全部私殺人事件

梓紗咲

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全部私殺人事件

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これは私の心象風景と恋の物語。私が一歩踏み出すまでの物語。

 私の心は孤島であり館であり密室だ。
 私という孤島に建つ、私という館の私という密室の中で。
 私が私を殺した。
 第一発見者はもちろん私で、探偵役も僭越ながら私が努める。
 さてさて。
 私という孤島に建つ、私という館の私という部屋に、私が集う。この中に私を殺した犯人がいる、もちろん私だ。この事件は、私の私による私のための脳内殺人事件なのだ。だから、これから始まるのは答えが分かりきっている推理遊戯で、つまり出来レースだ。一足す一が二になることを証明するのと同じことだった。ここからいきなり解答編を始めても良いのだが、これを読んでいる私とこれを書いている私自身のために、初日の出来事から順に書き連ねていくことにする。

一日目

 私は船から島の埠頭に降り立った。
 島を囲う黒々とした海。波は高く荒い。空には自意識色(即ち鈍色)の分厚い雲が重なり、迸る遠雷が小さく見える。強い風に吹き飛ばされそうになる。嵐になりそうだ。
 私の後に続いて三人の私がぞろぞろと埠頭に降りてきた。
 最近、私の胸中は穏やかでない。それこそ、嵐が到来している。というのも、様々な感情・考えを持つ私が乱立していて混沌としているのだ。
 今回、無数に分裂した私たちが島に招集されたのは、一年半ぶり十一回目の全私会議のためだった。全私の意見を統一しようというのだ。議題は十中八九、しのはらみさきさんの事だろう。みさきさんは私にとって、隕石であり、衝撃であり、嵐であり、異星人であり、北極星であり、太陽であり、そして神に等しい存在だった。

***

 みさきさんとの出会いは四月。その日は四月だというのに日の光は夏を孕んでいて、外を歩けば汗淋漓という有様だった。
 その日は、午後から大学の講義があった。私が通う清都女子大学文学部のキャンパスは最寄駅から坂道を二十分ほど登ったところにある。キャンパスに到着したときには私は汗びっしょりになっていて、半袖を着てくれば良かったと後悔した。まだまだ四月、やる気に満ち溢れた学生たちが一番前の席を占拠する中、怠惰な私は一番後ろの席に陣取った。講義室の冷房は稼働しておらず、開けっ放しになった窓から入り込む気まぐれな風だけが癒しだった。あつい。どうせ女子大だし誰に見られても困らない。私は胸元をがばりと引っ張って仰ぎ風を送り込んだ。その時だった。
「隣、空いていますか?」
 不意に話しかけられ、私は「は、は、は、はいっ! め、ちゃめちゃ空いてますヨ! ドウゾ、どうぞ」といった具合に挙動不審な返事をしてしまった。おまけに胸元を仰いでいるみっともない姿まで見られていた。恥ずかしさから再び汗が出た。
 声の主が私の隣に腰掛ける。そのご尊顔を横目で拝した。
 電撃が走った。心臓の鼓動がはやくなる。
 一目惚れだった。情けないことに歳を重ねてもコミュニケーション能力が一切向上しない私は人を内面から好きになることはあまりなく。恋するときはいつだって一目惚れ、いつだってラブストーリーは突然だった。
 一目惚れは、本能的で動物的であるがゆえに、極めて純な不純であるという自己矛盾を回避できない。そこに巣食う後ろめたさの病理、感情の基盤の不確かさ。人を見かけで判断してはいけません、うるせぇ正論で私が救えるか。自分の中の天使と悪魔が軽率に軽薄に軽々しく軽やかに矛盾して……。思考がデフレーションのスパイラルに飲まれる前にとめた。
 その少女は深窓の令嬢、そんな言葉が似合うどことなく上品で余裕のある雰囲気を漂わせていた。腰にまで届きそうな黒髪は艶やかで。その髪を梳かす悪戯な風が彼女の石鹸の香りを私の元に届けてくれる。山奥で滔々と流れる清流のように涼やかな眼差し。高く整った鼻筋。一文字に閉じられた桜色の唇はぷるりと瑞々しく。神が作り給うたのだろうか、こんなにも美しく尊い存在ならば。そうでなければもう、何も信じられない。
 少女は手提げ鞄から文庫本を取り出した。岩波文庫。シュルレアリスム宣言・溶ける魚。アンドレ・ブルトン著。文学といえどろくに本を読まない私には縁遠そうな本だった。(そんなことよりも! 私も貴女の夏に溶けてしまいたいです。)私の妄想列車が走り出すのをよそに、少女は本を開くことで周囲をシャットアウトしてしまう。その所作からは凛とした強い意志を感じた。
 私とは何もかも違った。私はいつだって私であることに臆病だった。この少女はそうではない。自分であることに堂々としているように私には見えた。かっこいい。そう思った。自分とは住む世界が違う。悲しいけれど、そう思った。思ってしまった。
 先生がやってきて、生徒一人ひとりの名前を挙げて出欠を取った。古いやり方だが、そのお陰で少女の名前を知ることができた。しのはらみさきさん。漢字までは分からなかったが、名前まで素敵だ。

