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芳香
1.希望観測
しおりを挟む10代の殿方の肉は、あんなにも芳醇な味がするものなのでしょうか。
このステーキに使われている牛と同じく、体質や生活環境、食事、年齢などの違いで味に差はあれど。噛みしめる前からあれほどの匂いを感じたのは、ジェルベ・ハーモニアが初めてでした。
この上質なステーキ肉よりもずっと美味しそうで――。
「フルーラ、本日のフィレ肉はいかがですか?」
義父の上機嫌な声によって、忌々しい獣の思考から引き戻されました。
「蚕の繭の繊細さには及ばないでしょうけれど」、と調子の良い義父がナイフを躍らせている上席へ視線を遣ると。今季は豊作だったのでしょう。金箔の散りばめられた漆器には、白い塊がいつもの倍は乗っています。
「ええ。お義父さまの舌が感じる繭のお味よりは濃厚でしょうけれど、私はやっぱり肉の方が好きだわ」
むしろ肉だけ食べていたいくらいですが。
「そうだ、来週末からスクールの見聞旅行だそうですね。今年も東のリゾート港へ?」
「あぁ。そういえば、そんなものありましたね」
『研究』に『食人鬼狩り』に『婿探し』。正直スクールのイベントを気にしているどころではありませんでした。
結局昨晩はジルの体を調べるだけで終わり、あれ以上何かを聞き出すことはできませんでしたが。ひとまず仮とはいえ、「恋人」という都合の良い存在ができたことは大きな収穫です。
もう少し自然に演技ができるようになるまで、義父にはまだ公表できないでしょうけれど。
「1週間も異国に滞在するとなると、マチルダが寂しがりますね。荷物に紛れてついて行かないよう見張っていますから。安心して行ってきてください」
「ええ。そもそもマチルダが入るほど大きなトランクは持って行かないでしょうけれど」
そもそもスクールの旅行なんて、行っている暇はないのですが。
「まさか、旅行をボイコットする気ではありませんよね?」
義父の黒い笑みに、油断しきっていた心臓が大きく脈打ちました。
忘れかけていましたが、こういう時に的確な読心術を発揮してくるのが義父なのです。
これに関しては分が悪いと思い、皿に残っているものを急ぎ気味で片付けることにしました。
「見聞旅行は外界を知るとともに、学友と絆を深める良い機会にもなります。私も在学中は、見聞旅行を存分に利用させていただきましたよ」
「お義父さまのことですから、純粋に絆を深めるのではなく、将来の官僚仲間から支持を集める目的だったのでしょう?」
「バレてました?」と声を上げて笑う義父を横目に、「ご馳走様でした」と席を立つと。
「フルーラ、この後は王立病院ですか?」
「はい。夕暮れ時には帰ります」
当家のディナーは18時から。つまり門限は18時なのですが、近頃はそれを破りまくっています。それでも以前のように叱られないのは、この指輪――成人の証を渡されたおかげなのでしょうか。
「我が家の専属医、ドクター・フィルによろしくお伝えください」
「もちろん。行ってまいります、お義父さま」
幸いにも王立病院はスクールの敷地と隣接していて、放課後も時間をロスすることなく研究所へ向かうことができます。ですが安息日にまで研究室へ顔を出すと、ドクター・フィルは「ティーンの時間をもっと楽しんだら?」と心配なさるのです。
今日も例に漏れず、「休日くらい遊んだら?」と苦い顔をされました。
いつ見てもシワだらけの白衣に伸びっぱなしの銀髪、目の下へ一生消えなさそうなクマをこしらえたドクターに言われたくはないのですが。
「そういうわけにはいかないわ。この血液の持ち主が魔人病かどうか、急ぎで調べて欲しいの」
一昨日の夜、こっそりジルから採った血液の瓶を一本、ドクターに渡したところ。
「うん、じゃあ検査費はいつもの口座にお願いね~」
誰のものなのか、何のために検査するのかなど、余計なことを訊かないところがドクターを信頼できる理由のひとつです。口止め料が含まれているせいでお金は余分にかかりますが。
「そういえばフルーラ君、そろそろ検診のタイミングなんだけど。今日やってく?」
「もうそんな時期なのね」
検診。聞くだけで面倒な響きですが。半年に一度のこれをやっておかなければ、より面倒な事態になりかねません。
「じゃあ服は下以外全部脱いで、その計測器を頭と胸に付けてね――って、もう言わなくても分かるか」
その通り、言われる前にもうドレスは脱いでいました。最近モア叔父さまがデザインなさった簡易的な下着まですべて取り、脳波と心拍を計測できる機器を額と左胸に張り付ければ準備完了です。
「お願いします」とベッドに腰かけ、ドクターに向かって口を開きました。
