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第七章 救済ノ丘
一
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「本当に、ここに刹那さんが……?」
目の前の舞台と瓦版の絵が一致しても、まだ信じられない。ここは帝都、否、全国一の名声を誇る、歌劇団「一条の光」の劇場だ。付喪神の洋館で、偶然にも生歌唱を聴くことができた一条愛生――彼女が看板歌姫を務めるここが、何故魚の神と関係しているのだろうか。
「坊や、一条様の公演は初めてかね?」
待ちくたびれたのか、隣の席の老紳士が声をかけてきた。
「ええ、初めてです」
「そうか。坊やもきっと驚くだろう、あの奇跡の歌声に」
ふだん「お嬢ちゃん」と呼ばれるせいか、坊やと呼ばれるのは妙な感じがする。色師から渡された『目立たない観覧客』の洋装は、珍しく男物だった。
「それともし君が何かに悩んでいるのなら……公演が終わった後も、席を立たずにいるといい」
「え? それは――」
「しっ、始まるよ」
老紳士の言葉の意味を考える間もなく、頭の中がとろけるような歌声が響いた。舞台に一筋差す光の中心に、かぶいた髪色の女が現れる。何百といる観客が一斉に静まり、一条に熱視線を送りだした。
『もしあなたが罪を抱えているのなら……救いの道を探してみない?』――付喪神の洋館で耳にした、一条の囁きが頭を過ぎる。
「本日はこれにて終幕――またのご来場、お待ちしておりますわ!」
煌びやかな衣装の演者たちが舞台袖にはけていき、スカートの端をつまんでお辞儀する一条だけが残った。幕は降りないものの、観客たちは満足げに帰っていく。しかし隣の老紳士は、そのまま動かずにいた。同じく、何人かは帰る支度をする様子もなく座っている。
「おぉ、坊やも救いを求めるのだね。大丈夫、一条様はどんな者にも救いをお与えになる」
人の動きが収まる頃、再び会場の明かりが落ちた。
「皆々様、お待たせいたしました。これより先は迷える者たちの集い――今宵も始めましょう」
舞台に差す光の中心には一条愛生、そして背後に黒服の用心棒――確か半夏といったか――が一条を見守っている。
「罪のないものなどありません。常より正しくある人などおりません。ゆえに、苦しみはすべてのものに存在するのです」
あの時と同じだ。愛生の言葉が頭に溶け込む。隣の紳士も、愛生に見入っているようだった。
「ですがご安心を。すべてが平等に、苦しみから解放される方法をアタクシは存じております」
詭弁、妄言――そうどこかで理解しつつも、愛生の言葉をもっと聞きたい。
愛生が言葉の端々に歌う洋歌に、全身が惹き込まれる。
「『神』になる――そう、『神』になれば、人の世に蔓延る苦しみすべてから解放されるのです」
神になる――?
「すべての人間を神にすること……それが我々、一条の光が追い求める希望なのです」
愛生様の口にすることが、史上最高の提案なのかもしれない。神になれば、俺も――。
「この世の人間すべてが神になれば、誰もがあらゆる迷いや苦しみから解放される。さらに絶対的な力の序列があれば、争いを収めることも叶うはず」
何を言っているんだ――?
どうすれば神になれるんだ――?
頭に金魚鉢が被せられているみたいだ。思考も、視界もぼやけている。
「皆さまご覧ください。ここにいる彼こそが希望の先駆者であり、神に最も近い人間なのです!」
突然降り注いだ天井灯に、曇っていた視界が晴れた。
「神の心ですら解す、慈悲の心を持つ者。彼はもうすぐ完成する」
眩しい。熱い。光が俺だけに集中している。
「レディ――いえ、ミスター咲。あなたは神になる資質をもっているの」
俺が、神――?