***

 埠頭から少し歩くと館に着いた。この島唯一の建造物である。中に入ると、館の主である私と執事の私(執事服が似合わない)とメイドの私(メイド服も似合わない)が出迎えてくれた。
「遠路遥々、ようこそ私」結局は自分の脳内の事なのだから遠路ではないのだが。
「お迎えありがとう、私」
「会議は夕食後に大広間で」館の主の私が言った。

 大広間の四方を囲う壁には隅々までみさきさんの肖像画が飾られていた。描かれたみさきさんがみんな横顔なのも、その輪郭がぼやけているのも、みさきさんの事を真正面からまじまじと見つめられるほどの関係性を形成できていないことの証左で、私は悲しい気持ちになった。
「うげー。こんなのバレたらみさきさんに気持ち悪がられる」私を自己客観視する私が、壁を覆い尽くす肖像画を前にしてうげっていた。
 壁の真ん中には格別に大きな絵が飾られていた。その絵の前で跪き、両手を祈るように合わせている私がいて、みさき様、みさき様と小声で繰り返し唱えていた。崇拝派の私である。私は遠くから眺めていられるだけで良いのです、そう考えている。自分自身の事だから手に取るように分かった。今までの恋愛は全部そうやって遠くから見ているだけだった。お願い気づいてほしい、だなんて。行動しないやつに神様は微笑まないのに。怠惰で臆病な私は諦めることで自分を保とうとしていた。
 そうこうしているうちに、全私が大広間に集い会議が開会した。議長は私を自己客観視する私が務めることになっていた。
「とにかく仕掛けよう! そうしないことには何も始まらない!」恋愛派の私が開口一番にそう切り出した。その意見に崇拝派の私は否定的だった。曰く、そんなことをしたら避けられてしまう。ただ、遠くから見つめていましょう。恋愛派の私がそうやって傍観者の姿勢を貫いたことが今までの恋愛における私の最大の過ちだったのだと、崇拝派の私を糾弾した。まずは、お友達になることから始めるのはどうだろうかと友情派の私が提案した。他方では純情派の私と可愛さ余って憎さ百倍派の私の相反する意見に板挟みになって悲鳴を上げていた。会議はもはや収集がつかない程で、あちらこちらから怒号が飛んだ。そんなんだから前回も――!。様をつけなさいよ! まず、自分を磨くのが先では。講義のレポートに関する話題なら、話しかけても不自然ではないのでは。不自然でしょ、仲良くないんだから。じゃあ、最初の一歩をどう踏み出すの? とにかく、告白しよう! 振られるのが見えてる。振られたら立ち直れない。仲良くなりたい! 消しゴムを落とそう! 馬鹿? 溶ける魚、読みなさいよ。 好きって気持ちは、やっぱり気持ち悪いのかな……。気持ち悪い! 内面を知られたら拒絶される。内面を知ったら嫌いになっちゃうかも。みさきさんはそんな人じゃない! みさきさんの何を知っているの! 自分だって何も知らないくせに! 
違う違う違う違う違う違う! 湧き上がる無数の私が否定され続ける。矛盾した感情の私が乱立し、私が私を批判し、拒絶する。小さな自殺の繰り返しだった。どうして恋ってこんなにも苦しいのだろう。思えば思うほど、どろどろとした穢らわしい感情が湧き上がってくる。
 結局、血を血で洗う、私が私を私で殴る会議は有意義な結論を導けないまま閉会した。
「では、続きはまた明日、同じ時間に」議長の私がそう言うと、それぞれの私が席をたった。苦悶の表情を浮かべながら自室に戻っていく私もいれば、しとしとと静かに涙を流す私、みさきさんの横顔の絵に祈りを捧げ続ける私もいた。
 私は手頃な私を連れて自室に戻った。自室にも当然、みさきさんの肖像画が飾られていた。麗しきみさきさんの顔を見ながら、私は連れ込んだ私とお互いの体をみさきさんの代理品にして慰めあった。簡易で手軽な快楽。(これが究極の自己愛の形なのかもしれない。)ああ、みさきさんっ……! その甘やかな唇でぷるりと、白く鋭い犬歯でかぷりとどうか私を……! 貴女の小ぶりな胸、細い腰、柔らかなお尻、滑らかな太腿、そのすべてに服従を誓います。隷属への欲求、自分の心を、世界を、支配されることの誘惑。額縁に収まったみさきさんの瞳は冷ややかに私を見下していて、その背徳感がさらに脳を掻き乱す。私はダメ人間ですっ……! 夢中になって自分の体を貪っていたせいで、その様子を自己客観視する私が扉の隙間から覗いているのに気が付かなかった。果てた後、冷静になって周囲を見回した私はそのことに気が付き非道い罪悪感と後悔に襲われた。みさきさんで自分を慰める行為とそのキモチワルサ、虚しさを自覚する。時間と引き換えに何を得たのだろう。惨めだ。きっと明日からは清らかな愛を、と誓った。けれど、愚かな私はこの気持ちをあっさり忘れて明日また慰みに興じるだろう。自分の意志の弱さ、怠惰さを思い知らされて私はさらに憂鬱な気持ちになった。

