで、三十歳になる自分への祝いとして、上司がプレゼントしてくれた一張羅がこのスーツだ。彼のおかげで今日のようなパーティーでも恥ずかしい思いはしないで済んでいると言っても過言ではない。
「どうよ、当たった?」
絶句する自分に、彼は悪戯好きな少年のような笑みで問い掛けた。小悪魔的といえばいいのだろうか、彼のような男は年上の女に大層モテるに違いない。
「いや……大正解ですよ。これは三年前に上司がプレゼントしてくれたイタリアの老舗ブランドのスーツなんです。凄いなあ、よく分かりましたね」
「まあこれくらいなら普通でしょ。でも靴は安物だし、ポケットチーフは色が合ってない。セットアップで買わなかったの?」
確か買って貰ったはずだが、無くしてしまったのか見当たらなかった。去年買ったこの革靴も間に合わせで、家の近所のモールで買ったのか、出張先で見繕ったのか。それすらも覚えていない。
青年の指摘が妙に恥ずかしく思えた。
「靴とかポケットチーフとか、誰も見てないだろうなって思って気を抜いてました」
苦笑いでアルコールをちびりと口に含む。
「いや普通は見ないでしょ。でも統制が取れてないと目に刺さる。服に詳しくなくても、良いものを着てる人間は目が肥えてるだろうし、上手く言えないけどこう…浮いて見えるから」
「なるほど。仕事柄そういうのが分かるんですか?」
「いや趣味」
趣味でここまで見透かすだなんて、怖い趣味もあったものだ。
「人の身形を言い当てるのが?」
「……なに、怒った?だったら謝る」
「まさか!素直に驚いて感心してるんですよ。偶然入ったバーで、こんな面白いことが起こるなんて。それだけで今日は良い日になったって思える」
横目で青年を見れば、驚いた顔をしたあと恥ずかしげに拳で口元を隠したものだから、何だか気分が良い。
どうせ一期一会、自分も何かで彼を驚かせて楽しませてやりたいものだ。
さて自分には一体何ができるだろうかと考えていると、未だ左手首に絡んだままの青年の指に少し力が入ったのを感じた。
「アンタ、名前何ていうの」
「名前?あー…そう」
「あっそう?」
「ソウっていうんですよ。ほら、草冠に倉って書く。青いって意味の」
「ああ、はいはい」
青年はようやく手首から指を離すと、グラスの水滴をすくってカウンターテーブルに蒼の字を書いた。
「これ?」
「正解」
水滴で書かれた文字の外周をなぞり、採点するかのように指先で花丸を描く動作をする。
「ふはッ なに、花丸?」
「賢い子にはあげないと」
「ふーん、俺って賢いんだ」
子供扱いに気分を害するでもなく、青年は密かに上がった口角に嬉しさを隠そうともしないのが愛らしい。
「ねえ、俺の名前聞いて」
可愛らしくそう強請るものだから、抗わず素直に尋ねる。
「お名前は?」
「俺はねー、ヒロムって言って、開拓のタクに、睦み合うのムツで拓睦」
「いい名前ですねえ」
「普通じゃね?」
「そうですか?愛を拓く人って感じがして素敵じゃないですか。愛を知って愛を説く感じがして俺は好きですよ」
そう伝えるとまたも青年はふーんと嬉しそうに、誇らしげに、しかし何でも無いという風を装った。
「アンタ…じゃない、ソウさんは何歳なの?」
「三十二ですね」
「おっさんじゃん」
屈託のない若者は、残酷だ。無垢な棘を遠慮もなくこちらの心に押し付けてくる。自分にもこんな頃合いがあったのだろうかと考えて、そう考えてしまう自分はまさしく彼の言うおっさんなのだと実感した。
「ヒロムさんは高校生みたいですね」
無垢な棘の意趣返しにそういうと、彼は目をそらしむくれる。
「ハタチだから」
「それは失礼しました」
「……ごめんって」
「ハハ、怒ってませんよ」
気付けば職場でも最年少ではなくなっていたし、自分より若い人材は増える一方だ。それが社会で生きるということ。
