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第八章 去リシ神
二
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気がつくと、三途橋の往来の中に立っていた。色師のことも、刹那のことも、何もなかったかのように、みんな働いている。
ふと自分が一人きりになったような気がしたが、固く握った手に赤い着物の端があった。
「ついてきてくれたんですね」
川に落とされた直後は、顔も見たくない心地だった。しかし冷水で頭が冷えたのか、今は隣に居てくれたことにほっとする。
「お前が袖を離さないからな」
刹那は苛立ち混じりに吐き捨てると、俺の手を引いて三途橋を渡った。落花街に向かっているということは、実家に帰すつもりなのだろう。
「刹那さん、俺は――」
「黙れ」
「刹那さん、待ってください!」
赤い袖を引っ張るが、刹那は止まろうとしない。前に回り込むと、ようやく足を止めた。
「もう、用はないだろう」
「そんなこと言わないでください。まだちゃんと話もできていないのに」
刹那は俯き、かすかに全身を震わせていた。カタカタと骨が鳴る。
「……離れろ」
刹那の袖から、金属の擦れる音が響く。
「は、な……れ――」
赤く錆びついた鎖が、刹那の袖、裾、襟元から飛び出した。瞬く間に肉が溶け、骸が見上げるほどに成長する。
「何、これ……」
いつもの骸化と様子が違う。呼びかけても、肋骨を叩いても、反応がない。その上、以前黒が出していた、暗黒の泥にも似た煙を骨の隙間に燻らせている。
「せつ――」
声が出ない。そう気づいた直後、腹を突き破る鎖の存在に気付いた。腹を貫通する鎖に引っ張られていくのを、鎖を掴んで抵抗する。
「……う……て? どうして……!」
巨大な赤い骸骨は、もはやこちらを見ていなかった。他に動く人を見つけると鎖で腹を貫き、地面に開いた穴へ引き込んでいる。落花街から人の気配が消えるまで、少しもかからなかった。
俺だけが無事な理由はすぐに分かった。先ほどから、首筋が焼けつくように熱い。この黒い光を放つ神紋が、腹に刺さっていた鎖を溶かしてくれたのだ。
「これが、伍さんの祝福……」
そしてこの惨状がこそが、黒白が警戒していた災禍の正体――それは、真の名を取り戻した刹那だったのだ。
かえって冷静な頭に浮かんだのは、「早く逃げろ」という警告だった。次々と人が深淵に落ち、狂気の叫びが街を覆う中、ひとり踵を返す。劇場にいるはずの父が無事であることを祈りつつ、荒屋の戸に錠をかけ、湿っぽい押し入れにこもった。
結局、間違った――刹那が言うように、俺はウジ虫だったのだ。真実を知る前に、もっと早く刹那を知ろうとしなかった。黒白の警告を無視し、色師の言葉を信じ切っていた。
「ねぇミスター!」
戸の方から、高い呼び声が響く。
「あの子から、深い悲しみの旋律が聞こえてくるの。だからアタシたち、あの子が落ち着くまで傍に居るつもりよ。でも、アナタにも一緒に来てもらえたら、きっと――」
「帰ってください」
愛生の声に続き、低い咳払いがひとつ聞こえた。
「咲」、と低く呼ぶのは半夏だ。しかし今は、二人の無事を喜ぶ気も起きない。押し入れに籠り、自分を責めることしか。
「……みんな、帰って」
愛生たちの気配が無くなったかと思うと、今度は幼い声が呼びかけてきた。
「咲、あやつを止められるのはお主だけなんじゃ。このままでは街が……いや、国中にまで災禍が広がるやもしれぬ!」
どうやってここまで来たのか、烏梅の声がする。居留守をきめ込んでいると、焦り混じりの声が急に沈んだ。
「あの女神は、お主を――」
「俺は!」
刹那の心なんて、分からない。
押し入れを飛び出し、玄関の引き戸に手のひらを叩きつけた。
「獣の神を、異形の神を、それにあなたを人に降ろして、みんなを救った気になってた! でも刹那さんには救われてばかりで……刹那さんのことを、俺は何もわかってなかったんだ」
