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第七章 救済ノ丘
三
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崩れかけの劇場は彼方に消え、目の前の白い鯨ごと海に飛び込んだ。やがて鯨の背に乗せられ、浜辺に向かって進む。波打ち際まで迫ったところで、鯨は大跳躍をしてみせた。鯨は浜を越え、漁村も越え、山林の反対側へ飛んでいく。地上の林道には、都会に向かって旅をする二人の女が見えた。鯨が女たちの傍に泳いでいくと、二人の明るい話し声が聞こえてくる。
『ねぇ、ワタクシ考えたの。みんな神になってしまえばいいって』
『みんな……カミ?』
『ええ。神は人間たちみたいに無益な争いは好まないし、変化に悩まされることもないの』
歌うように演説する愛生に対し、幼さの残る半夏はきょとんと首を傾げている。
『でも、そんなことできるノ……?』
『アタシはその方法を知っているわ。特別に教えてもらったの。だからみんなにも教えてあげないと』
神になる方法。そんな途方もない話を、一体誰が愛生に吹き込んだのか。
『きっとたくさんの願いが必要になるわ。それに約束したのよ。方法を教えてもらう代わりに、彼にも願いを運んであげるって』
その彼の名を告げる代わりに、愛生は歌い出した。削り岩を舞台に見立て、たったひとりの観客のために。
あの歌には、人を惹きつける力がある。まるで愛生の言うことがすべて正しく、従うべきもののように思える力が。そのせいで、半夏は愛生に陶酔しているのではないか。最初はそう思ったが、それは見当違いだ。半夏が愛生を見つめる目は、キヨが烏梅を見る時の目とよく似ていた。
『ねぇ半夏。ワタクシの歌、魅力的?』
全力の拍手で答える半夏に、愛生は無邪気な笑みを見せた。
『この歌で人をたくさん集めて、願いを得る……そうして神力を集められれば、救いは叶うわ』
半夏は最初、愛生の言うことをあまり理解できていないようだった。しかし愛生がハイカラな曲を覚え、数々の都で歌ううちに、愛生の目指すものを理解したらしい。やがて帝都での興行をしている最中、劇団関係者の目に留まり、愛生は歌姫として広く脚光を浴びるようになる。一方半夏は、その腕っぷしの強さを生かし、愛生の用心棒としていつも側にいた。
やがて愛生は、神力を織り交ぜた歌の力を駆使し、劇団を支配するようになった。帝都劇場は「一条の光」という名に生まれ変わり、劇団員は信奉者たちを集める。するとみるみるうちに、劇場は満杯になっていく。収まりきらなくなっても、人の足が途絶えることはない。「救い」という言葉が、まさかこれほどの人を集めるとは――。
『神も人も、核は同じ。魂という情報……だというのに、どうしてうまくいかないのかしら! ねぇ半夏、魂はこんなに集まったのに、どうして天胎の素質をもつ魂はひとつもないの? やはり彼の誕生を待つしか方法はないのかしら』
愛生がどのようにして神を生み出そうとしていたのか、その様子はぼやけて見えなかった。ただ、その実験によって怨恨が生まれることもあったようだ。半夏の用心棒としての仕事は、日に日に増えていく。実験、考察、掃除、実験……人が神になるための実験が淡々と続いた、ある日。劇場の楽屋で帰り支度を終えた愛生は、半夏を伴い川に飛び込んだ。愛生たちを追いかけ、俺の乗っている鯨も、暗く冷たい川へ飛び込んでいく。着いた先は常世だった。
『まぁ……! とうとう生まれたのね』
ここはどこだろうか。見覚えのない質素な畳の間に、愛生と半夏が並んで正座している。その正面にあぐらをかく者の顔は、もやがかって見えなかった。
『アア。彼ノ人ハ、主神ヲ継グヤモシレヌ者』
認識できるのは、男とも女とも判別のつかない無機質な声だけだ。
『アタシはその子を、継ぐやもしれぬ――ではなくて、継ぐ者へ仕上げれば良いのね?』
『サスレバ、人ガ神ニナル道ガ拓ケル』
もう少し。あと少し首を伸ばせば、謎の声の正体が見える。その直前、座敷がもの凄い速度で遠ざかっていった。愛生と半夏の辿った日々が、光の矢のように過ぎていく。それが十年、いやもっと経った頃だろうか。突然ピタリと止まった。
『半夏。あの子が罪を重ねているわ。魂が濁らないか心配だけれども、これはきっと好機ね。天胎の魂を仕上げるためには、幸福、絶望、責め苦……さまざまなものが必要になるのだもの」
天胎――?
