ヒトカミ粧

見早

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第七章 救済ノ丘

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 声の主は鯨ではなかった。愛生の形をした泡が、俺を海底まで連れていく。
 暗く冷たい海の底に待っていたのは、見たことのない生物たちだった。目玉がなく、ひょろ長い体の魚が輪になっている。魚たちは俺の体に群がり、肉を啄みはじめた。
 これは幻だ――そう分かっているというのに。体が削られる度、喉の奥から叫び声が湧く。やがて頭だけが残った頃、白い尾びれが伸びてきた。

『痛い? 痛いでしょうね。それはあなたが犯した罪の痛みだもの』

 白い鯨が話しかけてくる間も、奇妙な魚たちは人の肉を啄んでいく。

『でも大丈夫よ。神になれば、魂に焼き付いた罪ですら振り出しに戻る。そう――みんな神になれば良いのよ』
「……神ニナル?」

 何て素晴らしい提案なんだ。そう歓喜した直後、誰かに「ウジ虫」と蔑まれた気がした。
 そうだ、そんな理屈があってたまるものか。たとえ神だって、自分が犯したことからは逃れられるはずがない。

『あなたが神になれば、刹那と同じ時を生きることだって叶うかもしれないわ』

 刹那と――生きる?
 せっかく鮮明になった意識が、再びもやに包まれる。魚の神の声を聴くと、頭の中がかき乱されるのだ。もう聴きたくないというのに、耳を塞ぐ手がない。

『■■に選ばれし天胎。次に巡る時、あなたは――』
『……う…………ぞう』

 再び響く誰かの声が、嬌声を掻き消す。

『……小僧……!』

 はっきりとした呼び声に、もやがすべて吹き飛んだ。閉じかけていた目が開く。ずっと目は開いているものと思っていたが、それは幻の中でのことだったのだ。そうか――ここは深海ではなく、胃の中だった。

『ようやく目覚めたか……』

 刹那は骸の姿となり、巨大化した体で肉色の管を塞いでいた。俺が意識を飛ばしている間、俺たちを奥へと押し流そうとする波に逆らい続けてくれていたようだ。

『神は在り方を変えることはできないが、人は変われる……何者にも成ることのできる、尊いものなんだ。だから耳を貸すな。お前はそのままで……』

 骸の表情は分からない。それでも熱の染みた声色から、刹那の想いが伝わってくる。何が「人を慈しむことはない」、だ――。

「ありがとうございます……でも、心配しないでください」

 何度揺さぶられようと、見据える先は変わらない。お咲でも、父の真似でもない微笑みで、刹那を見上げる。

「俺の神様はひとりだけです。あなたの言うこと以外、聞く気はありません」

 紅の染みた骸に手を添え、剥き出しの肋骨を抱きしめる。すると要塞のように堅牢な骨がかすかに軋んだ。

『やめろ……この姿に、触れるな』
「どんな姿でも関係ない。全部、『刹那さん』だから」

 何度も、拒絶の言葉を遮り続ける。「分かってくれるまで、ここから出られなくても良い」――そう伝えるとやっと、骸の中から細い音が漏れた。

『……人の熱を、感じない。それが呪いのせいかどうかも、もう思い出せん。いつかお前に触れてみたいと言ったが、本当は……恐い』

 強く美しい骸を安心させる言葉は、何一つ出てこない。ただ、震える骨から手を離さないこと。それしかできない。
 冷たい骨をしっかり抱えていると、色師の声がこだまする――「刹那を人に降ろすこともできる」、と。

「刹那さん――」

 言いかけて、唇を噛みしめる。いつまでも先を言わないでいると、俺の腕一本分もある指先が伸びてきた。滑々の表面に額をつけ、今一番必要な願いを口にする。

「『ここを出ましょう』、一緒に」

 やはり、「願い」の力はすごい。骸の骨がより太くなり、肉色の管に食い込んだ。刹那が渾身の力で壁を蹴り回っていると、奥の方から水音が迫って来る。

「刹那さん! あれに乗れば……」
『嗚呼、出るぞ』

 波に飲まれてから一瞬で、管の奥に光が見えてきた。あれは胃壁に掛かっていた洋灯ではない。より煌びやかな光を放つあれは――。

『キャアァァアァ!』

 窓硝子が震える悲鳴と共に、体が観覧席へ投げ出された。舞台を照らす飾電灯の明かりが眩しすぎて、目を開けていられない。

「小僧! 大事ないか?」

 どうやら、胃から脱出することができたようだ。色硝子の天井をのたうち回る白い鯨を遮り、刹那の顔が視界いっぱいに広がる。

「あ……元に戻ったんですね」
「早く起きろ。次の相手が待っているぞ」

 次の相手――研ぎ澄まされた視線の先に、黒服の女がそびえ立っている。その凛々しい顔つきには、不遇な子ども時代の、鋭く尖った面影が残されていた。

「半夏、さん……」

 愛生の用心棒(ガード)、と洋館で愛生から紹介されたことを覚えている。

「咲……愛生サマに反抗するなら、こうするしかない」

 大きくて迫力がある女だが、優しそうな人だと思った。その半夏が今、こちらに黒い鉄の筒を向けている。あれは確か、銃というものだ。さらに純白のリボンでくくった裾の隙間から、太ももの短剣が見えている。