色師のこともそうだ。自分のことばかりに夢中で、色師の真意を見抜けなかった。黒白に、ああまでして儀を止められておいて。
「元々、俺はただの人です。元神のあなたとも、神である刹那さんとも違う……何の力もない、心の弱い人間なんです。だから……」
戸を一枚隔てた向こうの烏梅は、今どんな顔をしているのか。呆れか、怒りか、とにかく情けないヤツだと思ったに違いない。それでも仕方のないことだ、と呟き、戸に背を向けた。
「先に行っておるぞ」
戸を振り返った頃には、すでに足音は遠ざかっていた。烏梅は信じているというのか。こんな俺が、後を追っていくと。
行くわけない。刹那は街の人々を消そうとしている。それに俺を……殺そうとした。
あれはもう刹那ではない――土間から畳の間に上がり、押し入れに戻ろうとしたその時。何かにつまづき、畳に膝をついた。いつの間にか、色師の化粧箱が置いてある。刹那と八咫、それからこの化粧箱と共に、これまで旅をしてきた。ただそこに佇んでいる桐の箱を見つめていると、懐がじわりと熱くなる。
『ぜんぶ色師のせいだ。オマエが永遠に引きこもってようが、誰もオマエを責めやしねぇよ』
眠っていたかと思ったが、八咫はすべて聞いていたようだ。その淡々とした口調に、腹の底から小さな泡が湧いてくる。
「誰も、俺を責めない……?」
八咫は最初から知っていたのだ。色師の思惑を、刹那の呪いが嘘であることを。
「ずっと騙してたくせに!」
こんなものはもう必要ない。やり場のない衝動を化粧箱にぶつけた、その時。散らばった化粧道具と共に、錆びた鍵が出てきた。
『それはヤツの、最後の願いだ。ただ……お前にゃそれに応える義理はねぇ。色師との約束だって、お前《さく》じゃなくて前のお前が勝手にした約束だ』
この鍵を開けたところに、きっと刹那のための色具がある。淡い期待が胸を過るも、それもすぐに萎んでいった。刹那は俺を、俺の心を否定したではないか。「お前のそれは、『色師に作られた想い』だろう?」――最初は信じなかった。いや、信じたくなかった。
「俺の想いは作り物、なんですか?」
八咫はすぐに答えなかった。急かすように懐から出すと、鏡面には「俺」が映っている。何の恐れもなく、傷を曝け出している自分自身が。
『色師は約束の印を追って、お前の魂を何度も刹那と引き合わせてきた。それでも失敗が続いたっちゅーことは、色師に心を操ることはできなかったんだろうな』
「あ……」
『お前は刹那の呪いを解きたいと願った。いや、願うだけじゃねぇ。アイツのためにお前は動いた。俺はそれをずっと傍で見てきた。だからお前の想いが偽物だなんて、俺は思わねぇよ』
これまでの儀、それから色師との思い出が絡み合い、混沌とした頭の中。それが一瞬、まったくの無になった。無の空間に、一番最初に浮き上がってきたのは――。
「刹那さん……」
俺は何をしているのか。引きこもっていた自分が急に恥ずかしくなり、帯紐を締め直す。そして「ごめんね」と一言かけ、ばらけた化粧道具を化粧箱に戻した。
『お前は今、可能性への鍵と、そこまでの道を繋ぐ門を持ってる――さて、どうするよ?』
「……行きます」
化粧箱を抱え、土間に飛び降りる。
『イイねぇ! 今のお前、お前史上最高にイケてるぜ!』
いつもの調子に戻った八咫に笑いかけ、水を張った桶を覗き込んだ。
「八咫さん、俺を常世へ通してください!」
きっとこの鍵を開けた先に、刹那を鎮める方法がある――手のひらの鍵と八咫を握りしめ、澄んだ水へ顔を沈めた。
水鏡の出口は、いつもの三途橋でも玄関先の水瓶でもなく、彩色座敷の隅に置かれていた桶だった。出て早々、棘付きの声が飛んでくる。
『ほら、言った通りだよ……災禍は起こった』
「ちょっと黙っててお露」
襖の白黒熊が静かになったところで、いつも色師が乗っていた箪笥に向かう。八咫に指示された通り、箪笥の二段目にある鍵穴に錆びた鍵を差し込んだ。すると三段目を越える量の色波が溢れ出す。何とか落ちないように踏ん張っていると、辺りが急に色を失い始めた。部屋の形までふにゃふにゃに溶け、別な場所が作られようとしている。
