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猪鹿村日記 その5
しおりを挟む猪鹿村への引っ越しは、半日もかからずに終わった。元々一人暮らしで、モノもそんなに無かったし、マンションと違って平屋は荷物を入れるのも楽だった。トラックを目の前に駐車して、縁側の戸を開けると、荷物運びはあっという間に終わった。
娯楽がない村での生活の為にと思い切って買った50インチの4Kディスプレイが一番大きな荷物だ。
テレビではなくディスプレイにしたのは、無料でネットが繋がるのであれば、テレビなんて必要ないからだ。
ニュースはアプリで見れるし、知るべき情報はだいたいツイッターで流れてくる。
テレビを売ったのをきっかけに、公共放送の受信料支払い解約した。解約できる方法はネット仲間が教えてくれた。
その時、公共放送との契約は放送法64条という法律で定められているというも初めて知った。公共放送なんて年に一回「ゆくとしくるとし」くらいしか見てなかったし。ちょうどいい機会だった。
3年前に少しネットで話題になったそうだが。福岡の衆議院議員が国会で「国民のお金で運営されているのに、半強制的に料金を徴収され、反日自虐放送を垂れ流している」という趣旨の発言で公共放送を思いっきりディスったと、そのネット仲間から教えてもらった。
解約したいとは思っていたけど、面倒くさくてズルズルと支払いを続けていたので、助かった。
営業センターに電話をして放送受信契約解約届というものを送ってもらい、テレビをリサイクルショップに売って、買取証明書をもらい添付して送った。手続きはそれなりにかかったが、解約することができた。
荷物の片づけも一段落したので、ベットの上で寝転んでいると、インターホンが鳴って玄関を叩く音がした。宅急便も頼んでいないし、無視していると、ガランと音がした。玄関に行くと、紙が挟んであるボードが郵便受けに挟まっていた。
そこには回覧板と書いていた。
「回覧板って……なに?」
書いている内容は、今日の夕方、村の集会所で移住者を歓迎する催しが行われるので、ぜひ参加してくださいとの事だった。
「こんなんで情報まわしてるんだ……。えっと、隣の家に回せばいいのか。それにしても、歓迎会ねぇ。まっ、行く必要もないか」
回覧板を隣の平屋の郵便受けに突っ込むと、部屋に戻った。その後、4Kディスプレイで見るゲーム画面の美しさに感動した私は、夜遅くまでオンラインゲームに興じた。こうして、猪鹿村での最初の夜は過ぎた。
フリーライターである私の朝は遅い。夜遅くまでオンラインゲームをしているからだが、自分の好きな時間まで寝ていられるのも、クラウドワーカーとしての利点でもある。早起きして午前中に仕事をするというスタイルの人もいるし、夜仕事をするという人もいるが、私は昼過ぎに起きてから仕事をする。
早起きは三文の徳だとか、健康に良いなんて言うが、夜型人間に早起きを強制することが良いとはとても思えない。なんて、自堕落な自分に言い訳を用意して惰眠を貪っていると、スマホのアラームが鳴った。
1日に3回、スマホのアラームで時間を告げるように設定している。その代わり、部屋には時計を置いていない。特に理由はないが、スマホに変えてからいつの間にかそうなっていた。スマホの時計はネットを通じて常に自動設定されているからズレないし、合わせる必要もない。
私はズレた時計を合わせるのが苦手だから、ズレないスマホの時計がいい。一昔前の自治体では、12時や17時になるとサイレンが鳴っていたそうだが、もしかしたら、この村にもそんなのがあるんだろうか? あるとしたら、やめて欲しいものだ。
そういえば、この村の近くにある羽金山という山の山頂には長いアンテナのようなものが伸びている。何だろうと思って検索してみると、電波時計用の電波を送信する、日本に二か所しかない標準電波送信所だった。
目を覚ますと枕元のスマホを手に取る。寝たままで、仕事の進み具合と、新しい仕事の依頼が来ていないかを確認をする。移住条件として登録したクラウドサービスから、いくつかの案件が入ってきていた。驚いたのは、その中に、ここ猪鹿村の移住生活についての記事執筆の案件があったことだ。
「なにこれ?」
移住生活の宣伝をする為のホームページ用の記事だという。報酬は悪くなかった。
寝起きの頭をスッキリさせる為、お湯を沸かしてコーヒーを入れる。昨日気づいた事だが、井戸水で淹れたコーヒーは美味しかった。
コーヒーを片手に、カーテンを少し開けて外を見る。山に囲まれた景色が、本当に移住してきたという事実を実感させる。山は紅葉が始まっていて、一部がカラフルに染まっている。その景色には不思議な既視感を感じる。経験したことないのに映画の「トトロ」に出て来る田舎の家を懐かしいと思うような感覚だ。日本人の遺伝子に刻まれた古き良き農村の風景とは、こんなものなのかもしれない。
そんな事を考えながら、自分の世界に浸っていると外で大きく手を振っているカラフルなジャージ姿が見えた。桐谷さんだ。
私の姿を見つけた桐谷さんは、大きな足取りでズカズカと家にやってきて、玄関の戸を叩いた。目があってしまったものは仕方がないので、戸を開ける。
「どうかしたんですか?」
「ちょっと、聞いてよキリカさん……あらっ、いい匂い。コーヒーかしら」
「あっ……えっと……飲みますか?」
「あらー。いいの。ゴメンね。催促したみたいで」
みたいじゃなくて、しているでしょう。と思ったが、ひきつらないように頑張って笑顔を見せた。
欠片も遠慮しないで、上がり込んできた桐谷さんは、私が淹れたコーヒーを一口飲むと、「美味しいわぁ」といって表情を緩ませた。その姿を見て何か嬉しかった。この久しぶりの感覚は何だろうと思ったら、他人をもてなすという事を、ここしばらくやっていなかったことに気づいた。以前は彼氏の為にゴハンを作ってあげたりしたものだ。今では遠い日の記憶でしかないが。
「それで、桐谷さん。どうしたんですか?」
「そう、昨日大変だったのよ!」
昨日行われた村人主催の歓迎会へ参加した移住者は、桐谷さんを含めて、二人だけだったそうだ。
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