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咀嚼
1.幻想崩壊
しおりを挟む腹部を白く染めた液体が冷えていくのを感じながら、井戸の縁が切り取る青空を見上げていると。隣から布を裂く音が響きました。
人の下半身を白濁まみれにした獣は「すみませんでした」と繰り返しながら、裂いた自分のシャツで私の体を拭っています。
「すまないと思っているのなら、ここから出る方法を必死に考えなさい」
かすれた声で淡々と言い放つと、ジルは口を引き結んで俯きました。
匂いが消せないのは仕方ないとして、視覚的には身支度が整った後。すぐに起き上がり、地面に落ちていた衣服と靴を身に着けます。
「もう起きて平気なんですか?」
「何か勘違いしているみたいだけれど、あの程度何でもないわ」
当然強がりなどではありません。かつてお仕置きで、窒息するほど絶頂させられたこともあります。あの時は絶飲絶食させられたわけではなかったため、今の方が体力を消耗している気がしますが――辛くも懐かしい記憶を浮かべつつ、もう一度枯れ井戸のワンルームをぐるりと観察していると。
「あら? この壁……」
昨晩は薄暗くて気づかなかったのでしょうか。石壁の向こうから風が通っていて、隠し部屋のようなものが存在する気配がします。
こんなに明らかなものを、この私が見落とすはずないのですが――石壁の中でも一箇所、色が新しい場所を押すと。壁が傾き、奥へと繋がる道が現れました。
そういえばここの壁、昨晩は見ていません。この場所にはたしかジルが寄りかかっていて――。
「もしかして、わざと?」
ベッドに掛けたまま放心しているジルに、「知っていたのね出口のこと」と静かに声をかけると。彼は答えの代わりにため息を吐きだしました。
それでも繰り返し、「どうして?」と詰め寄ったところ。
「あのままここを出たら、もう会えない気がして」
視線を泳がせる彼に、今度はこちらが溜め息で応えることになりました。
「呆れた。人のこと『大っ嫌い』だなんて言っておいて。あなたが何を考えてるのか、もう全然分からないわ」
すると決心したように立ち上がったジルは、ゆっくりと隠し通路へ向かっていきました。
「この先にあるのは、正確には出口ではありません。キミに見せて良いものかずっと考えていました」
ジルが最初からこの隠し通路を知っていたということは、もしかしてここは食人鬼狩りに関する施設なのでしょうか。
湿った暗い穴をジルの後ろへ続いて歩くうちに、埋め込み式の天窓から陽が射す部屋へ到着しました。枯井戸の真下にあった部屋とは段違いに広く、地面にまで石畳が敷かれています。
「これを見せてしまったら、キミを巻き込まざるを得なくなるから」
薄暗い奥に並ぶ黒い箱――ジルが室内の石油ランプに明かりを灯したことで、それらが棺の形をしているとはっきりしました。
腐臭が薄いということは、中身は骨だけ――棺に入れられる前から、肉が処理されているのでしょう。そして最も注目すべき点は、棺の蓋に彫られている黎明教会のシンボルマークです。
「黎明教会の『暁』……?」
頭を打つ脈が視界を真っ赤に染め上げ、足元がふらつきました。差し伸べられた手を叩き落とし、「ここは何」と声を絞り出します。
「ここは食人鬼たちの墓。狩られた魔人病患者の霊廟です」
まさか教会が食人鬼狩りと関わっている、とでも言うのでしょうか。
ではノット叔父さまと聖女さまは、このことをご存知で――?
「そんな、どうして……」
視界をうごめく赤い点と黒い点が高速で行き交い、やがてプツリと弾け、暗闇と無音の世界が訪れました。
闇に浮かんでは消える光――それが遠くへ行ってしまわないうちに近づくと、何もない空間に屋敷のドアが現れました。
『ドアを開けてはいけませんよ、かわいい子』
どうして――?
『だってあなたは私が、私はあなたが欲しくなってしまうのだもの』
欲しくなるって――?
ドアの隙間へ手を差し込んだ瞬間。中指の第一関節が何かに噛み千切られました。痛みもなく、ただ驚愕だけが幼い身に残ります。
中にいるのはナニ――?