「そんな、俺はただの人間です!」
自分の大声で、ようやく頭がはっきりした。俺は神に雇われた、ただの化粧師だ。そう宣言すると、一条の幼い笑顔が消えていく。
「そう、救済を拒むのね……覚悟はよろしいこと?」
人々の呼吸音すら消えたその時。一条の小さな口が、無音の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。胸が倍に膨らんでも、薄桃色の洋装がはち切れても止まらない。溜めた息は、頭を揺さぶるような高音に変換された。ぶつり、と耳の奥で音がした後。耳がまったく聞こえなくなった。隣の老紳士も、その隣も皆、意識を失っている。
何をしたのか、と喉を震わせると、天井の燭電灯が点滅をはじめた。舞台の上で膨らみ続ける一条が、深青の波に包まれる。波間から現れたのは、広間を悠々と泳ぐ白い怪魚――鯨だ。
観覧席まで白波が押し寄せ、怒涛の勢いに流された。その間に潮を吹く頭、白い腹が俺めがけて迫る。
「魚の神……!」
ようやく耳が聞こえるようになった。渦巻く波の音に混じり、歌が聞こえる。遠くまで反響するようナ、ウタ、ガ――。
『オヤスミナサイ』
櫛のように並ぶ白い歯。それに、薄紅色の巨大な舌が目の前に現れた途端、何も見えなくなった。轟音とともに、体が水に流されていく感覚だけはある。
これは、鯨の中――?
天地が分からないまま流され続け、ある地点でぴたりと流れが止まる。吐き出された先は、部屋のようになっていた。肉色のでこぼこした壁に西洋ランプがかけられているおかげで、周りがぼんやり確認できる。壁や床は粘ついていて、時々動いているようだ。
「ここはあの女の胃の中だ、小僧」
この声――振り返った先にいたのは、探していた赤い女だった。
「まさか一条愛生が神だったなんて……一緒にいる半夏さんもそうなのでしょうか?」
胃の壁を突きながら振り返ると、刹那は洋燈を見上げていた。
「おそらくな。奴ら、最初から私とお前を謀っていたんだろう」
目に見えているものだけが正しいとは限らない――一条が洋館で口にした言葉が、今になってよみがえる。
「これを読め」、と刹那が懐から取り出したのは、昨日の別れ際に持っていた黒い封筒だった。
「『アナタの呪いと神紋の真実を、我が劇団の支配人が知っています』……って!」
差出人は、劇団『一条の光』だ。
「お前と私に共通する神紋について、何か分かればと思った……だが『支配人』とやらは現れず、待ち伏せしていたあの傾奇女に飲み込まれたんだ。最初から、お前をここへ誘導するつもりだったんだろう」
それがよく分からない。何故、俺なのだろう。すべての人間を神にする、俺が神に最も近い存在、など絵空事のような話ではないか。
「では『支配人』が刹那さんの呪いや神紋について知っているというのは、嘘だったんですか?」
「呪いはともかく、神紋については私ですら知らなかったことだ。お前に言われるまではな」
もし本当に、刹那自身ですら気づいていなかったことを知っているとしたら――一条の光の支配人は、一体何者なのだろうか。
「ただあの女は、お前をここに来させる必要があると言っていた」
舞台で愛生が熱弁していたことを話すと、刹那は眉根を寄せてその場に座り込んでしまった。
「神が人になるところは、神粧の儀で何度も見てきました。でも人が神になるなんて、そんなのあり得ない話ですよね」
刹那はすぐに答えず、再び洋燈に目を向ける。暗い瞳の中には、小さな炎が揺らいでいた。
「嗚呼、そうだな」
何かを迷っている。刹那の横顔はそんなふうに見えたが、これ以上訊くことは許さない、とも言っているようだった。
「刹那さん……あの、聞いてほしいことがあるんです」
刹那の前に膝をつくと、灯りを仰いでいた顔がこちらに向いた。