二十歳そこらの彼からすれば、一回りも離れた自分はおっさんと呼ばれて然るべきだ。自己卑下ではなく、自覚の問題である。
「ほんとに?」
「君もいずれはそう呼ばれるようになるんですよ。何事も循環です。ふらりと寄った見知らぬバーで、十二歳下の若者におっさんと呼ばれる日が来るんですから」
「……根に持つタイプ?」
「アハハ、いや逆ですね。寝て起きれば忘れてますよ」
都合がいいでしょ?そう付け加え、グラスに残ったソーダを飲み干す。
モバイル端末を確認すればもう二十二時前だ。既に今日のパーティー内容をテキスト化して本社に送ってあるから、そろそろ通話ミーティングに備えておかなければ。赴任後初回のミーティングなんて、上司への報告も兼ねての雑談としか言いようがないが。
「なに、もう帰んの」
「仕事がありますからね。すいませんチェックで」
バーテンダーが懐から出したリーダーに、腕時計型の端末をサッと翳し会計を済ませ椅子から降りる。
「今日はありがとうございました。思いがけず楽しかったです。それじゃ、またどこかで会えたら」
悪い一期一会じゃなかった、そう思いながら踵を返そうとした自分の腕を、青年が引いた。
驚きで振り返れば、眉根を寄せた美しい青年が真剣な眼差しで自分を見つめ言う。
「俺のことも寝て起きたら忘れる?」
別にそこまで自分のことを年寄りだという気はないが。
――なるほど、若く眩い目だ
『やあ蒼慈郎、久々の母国はどうだ』
遅れてやってきた上司は、タブレットの画面越しに戯ける。シックにきめた濃灰色のスリーピース、覗く薄緑の細いボーダーの入ったカッターシャツは糊がきいていて眩い。
一方蒼慈郎と呼ばれた男は、風呂上がりのTシャツ姿だ。
「飛行機からパーティーに直行したんですから、どうもこうも無いですよ」
三十分も遅刻してきた割に、悪びれもしない。相変わらず世界は時間にルーズだ。渡米して何度それに驚いたことか知れない。
『仕方がないだろう?来たるべき未来が来たとて、人間に天候は操れないんだから』
本来ならば四日程前乗りするはずだった今回の来日も、東部アメリカで起きたハリケーンのお陰で飛行機は欠便となり、何とか取れた席はスケジュールを大いに狂わせたのだ。
綺麗に撫でつけられた鮮やかな赤毛の上司は、人差し指を立てると天空を指差す。
『神のみぞ知る』
敬虔な訳ではない彼の口癖だ。バグが出ても、急な仕様変更があっても、彼はこの一言で乗り切ろうとする。そして乗り切ってしまう。無茶振りをその一言で乗り切る彼に、一体幾人が落胆と羨望を綯い交ぜにした視線を投げかけることか。
「ビル、俺は怒ってますよ」
『私にハリケーンを止める神業があれば良かったんだが』
「三十分遅刻したことにです」
『三十分くらいなんだ』
「そっちは始業直後なんでしょうけど、日本は深夜二時なんですよ」
『オーケー、報告を聞こう』
戯けた動作でホールドアップの真似をする上司に浅く溜め息を吐き、タブレットのモニター上で資料の画面共有を始める。
今回の出向もいつも通りの内容だ。企業に合わせたAIシステムの導入と調整、そして利用に関する指導。この度は日本の大手医薬品メーカーの工場ラインボット操作用とのオーダーだ。
しかもその大手メーカーの新規立ち上げ事業、新設子会社の序幕パーティーにAI開発者を呼ぼうと言うんだからおかしな話だ。主任ポストの自分を招待して一体何になるのやら。
毎度そういった催事に呼ばれる度に愚痴を零す蒼慈郎を、人脈の重要性を持ってビルは説き伏せるのだ。彼の言うことも最もで、営業職ではなく開発職である蒼慈が足を運ぶと案外喜ばれるのか、集まる他企業の役員たちも興味深いと言わんばかりに質問を投げ掛けてくる。
「今回も質問攻めでしたよ」
『私たちより上の世代の人間は、こういうことに疎いからな。それに役員のポストまで行った人間なら、多少の探究心と好奇心を持っていなければ務まらないだろう。そんな中に格好の餌が自分で歩いてやってくるんだ、飛びつきもする』