『私たちの体に棲むのは同じケモノ――――』
ドアの隙間を埋め尽くす眩い光に、思わず一歩下がったその時。すぐ耳元で、「フルーラ?」と高い声が響きました。
「ここは……」
視界がはっきりすると。清潔なベッドの上で、見たことのある顔に囲まれています。
「教会の女子部屋だよ。フルーラ大丈夫?」
一番年長の穏やかな子に差しだされた水入りのコップを横目に、「ジルは?」と起き上がると。
「ジル兄ならもうとっくに帰ったよ。半日以上寝たきりだったんだからね、フルーラは」
半日――すると今は夜でしょうか。
いただいた水を飲み干し、立ち上がろうとしたところ。「まだベッドから出ちゃダメよ」、と水をくれた彼女に肩を止められました。
たしかにまだベッドから出ない方が正解だったようです。今スカートの下に履いているのは、破かれた下着とストッキングだけでしたから。
「神父ビショップからの言伝、『家には連絡してあります。目が覚めてもゆっくり休んで、明日一緒にディナーを摂りましょう』だって」
そういえば、本来は今夜が『特別なディナー』の日でした。
言われた通り力を抜き、再びベッドへ横になると。
「それでフルーラ、ジル兄とはどういう関係なの?」
次に古株の活発な子が、ニヤニヤとこちらを見下ろしてきました。
「あっ、寝たままでいいから。一緒にいて倒れちゃったってジル兄が言ってたらしいんだけど、前の晩はフルーラが家に帰ってなかったってのも聞いちゃって」
「あなた、またビショップの電話を盗み聞きしたのね」
「ビショップにバレない気配の消し方、フルーラが教えてくれたんじゃない!」
まぁその通りですが。
夜は僧兵として働くこの子たちの身の安全のために教えた技術を、こういうことに役立てるようになるなんて――自身を棚に上げて呆れていると。
「フルーラとジル兄が教会で話してるところ、1回も見たことないのに! どうやって仲良くなったの?」
活発な彼女だけでなく、さらに幼い年下のシスターたちまでベッドの縁を埋め尽くすように詰め寄ってきます。
「あなたたち、もう消灯の時間でしょう? いい加減自分のベッドへ……あら?」
ひとりだけ、部屋の隅で膝を抱えている子を発見しました。年は4歳ほどでしょうか。
「あの子はどうしたの?」と尋ねると。
「チビちゃんはジルがお気に入りだったから、フルーラにとられたと思って拗ねているだけ」
年長の子が小さく笑うと、2段ベッドの上で本を読んでいたおさげの子が、逆さまになってこちらへ顔を出しました。
「マルクも似たような理由で拗ねてるよ」
「マルク?」と訊き返すと。
「フルーラがジルにとられたと思ってる。ほら最近ウチに来た、生意気で元気な子」
ひとりの顔が浮かび、思わずふっと笑ってしまいました。
「あぁ、あの面白い子ね」
養子に迎えたいと半分本気で思った、将来有望な彼――確か野菜の皮むきを教えるのが途中になっていました。
「ね、それで真相は?」
「ひと晩一緒に過ごしたってことは恋人同士なんでしょ? どんなことしたの?」
恋人――そういえばそんな契約になっていたと思いつつ、第一印象から変わり果てた彼の顔を頭に浮かべました。
以前ならば恋人契約の信憑性を深めるため、嘘をスラスラと口にできたでしょうけれど――今は作り話をすることすら、ためらわれます。
まさか彼が本当に食人鬼狩りだったなんて。
「あら……?」
ふと我に返り、「なぜ私が落胆しているのか」と自問しました。彼がこちらの思想と相反する組織所属の「敵」だったからといって、なぜ。
「ねぇねぇ、今後いい人ができた時の参考にしたいの! 何したのか教えて~」
「そうね。ちょっとした戯れと殺し合いかしら」
脳から口を直結させて答えると、知りたがりの彼女たちはしんとして顔を見合わせました。
「彼女疲れているんだわ。もう寝かせてあげましょ」
「そう? いつものフルーラだと思うけど。でもさっきまで気絶してたんだし、これ以上はやめておこうか」
おませな彼女たちは、やっと各自の部屋とベッドへ戻っていきました。
「夜の任務でいない」という子のベッドにこのまま寝かせてもらうことになりましたが。2台の2段ベッドに固まって寝る6人の寝息が全員分聞えてきた頃、そっとベッドを抜け出しました。
まだふらつく足元に構わず聖女さまの部屋へ赴くも、中には誰の気配もありません。いくらシスターとはいえ、患者である彼女に夜の任務は割り振られないはずですが――もしかすると礼拝堂でしょうか。
寝付けない時は夜の礼拝へ赴くと、聖女さまは以前教えてくださいました。
「シスター?」
広い礼拝堂の中には誰の姿もありませんが、つい最近人が通った痕跡がかすかにあります。
地下講堂に誰かいらっしゃるのでしょうか、と首を捻ったその時。今日は本来、2週に一度の『特別なディナー』の日だと思い至りました。するとシスター・アグネスとノット叔父さまが、私抜きで予定通りディナーを開催していらっしゃるのでしょう。
石段を降りていくと、そこには確かに人影があります。ですが「シ……」と声をかけようとした口をとっさに噤みました。
不規則に加速する吐息、激しい水音――いつもの食卓は、明らかな「異常」で満ちていたのです。
初めて目にする、獣の眼光を宿した叔父さまの横顔。そしてテーブルクロスの上に押し倒された聖女さま。黒の法衣を乱され露出した細腕には、白く鋭い歯が食い込んでいました。
これは情事――ではなく捕食?