二日目

 恋って死人が出る。常に不安で、些細なことで心が引き裂かれそうになる。悪い方向に深読みして、勝手に傷ついて、諦めて。あーあ、嫌になっちゃう。枕を涙で濡らしているうちに、朝が来た。
 嵌め殺しの窓を叩く雨の衝撃はもはや昨日の比ではなかった。吹き荒れる風に館全体が軋んだ。心が非道く不安定になっている証だ。
 ノックの音がした。返事をすると館の主の私が飛び込んできた。「ちょっと来て!」そう言われて、私は部屋を飛び出した。
 着いた先は崇拝派の私の部屋だった。
  部屋の前には、自己客観視する私がいた。
「何かあったの?」
「今朝、崇拝派を起こそうとノックしたのですが、返事がなく……」
「そこに丁度私が通りがかって。中を確認しようとしたんだけれど、鍵が」館の主の言葉を自己客観視する私が継いだ。 
「いまだに崇拝派が出てこないの。返事もないし、体当たりで扉を壊すしかないわ、手伝って!」
 私と自己客観視する私の二人で体当たりを繰り返した。騒ぎを聞きつけた私たちも集まってきた。
 扉が開いた。
 部屋の中は酷い有様だった。崇拝派の私が自室の中央で、炸裂していた。身体は正中線に沿って真っ二つに引き裂かれていた。四肢はもがれ首も切断されていた。相当な殺意が感じられる。非道い、誰がこんなことを。残念、十中八九、私だ。私という密室の中で、私が私を殺したのだ。
 崇拝派の部屋も私の部屋と同様、窓は嵌め殺しになっていた。壁や床にも当然ながらなんの仕掛けもなく。そして、扉には鍵が掛かっていた。
「密室か」
「争った跡がないし、穏やかな死に顔をしている。よく知った仲の犯行じゃないか?」それはそうだ。犯人も被害者も私だ。
「でも、本当に私以外いないのかしら? 他の人格がいる可能性は? 念のため調べておいた方がいいんじゃない?」別の私の提案で島中を探索することになった。
 私たちは二班に別れ、館の内部と島の海岸沿いを調べることにした。私は、館の調査に割り当てられた。

 私は図書室へと入った。壁際の棚に向かう。棚の真ん中の段に置かれた英和辞典を手のひらで押すと奥まで差し込むことができた。カチリと何かが嵌る音がした。振動と騒音とともに本棚がスライドしていき、地下への階段が姿を現す。
 側壁で揺れる蝋燭の火が周囲を薄く照らしていた。階段を一歩一歩慎重に降りていく。足音だけが不気味に残響した。
 降りた先には地下牢があった。そこには、やはり私がいた。地下牢にいた私は一枚の肖像画を大切そうに抱きかかえていた。
 その私は地下牢から出てきて言った。
「一年ぶりね、私。私のこと忘れていたんじゃない?」
 私ははっとした。苦い思いがした。