顔の半分は、肉が透けて骸骨になっている。美しい皮の下にある「死」を真っ直ぐに見つめ、温度のない手を額につけた。
「先刻、父にすべてを話すことができたんです。あなたのおかげで」
「私は何もしていない」、とそっぽを向く刹那に、思わず笑みがこぼれた。何もしていないどころか、刹那がいたからこそ俺は救われたというのに。
「でも、俺のしてしまったことは消えない。父の傷も、盗みも……それは俺にできることで、一生をかけて償うつもりです。だから、その……六神の儀が全部済んだら、あの時の言葉――俺だけの神様でいるって約束を、本当にしてはくれませんか?」
刹那が隣にいてくれれば、何度道を誤ろうと正しい道に戻れる。そう告げると、額に触れる指が、少しずつ熱を帯びていく……ような気がしたが、俺自身の熱が反射しているだけだった。刹那は軽く瞼を伏せ、紅の唇を引き結んだ。やがて、「本当も何も最初から本気だ」、と呟く。
「でも、俺を相棒以上にしてくれる気はないですよね?」
「前にも言ったはずだ。私が人を慈しむことはない」
「……もしかして、俺が嫌いとか」
「それは違う!」
安堵と疑問が一緒にやって来た直後。遠くで何かが破裂するような音が響いた。少しずつ、水音が迫る。
「これは……小僧、決して私の手をはな――」
雷のような轟音と共に、管の奥から波が押し寄せてくる。あっという間に飲み込まれ、気づけば刹那の手を離してしまっていた。
白く泡立つ波のせいで何も見えない。耳が聞こえない。そんな荒波の中、ゆったりと遊泳する巨大な魚影が頭の上を通っていった。ここは愛生の胃の中だというのに、何故ここで愛生が泳いでいるのか――。
波間の渦に弄ばれるうちに、そうか、と思い至った。これはいつものアレ――神の記憶だ。そう認識した途端、暗い空間は大海原へと姿を変える。
魚の神はひとりで海を回遊しながら、外国と行き来する巨大船を警戒していた。最近この辺りの魚が減ったのは、あの船が流す油が原因だと考えているらしい。そのため、魚の神はたびたび嵐を巻き起こした。外国からの船が寄港できないように。
『海の生きものを救うことこそ、人のためというもの……それが分からないとは、愚かな』
一方近海の漁村では、嵐の原因は、鯨を獲り過ぎてワダツミが怒っているのだと考えていた。神の怒りを鎮めようと、漁師たちは生贄を捧げる。その方法は、漁村から少し離れた小島の祠に、白無垢を着せた娘を送るというものだった。
『贄の嫁などいりません。人が海の生き物を敬う心を忘れなければ、私もこのようなことをせずに済むのです』
そう神託を残し、生贄は波に乗せて帰す。そんなことが続いたある日、帰りたくないという娘がやって来た。娘は傷と痣を身体中に負っている。
『まぁ! このまま帰すわけにはいきませんね』
『……喰うならさっさと喰エ』
魚の神は最初、娘を男と見間違った。ざんぎり髪の娘は体格が良く、ぶっきらぼうな口調だったのだ。しかし祠の穴に溜まった雨水で娘を洗おうとして、女だと気づいたようだ。
『ほら、きれいになりましたよ。傷が癒えたら帰してあげますね』
『……帰りたくなイ。さっさと喰エ』
『どうして帰りたくないのですか? 私(かみ)が帰すと申しているのですよ?』
娘はわけを答えない。己の名すらも話さない。そのまま小島の祠に居着いてしまった娘に、魚の神は魚や貝を運ぶことにした。毎日根気強く運ぶうちに、ようやく娘は口を開く。
『オレは山賊の生まれダ……漁村の人間を殺したこともあル。穢れて救いようがないかラ、村の生贄にされたんダ』
娘の親は捕まり報復を受け、自分だけが生きていても仕方がない。そう嘆く娘の前で、海の神は悟った。救うべき存在は、丘にもいるのだ――と。
『救いを、お求めですか?』
魚の神は巨大な尾びれを足に変え、娘のいる陸に上がる。人間の女を模したワダツミが美しい歌を響かせると、娘の虚だった瞳が輝きはじめる。