まず君はどこの企業の人間だ、ポストは何だと聞かれる。これは自己紹介の場を設けてくれていると同時に、こちら側の力量を測るために探りを入れている。そしてその自己紹介に端を発し、自分は無料の講習会を開くことになる。
御社の製品や分野はよく耳にはするがどういったことが可能か。弊社はこういう職種の企業だが、簡略化できるものだろうか等々。そういう漠然とした稚拙な質問もあれば、少し知識のある人間からの込み入った相談事もある。
前時代のAIで知識が止まっている彼らに対して、無料相談と無料講習を二時間程みっちりと半ば強制的に開催させられる。オードブルだってアルコールだって、口にする暇もないのだ。
「まあこちらも初歩知識すらない目上の人間に、噛み砕いて説明するいい練習台になりますからね」
『ハハハ、君のそういうドライで貪欲な姿勢、私は好きだな』
「ありがとうございます」
『それで?』
ああこの催促も何度聞いたことか。
「今回は三社ほどですかね」
『上出来だ』
今日のパーティーで交換した幾枚ものデジタルビジネスカードの内、好色を示し後日再度の打ち合わせを打診してきたのは製薬二社、医療品一社だ。担当者が来場していた訳ではないので、今後の打ち合わせからどの様に化けるのかは、追って来日するであろうスポークスマンの腕次第だ。
「送ってある資料、ちゃんと読んで下さいね。あと早めに人材の補填をお願いします。俺一人じゃどうにもならないですよ」
『ああ、君は従来の業務に集中してくれるだけでいい。雑事はこちらで見繕った人員で行う』
画面外の誰かにハンドサインで待てと指示したビルが、恭しく手のひらを組んだ。ああ、ここからは雑談パートだ。
『よし人払いは済んだぞ』
「勘弁してくださいよ…」
『君の話す各国の酒場事情は私の密かな楽しみなんだ』
「じゃああなたも、そろそろ現場復帰したらどうですか?」
『上が許してくれないのは君も分かってるだろ?それに子供が生まれてまだ二年だ。今は側に居たい。しかしあの日々が懐かしいのも確かだ。君とまるで根無し草みたいにフラフラと、会社の金で世界中を飛び回れるなんて最高じゃないか』
「そして美味い酒と食べ物?」
『御名答。さて今回はどうだった』
ビルが手のひらをスリスリと擦り合せ、まるでメインディッシュを待望する食いしん坊のごとき輝きを瞳に宿した。
「疲れてましたからね、ホテル近くのバーで軽く済ませた程度ですよ。今も疲労困憊なんですけどね」
オーバーに溜め息を吐いてみせると、そんな非情なと言わんばかりにビルが大袈裟な落胆の声を上げる。
『君っていつからそんな酷い奴になったんだい?』
「あなたの下で七年も働いていればこうもなりますよ」
『心外だな。でも君のことだ、いつもみたくまた口説かれたんだろう?』
その言葉に思わずグッと喉を鳴らして口を噤んでしまった。万年面白い事象に飢えている上司を持つとろくなことがない。
『ほら見たことか。あるじゃないか、楽しいことが!』
「ハァ…プライバシー侵害じゃないんですか、こういうのって」
『そうさ、立派なプライバシー侵害だ。でもまあ君がその誘いを受けたと言うんなら、私は細かく聞きはしないよ』
「受けてたら今ここには居ないですよ」
『じゃあ良いじゃないか』
「ビル、ゴシップ好きも程々にしてください…。じゃなきゃあなたをパワハラで訴えなきゃならなくなりますから」
そう前置きして、数時間前にバーで出会った青年のことを話す。スーツの形状や生地から産地を見破ったこと、蒼慈郎と年齢が十二歳も離れていること。そして最後に縋るように誘われたこと。
『ワオ…凄いな、日本人にそんな積極性があったなんて新発見だ。いや、別に蒼慈郎が消極的だって言っているんじゃない。いや君は消極的だな。誰が誘ったって頷かないアイアンメイデンマン?』
