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芳香
狩人の受難:2.潔い懴悔
しおりを挟む安息日に家族全員で教会を訪れる――そんな日常が帰ってきても、見聞旅行の凄まじい思い出が色褪せることはありませんでした。
船室での不道徳な行為に重ね、合宿先からの逃走、異民族キャンプ地への侵入、謹慎中の着衣遊泳――挙げるとキリがありません。
「どうしたジル? もう礼拝は終わったが」
「え?」と義父の声に顔を上げると。神父ノットは降段し、周囲の参拝者は続々と席を立っているところでした。
「ジルは旅行帰りで疲れているんですよ、あなた」
隣の義母が微笑む横で、義妹のレアはビショップ・ノットの姿に夢中になっています。
ビショップ本人は気づいていませんが――あの容姿で穏やかな性格かつ独身という点が、まだ白タイの義妹世代から年配のご婦人にまでウケているそうなのです。
おそらく義妹が大人しく礼拝について来ているのは、ビショップを眺めることが目的なのでしょう。
「あ、あの……久しぶりに本堂の兄弟たちと会ってきても良いでしょうか?」
養子入りした身で、こんなことを申し出るのは義家族に悪いと理解しています。それでも、自分を必要としてくれる場所へ帰りたいと思う気持ちが止められないのです。
義父はいつもの通り、快く「構わないよ」と言ってくれましたが。義母は寂しげに微笑むだけでした。
「今夜はお兄さまの好きな肉だそうよ。ディナーまでに帰らないと、私がお兄さまの分も食べてしまいますからね」
レアなら本当に食べそうだと思いつつ、先に帰る義家族を門前まで見送りました。
「お帰りなさい、ジル」
本堂のリビングで1番先に顔を合わせたのは、シスター・アグネスでした。こちらを見るなり抱きしめられ、少しためらいつつも抱きしめ返すと。古くから知っている他のシスターやブラザーもこちらへ寄ってきます。
「ジル兄久しぶり! 遊びに来てくれたんだ」
「ねぇジル兄、昔みたいにアレ作ってよ。オレたちクッキーくらいしか焼けないからさ」
アレ――といえば、例のタルトのことでしょうか。
「シスター・アグネスはオーブン爆発させちゃうしね」
「それはだいぶ前の話でしょう! ジル……ノットには内密に。まだバレていない話なので」
シスター・アグネスが少しも変わっていないことに安堵しつつ、「菓子作りはもう何年もしていません」と断ろうとすると。
「お貴族さまの家だと料理しないから、作り方忘れちゃったんだよきっと」
そう囁かれ、思わず「作る」と言ってしまいました。
アレといえばクルミのタルトです。森が近ければ、もっと色々な種や実を入れられるのですが。
「いつものよりすっごくおいしい」と好評をもらえたため、作った甲斐はあったようです。兄弟たちに囲まれ、食べこぼす幼い子どもたちの世話を焼いていると、やはりここでの時間が一番落ち着くと実感します。
ここでは誰かの代わりではなく、「自分」を求めてくれる人たちがいるから――。
新しい顔の子どもたちに「遊んで」とあちらこちらへ連れまわされていると、昔は自分の位置にシスター・アグネスがいたことを思い出します。
「なぁオマエ、『きしごっこ』しようぜ」
これまた新顔の男の子が、こちらに古新聞紙を丸めて作った剣を差しだしてきました。
周りの子に「マルク」と呼ばれている彼は、なかなか腕に自信があるようです。手加減しつつも同じ目線で遊んでいると。ついには「オマエでかいくせに弱いな!」と言われてしまいました。
「ジル、面倒を見てくれてありがとう。そろそろ小さな子たちをお昼寝させるわ」
「僕も手伝います」
シスター・アグネスと一緒に子どもたちを寝かしつけてから、ひとりで本堂をこっそり抜け出し礼拝堂へ向かいました。
「本堂の兄弟たちと会いたい」――義父に言ったことは事実ですが。1番の目的は、この夕刻に礼拝堂へ向かうことです。
午後の礼拝を終えた人たちとすれ違いで中へ入り、全員が退室したのを見届けた後。ひとり残ったところで、懺悔室のドアを叩きました。
「ようこそ迷えるお方。ここでお話しされたことは、神のみが知ること。私はただ神の代理として耳をお貸しするだけですからご安心ください」