「刹那さん」

 半夏は神ではなく、人間だ。愛生の記憶で見たことを最低限伝えると、刹那は堂々と前に進み出た。その目には闘志の赤が燃え滾っている。

「分かっている。殺さない程度に黙らせるぞ」

 神と人の、正々堂々勝負。すぐに決着はつくと思っていた。しかし錆紅の鎖をかいくぐり、半夏は刹那との間合いを瞬時に詰める。
近接では太ももの短剣を振るい、刹那が鎖でけん制すると、距離を取って銃弾を飛ばす。対黒の時の戦いとは違い、二人の衝突は目で追える。追えるのだが。

「刹那さんが押されてる……?」

 半夏の動きは、黒と比べて特別速いわけではない。白と違って、浮かべるわけでもない。ただ、戦いに慣れている。それも自分より強い相手との。
 珍しく呼吸を乱している刹那の背後で、『願い』を口にしようとした瞬間。

「刹那さん、後ろ!」

 天井を泳いでいた鯨が、大口を開けて降ってきた。それを紙一重でかわす刹那に、半夏が急接近する。振りかざされる短剣を、素手と鎖で受け流す。刹那が半夏から距離を開ければ、今度は銃弾が飛んでくる。すべて避けること自体は容易なようだが、合間に愛生の高音が鳴り響くことで意識を揺さぶられる。

「強い……」

 自分の身を守りながら、願いの言葉をかける。しかし刹那の動きは良くならなかった。

『神力を貯めるにも、器の上限がある。つーことは、仮の姿の刹那は今が一番強いってこった』

 いつの間に起きていたのか。そもそも、いつの間に刹那は俺の袖へ八咫を入れたのか。気だるげな声の主を取り出すと、呑気にも『おぅ』、と挨拶してくる。

「また、赤い骸にはなれないんですか?」
『アレは神力の消耗が激しいからな。ここぞという時のために取っておいてんだろ』

 つまり、今自分にできることはないということだ。刹那が戦っているというのに。

『来るぞ咲!』

 影を仰ぐと、白波が観覧席まで迫っていた。鯨が力強い青波に乗って、俺に向かってくる。あの大きさでは避けようがない。駄目だ、飲まれる――!

『咲、刹那を呼べ!』

 八咫の声に、諦めかけていた頭が急稼働をはじめた。

「刹那さん、『来て』ください!」

 願いを叫んだ途端、目の前に火花が飛んだ。地響きのような音が観覧席の下から聞こえたかと思うと、巨大な骸骨の頭が観覧席を割って現れた。確実に、今までで一等大きい。
 鯨に負けず劣らず巨大化した骸は、最初に見た時と同じ、黒無垢を纏っていた。刹那とわかっていても、やはりゾッとするような迫力がある。
喋ることはできないようだが、刹那の指先が俺の背にそっと触れた。どうやら今回は、力を制御できているようだ。
 こうなれば、人間になす術はない。刹那の巨大な手のひらが半夏を掴み、拘束する。そしてもう片方の手を鯨に伸ばし、尾びれに触れたその時。

『キャアァアァアァア――!』

 歌ではなく、絶叫が響いた。頭と体が揺さぶられ、五感がうまく働かなくなる。それでも何とか目だけは動いた。骸の手に拘束されていた半夏が、手足をだらんと伸ばしている。魚の神の声にやられたのだろう。

「あ……愛生さん! このままでは半夏さんが……今すぐ攻撃をやめてください!」

 それでも愛生は、構わず第二声を放った。刹那のおかげか、俺は意識を失わずに済んでいる。しかしこのままでは半夏が――。

『半夏と私は主従であり、同志なのです。大儀のために些末を切り捨てることの意味を、彼女も良く分かっているわ』
「さまつ……?」

 半夏は愛生が自ら体を清め、食べ物を与え、救いの手を差し伸べた人間だ。

「本当にそうですか? 愛生さんにとって半夏さんは、換えのきかない人なのでは?」

 神を言葉で制す。その難しさを、今改めて思い知った。もはや聞く耳を失った鯨は、分裂をはじめたのだ。二頭が四頭、四頭が八頭といった具合に、小さな鯨が次々と増えていく。そのうちの一頭が、俺めがけて降ってきた。