かすかに聞き覚えのある言葉に、一歩足を進ませた。愛生の声が、少しずつ遠くなっていく。
「待って……!」
一瞬気が遠のいた後。
目を開けると、歌姫の姿となった愛生……そして目覚めた半夏が固く抱き合っていた。確かめなければならないことがたくさんある。それでも一番最初に浮かんだ言葉は「良かった」、という安堵だった。
「半夏、半夏……私が名を授けた子、ごめんなさい……」
「……私のぜんぶは、愛生サマ――あなたのもの、なのに」
触れて互いを確かめ合う二人に、胸が締め付けられる。いつまでもそのままで居させてあげたかったが、そういうわけにもいかない。骸化も限界に近い刹那のためにも、愛生と半夏を連れてさっさと劇場から脱出しようとした。しかし愛生は、「外ではなく下へ行きましょう」、と提案してくる。
「レディ……いえ、ミスター。あなたは神に最も近い人間だと、あの方が教えてくださったの」
「あの方」とは、神になる方法とやらを愛生に吹き込んだ張本人だろうか。速まる鼓動を感じながら、愛生に続いて階段を降りる。愛生はその小柄な身で、大柄な半夏に肩を貸していた。
「この先にあの方がいらっしゃるわ。もしアナタたちがワタクシを下すことができたら、ここを通して良いって言われているの。彼がこの劇団のオーナーよ」
後ろを振り返ると、刹那は眉根を寄せて前を見据えていた。刹那の呪い、そして神紋について知る『オーナー』は、いったい何者なのか。愛生が常世へ会いに行っていたところを見ると、神であることは間違いない。それに六神並みに力を持っていることも確かだろう。そうでなければ、刹那の神紋について知り得るはずがない。
やがて階段の下に、真っ暗な長方形の空間が見えてきた。ちょうど一枚の戸と同じ大きさだ。
「行きなさい。ワタクシの代わりに真実を見るの。あなたが……彼が、何処へ行きつくのかを」
愛生の真剣な目と見つめ合ううちに、刹那は先に暗闇の中へ入っていく。後を追おうとしたその時、上から激しい崩壊の音が聞こえてきた。愛生の手を引こうとするも、愛生はそれ以上進もうとしなかった。迷っているうちに、闇の中から手を引かれる。
「でも、愛生さんたちが……!」
あれでも元神だ、と言いながら、刹那は下駄を強く鳴らして進んでいく。確かに、地下ならば崩れはしないだろうが――。
刹那に手を引かれて進むうち、先に小さな光が見えてきた。きっと、あそこが終点に違いない。そう分かった途端、足が止まった。
「小僧? どうし――」
「刹那さんと一緒にいたい」
たとえこの先に、何があったとしても。そう加えると、腕を掴む手が離れかけた。完全に離れる寸前、華奢な手を掴み直す。
「神粧の儀が駄目でも、刹那さんの呪いを解く手がかりを他に探します! だから……」
一緒にいたい。そう繰り返すと、刹那は何かを囁いた。その後はっきり、「お前が百年後も同じことを言ったら考えてやる」と、冗談交じりに返ってきた。
「俺、本気なんですけど?」
まったく、豪快に笑って誤魔化すところは前と同じだ。勝手に先へ行ってしまう刹那を追いかけ、白い戸をくぐり抜ける。
「ここは……」
見覚えがあるどころではない。赤、青、黄、緑――色彩が互いを塗りつぶさんとする勢いで飛び散っている、この座敷は――。
『ねぇ、ワタクシ考えたの。みんな神になってしまえばいいって』
『みんな……カミ?』
『ええ。神は人間たちみたいに無益な争いは好まないし、変化に悩まされることもないの』
歌うように演説する愛生に対し、幼さの残る半夏はきょとんと首を傾げている。
『でも、そんなことできるノ……?』
『アタシはその方法を知っているわ。特別に教えてもらったの。だからみんなにも教えてあげないと』
神になる方法。そんな途方もない話を、一体誰が愛生に吹き込んだのか。
『きっとたくさんの願いが必要になるわ。それに約束したのよ。方法を教えてもらう代わりに、彼にも願いを運んであげるって』
その彼の名を告げる代わりに、愛生は歌い出した。削り岩を舞台に見立て、たったひとりの観客のために。
あの歌には、人を惹きつける力がある。まるで愛生の言うことがすべて正しく、従うべきもののように思える力が。そのせいで、半夏は愛生に陶酔しているのではないか。最初はそう思ったが、それは見当違いだ。半夏が愛生を見つめる目は、キヨが烏梅を見る時の目とよく似ていた。
『ねぇ半夏。ワタクシの歌、魅力的?』
全力の拍手で答える半夏に、愛生は無邪気な笑みを見せた。
『この歌で人をたくさん集めて、願いを得る……そうして神力を集められれば、救いは叶うわ』
半夏は最初、愛生の言うことをあまり理解できていないようだった。しかし愛生がハイカラな曲を覚え、数々の都で歌ううちに、愛生の目指すものを理解したらしい。やがて帝都での興行をしている最中、劇団関係者の目に留まり、愛生は歌姫として広く脚光を浴びるようになる。一方半夏は、その腕っぷしの強さを生かし、愛生の用心棒としていつも側にいた。