きっと初めての来訪者だと思ったのでしょう。ビショップの言葉を静かに聞いた後。小さなドアの内側にあるイスへ腰かけ、「よろしくお願いします」と声をかけると。
「……ご安心ください。どなたであれ、ここでのプライベートはすべて黙秘されます」
たとえ顔は見えなくとも、さすがに声で気づかれたようです。
「では……『見てはいけないものを見てしまった』話を、どうか聞いてください」
このようなことを身内同然のビショップへお話しするのは、どうにも抵抗があるのですが。それでも、この礼拝堂で彼女がしていた「秘め事」は、自分ひとりの胸に留めるにはあまりに大きすぎます。
「名は伏せますが。半年ほど前の夕立の日、ある方が礼拝堂……すぐそこの席で、その……」
そのある方――フルーラ・マダーマムは「なぜ私を見かけると逃げていたのですか?」、「まだ何か隠していますよね?」と執拗に追求してきますが、こんなことを本人に話せるはずがありません。
「いわゆる……自慰をしていたのです」
やっとのことで吐き出すと、奥の方から強めの咳払いが聞こえてきました。中断すべきかと問いかけましたが、格子壁の向こうからは「すみません、続けて」と返ってきます。
「はい。外は豪雨だったとはいえ、こんないつ誰に見られるかも分からない場所で彼女は……ええと、服を着たまま自分の体を触ることに夢中になっていて。雨宿りに寄った僕はすぐ立ち去れば良かったものを、動けず最後まで見てしまって」
彼女の今の態度を見る限り、見ていたことには気づいていないのでしょう。
普段こちらを見下げる鋭い瞳は快楽に濡れ、自信に満ちた声色は上擦った甘い声に変わり――あの時のことを思い出すと、全身の血が沸騰したかのように熱くなります。そして最も忘れられなかったのが、彼女が行為の最中に時折口にしていた名です。
「彼女は、とあるシスターの名を口にしていたのですが」
粘膜を擦る指の音、苦し気な息遣い――そのすべてがシスター・アグネスに捧げられていたのだと確信したのは、合宿先を抜け出した夜。それでも以前から、彼女がシスターを見つめる特別な視線には気づいていました。
それなのに自分は、彼女の秘め事を目撃してからというものの。彼女の仕掛ける接触には抵抗できず、「いけない」と分かっているのに触れたくなってしまう――。
「あの。そこまで鮮明に詳細を語らなくてよろしい」
「あ……す、すみません! でも全部を吐き出さないと頭がおかしくなりそうで」
「それで、あなたは『見てしまった』ことを赦されたいと?」
呆れ混じりの問いかけに、「まぁ」と曖昧に返してしまいました。
「……確かに告解は果たされました。神の御名のもと、あなたの罪を赦しましょう」
今本当に問題なのは、ビショップと同じ神父を目指す身でありながら、彼女の誘惑を跳ね除けられないことなのですが。
「さてジル、少し私の部屋で休憩しませんか? 話したいことがあるので」
いつの間にか懺悔室の奥から出てきていたビショップに促され、お顔を見られないまま本堂へ移動しました。話したいこととは、まさか――今の話について追及されるのでしょうか。神父と信者としてではなく、父と子のような関係として。
「昼間は子どもたちの相手をして疲れたでしょう。どうぞ」
ティーセットのあるテーブルに着くよう促されたものの。まだビショップの方を見られそうにありません。
「……ビショップこそ、毎日大変お疲れでしょう。僕に構わず休んでください」
「お気遣いありがとうございます」といつもの調子で窓辺に腰かけたビショップは、深い青の瞳に海を映しています。
「ここは昔から変わらないんですよ。私の前任が行き場のない子どもたちの受け入れを始めて、私もそれに倣っているだけですが」
「話したいこと」とは懺悔の内容に関することではなかったのでしょうか。
ほっと息をついてビショップを見上げると、彼はまだ海を眺めていました。
「でも、そのおかげで僕は今こうして生きています。すべてあなたのおかげです……ノットさん」
血に塗れた自分に向けて、ためらいなく手を差し伸べてくれた12年前の彼――。
「あの日のことは忘れない。一生かけても返しきれない恩を、僕は少しでもお返しできているのでしょうか」