やがて見えてきたのは、古い民家の板間――囲炉裏を囲んでいる三つの影のうちひとつは、俺だ。うたたねをしている。
この光景には覚えがある。色師と色具を作るために、烏梅のところを訪れた日の夜だ。
烏梅は手酌で盃を傾けながら、正面に座る埴輪を見つめている。あれは確か、色師が外出用にと用意した埴輪だ。
『主神殿。咲の胸にあった痣について、聞きたいことがある』
『ありゃ、見たのかい?』
埴輪越しに響く色師の声は、随分と落ち着いていた。
『あれはお主の神紋じゃな? それも、何百年も昔に付けられたものに見えたが』
痣を最初に見た時、烏梅は読み取れないと言っていたはずだが――。
『フフッ、鳥の神《きみたち》は本当に賢いよねぇ。おっと失礼、今のキミは烏梅っていう、人間の女の子だったか』
『誤魔化すな。この人の子、咲はいったい何者か?』
箪笥の三段目を開けた時の記憶で、色師は俺の痣を、魂を見失わないようにつけた神紋だと話していた。すでに明かされていることだというのに、これを改めて見せる理由は何なのか。
『咲ちゃんは優秀な化粧師さ。彼が今生に巡る前から、ずっと取り立てようと思って目を付けてたんだよねー』
『主神殿、嘘はいかんぞ! ワシはしかと見たのじゃ。この者の魂はすでに……』
『烏梅』、と色師が呼んだ瞬間、目の前のすべてが停止した。囲炉裏で爆ぜる炭、磨かれた板間、目を見開いた烏梅の姿が色あせる中。埴輪がゆっくり、俺の方を振り返った。記憶の中の俺ではなく、今これを見ている俺の方を――。
我に返ると、キヨの家は跡形もなく消えていた。ここは色あせているが、いつもの彩色座敷だ。箪笥の上には、灰色の色師が何でもない様子で座っている。
『それは、刹那を人に降ろすための色具だよ。キミと一緒に作ったものさ』
色師が指して初めて、目の前に置いてある平皿に気がついた。何もかもが灰色の部屋の中で、唯一この皿に塗ってある『唐紅』だけが鮮やかだ。
『ただ、刹那の儀を行うにはちょっと厄介な問題があってね』
この色師は、ただの記憶ではないのだろうか。試しに手を振ると、「真剣に聞いてネ」と手を振り返してきた。
「色師さん、消えたんじゃ……」
「文句なら後で聞くから、今は頼むよ咲ちゃん」
その通り、言いたいことなら山ほどある。しかし今は時間が惜しいということも、よく分かっている。
「刹那は主神だ。六神やその他の神と違って、■■にとって外せない御役目を負った者なんだよ。だから人にするには、その御役目を新しい神に至る存在、天胎に引き継ぐ必要がある」
前の記憶の中で、顔の見えない神が言っていた。新しい神とは、新しく主神になり得る人間の魂――『天胎』。天胎に至る魂を見つけ出すため、色師は愛生と共に「一条の光」を創り上げた。そして愛生が劇場で放った、あの言葉――。
『何千万もの魂から見つけ出すなんて、神でも気が遠くなるような作業だったよ。でもさ、その道半ば……去リシ神の御役目を継ぐに至る者が現れた』
色師の黒い爪先が、真っすぐにこちらを指す。
『それがキミだ』
何代も前の俺は偶然常世に迷い込み、色師と約束を交わした。そして色師は、約束の証として印を刻んだ。それだけではなかったのか。頭に浮かぶまま問いかけると、色師は顔の前の白布をふっと吹いた。
『何代も巡り合ううちに、キミの魂は神と深い縁で結ばれた。そして何より、■■がキミを選んだのさ。感覚で分からない? キミの魂は、神々と関わるうちに私と同等の位に至ったんだ。キミは主神の御役目を継ぐに相応しい魂、ということだよ』
俺が、刹那の御役目を引き継ぐ。つまり刹那が人になれば、俺は人でなくなるということだ。
理解しようとしても、体がそれを拒んでいるかのように震えが止まらない。
「そんな……そんな、こと……」