「いやぁ、検診に備えて色々な肉仕入れてて良かったよ。はい、あ~ん」
目隠しをされて視界が閉ざされた中、冷たい匙の感触が舌の上に触れました。これは――昼に食べたばかりの肉と同じ匂いです。
「牛の肉ですね」
「うん、さすが。計測針の振幅0.5……と」
豚、子羊、鴨――あぁ、これは。
「きました、『例の肉』が……2.8! うーん、ちょっと前回より高いな~。ちゃんと14日間に200グラム摂取してる?」
「ええ。ノット叔父さまと周期を確認して、2週間に一度は『特別なディナー』をいただいているわ」
そのおかげで私は健康に過ごせているのですが。『例の肉』をいただく頻度を1日繰り上げるか量を少し増やした方が良い、とドクターは助言をくださいます。
「肉片を口に入れた時の脈拍を見て、禁断症状が出ない間隔を計ってはいるけどね~。いくら君が魔人病因子に耐性もつ『美食家』っていっても、例の肉を食べないと衰弱しちゃうんだよ? まぁ気持ち的にアレだろうけどさ」
「だから仕方なく、決められた期間で適量を食べているの。いいわ、ディナーの頻度を1日早めてもらうか、一度に摂る量を増やせばいいのね」
幸か不幸か――ノット叔父さまはこの厄介な特性を「天から授かった個性」とおっしゃいますが。マダーマム家の血統には時折、例の肉を本能的に欲する『美食家』が誕生するのです。
「そう、美食家はいくら貪ろうと『肉に焦がれる衝動』や『意識・記憶の混濁』を自らの意思でコントロールできるんだ。つまり食人鬼になるリスクはない! 今のところマダーマム家の人間だけだよ、そんな耐性もってるのはさぁ」
「あぁ~もっと調べ回したい!!」、と眼鏡を曇らせていますが、ドクターはもう30年以上マダーマム家の人間を調べていらっしゃいます。
「でも本当に不思議ね。私は3歳の時に遠縁からもらわれてきたって聞いているけれど……これまで美食家は本家筋にしかいなかったのでしょう?」
「ん~、まぁ多少遠かろうとマダーマム家の血が流れているんだから。そういうこともあるんじゃない?」
ドクターらしからぬ非論理的な答えですが、「分からない」とはっきり答えていただけることはありがたいです。
「でもフルーラ君が積極的に協力してくれているおかげで、分かってきたことはたくさんあるんだよ」
「とりあえず服を来たらどうかな」、と実験室から出て行くドクターの言葉で、自分が今ショーツ以外何も着ていなかったことを思い出しました。どうりで肌寒いわけです。
「それでドクター、分かったことって何なの?」
書斎で待ち構えていたドクターは、熱いアップルティーを出してくださいました。ドクターの混沌とした外見に似合わず、この紅茶はいつも素直でほっとするような味です。
「うん。まず治療薬に使えそうな有力候補、『聖母草』の話だけどね。アレの効果はやっぱり一時的だ」
「そんな……! せっかく不治の病を治療する糸口が見えてきたのに」
私の体だけでなく、他の魔人病患者でも何十人と治験を行ったとドクターはおっしゃいました。
聖女さまに「どうか諦めないで」と懇願した以上、最後まで諦めるわけにはいきませんが。可能性の芽を摘まれた衝撃が、黒い帷となって目の前に降りてきます。
聖女さまには、もう時間が残されていないというのに――。
「まぁ絶望するのはちょっと待ってよ。話はもうひとつあるんだからね」
「え……?」
「もう亡くなっちゃったけど、15年前に共同研究者がいたって話はしたよね? あぁ、ノット君以外で」
かつてマダーマム家を研究なさっていた神父さまの話は、ほんの少しだけ聞いたことがあります。彼を恩人とおっしゃっていた、ノット叔父さまからですが。
「つい最近倉庫を整理していたらさ、彼のノートが見つかったんだよ。誰があんな隠すみたいに遺品を置いたのかは分からないけど」
なんとそのノートには、すでに「聖母草では効能が弱い」と書かれていたというのです。さらにそれを踏まえて、新たな希望が提示されていたと。
「聖母草の亜種――通常種は白いだろう? 実は赤い花弁の種があって、それについての面白い記述があったんだ」
続けてドクターが出した名は意外な方――マダーマム家の祖、偉大なる処刑人ファウストでした。
「かつての友が見つけたファウストの紀行文には、ファウストが若い頃、中南米地域に滞在した時の記録が記されていてね」
当時食人の文化が残っていた人肉食者たちとともに、ファウストは赤い聖母草を食べていた――ドクターは熱を込めた調子でおっしゃいました。
「亜種の生息地は今となっては不明……なんだけど! 紛争で故郷を追われ、中南米から東国の港町に逃げてきた部族がいるらしくてね。その中に伝統的なシャーマンがいるって、ついこの間『外界研究班』が話していたんだよ~」
東国の港――?