 しばらくすると、海岸を調べに行っていた私たちも館へと戻ってきた。
「非道い嵐だったよ。館がバラバラになって吹き飛んでしまうかもしれない」
 嵐は激しさを増しているようだ。これはつまり、みさきさんの存在が私の中で肥大化していることの証だった。タイムリミットまではあまり時間が残されてはいないようだ。もって明日。心がバラバラになる前に結論を出さなければならない。
「これ、海岸に打ち上がってた」
 海岸を調べていた私が一匹の魚を持ち帰っていた。その魚は、鱗がでろでろに溶けていた。溶ける魚。読んでもいないのに、本のタイトルから安直な発想をしていた。自分の思考の浅はかさに悲しくなる。
「ていうか、そいつは?」
 海岸調査班の私が、地下牢の私に気づき、そう聞いてきた。
 「地下牢にいた」私は答えた。
 海岸の私は、地下牢の私が抱える肖像画に描かれた女性を凝視し、青ざめた。
「そ、その人はっ……!」
 肖像画はキュビズムのような画風で描かれていて、その輪郭はもはや原型をとどめていなかった。歳月の経過とともに自分の中でイメージが脚色されているのだ。
 描かれている人物は、みさきさんではなかった。過去の改竄が非道く、識別が難しかったが、黒崎朝奈さんだった。
「……黒崎さん、だよね? なんで……」苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら海岸の私が呟いた。
 朝奈さんとは高校二、三年の時クラスが一緒だった。しかし、何度か言葉を交わしたことがあるだけで特別に仲が良かったわけではない。大学進学で完全に離れ離れになっていたし、連絡先ももちろん知らなかった。そもそも、断じて好きだったとかではない。若気の至りというか、一過性の気の迷いというか、ただほんの少し、本当に少しだけ憧れていただけだ。好きってほどでもない。肖像画に残すほどの事でもない。そうだ、全然好きじゃなかった。
「みんな忘れてしまったの? でも、だって、みんなもあんなに好きだったじゃない!」
 その一言に場が凍りついた。あっ、こいつ死んだな。断罪確定。異教徒はすべて駆逐されるべし。その胸に抱いた偶像と共に闇に葬り去られることになるだろう。

***

 朝奈さんとは、席替えで一度だけ隣になったことがあり、その時期は少しだけ絡みがあった。
「ねぇ、隣の席になったのも何かの縁だしさあ⤴」朝奈さんの語尾が上がる。
「お昼にハンバーガー食べ行こうよ!」
「えっ。お昼? 授業は?」高校からハンバーガーチェーン店まではかなりの距離がある。
「さぼりー」
「放課後は?」
「ぶかつぅ! てか、今すぐ食べたい!」
 私は朝奈さんに導かれるまま授業をサボタージュした。初めての不良行為だった、それまで真面目に生きてきた私にとっては(実際は規則を破る度胸を持ち合わせていなかっただけのだが)。朝奈さんからすればただ道ずれが欲しかっただけなのかもしれない。しかし、朝奈さんに手を引かれながら私の胸はちょっとした非日常への期待で踊っていた。楽しいことが始まる、そんな予感がした。
 このように、朝奈さんは持ち前の無邪気さで私の心に土足どころか野球スパイクで上がり込んできた。そのくせ、夏の涼風の如くどこか爽やかさがあって憎めなかった。私にとって彼女は私の世界を照らす一筋の光だった。彼女との日々は、灰色の青春時代に色彩を与えてくれた。彼女は太陽で、私はその重力に捕らわれて公転する惑星みたいだった。
 しかし、次の席替えで離れ離れになるとなんとなく疎遠になってしまった。他の人達と楽しそうに会話する朝奈さんを見ていると心が細い針の先で撫ぜられたようにぞわぞわと痛んだ。私は見ないふりをすることにした。忘れたふりをすることにした。朝奈さんの隣で楽しげに笑う学友たちへの嫉妬で心がぐちゃぐちゃになってしまうから。(彼女の隣は私だけの席ではなかったのだ。)包丁の背で繰り返し心臓を叩き潰しているような感じがして辛いから。
 私は自分から話しかけることができなかった。ただ遠くから眺めていることを選んだ。話しかけてくれるのをただただ待っていた。言葉にしないくせに、気づいてほしいとばかり思っていた。手を伸ばすことをためらっているうちに、太陽は西に沈んでしまった。彼女にとっての私は、雨宿りのためにたまたま立ち寄っただけの公園みたいなものだ。お互いの認識の差に息が苦しくなる。私の世界を塗り替えたくせに。心が雑巾を絞るときのようにねじれ、どろどろと粘性の高い汚らしい感情の汁だけが垂れてきた。

***

 思い出したくもないことを思い出してしまった。もう叶うことのない終わった恋(確かにあれは恋だった、のだろう)。今度こそ、あんなに苦しい思いをしたくなかった。
 地下牢の私を除く全私が満場一致で地下牢への再幽閉を可決した。
「好きって気持ちはなかったことにはならないわ! みんな、自分の気持ちに蓋をして忘れた振りをしてるだけよ!!!」なおも、地下牢の私は叫び続けた。過激派の私が彼女を再び地下牢へとぶち込んだ。言うまでもなく、次の日、彼女は死体となって発見された。