『さぁ手を取って、私を悲しみの丘へ導いて。きっと私の歌で、海も丘も救ってみせましょう』
魚の神に差し出された手を、娘が握った瞬間。祠が、神の島が、みるみるうちに遠ざかり、意識が海の中に引きずり込まれた。
「ここから先は観覧券が必要ですわ――お客さま」
目の前の舞台と瓦版の絵が一致しても、まだ信じられない。ここは帝都、否、全国一の名声を誇る、歌劇団「一条の光」の劇場だ。付喪神の洋館で、偶然にも生歌唱を聴くことができた一条愛生――彼女が看板歌姫を務めるここが、何故魚の神と関係しているのだろうか。
「坊や、一条様の公演は初めてかね?」
待ちくたびれたのか、隣の席の老紳士が声をかけてきた。
「ええ、初めてです」
「そうか。坊やもきっと驚くだろう、あの奇跡の歌声に」
ふだん「お嬢ちゃん」と呼ばれるせいか、坊やと呼ばれるのは妙な感じがする。色師から渡された『目立たない観覧客』の洋装は、珍しく男物だった。
「それともし君が何かに悩んでいるのなら……公演が終わった後も、席を立たずにいるといい」
「え? それは――」
「しっ、始まるよ」
老紳士の言葉の意味を考える間もなく、頭の中がとろけるような歌声が響いた。舞台に一筋差す光の中心に、かぶいた髪色の女が現れる。何百といる観客が一斉に静まり、一条に熱視線を送りだした。
『もしあなたが罪を抱えているのなら……救いの道を探してみない?』――付喪神の洋館で耳にした、一条の囁きが頭を過ぎる。
「本日はこれにて終幕――またのご来場、お待ちしておりますわ!」
煌びやかな衣装の演者たちが舞台袖にはけていき、スカートの端をつまんでお辞儀する一条だけが残った。幕は降りないものの、観客たちは満足げに帰っていく。しかし隣の老紳士は、そのまま動かずにいた。同じく、何人かは帰る支度をする様子もなく座っている。
「おぉ、坊やも救いを求めるのだね。大丈夫、一条様はどんな者にも救いをお与えになる」
人の動きが収まる頃、再び会場の明かりが落ちた。
「皆々様、お待たせいたしました。これより先は迷える者たちの集い――今宵も始めましょう」
舞台に差す光の中心には一条愛生、そして背後に黒服の用心棒――確か半夏といったか――が一条を見守っている。
「罪のないものなどありません。常より正しくある人などおりません。ゆえに、苦しみはすべてのものに存在するのです」
あの時と同じだ。愛生の言葉が頭に溶け込む。隣の紳士も、愛生に見入っているようだった。
「ですがご安心を。すべてが平等に、苦しみから解放される方法をアタクシは存じております」
詭弁、妄言――そうどこかで理解しつつも、愛生の言葉をもっと聞きたい。
愛生が言葉の端々に歌う洋歌に、全身が惹き込まれる。
「『神』になる――そう、『神』になれば、人の世に蔓延る苦しみすべてから解放されるのです」
神になる――?
「すべての人間を神にすること……それが我々、一条の光が追い求める希望なのです」
愛生様の口にすることが、史上最高の提案なのかもしれない。神になれば、俺も――。
「この世の人間すべてが神になれば、誰もがあらゆる迷いや苦しみから解放される。さらに絶対的な力の序列があれば、争いを収めることも叶うはず」
何を言っているんだ――?
どうすれば神になれるんだ――?
頭に金魚鉢が被せられているみたいだ。思考も、視界もぼやけている。
「皆さまご覧ください。ここにいる彼こそが希望の先駆者であり、神に最も近い人間なのです!」
突然降り注いだ天井灯に、曇っていた視界が晴れた。
「神の心ですら解す、慈悲の心を持つ者。彼はもうすぐ完成する」
眩しい。熱い。光が俺だけに集中している。
「レディ――いえ、ミスター咲。あなたは神になる資質をもっているの」
俺が、神――?