こうなったのは色師のせいか。色師と約束を交わした、前の自分のせいか。いや、誰かを責めることに意味なんてない。色師は、対の存在である刹那の心を救おうとした。そうして災禍を防ごうとしたのだ。そのために俺が利用されてきたと分かっても、怒りは生まれてこない。それよりも、「なぜ」の方が大きかった。
『ごめんネ、って言った方がいいかい? でも、それこそごめんネ。今まで秘密にしていたけどさ、私に善悪という基準はない。あるのは、御役目を果たすという存在意義だけさ』
「じゃあ、色師さんの御役目って……刹那さんを救うことだったんですか?」
すると、明るい声を振りまいていた色師がひと回り小さくなった。
『いや、私の御役目は神々の統治だからねーって、前回の記憶ちゃんと見てくれてた?』
「ならどうして……生まれて一番に、刹那さんを救おうと思ったんですか?」
色師は完全に停止した。衣すらも動いていない。ひたすら口を噤んで耐えていると、やがて色師は呼吸の音を立てた。
『どうして、だろう? 分からない。だって、誰にも言ったことがなかったから。そんなこと、誰にも訊かれたことがなかったんだ』
布の奥の顔が、戸惑っているように見えた。「情が理由ではないのか」、と問いかけても、色師の反応は鈍い。
『色欲、情念、慈愛――そんなもの最初からないよ。私は施すための神ではないからね』
そう断言する色師にも、まだ「なぜ」は消えない。
『今、そんなことを論じている時間はないよ。そうだろう?』
その通りだ。分かっている。しかし道理を探ってでもいないと、気を保っていられない。
『ごめんネ……キミが選ぶ道はひとつだって、分かってて聞くんだけどさ。その色具を使って、最後の仕事をしてくれるかい?』
色師の謝罪に心は伴わない。自分でバラしたくせに、それでも言うとは。本当に酷い神だ。そんな神に刻まれた「色」を見つめ、「やります」と力を込めて宣言する。
『でも、本当にいいのかい? だって刹那を人にしたら、去りし神の御役目を継ぐのは……』
「あなたがこうするために仕組んできたっていうのに、何をいまさら」
真っ直ぐに見つめた先で、「色」の一字が揺れていた。布の奥から、温かい視線を感じる。
「俺は、刹那さんを人にします」
『唐紅』の色具を手に取り、立ち上がる。
「でもそれは、あなたが願ったからじゃない。俺が刹那さんに笑って欲しいから」
精いっぱいの力で口角を上げると、「色」の字が溶けはじめた。眩い炎を散らし、焼けた白布が空に昇っていく。
『そうか……ありがとう。やはり君で良かったよ、××ちゃん』
ふと自分が一人きりになったような気がしたが、固く握った手に赤い着物の端があった。
「ついてきてくれたんですね」
川に落とされた直後は、顔も見たくない心地だった。しかし冷水で頭が冷えたのか、今は隣に居てくれたことにほっとする。
「お前が袖を離さないからな」
刹那は苛立ち混じりに吐き捨てると、俺の手を引いて三途橋を渡った。落花街に向かっているということは、実家に帰すつもりなのだろう。
「刹那さん、俺は――」
「黙れ」
「刹那さん、待ってください!」
赤い袖を引っ張るが、刹那は止まろうとしない。前に回り込むと、ようやく足を止めた。
「もう、用はないだろう」
「そんなこと言わないでください。まだちゃんと話もできていないのに」
刹那は俯き、かすかに全身を震わせていた。カタカタと骨が鳴る。
「……離れろ」
刹那の袖から、金属の擦れる音が響く。
「は、な……れ――」
赤く錆びついた鎖が、刹那の袖、裾、襟元から飛び出した。瞬く間に肉が溶け、骸が見上げるほどに成長する。
「何、これ……」
いつもの骸化と様子が違う。呼びかけても、肋骨を叩いても、反応がない。その上、以前黒が出していた、暗黒の泥にも似た煙を骨の隙間に燻らせている。
「せつ――」
声が出ない。そう気づいた直後、腹を突き破る鎖の存在に気付いた。腹を貫通する鎖に引っ張られていくのを、鎖を掴んで抵抗する。
「……う……て? どうして……!」