「ええ。あなたには感謝しています。同時に申し訳なくも思っていますが」
するとビショップはこちらを振り返り、「養子に出してようやく解放できると思ったのに」と呟きました。
返す言葉が見つからないまま、床に視線を逸らしていると。この重苦しい空気を打破する話題がひとつ浮かびました。
「また『彼』の話をしてくださいませんか? ビショップが神父を目指した理由は彼の影響だとお聞きしたのに、いつも途中になっている気がして」
「まだ神父になることを諦めていないのですか?」
「はい。やはりここが、僕の本当の居場所なんです」
影を帯びたビショップの碧眼を真っすぐ見つめていると。やがて彼は深いため息とともに「どこまで話しましたか」、と口元を手で隠しました。
「たしか、私が敬愛していた彼が、どのような経歴の持ち主だったのかはお話ししましたね」
「ええ。医師の息子で、神学校では非常に優秀な人物として将来を期待されていたと」
「彼は今の私よりも5つ若い歳で、すでにビショップの地位へ就いていました。そして今日お話しするのは、『彼と私』のことです」
まず語り始めたのは、自分もよく知るビショップの『特性』についてでした。
「私が生まれながらに授かった特性――『美食家』。我が家の専属医フィル氏の紹介で出会った彼は、そんな私を理解するために自らも同じになろうとした」
「それはつまり、『例の肉』を……」
「ええ。当時15歳、厄介な特性のために孤独を感じていた私は、彼に深く感銘を受けました。ですがその代償に、特性のない彼は魔人病を患ってしまった」
思わず息を呑んだ瞬間、ビショップの瞳がためらいに揺れました。それでも先を促すと、「15年前のことですが」と続けます。
「恐るべき事件が起きたのです……と。今日はここまでにしておきましょうか」
「えっ……ちょっと早くないですか? もう少し話してくださっても」
「もうひとつ、話しておかなければならないことがあるものですから」
「むしろ今回呼び出したのはこの話がメイン」と言うビショップに首を傾げると。カーテンを閉めた彼は、正面のイスに背筋を伸ばして着席しました。
「姪と友達になったそうですね」
「姪」――つまりマダーマム家の、ということですからフルーラ・マダーマムのことに違いありません。ですが、なぜ友達になったということになっているのでしょうか。
まさか先ほどの懺悔で話した「ある方」が彼女のことだとバレて――。
「見聞旅行中、一緒に宿泊地から脱走したと聞きました」
少しだけほっとする半面、肌がひりつくような威圧に気が引き締められました。
ビショップは笑っていますが、これは良くない笑みです。
「別にあなたを責めているわけではありません。どうせあの子が強引に協力させたのでしょう?」
さすが叔父、お見通しのようです。それでも頷けずにいると。
「嫌なことは遠慮せずに断りなさい。普段のあなたは、心配になるほど大人しいのですから」
「はぁ……」
「関わるなとは言いませんが、気をつけることです。あの子は聡いと、一緒にいて分かったのではありませんか?」
それはもう、嫌というほど実感している最中です。
十分納得できる弁解を話したにもかかわらず、彼女はまだ執拗に「あの日の夜、本当は何をしていたのか?」と追及してくるのですから。
「はい、その点は気をつけます」
すると張りつめた空気から一変、「それで、どういう経緯で知り合いに?」とビショップは体ごとこちらを向きました。
「先々週の天体観測会で」と正直に答えたものの。これ以上のこと――恋人契約のことをうっかり口にすれば、いったいどんな叱責を受けることになるか。
その後もビショップの追及は続きましたが、何とかかわし続けていると。
「そろそろ日が暮れてきましたね」
「あ……帰らないと」
助け船とばかりに席を立ち、挨拶もそこそこに退室しようとしたところ。
「ジル。次はあなたの『故郷』でしたね。お忘れなく」
故郷――そういえば、次の狩場はそうでした。
たとえ慣れた場所だとしても、油断は禁物です。
「はい……ビショップ・ノット」
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