『愛を生む、なんて名はどうかしら?』

 今のは――。
 鯨に飲まれたのか、視界は真っ暗だった。それでも今、愛生と半夏の顔が見えた気がする。

『あいお……良いと思ウ。口調も変えタ?』
『ええ。だって私、海も陸も救う人気者になるのよ! 仰々しいのはよくないでしょう?』

 これはアレだ。鯨に接触したせいだろう。愛生の胃の中で見た続きが見える。

『そういえば、あなたの名は?』
『名……? おい。お前。とか』

 丘に上がった魚と汚れた白無垢の少女は、手を取り合い浜辺を歩いていた。祠のある小島を出て、本島へ渡って来たのだろう。

『何よそれ! そんなの名じゃあないわ。アタクシがとびっきり粋な名を付けてあげる。そうねぇ……春夏の間、ずっと孤島でこもっていたから――』

 愛生がその先を言わないうちに、塩味が口の中に広がった。その瞬間、穏やかな浜辺が崩壊寸前の劇場へと変わる。
 刹那は俺をもう片方の手で掴まえてくれていたらしい。おかげで溺れ死ぬ事態は免れたが、全身ずぶ濡れだった。半夏はまだ目を覚ましていない。
 こんなことが愛生の理想なのか。半夏が願いを託した神が、半夏を些末と切り捨てると――?

 唇を噛みしめ、拳を精いっぱいの力で握る。そのまま荒れ狂う神を仰いだ。

「あなたには何ひとつ救えない」

 回遊する鯨が、一斉に動きを止めた。突き刺さる視線に構わず、塩水が染みる唇を開く。

「大切な人のひとりも救えないあなたに、海も丘も全部救うなんてできない!」

「この世の人間すべてが神になれば、あらゆる迷いや苦しみから解放される」――愛生は最初にそう言った。だが、そんなことはあり得ない。少なくとも、俺が出会ってきた神々は「完全な存在」などではなかった。彼らは神の在り方を捨ててまで、人になりたいと願ったのだから。

『そんな……アタ、クシ……私、は……』

 分裂していた鯨が、ひとつに集まっていく。元の巨大魚に戻った後も、魚の神は天井で停止していた。その隙をついて、骸が跳躍する。
 腹の中が持ち上がり、全身を寒気が通り抜けた瞬間。宙を舞う巨大な骸骨の歯が、鯨の腹に喰らいついた。落下の勢いを連れて、鯨を観覧席に叩きつける。

『ひゅう! すげぇ! おい咲、今の背面落とし見たか!?』

 懐で騒ぎ立てる八咫を奥に押し込んだ。吐き気を治めるのに必死で、それどころではない。
 刹那が元の姿に縮まり、やっと足が地についた。ふらつく足を捨て、半夏の元まで腕で這っていく。すると急に体が軽くなった。

「小僧、早くあの女をみてやれ」

 刹那が手を貸してくれたのだ。半夏のところへ向かう途中、人の姿に戻った愛生がうつ伏せで倒れていた。一度通り過ぎたものの、刹那は愛生の足首を掴み、一緒に半夏のところまで引きずっていく。

「女の心音が弱くなっていっている。このままでは、半刻ももたないだろう」
「そんな! 今すぐ病院に……」
「この女が負ったのは、体の傷ではない。頭の中がやられたんだ。人間の医者に治せるものではないだろう」

 では、どうすれば良いのか。乱れる呼吸を抑え、刹那の閉じかけた目を見つめる。それでも紅の陰った唇から答えは出てこない。

「……神粧の儀」

 かすかな声に振り返ると、床に肘をついた愛生が起き上がっていた。深い青の瞳が、懇願するように俺を捉えている。

「ワタクシの神力を、どうかその子に……旅の道行きを祝福する、この力……すべて捧げれば、助かる、かも……」

 愛生の語る希望に、刹那と視線を合わせた瞬間――胸の中心に痛みが走った。六神の神力を八咫に集めているのは、刹那の呪いを解く手掛かりになるからに他ならない。いくら敵対していたからと言っても、人の命がかかっている。でも、刹那の呪いが――。

「構わない。やれ」

 少しの揺らぎもない声に、息が止まりそうになる。顔を上げた先には、煌々と燃え盛る赤が宿っていた。
 千年にも及ぶ自分の呪いを解くよりも、人の命を生かす――刹那の決断は、神として当然のことだったのだろうか。

「では、はじめます……」

 しかし今は、他所事を考えている場合ではない。劇場の崩壊は、刹那が余力を振り絞って骸化したおかげで食い止められている。そのうちに化粧箱から『深青』を取り出し、辺りに残る塩水に溶いた。世間を彩る歌姫――その整った顔立ちを前にすると、少し緊張する。それでも今は儀に集中しなければ。

「愛生さん、元の姿に戻ってください」
『……これで良いかしら?』

 壮大だ――この大きな魚が海を悠々と泳いでいる姿を思い出すと、筆を持つ指先が震える。それでも、と青に染まった筆先をゴムのような肉質の表皮につけた。すると、待っていたアレの続きが再開する。
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