 安全のため、大広間に全員で集まり夜を明かすことが提案され、賛成多数で可決された。
 しかし、ただひとり、「殺人犯(わたし)となんか一緒にいられるかよ。私は出ていく」と広間を出ていった私がいた。
 あっ、こいつも死んだな。悲しいかな、私が私自身から出ていくことなど不可能なのだ。私は私であることをやめることができない。私が私であるという苦しみ、地獄、罪。一生つき合っていくしかないのだ。

三日目/解答編
 
 この世の終わりかと思い違いするほどの轟音をたてながら風が吹き付けていた。降り注いだ雨は束となり島の大地を削りながら海へと流れ込んでいた。館も浸水が始まり、いよいよ終焉の時は近い。
 夜が明けると案の定、地下牢の私は2つに裂かれて死んでいた。それどころか、大広間のあちこちで私が炸裂していた。館の主、メイド、執事、詩人、絵描き、友情派、純情派、可愛さ余って憎さ百倍派、妄想派、忘却派、諦念派、過激派、日和見主義、悲観主義、見守りストーカー型、ヤンデレ型、挙げきれないほどの私が殺されていた。私から出ていこうとした私の死体も海岸に打ち上がっているのが確認された。
 大広間に残っていたのは、記憶媒体としての私と自己客観視する私と恋愛派の私だけだった。
 さてさて。
「この中に犯人がいます」
「な、なんだって!? 一体、誰が犯人なの? 教えてよ、私!」
「犯人は私よ」
「な、な、な、なんだってーー!?」
 案外脳内の私はノリが良かった。冗談はさておき。
 コホン、咳払いをひとつ。
「犯人は」
「犯人は……?」
「自己客観視する私よ」
「私? 根拠はあるよね私?」
「私は嘘をついていた」
「嘘?」
「そう、鍵がかかっているってね」
「どうして私しかいない世界で鍵をかける必要があるのかしら」
 現に自己客観視する私に覗かれた時も、館の主が部屋に飛び込んできた時も、地下牢から出てきた時も鍵はかかっていなかった。鍵なんて私だけの世界に必要ないのだ。
繰り返される自問自答、自己言及。
「自分で自分に嘘をついた」
「目を背けたくて。忘れたくて」
「とっさに嘘をついた」
しかし、目を背けた事実さえ、痛みを忘れようとしたことさえも自己客観視してしまう地獄。逃れられない苦しみの業火が心を灼いていた。
 自己客観視する私は議長としてすべての私を俯瞰し、最終的に一つ方針に、そしてたった一人の私に統一する義務がある。そのために、自分を否定し、否定し、否定し、――殺した。誰かを選ばなかったということは殺したのと同義だ。殺す痛み、殺される痛み、そのすべてを引き受けなければいけない。それは生き地獄だ。世の人誰しもがやっていることなのかもしれない。でも、簡単なことじゃない。だから、ごめんね私、つらい役目を押し付けて。ありがとう、私。私、頑張るから。
 自分のことを許して認めて。前を向こう。自己客観視する私は胸のつかえがとれたのか、泣いているような微笑みを浮かべていた。
 死体を含むすべての私が溶け合い、一人の私に収束する。自己客観視する私は恋愛派の私の意見を採択した。
 嵐は一時的な収まりをみせ、(当然恋の進捗によっては再び大いに荒れ狂うだろう)、洗われた空気の清々しさが胸を浸した。中空に太陽が浮かんでいる。今度こそ手を伸ばそう。

***

 まだ4月だというのに、日を追う毎に暑さは増していた。この温度上昇速度を維持して夏本番を迎えたら、世界中のすべての存在が溶けて混ざり合い一杯の具のないシチューになってしまうだろう。
 講義室に着き指定席となりつつある一番後の席に座った。みさきさんは、先に着席していた。溶ける魚を読んでいる。今日こそはそのバリアーを越えて話しかけよう。迷惑がられてしまうかもしれない。自分勝手かもしれない。
 それでも。それでも私は、貴女の夏に溶けたい。
「そ、その本……、お、お、おもしろいよ、ね、ね……」
 初めての会話としてはおよそ最悪だろう。実際、彼女の顔には戸惑いの表情が浮かんでいた。でも、仕方がない。下手くそなりに前に向かってもがくしかないのだ。情けなくとも、みっともなくとも。見ているだけの自分とはもうお別れしたのだから。
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