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芳香
4.聖女に赤花を
しおりを挟む「この血の持ち主に魔人病因子はなかったよ~」
見聞旅行から帰って真っ先にお会いしたドクター・フィルの報告に、また分からなくなってしまいました。
イーストエンドで食人鬼狩りと鉢合わせた夜、もし2人の食人鬼がいたとすれば――と、食人鬼狩りがジルをも狙った理由を考えてみたのですが。彼があの夜イーストエンドを徘徊していた理由は、本当に天体観測のためだったのでしょうか。
「それでフルーラ君、聖母草の亜種について収穫はあった? シャーマンと直接話せたんでしょ」
「それは……手記にまとめている途中ですから、ひと段落したらご報告させていただきます」
ごめんなさい、ドクター。旅行先で得られた成果は、愛すべき聖女さまへ真っ先に報告すると決めていたのです。
ひとまず用件が済んだところで、今日のところはお暇することにしました。日が暮れる前に海辺の教会を訪ねることになっていましたから。
「あら、あなたは確か――」
教会暮らしの子どもたちが厨房で夕飯づくりをする中に、前回の青空教室で知り合った坊や(確かマルコ? といいましたか)の顔がありました。こちらを見るなり「げっ」と顔を逸らした彼は、危なげな手つきで芋の実ごと皮を剥いています。
「なんだよ。オレがここにいちゃワルいのか?」
「そんな切り方だと、可食部が半分ほどゴミになるわよ」
自前のよく研いだナイフを出し、ひとつお手本を見せて差し上げると。素直に歓声を上げる彼は、何とか真似をしてやってみようと次の芋を取りました。
「そう、悪くないわね。さすが私の見込んだ子だわ」
「みこんだ? なぁ、こっちのニンジンもどうやって切るのか教えろよ」
お口や態度は矯正する必要がありそうですが、意欲はあって飲み込みも早い――やはり将来有望な子です。ですが私との歳の差はせいぜい7つ程度ですから、将来養子に迎えるには歳が近すぎるでしょう。
「できた! 次はコレなんだけど」
「フルーラ」
背後からの声に振り返ると。子どもたちに両手を掴まれたノット叔父さまが、厨房の出入り口に立っていらっしゃいます。
「屋敷の方には連絡しておきました。今夜は『特別なディナー』の日だから遅くなる、と」
「ありがとうノット叔父さま」
「さぁ、こちらへ」
可愛らしくも「まだぜんぶ教えてもらってないのに」と口を尖らせるマルコに「また今度」と告げ、叔父さまの後へと続きました。
「シスター・アグネスは? まだ姿を見ていないのだけれど、体調が優れないの?」
「大丈夫ですよ。先にテーブルセッティングをしてくれていただけですから」
子どもたちの生活する本堂を離れ、礼拝堂の懺悔室――さらにその下の隠し階段を降り、たどり着いたのは広々とした地下講堂です。
明かりが灯る古めかしい講堂の中央に、ポツンと大きめの円卓がひとつ。それを囲むようにして、三脚のイスが並べられています。聖女さまはちょうど、テーブルクロスを引き終えたところでした。
「いらっしゃいフルーラ。あなたが旅行から帰って来るのを楽しみに待っていたわ」
「ご機嫌よう、シスター。お土産はたくさんあるのだけれど、まずは土産話からですね」
1週間と1日ぶりにお会いする聖女さまは、純白のテーブルクロスにスープとサラダ、『例の肉』の皿を並べていらっしゃいました。
2週に1度、この3人だけの「特別なディナー」――憂鬱でもあり楽しみでもあるこの時間は、私たち3人の生命線でもあります。吐き気がするような肉の晩餐が辛うじて楽しみと感じられるのは、一緒に食卓を囲むメンバーが敬愛する叔父と愛すべき聖女さまだからでしょう。
「それでは皆さん。食卓につき、我らが神への祈りを捧げましょう」
黎明教会のシンボルである『暁』――その眩いお姿が描かれたステンドグラスへ祈りをささげるのも、最初は違和感だらけでしたが。通過儀礼だと呑み込めば、こうして数分黙とうを続けることにも慣れてきました。
「贄への感謝を……では始めましょうか。フルーラ、ドクター・フィルから連絡を受け、あなたの分は増量してありますから」
「そう。まぁ、鼻をつまむ回数が増えただけと思えば耐えられるわ」
円卓の中心に鎮座する燭台のロウソクは、3本ともすでに半分ほど減っていました。食事を秘密裏に運搬、セットするまでに、聖女さまがこれほどの時間を費やしてくださったのでしょう。
そのような食事なら味わって食べたいものです――これが『例の肉』でなければ。
風味が分からないよう息を止めながら咀嚼し、少し大きめの塊を飲み込む作業。それでもこの肉が体へ入ることに満足を感じるのは、私が完全な人間ではなく『獣』側に足を踏み入れている証――。
「フルーラ、さっそく見聞旅行の話を聞かせてちょうだい」
「ええ、喜んで」
そうでした。さっそく新しい希望について、聖女さまへ報告しなければ。