やがて愛生は、神力を織り交ぜた歌の力を駆使し、劇団を支配するようになった。帝都劇場は「一条の光」という名に生まれ変わり、劇団員は信奉者たちを集める。するとみるみるうちに、劇場は満杯になっていく。収まりきらなくなっても、人の足が途絶えることはない。「救い」という言葉が、まさかこれほどの人を集めるとは――。
『神も人も、核は同じ。魂という情報……だというのに、どうしてうまくいかないのかしら! ねぇ半夏、魂はこんなに集まったのに、どうして天胎の素質をもつ魂はひとつもないの? やはり彼の誕生を待つしか方法はないのかしら』
愛生がどのようにして神を生み出そうとしていたのか、その様子はぼやけて見えなかった。ただ、その実験によって怨恨が生まれることもあったようだ。半夏の用心棒としての仕事は、日に日に増えていく。実験、考察、掃除、実験……人が神になるための実験が淡々と続いた、ある日。劇場の楽屋で帰り支度を終えた愛生は、半夏を伴い川に飛び込んだ。愛生たちを追いかけ、俺の乗っている鯨も、暗く冷たい川へ飛び込んでいく。着いた先は常世だった。
『まぁ……! とうとう生まれたのね』
ここはどこだろうか。見覚えのない質素な畳の間に、愛生と半夏が並んで正座している。その正面にあぐらをかく者の顔は、もやがかって見えなかった。
『アア。彼ノ人ハ、主神ヲ継グヤモシレヌ者』
認識できるのは、男とも女とも判別のつかない無機質な声だけだ。
『アタシはその子を、継ぐやもしれぬ――ではなくて、継ぐ者へ仕上げれば良いのね?』
『サスレバ、人ガ神ニナル道ガ拓ケル』
もう少し。あと少し首を伸ばせば、謎の声の正体が見える。その直前、座敷がもの凄い速度で遠ざかっていった。愛生と半夏の辿った日々が、光の矢のように過ぎていく。それが十年、いやもっと経った頃だろうか。突然ピタリと止まった。
『半夏。あの子が罪を重ねているわ。魂が濁らないか心配だけれども、これはきっと好機ね。天胎の魂を仕上げるためには、幸福、絶望、責め苦……さまざまなものが必要になるのだもの」
天胎――?
かすかに聞き覚えのある言葉に、一歩足を進ませた。愛生の声が、少しずつ遠くなっていく。
「待って……!」
一瞬気が遠のいた後。
目を開けると、歌姫の姿となった愛生……そして目覚めた半夏が固く抱き合っていた。確かめなければならないことがたくさんある。それでも一番最初に浮かんだ言葉は「良かった」、という安堵だった。
「半夏、半夏……私が名を授けた子、ごめんなさい……」
「……私のぜんぶは、愛生サマ――あなたのもの、なのに」
触れて互いを確かめ合う二人に、胸が締め付けられる。いつまでもそのままで居させてあげたかったが、そういうわけにもいかない。骸化も限界に近い刹那のためにも、愛生と半夏を連れてさっさと劇場から脱出しようとした。しかし愛生は、「外ではなく下へ行きましょう」、と提案してくる。
「レディ……いえ、ミスター。あなたは神に最も近い人間だと、あの方が教えてくださったの」
「あの方」とは、神になる方法とやらを愛生に吹き込んだ張本人だろうか。速まる鼓動を感じながら、愛生に続いて階段を降りる。愛生はその小柄な身で、大柄な半夏に肩を貸していた。
「この先にあの方がいらっしゃるわ。もしアナタたちがワタクシを下すことができたら、ここを通して良いって言われているの。彼がこの劇団のオーナーよ」
後ろを振り返ると、刹那は眉根を寄せて前を見据えていた。刹那の呪い、そして神紋について知る『オーナー』は、いったい何者なのか。愛生が常世へ会いに行っていたところを見ると、神であることは間違いない。それに六神並みに力を持っていることも確かだろう。そうでなければ、刹那の神紋について知り得るはずがない。
やがて階段の下に、真っ暗な長方形の空間が見えてきた。ちょうど一枚の戸と同じ大きさだ。
「行きなさい。ワタクシの代わりに真実を見るの。あなたが……彼が、何処へ行きつくのかを」
愛生の真剣な目と見つめ合ううちに、刹那は先に暗闇の中へ入っていく。後を追おうとしたその時、上から激しい崩壊の音が聞こえてきた。愛生の手を引こうとするも、愛生はそれ以上進もうとしなかった。迷っているうちに、闇の中から手を引かれる。
「でも、愛生さんたちが……!」
あれでも元神だ、と言いながら、刹那は下駄を強く鳴らして進んでいく。確かに、地下ならば崩れはしないだろうが――。
刹那に手を引かれて進むうち、先に小さな光が見えてきた。きっと、あそこが終点に違いない。そう分かった途端、足が止まった。
「小僧? どうし――」
「刹那さんと一緒にいたい」
たとえこの先に、何があったとしても。そう加えると、腕を掴む手が離れかけた。完全に離れる寸前、華奢な手を掴み直す。
「神粧の儀が駄目でも、刹那さんの呪いを解く手がかりを他に探します! だから……」
一緒にいたい。そう繰り返すと、刹那は何かを囁いた。その後はっきり、「お前が百年後も同じことを言ったら考えてやる」と、冗談交じりに返ってきた。
「俺、本気なんですけど?」
まったく、豪快に笑って誤魔化すところは前と同じだ。勝手に先へ行ってしまう刹那を追いかけ、白い戸をくぐり抜ける。
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