「私たち、来週の見聞旅行でちょうど東国のリゾート港へ滞在する予定なの」
「何だって!?」、とドクターは大袈裟すぎる反応をくださいましたが。
「でもシャーマンの方々は、リゾート地にはいらっしゃらないでしょう?」
「それはそうだ。リゾート港よりも内陸に仮設住宅を建てて、そこで一時的に暮らしているんだってさ」
それはもう、見分旅行を利用しない手はありません。「内陸地まで行ってみるわ」と正面のドクターを見上げると。
「君たち学生には旅程というものがあるだろう? スクールがそんなに治安のよろしくない地域へ、生徒を観光に連れ出すとは思えないけど」
予想通り反対に遭いましたが、今は治安が云々と言っている場合ではありません。
「港までたどり着けばスクールなんて関係ないわ。あとは私の足で行くのよ」
聖女さまを救える可能性が、万にひとつでもそこにあるのならば――。
今ここでドクターを納得させておかなければ、義父に報告されるかもしれません。「絶対に曲げない」と目で訴えていると、やがてドクターは青白い頬を緩めました。
「私は君のお祖父さんの代からマダーマム家を見守ってきたけどね。フルーラ君は飛び抜けて豪胆の持ち主だよ」
「お褒めの言葉どうも、フィル先生」
そろそろお暇しましょう、と空のカップを置いて立ち上がったその時。血液検査の依頼以外に、もうひとつ用件があったことを思い出しました。
「あぁそうだわ。『例の薬』、少し頂いていこうかしら」
すると先ほどまでの笑顔から一変。ドクターは「やれやれ」と首を左右に振りました。
「あれは実質君が開発したものだからね、別に構わないけどさ。何か危ないことをしようとしていないだろうね~?」
「旅行中の脱走よりもずっと危険な」、と心配するドクターに微笑みかけ、未記入の薬袋を受け取ります。
「平気よ。ちょっと草食動物を相手に尋問するだけだから」
殿方を相手にする上で、これはお守りのようなもの――ドクターに「ご機嫌よう」と会釈し、研究所を出たところ。息つく間もなく背後から敵意剥き出しの視線を感じました。
「言いたいことがあるのならば、お早めに。そろそろ迎えが来てしまうの」
振り返らずに声をかけると、背後の気配が驚愕に揺らぎました。
「し、失礼しますわ、ミス・マダーマム」
建物の影から現れたのは、恐怖を悟られないよう胸を張った可愛らしいお嬢さまでした。私服をお召しですが、スクールの白タイ(1年生)だとひと目で分かります。
「私、あなたにお話があるのです。兄のことで」
「あなた、レア・ハーモニアね」
回答がなくとも、素直なお顔が「何で分かったの」と語っていらっしゃいます。
「ご両親とお兄さんと、海辺の教会へ来ているのを時折見かけるわ。今日は安息日だけれど、礼拝に行かなくてもいいのかしら?」
軽く膝を折り、ジルとは違うヘーゼルの瞳と目線を合わせると。耳を赤らめつつ一歩下がったレア嬢ですが、それでもキッとこちらを睨みつけてきました――白タイのご令嬢にしては、非常に良い目をしていらっしゃいます。
「お兄さまをもてあそぶつもりなら別れて」
「弄ぶ? どうしてそう思ったの」
「だってあの冴えない臆病なお兄さまよ? そんなお兄さまが『殺人女王』に自分から近づいていくなんてあり得ないもの!」
震えつつも言い切った彼女に拍手を差し上げたいところですが。それは失礼にあたると、さすがに弁えています。
「そう、あなたお兄さんが心配なのね。それで勇気を出して私に話しかけたの」
「ハーモニア家を継ぐのは私よ。当主が家族を守るのは当然のことでしょ?」
冴えない、臆病と言いつつも、レア嬢はジルを大切に思っているのですね。
それにしても。「家を継ぐのは私」という宣言には思わず目を見張ってしまいました。
「彼を悪いようにする気はないわ。そうね、信じられないならコレを賭けましょう」
小指を立てて微笑むと、レア嬢は「コレって?」と指に注目しました。
「もし私がお兄さんを傷つけたら、小指を切り落としてあなたに捧げるわ」
「ひっ……!」
色が抜けた頬に指を這わせてみれば、陶器のように滑らかな肌が冷気を帯びています。
「この寒空の下、私が出てくるのを待っていてくれたのね。これ以上冷えたら良くないわ。もうお家に帰りなさい」
そう囁くと、家族思いのご令嬢は膝を震わせました。
脅したつもりはなかったのですが――。
「あぁ、そうだわ」
じわじわと後退るレア嬢の腕を捕まえたところ。あまりにもか細く、思わず折ってしまうところでした。
「まっ、まだなにか……?」
「お兄さんに伝えてほしいことがあるの。『見聞旅行の初日、4号室にいらして』って。お願いね」
壊れた人形のように何度も頷かれたあと、レア嬢はおぼつかない足取りで逃げていかれました。
ひとまずこれで、2日間もある船旅の暇つぶしはできそうです。
さて――次はどんな手でジェルベ・ハーモニアを篭絡しましょうか。
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