まずは港のリゾート地から大脱走を繰り広げたところからお話ししましょう。
「異民族のキャンプ地に子どもだけで!? まったくこの子は、なんて危ないことを」
「最悪、一般人2人を守りながら逃げることくらいできたわ。相手は戦闘のプロではないのですから」
「あなたには誰かを守りながら戦った経験などないでしょう? 口では簡単に言えますが――」
案の定、ノット叔父さまはお怒りになりましたが。冒険譚がお好みの聖女さまは、心配なさいつつも目を輝かせていらっしゃいます。
「まぁ良いじゃないですかビショップ、こうして全員無事に戻ったのですから。それで? 異国のシャーマンからどんな話を聞いたの?」
ようやく、まだドクター・フィルにも報告していない「希望」についてお話しする時がやってきました。
魔人病の治療に対し、より効果が期待できる聖母草の亜種がこの国にあるかもしれないと語ったところ。
「そう。まだ希望があるのね」
またあの影です。励ましの言葉をおかけしても、具体的な希望を示したとしても、シスター・アグネスのお顔に射す陰り――。
「希望はあります。ですから諦めないで」
ナイフを握るアグネスの手に、自身の左手を添えると。同じくらいの大きさの手は、地下礼拝の空気よりも冷えていました。
「……冷める前に食べなさい。鮮度が落ちれば臭いがきつくなります」
「ちゃんとした薬ができれば、ノット叔父さまだって、もうこんな食事をする必要はなくなるんです。だから私は――」
「フルーラ。今は食べなさい」
叔父さまも私と同じなのに――マダーマム家の業を背負った、この気持ちを共有できる唯一の家族だというのに。
元魔人病研究者として、確信のない希望を話すことがお嫌いなのかでしょうか。叔父さまは魔人病の治療について話題を振ると、毎回どうも素っ気なくなるのです。
「それで話の続きだけれど。一緒に抜け出したお友だちはどんな方々なの?」
重苦しくなった空気を浄化するように、聖女さまの明るい声が響きました。
「フルーラが学校の誰かの話をするなんて、初めてじゃあないかしら。ねぇビショップ?」
同意を求めるシスターに「そうですね」と返す叔父さまは、まだ不機嫌なご様子です。
普段は教会の神父として常に笑っていらっしゃる叔父さまがこういった負の感情を見せるのは、以前より私たち2人の前だけでなのですが。
「お友だちっていうか……そうですね。お名前は――」
ジルの名前を口に出そうとした瞬間。胸が細身のナイフで刺されたときのように痛みました。
この名を出せば、シスター・アグネスはどのような反応をなさるのか。想像しただけで痛みが増幅します。それでも深く息を吸い、「ジェルベ・ハーモニア」と呟くと。
「えぇ!? ジェルベ? それって……ビショップ、ジルのことに違いないですよね?」
予想以上の温かい笑みを浮かべるシスターの横で、叔父さまは意外にも目を丸くしていらっしゃいます。
「ジェルベと知り合ったのですか? 教会では一度も話したことがなかったのに?」
「ええ、ちょっとした偶然でね。ハーモニア家へ養子に入る前、この教会で育ったって聞いたわ」
やはり本人の言葉通り、彼はここで濃密な時間を過ごしたのでしょう。
「ジルとは長い間一緒に暮らしたから、養子に行ってしまった時は寂しかったわ」
シスターの言葉に、理不尽と分かっていながらも苦いものが込み上げます。どうにもならない、くだらない嫉妬だと分かっていても。自分の知らない多くの時間を聖女さまとジルが過ごしてきた――そう考えるだけで、自身の孤独な記憶がよみがえってしまうのです。
屋敷のドア越しに語りかけてくださり、時にはドアの隙間からロリポップを与えてくださった「彼女」――実母と過ごした日々のことを。
お顔はぼんやりとしか覚えていません。結局物心がついてからは一度も姿を見ることなく、母は屋敷からいなくなってしまいました。
「フルーラ、そろそろ屋敷へ迎えを呼びます。良いですね?」
「え? ええ……お願いします」
あらかた食器を片付け終えた後。聖女さまに別れを告げ、迎えの車が来る丘の下まで叔父さまと降りて行きました。
冷たい潮風が、叔父さまの黒い祭服の裾をさらって吹き抜けていきます。
「ノット叔父さまはもうお戻りください。夜の海風は体に毒です」
「こんな暗い中、子どもを独りで待たせるわけないでしょう」
星を見上げながらおっしゃる叔父さまに、「もう子どもじゃないわ」と反論するも。
「いいえ、あなたは子どもですよ」
叔父さまは膝を折り、私と目線の高さを合わせてくださいました。
「本来は大人に守られるべき、ほんの子どもなんです」
「ノット叔父さま?」
星の光を映した碧眼に影がかかったその時――ゾクッとするような戦慄に背筋が震えました。
潮風のせいではないでしょう。時折、ノット叔父さまからこういう目を向けられた時にだけ思い出す、暗く沈んだ瞳のせいに違いありません。
