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猪鹿村日記 その4
しおりを挟む「キリカさん! こっちよこっち」
猪鹿村への移住へ向けて、住居となる平屋の見学に訪れていると、派手な色のジャージを着たおばちゃんが、満面の笑みで大きく手を振りながら近づいてきた。
こんな田舎の村に知り合いなんていないはずだと、無視していると。ズカズカという効果音が相応しい歩き方で、派手なジャージが近づいてきた。一瞬身構えたが、迫って来る顔はどこかで見覚えがあった。
「私よ、キリカさん! 桐谷よ」
それは、移住説明会で隣に座っていた、おばさんだった。確か、桐谷さんだ。
「やっぱり、あなたも選ばれたのね」
両手を腰に当てて胸をそらし、私の予想は当たったでしょと言いたげだった。
「はぁ、まぁ、お陰様で」
何のお陰なのか自分でもさっぱりわからなかったが、とりあえずの社交辞令としてそう言っておいた。
「家を見に来たんでしょ。ほら、早く上がって」
既に自分の家のように桐谷さんは私を手招きした。見学と言っても、平屋だから内覧はすぐだ。外見もそうだが、中身も綺麗にイノベーションされていて、使い勝手は悪くなさそうだった。何よりも広い。桐谷さんが言うには、今のマンションとは畳のサイズが違うそうだ。
よくそんな話を聞くけど、本当かなと思って調べてみようとスマホを取り出すと、桐谷さんがドヤ顔で壁の貼り紙を指さした。
「何ですか?」
「ここ、専用のwifiパスワード書いてるわよ」
説明会でもあったが、この村全域でwifiが繋がる。さらに移住者用の平屋には高速ネット回線と共に、wifiもあり、専用のパスワードがあった。
「あっ、どうも」
パスワードを打ち込むと「畳 サイズ」で検索してみた。
確かに、畳は地域によってサイズが違うらしい。一番大きなのは、京間と呼ばれ京都を中心とした関西地方で、191×95.5。これが江戸間という東京を中心とした関東だと176×88.団地サイズと呼ばれる戦後に普及したサイズだと170×85になる。
京都サイズと団地サイズだと、畳一枚で約200㎠違う。広く感じるはずだ。
私が希望した平屋は、今住んでいる福岡市内の1ルームの1.5倍、いや下手したら倍以上はあるんじゃないだろうか。エアコンはもちろんの事、洗面台も洗濯機置き場もある。お風呂も広く、脚を伸ばして入れそうだ。概ね満足のできる間取りだった。唯一気になるのはトイレだ。外観は普通のトイレなのだが、この村は山の中にある為、下水道のインフラが整備されていない。つまりは、汲み取り式なのだ。年頃の女性としては、ここは大いに悩むとこだ。
それから、アプリを使ってwifiの回線速度を測定した。下りは52メガ、上りも17メガ出ていた。十分な速度だ。これなら、何の支障もない。
だいたい、光回線で最大1Gbpsなんて文句で煽ってるけど、あれは理論上の最大値であって、実際にはその50分の1も出ればいいほうなのだ。
私が回線速度をチェックしていると、桐谷さんが覗き込んできた。とっさに画面を隠す。
「やっぱり、通信速度は気になるわよね」
桐谷さんが、スマホの画面を見せてきた。彼女も同じように速度を測定していた。
「これだけ出れば、十分ですね」
「住環境はなんの問題もないけど。後は周囲の環境ね。ちょっと村をまわってみない」
まるで年来の友人のように、桐谷さんは私をさそって平屋を出た。私は何となく、ついていっていた。
「ねぇ、見てキリカさん」
外に出てすぐ桐谷さんが指さしたのは、古い手動のポンプだった。
「何ですか、これ?」
桐谷さんが楽しそうにポンプを上下に動かすと、コポコポと音がして水が出てきた。
「これ、井戸水よ」
「へえ、井戸なんてあるんだ」
「ということは、この平屋の水道は井戸水だってことね。これは嬉しいわね」
「どうしてですか?」
「だって、井戸水ってことは水道代がかからないでしょ」
確かにこれは嬉しい。家賃、通信費が無料なうえに、水道代までかからないとすれば、生活費はかなり浮く。