「そんな、俺はただの人間です!」
自分の大声で、ようやく頭がはっきりした。俺は神に雇われた、ただの化粧師だ。そう宣言すると、一条の幼い笑顔が消えていく。
「そう、救済を拒むのね……覚悟はよろしいこと?」
人々の呼吸音すら消えたその時。一条の小さな口が、無音の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。胸が倍に膨らんでも、薄桃色の洋装がはち切れても止まらない。溜めた息は、頭を揺さぶるような高音に変換された。ぶつり、と耳の奥で音がした後。耳がまったく聞こえなくなった。隣の老紳士も、その隣も皆、意識を失っている。
何をしたのか、と喉を震わせると、天井の燭電灯が点滅をはじめた。舞台の上で膨らみ続ける一条が、深青の波に包まれる。波間から現れたのは、広間を悠々と泳ぐ白い怪魚――鯨だ。
観覧席まで白波が押し寄せ、怒涛の勢いに流された。その間に潮を吹く頭、白い腹が俺めがけて迫る。
「魚の神……!」
ようやく耳が聞こえるようになった。渦巻く波の音に混じり、歌が聞こえる。遠くまで反響するようナ、ウタ、ガ――。
『オヤスミナサイ』
櫛のように並ぶ白い歯。それに、薄紅色の巨大な舌が目の前に現れた途端、何も見えなくなった。轟音とともに、体が水に流されていく感覚だけはある。
これは、鯨の中――?
天地が分からないまま流され続け、ある地点でぴたりと流れが止まる。吐き出された先は、部屋のようになっていた。肉色のでこぼこした壁に西洋ランプがかけられているおかげで、周りがぼんやり確認できる。壁や床は粘ついていて、時々動いているようだ。
「ここはあの女の胃の中だ、小僧」
この声――振り返った先にいたのは、探していた赤い女だった。
「まさか一条愛生が神だったなんて……一緒にいる半夏さんもそうなのでしょうか?」
胃の壁を突きながら振り返ると、刹那は洋燈を見上げていた。
「おそらくな。奴ら、最初から私とお前を謀っていたんだろう」
目に見えているものだけが正しいとは限らない――一条が洋館で口にした言葉が、今になってよみがえる。
「これを読め」、と刹那が懐から取り出したのは、昨日の別れ際に持っていた黒い封筒だった。
「『アナタの呪いと神紋の真実を、我が劇団の支配人が知っています』……って!」
差出人は、劇団『一条の光』だ。
「お前と私に共通する神紋について、何か分かればと思った……だが『支配人』とやらは現れず、待ち伏せしていたあの傾奇女に飲み込まれたんだ。最初から、お前をここへ誘導するつもりだったんだろう」
それがよく分からない。何故、俺なのだろう。すべての人間を神にする、俺が神に最も近い存在、など絵空事のような話ではないか。
「では『支配人』が刹那さんの呪いや神紋について知っているというのは、嘘だったんですか?」
「呪いはともかく、神紋については私ですら知らなかったことだ。お前に言われるまではな」
もし本当に、刹那自身ですら気づいていなかったことを知っているとしたら――一条の光の支配人は、一体何者なのだろうか。
「ただあの女は、お前をここに来させる必要があると言っていた」
舞台で愛生が熱弁していたことを話すと、刹那は眉根を寄せてその場に座り込んでしまった。
「神が人になるところは、神粧の儀で何度も見てきました。でも人が神になるなんて、そんなのあり得ない話ですよね」
刹那はすぐに答えず、再び洋燈に目を向ける。暗い瞳の中には、小さな炎が揺らいでいた。
「嗚呼、そうだな」
何かを迷っている。刹那の横顔はそんなふうに見えたが、これ以上訊くことは許さない、とも言っているようだった。
「刹那さん……あの、聞いてほしいことがあるんです」
刹那の前に膝をつくと、灯りを仰いでいた顔がこちらに向いた。
顔の半分は、肉が透けて骸骨になっている。美しい皮の下にある「死」を真っ直ぐに見つめ、温度のない手を額につけた。
「先刻、父にすべてを話すことができたんです。あなたのおかげで」