巨大な赤い骸骨は、もはやこちらを見ていなかった。他に動く人を見つけると鎖で腹を貫き、地面に開いた穴へ引き込んでいる。落花街から人の気配が消えるまで、少しもかからなかった。
俺だけが無事な理由はすぐに分かった。先ほどから、首筋が焼けつくように熱い。この黒い光を放つ神紋が、腹に刺さっていた鎖を溶かしてくれたのだ。
「これが、伍さんの祝福……」
そしてこの惨状がこそが、黒白が警戒していた災禍の正体――それは、真の名を取り戻した刹那だったのだ。
かえって冷静な頭に浮かんだのは、「早く逃げろ」という警告だった。次々と人が深淵に落ち、狂気の叫びが街を覆う中、ひとり踵を返す。劇場にいるはずの父が無事であることを祈りつつ、荒屋の戸に錠をかけ、湿っぽい押し入れにこもった。
結局、間違った――刹那が言うように、俺はウジ虫だったのだ。真実を知る前に、もっと早く刹那を知ろうとしなかった。黒白の警告を無視し、色師の言葉を信じ切っていた。
「ねぇミスター!」
戸の方から、高い呼び声が響く。
「あの子から、深い悲しみの旋律が聞こえてくるの。だからアタシたち、あの子が落ち着くまで傍に居るつもりよ。でも、アナタにも一緒に来てもらえたら、きっと――」
「帰ってください」
愛生の声に続き、低い咳払いがひとつ聞こえた。
「咲」、と低く呼ぶのは半夏だ。しかし今は、二人の無事を喜ぶ気も起きない。押し入れに籠り、自分を責めることしか。
「……みんな、帰って」
愛生たちの気配が無くなったかと思うと、今度は幼い声が呼びかけてきた。
「咲、あやつを止められるのはお主だけなんじゃ。このままでは街が……いや、国中にまで災禍が広がるやもしれぬ!」
どうやってここまで来たのか、烏梅の声がする。居留守をきめ込んでいると、焦り混じりの声が急に沈んだ。
「あの女神は、お主を――」
「俺は!」
刹那の心なんて、分からない。
押し入れを飛び出し、玄関の引き戸に手のひらを叩きつけた。
「獣の神を、異形の神を、それにあなたを人に降ろして、みんなを救った気になってた! でも刹那さんには救われてばかりで……刹那さんのことを、俺は何もわかってなかったんだ」
色師のこともそうだ。自分のことばかりに夢中で、色師の真意を見抜けなかった。黒白に、ああまでして儀を止められておいて。
「元々、俺はただの人です。元神のあなたとも、神である刹那さんとも違う……何の力もない、心の弱い人間なんです。だから……」
戸を一枚隔てた向こうの烏梅は、今どんな顔をしているのか。呆れか、怒りか、とにかく情けないヤツだと思ったに違いない。それでも仕方のないことだ、と呟き、戸に背を向けた。
「先に行っておるぞ」
戸を振り返った頃には、すでに足音は遠ざかっていた。烏梅は信じているというのか。こんな俺が、後を追っていくと。
行くわけない。刹那は街の人々を消そうとしている。それに俺を……殺そうとした。
あれはもう刹那ではない――土間から畳の間に上がり、押し入れに戻ろうとしたその時。何かにつまづき、畳に膝をついた。いつの間にか、色師の化粧箱が置いてある。刹那と八咫、それからこの化粧箱と共に、これまで旅をしてきた。ただそこに佇んでいる桐の箱を見つめていると、懐がじわりと熱くなる。
『ぜんぶ色師のせいだ。オマエが永遠に引きこもってようが、誰もオマエを責めやしねぇよ』
眠っていたかと思ったが、八咫はすべて聞いていたようだ。その淡々とした口調に、腹の底から小さな泡が湧いてくる。
「誰も、俺を責めない……?」
八咫は最初から知っていたのだ。色師の思惑を、刹那の呪いが嘘であることを。
「ずっと騙してたくせに!」
こんなものはもう必要ない。やり場のない衝動を化粧箱にぶつけた、その時。散らばった化粧道具と共に、錆びた鍵が出てきた。
『それはヤツの、最後の願いだ。ただ……お前にゃそれに応える義理はねぇ。色師との約束だって、お前《さく》じゃなくて前のお前が勝手にした約束だ』
この鍵を開けたところに、きっと刹那のための色具がある。淡い期待が胸を過るも、それもすぐに萎んでいった。刹那は俺を、俺の心を否定したではないか。「お前のそれは、『色師に作られた想い』だろう?」――最初は信じなかった。いや、信じたくなかった。