「誰にも興味が湧かないだけですよ」
鋼鉄の乙女野郎、同僚にも先輩にもそう揶揄されて七年だ。そして七年も共に働いているこの調子の良い紳士然とした上司は、近年は蒼慈郎の行く末を案じる程にまでなってしまった。
世話焼きが好きなのか仲介屋になりたいとばかりに、様々な人間と蒼慈郎を引き合わせる。色々な場面に蒼慈郎を引きずって連れて行く。
上司の言うことだしと彼が引き合わせる男女両方と付き合ってみたこともある。しかし結果は悲惨なもので、蒼慈郎の無関心が祟って相手が音を上げる。
ビルに勧められた彼らは遜色ない素敵な人間だ。才能も性格も申し分ない、むしろ自分には勿体無い程の人格者だと蒼慈郎は評する。しかしどうしてか、興味が湧かない。面白く素晴らしい人間だと思う程度で終わる。いくら自分を見てくれとお願いされても、いくらベッドに引き倒されても。関心が湧いてくることはない。
『連絡先の交換くらいしたんだろ?』
「ええまあ、それだけですけどね」
連絡先を教えてほしいと言われれば、今までもそうしてきた。会って食事をと乞われればそうしてきた。
『日本の法律には詳しくないが、二十歳に手を出すのは犯罪なのかな?』
「まさか。成人と見なされてますから。俺からすれば十八歳に手を出せる国の方が恐ろしいですよ」
そうバカ真面目に答えてから、彼の言わんとすることに気付いて呆れた。
「ビル、俺はそんな気無いですから」
『未来は分からないさ。これも神のみぞ知る、そうだろう?自分の可能性の芽を自分で摘み取るのは君の悪い癖だ』
画面の向こう側で、ビルが組んでいた手のひらをパッと解き開いた。今日のミーティングはこれでお終いだという、その合図。
『遅くにすまなかったね。ゆっくりと休んでくれ』
「ありがとうございます」
『さてと……このことはじっくりと君の信徒に伝えねばなるまい』
「またですか…厄介事を増やさないで下さいね」
『さっき払った人間も彼らだからね。まったく、熱心で敬虔な信徒を持ったものだ』
「部下と言って下さい」
『ハァ…君はちっとも私に敬虔ではなかったくせに』
「ビル」
嗜めるように名を呼べば、拗た上司はそのまま通話ソフトをシャットダウンし、ふつりと画面は黒に染まった。
深い溜め息を一つ吐き、面倒臭いという気持ちを払拭したくて蒼慈郎は大きく伸びをする。
今日はもう寝てしまおう。寝て忘れてしまおう。
そう考えた時、あの青年の言葉を思い出す。
自分のことも寝て起きれば忘れるのかと問うた、彼の華美な睫毛に縁取られた残念そうな眼差しは、真っ直ぐに蒼慈郎の瞳を射抜かんばかりのスピードと鋭さがあった。
――ああいうのは久々だったな
自身に振りまかれる口説き文句はもっと分かりやすい。ずっと君と居たいだの、君を知りたいだの、見た目や物腰が好きだと腰や肩に腕を回されて耳元で囁かれる。もしくはあっけらかんとした口調で、君に興味はないが連絡先を交換してあげてもいいというようなナルシズム調。
付き合う気もなければ、その場で鼻っ柱を折ることも面倒で、笑顔でええ喜んでと連絡先を交換してしまう。その後はいくら好意を踏みにじろうと、連絡を絶ってしまえば終わりだ。
だってそうだろう、口論や暴力に発展するよりも、無視という手段は存外に相手に好意の無さを伝えることに役立つのだ。長くて半年しか滞在しない国で、仮住まいを定期的に変える予防策のおかげか、未だ衝突は起こらないのだから蒼慈郎も存外に悪手の人間だ。
遠回しの必死の懇願を投げ掛けてくれたあの青年には悪いが、きっと今回も通例と同様になることだろう。
――面白かったけどなあ
ベッドに横になりながら、蒼慈郎は瞼裏に焼き付いて離れない彼の瞳から目をそらすように、眠りの淵へ身を投げたのだった。
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