純白のクロスが赤く染まっていく中。想像の中でしか聞いたことのない、聖女さまの苦しげな吐息で我に返りました。
まさか同じ『美食家』であるノット叔父さまが、禁断衝動を抑えきれず暴走したのでしょうか――すぐに部屋へ突入しようとしましたが、足が床へ根差してしまったかのように動きません。
シスター・アグネスは抵抗するどころか、むしろ叔父さまを自ら引き寄せたのです。厳格かつ清廉な祭服のボタンを外し、食べ応えのありそうな肩にかぶりついていらっしゃいます。
相互捕食、いえ、近寄るものを威圧するほどの愛憎を感じる行為――ささいな視線の交わし方と互いを思い遣る短い言葉で、2人とも正気なのだと分かってしまいます。
望んで互いの肉を貪っているとでもいうのでしょうか――間に入っていくことができないまま、柱の陰で必死に息を整えました。
「ノット、もうおしまいです。これ以上は私が耐えられません」
シスターの血肉を咀嚼し終えた叔父さまは、荒々しく口を拭うと。
「ロリッサ……愛しています。この先あなたと私がどうなろうと、永遠に」
制止するシスターを半ば強引に引き寄せた彼は、血に濡れた彼女の唇へ同じ色の唇を重ねました。
聞き覚えのあるその名は、たしか晩餐会の夜にモア叔父さまが――記憶を呼び起こす間もなく、最初は抵抗していたシスターがためらいを解き、深い口づけを受け入れました。
妬み、衝撃、憎しみ、羨望――分類不能の感情が体中に渦巻き、「あの唇は私のものだったのに」というワケの分からない焦燥が頭に浮かびます。
「これ以上は耐えられない」と頭より先に体が理解したのか、気がついた時には礼拝堂の外を駆けていました。
石段を昇る時、きちんと音を消せていたのでしょうか。心臓があり得ないほどの速度で跳ね回り、呼吸がまったく整いません。
「どうして――」
止まらない足をそのまま走らせ急斜面の崖を下り、小さな入り江の浜辺に降り立ちました。砂に足をとられ何度も転びつつも、震える腕で起き上がり、冷たく暗い海に足をさらします。
波の音も潮風の音も聞こえません。耳に残っている咀嚼の音がおぞましくて、妬ましくて――。
「どうして……?」
信頼する叔父さま、愛すべき聖女さま。
2人があのような関係なんて、この5年間まったく知りませんでした。
「あれは食人衝動? いいえ――」
自らの意思で肉を貪り合う「獣」。
私たち魔人病の因子をもつ人間にとって、人肉食は「人」として生きるために必要な行為。
それでもどうして。
どうしてどうしてどうして――!
私は我慢してきたというのに。
どれだけ彼女の肉が眩しく感じたことか。
それなのに叔父さまは――。
行き場のない拳を波へ打ち付け、歯を噛みしめたその時。
『お前も「獣」じゃないか』、と誰かの声が反響しました。
「私は――」
人。
獣でも怪物でもない、ちょっと厄介な特性をもって生まれただけの人間――早く「完全な人間」になるための方法を見つけなければならないというのに。聖女さまを救うため、聖母草の亜種を探し出さなければならないのに。
「そうよ……聖女さまが治れば」
叔父さまの肉を貪る必要もなければ、きっとあんな裏切りを見ることも2度とないでしょう。今どんなに汚れていようと、聖女さまは清らかに戻られるはずです。
ドアの向こうの母のように――。
足の感覚がまだ残っているうちに陸へ引き返し、漂流物だらけの砂浜へ仰向けに寝転がりました。砂をさらっていく波の音を聞きながら、新月に手を伸ばします。
「そう、私は私のやるべきことをやるだけ」
家族のこと、食人鬼狩り、恋人契約を結ぶ彼――よそ事に心を乱されている場合ではありません。
『聖女さまを救うこと』。
忌むべき病の治療法を探すことこそが、最も優先されるべき事柄なのですから。
応援ありがとうございます!
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