「俺の想いは作り物、なんですか?」
八咫はすぐに答えなかった。急かすように懐から出すと、鏡面には「俺」が映っている。何の恐れもなく、傷を曝け出している自分自身が。
『色師は約束の印を追って、お前の魂を何度も刹那と引き合わせてきた。それでも失敗が続いたっちゅーことは、色師に心を操ることはできなかったんだろうな』
「あ……」
『お前は刹那の呪いを解きたいと願った。いや、願うだけじゃねぇ。アイツのためにお前は動いた。俺はそれをずっと傍で見てきた。だからお前の想いが偽物だなんて、俺は思わねぇよ』
これまでの儀、それから色師との思い出が絡み合い、混沌とした頭の中。それが一瞬、まったくの無になった。無の空間に、一番最初に浮き上がってきたのは――。
「刹那さん……」
俺は何をしているのか。引きこもっていた自分が急に恥ずかしくなり、帯紐を締め直す。そして「ごめんね」と一言かけ、ばらけた化粧道具を化粧箱に戻した。
『お前は今、可能性への鍵と、そこまでの道を繋ぐ門を持ってる――さて、どうするよ?』
「……行きます」
化粧箱を抱え、土間に飛び降りる。
『イイねぇ! 今のお前、お前史上最高にイケてるぜ!』
いつもの調子に戻った八咫に笑いかけ、水を張った桶を覗き込んだ。
「八咫さん、俺を常世へ通してください!」
きっとこの鍵を開けた先に、刹那を鎮める方法がある――手のひらの鍵と八咫を握りしめ、澄んだ水へ顔を沈めた。
水鏡の出口は、いつもの三途橋でも玄関先の水瓶でもなく、彩色座敷の隅に置かれていた桶だった。出て早々、棘付きの声が飛んでくる。
『ほら、言った通りだよ……災禍は起こった』
「ちょっと黙っててお露」
襖の白黒熊が静かになったところで、いつも色師が乗っていた箪笥に向かう。八咫に指示された通り、箪笥の二段目にある鍵穴に錆びた鍵を差し込んだ。すると三段目を越える量の色波が溢れ出す。何とか落ちないように踏ん張っていると、辺りが急に色を失い始めた。部屋の形までふにゃふにゃに溶け、別な場所が作られようとしている。
やがて見えてきたのは、古い民家の板間――囲炉裏を囲んでいる三つの影のうちひとつは、俺だ。うたたねをしている。
この光景には覚えがある。色師と色具を作るために、烏梅のところを訪れた日の夜だ。
烏梅は手酌で盃を傾けながら、正面に座る埴輪を見つめている。あれは確か、色師が外出用にと用意した埴輪だ。
『主神殿。咲の胸にあった痣について、聞きたいことがある』
『ありゃ、見たのかい?』
埴輪越しに響く色師の声は、随分と落ち着いていた。
『あれはお主の神紋じゃな? それも、何百年も昔に付けられたものに見えたが』
痣を最初に見た時、烏梅は読み取れないと言っていたはずだが――。
『フフッ、鳥の神《きみたち》は本当に賢いよねぇ。おっと失礼、今のキミは烏梅っていう、人間の女の子だったか』
『誤魔化すな。この人の子、咲はいったい何者か?』
箪笥の三段目を開けた時の記憶で、色師は俺の痣を、魂を見失わないようにつけた神紋だと話していた。すでに明かされていることだというのに、これを改めて見せる理由は何なのか。
『咲ちゃんは優秀な化粧師さ。彼が今生に巡る前から、ずっと取り立てようと思って目を付けてたんだよねー』
『主神殿、嘘はいかんぞ! ワシはしかと見たのじゃ。この者の魂はすでに……』
『烏梅』、と色師が呼んだ瞬間、目の前のすべてが停止した。囲炉裏で爆ぜる炭、磨かれた板間、目を見開いた烏梅の姿が色あせる中。埴輪がゆっくり、俺の方を振り返った。記憶の中の俺ではなく、今これを見ている俺の方を――。
我に返ると、キヨの家は跡形もなく消えていた。ここは色あせているが、いつもの彩色座敷だ。箪笥の上には、灰色の色師が何でもない様子で座っている。
『それは、刹那を人に降ろすための色具だよ。キミと一緒に作ったものさ』