「問題は、娯楽が無いことよね」
「娯楽ですか?」
「そう、カラオケとまでは言わないけど、居酒屋とかスナックとか、一件くらいあってもよさそうじゃない」
「確かに、そういうお店はなさそうですね」
「観光地でもないから、仕方ないんでしょうけど」
カラオケくらいなら、今ではゲーム機でできる。ネットさえ繋がれば、オンラインゲームにショッピングもできる。映画配信サービスに入っていれば、ドラマや映画にも困らない。さすがに、バッティングセンターやボーリング
などはできないけど、そんなに娯楽に困るだろうか。
「やっぱり、飲み屋の一つくらいは欲しかったわよね」
猪鹿村は佐賀県から糸島市に抜ける県道12号線から奥に入った場所に位置している。村に入る道は一つだけで、車一台が通れる道幅しかない。当然の事ながら、バスなど通ってはいない。
「まぁ、不便な村ですよね」
「そうね。どうしてこんな場所に住もうと思ったのかしら」
「そうですねぇ。あっ、あそこにあるの、お店じゃないですか?」
「そういえば、一軒だけお店があるって。ちょっと行ってみましょう」
古びたというより、半ば朽ちた看板のお店の中に入った。奥のカウンターにはお爺ちゃんが座っていた。1分あれば見渡せる店内は、何屋さんというわけでもなく、食品から日用品まで何でも扱っている。が、思った以上に値段は高かった。
「けっこう物価高いのね」
桐谷さんと共に、店内を見ていると突然、カウンターに座っていたお爺ちゃんが、笑い声を上げた。驚いた私達がそちらに視線を向けると、お爺ちゃんは皺を縮めて笑顔を見せると、手に持っていたスマホを私達のほうへと向けた。そこには、映画が流れていた。
「あっ、その映画。私も見た」
「わしはゾンビ映画が好きでのぉ」
「もう配信されてたんだ」
「今はネットがあれば、定額でいくらでも見れる。良い世の中になったもんたい」
「そうだよね。もう、レンタルとかしないもんね」
「この村にはゲオもツタヤもなかけんね。ビデオ借りる為にわざわざ山ば降りよったもんたい」
「うわぁ、返しに行くの面倒くさそう」
「今までいくら延滞金ばとられたか、わからんばい」
そう言って、お爺ちゃんはまたスマホの画面にくぎ付けになった。なんとなくだが、何も買わないのは申し訳ないので、菓子パンを一つだけ買って店を出た。桐谷さんは満足そうに頷くと、私に言った。
「人のよさそうなお爺ちゃんだったわね。村の人も優しそうな人が多そうでよかったわ」
確かに人は良さそうだ。だけど、あの店で買い物をすることは今後ないだろう。
「でも、お店を使うことはなさそうですね。私、日用品とかアマゾンやヨドバシでまとめ買いしているから」
「まあね。そっちのほうがポイント貯まるものね」
生活必需品や米などの備蓄できるものは、数年前からネツト通販を利用している。送料無料のとこも多いし、何より自分で運ばなくて良い。大量に買えばコストも下がる。以前のように狭い部屋ならともかく、新しい家なら置く場所にも困りそうにもない。
「キリカさんも、来月引っ越してくるんでしょ」
「そういえば指定された日時だと、引っ越し料金も格安でしたね」
「そうよ。サービスは共有しないとね。それじゃあ、また引っ越しの日に会いましょう」
この村の村長も言っていたが、時代は所有から共有に移りつつある。都会ほどそれは顕著で、あらゆるサービスが共有化に進んでいる。シェアリングエコノミーというやつだ。この村にも、移住者が共用で使用できる車が、2,3台手配されており、車が必要な場合は、時間単位料金で借りることができる。バスも通っていない村なので、先住の村人はほとんど自家用車を持っている。
村には周囲の木より高い建物はほとんど無いと言っていい。12号線から繋がる道がなければ、この村の存在など世間から忘れさられても不思議じゃない。
だがここで、私の新しい生活が始まるのだ。
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