そっと手を伸ばして叔父さまの頭を抱きしめ、「疲れているの?」と尋ねたところ。叔父さまは何もおっしゃらずに背中へ手を回してくださいました。
神父として海辺の教会を仕切りながらも、行き場のない子どもたちを僧兵として育てる1番目の叔父さま――かく言う私自身も、幼少期は叔父さまから戦闘の訓練を受けました。義理の叔父と姪ではありますが、こういう関係を師弟というのでしょうか。
「叔父さまが家を出たって、私たちは家族よ。血の繋がりは薄いけれど、それでも家族なの」
少しだけ腕を緩め、お顔を覗くと。水底のように沈んでいた瞳にかすかな光が戻りました。
「あなたは母親に似ています。心根までリアンに似なくて良かった」
「え……?」
「面白いか、面白くないか」で世の中のすべてを判断している義父のことを、叔父さまたちが遠巻きにしていることは存じていましたが。実母の話を家族の口から聞くのは初めてです。
「お母さまと交流があったの?」
「……ええ。純粋で、無垢で、真っすぐな娘でした」
母のことについて「もっと聞かせて」とお願いしましたが。叔父さまはそれ以上答えてくださいません。ただ「今でも母に会いたいと思いますか?」と少し震えた声で尋ねられました。
愛してくださる義理の家族に申し訳ない気持ち、聖女さまが与えてくださる温かさへの満足感――その他判別不能の感情が混ざり合い、「会ってみたい」と言いかけた喉を塞いでしまいます。
「今更会っても、何をお話すればいいのか分からないわ」
やっと口を突いて出た言葉に、ノット叔父さまは深いため息で応えました。どこか安心したように目を細め、「そうですか」と背中に回っている腕へ力が込められます。
「ねぇ叔父さま。いつか、『美食家』である自分の血を後世へ残すつもりはないっておっしゃっていたでしょう。私もそのつもりなのだけれど……叔父さまがご結婚されないのはそれが理由なの? それとも教会の古い教えに従っているから?」
「それは……」
たくましい腕の力が緩み、向き合った碧眼には再び暗い影が落ちていました。
非常に答えにくいことを尋ている自覚はありますが――それでも粘っているうちに、迎えの車が来てしまいました。
「フルーラさま、お迎えに上がりま――」
車から降りてきたマチルダは、こちらを見た瞬間顔をしかめました。理由はだいたい予想がつきますが。
「フルーラさまから離れてください……2番目のお方」
もの凄い力で叔父さまと引き剥がされたかと思うと、マチルダの細身ながらも強靭な腕に捕らえられてしまいました。
まったく、彼女の悪い癖がまた発動しています。
「本当にあなたは、昔から私を嫌っていますよね」
「いくら家族とはいえ、フルーラさまはもう立派な淑女です。ベタベタされると困ります」
私からハグをしたのだと説明しても、当然マチルダは耳を貸しません。半ば無理矢理手を引かれ、車の後部座席へ詰め込まれる直前。
「いつか本当に美味しいディナーを囲みましょう、叔父さま。そのために私、必死に研究するわ」
何とかそれだけをお伝えしたところ。叔父さまは寂しげな笑顔を浮かべ、無言のまま手を振り返してくださいました。
車が走り出した後も、マチルダはいつもの「無」を捨て、イライラした気を放っています。
「フルーラさま……あの方は当家の崇高なる家業を放棄し、黎明教会に魂を売った裏切り者です。平民の仕立て屋に弟子入りして出て行かれた4番目のお方よりも、遥かに質が悪いと思いませんか?」
「それはマチルダが思っているだけよ」
過去に何があったのかは知りませんが、マチルダはとりわけノット叔父さまを目の敵にしています。
「あの屋敷に収まっていなくたって、どこにいてもマダーマム家の人間に違いないわ」
「だからノット叔父さまを悪く言うのはやめなさい」、と厳しい口調でマチルダを見上げると。急激に熱の冷めたマチルダは、「申し訳ございませんでした」と俯きました。
ですが少しも経たないうちに、「そういえば」と普段の調子に戻ったのです。
「先ほど、3番目のお方がお戻りになりました」
「え? 3番目って」
「お顔を拝見するのは私も10年ぶりでしょうか。当分の間お屋敷へ滞在するそうです」
家系図や学校の禁書で、名前だけを存じている2番目の叔父さま。ノット叔父さまとモア叔父さまの間にいらっしゃるご兄弟――アール・マダーマム。
「いったいどのような方なのでしょう」
「家業を放棄なさっている点はやはり見逃せませんが……当家の中では『浮いた方』ですね。地下牢へ行けばお会いになれますよ」
地下牢をアトリエに、あの風景画や博物画の数々を生み出した芸術家でもある方――。
「そうね。聞きたいこともあるし、早くお会いしたいわ」
地下の隠し部屋に飾られている『緑の海』の絵。聖女さまのお部屋に飾られているものとそっくりなあの絵のことを、是非ともお聞きしたいと思っていたところです。
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