「私は何もしていない」、とそっぽを向く刹那に、思わず笑みがこぼれた。何もしていないどころか、刹那がいたからこそ俺は救われたというのに。
「でも、俺のしてしまったことは消えない。父の傷も、盗みも……それは俺にできることで、一生をかけて償うつもりです。だから、その……六神の儀が全部済んだら、あの時の言葉――俺だけの神様でいるって約束を、本当にしてはくれませんか?」
刹那が隣にいてくれれば、何度道を誤ろうと正しい道に戻れる。そう告げると、額に触れる指が、少しずつ熱を帯びていく……ような気がしたが、俺自身の熱が反射しているだけだった。刹那は軽く瞼を伏せ、紅の唇を引き結んだ。やがて、「本当も何も最初から本気だ」、と呟く。
「でも、俺を相棒以上にしてくれる気はないですよね?」
「前にも言ったはずだ。私が人を慈しむことはない」
「……もしかして、俺が嫌いとか」
「それは違う!」
安堵と疑問が一緒にやって来た直後。遠くで何かが破裂するような音が響いた。少しずつ、水音が迫る。
「これは……小僧、決して私の手をはな――」
雷のような轟音と共に、管の奥から波が押し寄せてくる。あっという間に飲み込まれ、気づけば刹那の手を離してしまっていた。
白く泡立つ波のせいで何も見えない。耳が聞こえない。そんな荒波の中、ゆったりと遊泳する巨大な魚影が頭の上を通っていった。ここは愛生の胃の中だというのに、何故ここで愛生が泳いでいるのか――。
波間の渦に弄ばれるうちに、そうか、と思い至った。これはいつものアレ――神の記憶だ。そう認識した途端、暗い空間は大海原へと姿を変える。
魚の神はひとりで海を回遊しながら、外国と行き来する巨大船を警戒していた。最近この辺りの魚が減ったのは、あの船が流す油が原因だと考えているらしい。そのため、魚の神はたびたび嵐を巻き起こした。外国からの船が寄港できないように。
『海の生きものを救うことこそ、人のためというもの……それが分からないとは、愚かな』
一方近海の漁村では、嵐の原因は、鯨を獲り過ぎてワダツミが怒っているのだと考えていた。神の怒りを鎮めようと、漁師たちは生贄を捧げる。その方法は、漁村から少し離れた小島の祠に、白無垢を着せた娘を送るというものだった。
『贄の嫁などいりません。人が海の生き物を敬う心を忘れなければ、私もこのようなことをせずに済むのです』
そう神託を残し、生贄は波に乗せて帰す。そんなことが続いたある日、帰りたくないという娘がやって来た。娘は傷と痣を身体中に負っている。
『まぁ! このまま帰すわけにはいきませんね』
『……喰うならさっさと喰エ』
魚の神は最初、娘を男と見間違った。ざんぎり髪の娘は体格が良く、ぶっきらぼうな口調だったのだ。しかし祠の穴に溜まった雨水で娘を洗おうとして、女だと気づいたようだ。
『ほら、きれいになりましたよ。傷が癒えたら帰してあげますね』
『……帰りたくなイ。さっさと喰エ』
『どうして帰りたくないのですか? 私(かみ)が帰すと申しているのですよ?』
娘はわけを答えない。己の名すらも話さない。そのまま小島の祠に居着いてしまった娘に、魚の神は魚や貝を運ぶことにした。毎日根気強く運ぶうちに、ようやく娘は口を開く。
『オレは山賊の生まれダ……漁村の人間を殺したこともあル。穢れて救いようがないかラ、村の生贄にされたんダ』
娘の親は捕まり報復を受け、自分だけが生きていても仕方がない。そう嘆く娘の前で、海の神は悟った。救うべき存在は、丘にもいるのだ――と。
『救いを、お求めですか?』
魚の神は巨大な尾びれを足に変え、娘のいる陸に上がる。人間の女を模したワダツミが美しい歌を響かせると、娘の虚だった瞳が輝きはじめる。
『さぁ手を取って、私を悲しみの丘へ導いて。きっと私の歌で、海も丘も救ってみせましょう』
魚の神に差し出された手を、娘が握った瞬間。祠が、神の島が、みるみるうちに遠ざかり、意識が海の中に引きずり込まれた。
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