色師が指して初めて、目の前に置いてある平皿に気がついた。何もかもが灰色の部屋の中で、唯一この皿に塗ってある『唐紅』だけが鮮やかだ。
『ただ、刹那の儀を行うにはちょっと厄介な問題があってね』
この色師は、ただの記憶ではないのだろうか。試しに手を振ると、「真剣に聞いてネ」と手を振り返してきた。
「色師さん、消えたんじゃ……」
「文句なら後で聞くから、今は頼むよ咲ちゃん」
その通り、言いたいことなら山ほどある。しかし今は時間が惜しいということも、よく分かっている。
「刹那は主神だ。六神やその他の神と違って、■■にとって外せない御役目を負った者なんだよ。だから人にするには、その御役目を新しい神に至る存在、天胎に引き継ぐ必要がある」
前の記憶の中で、顔の見えない神が言っていた。新しい神とは、新しく主神になり得る人間の魂――『天胎』。天胎に至る魂を見つけ出すため、色師は愛生と共に「一条の光」を創り上げた。そして愛生が劇場で放った、あの言葉――。
『何千万もの魂から見つけ出すなんて、神でも気が遠くなるような作業だったよ。でもさ、その道半ば……去リシ神の御役目を継ぐに至る者が現れた』
色師の黒い爪先が、真っすぐにこちらを指す。
『それがキミだ』
何代も前の俺は偶然常世に迷い込み、色師と約束を交わした。そして色師は、約束の証として印を刻んだ。それだけではなかったのか。頭に浮かぶまま問いかけると、色師は顔の前の白布をふっと吹いた。
『何代も巡り合ううちに、キミの魂は神と深い縁で結ばれた。そして何より、■■がキミを選んだのさ。感覚で分からない? キミの魂は、神々と関わるうちに私と同等の位に至ったんだ。キミは主神の御役目を継ぐに相応しい魂、ということだよ』
俺が、刹那の御役目を引き継ぐ。つまり刹那が人になれば、俺は人でなくなるということだ。
理解しようとしても、体がそれを拒んでいるかのように震えが止まらない。
「そんな……そんな、こと……」
こうなったのは色師のせいか。色師と約束を交わした、前の自分のせいか。いや、誰かを責めることに意味なんてない。色師は、対の存在である刹那の心を救おうとした。そうして災禍を防ごうとしたのだ。そのために俺が利用されてきたと分かっても、怒りは生まれてこない。それよりも、「なぜ」の方が大きかった。
『ごめんネ、って言った方がいいかい? でも、それこそごめんネ。今まで秘密にしていたけどさ、私に善悪という基準はない。あるのは、御役目を果たすという存在意義だけさ』
「じゃあ、色師さんの御役目って……刹那さんを救うことだったんですか?」
すると、明るい声を振りまいていた色師がひと回り小さくなった。
『いや、私の御役目は神々の統治だからねーって、前回の記憶ちゃんと見てくれてた?』
「ならどうして……生まれて一番に、刹那さんを救おうと思ったんですか?」
色師は完全に停止した。衣すらも動いていない。ひたすら口を噤んで耐えていると、やがて色師は呼吸の音を立てた。
『どうして、だろう? 分からない。だって、誰にも言ったことがなかったから。そんなこと、誰にも訊かれたことがなかったんだ』
布の奥の顔が、戸惑っているように見えた。「情が理由ではないのか」、と問いかけても、色師の反応は鈍い。
『色欲、情念、慈愛――そんなもの最初からないよ。私は施すための神ではないからね』
そう断言する色師にも、まだ「なぜ」は消えない。
『今、そんなことを論じている時間はないよ。そうだろう?』
その通りだ。分かっている。しかし道理を探ってでもいないと、気を保っていられない。
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精いっぱいの力で口角を上げると、「色」の字が溶けはじめた。眩い炎を散らし、焼けた白布が空に昇っていく。
『そうか……ありがとう。やはり君で良かったよ、××ちゃん』
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