ヒトカミ粧

見早

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第六章 生ヅレバ去ル

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「……起きてたんですか」

 懐から八咫を取り出し、化粧の崩れた俺を映した鏡面と向かい合う。まったく、普段以上に酷い顔だ。

『咲、お前……吾が■■と話してるところ、見たな?』

 声色に感情がない。疲労で軋んでいた頭が緊張し、閉じかけていた目が開く。

『どうなんだ?』

 よく聞き取れないその言葉は、色師よりも上位の神――黒白を使い、神粧の儀を阻止しようとした神の名だ。あの唐突な幻の中で、その神は八咫に指示をしていた。色師を見張れ、と。しかし八咫は、これまでの四柱を神粧する間、ずっと協力してくれたのだ。

「……八咫さんの、本当の目的は何ですか?」

 息苦しい沈黙の後。八咫は弱々しい笑い声を上げた。

『なに、悪いようにはしねぇよ。お前も、刹那も、色師もな』

『信じてくれ』、と最後に残し、八咫は口を噤んでしまった。
 彩色の間に向かい、色師に神紋のことを尋ねたものの、答えは「知らない」だけだった。
 では、誰が俺と刹那にこの神紋を刻んだのか。色師が分からないということは、色師以上の神階にある神なのかもしれない。

「色々疲れたでしょ? そんなことより今は、実家で休んできたらどうだい?」

 半ば強引に暇を出され、八咫を連れたまま水鏡をくぐった。もちろん「咲」に戻って。

「ただいま」

 常世は年中夜だが、人の世は夜明け時だった。久しぶりの実家に入ると、仕事終わりの父が布団に倒れ寝ている。

「……さ、く」

 起きているのかと思ったが、父はすぐに規則正しい寝息を立て始めた。押し入れから掛け布団を引っ張り出し、着物の乱れた体にそっと乗せる。
 相当疲れていただろうに、化粧だけはきちんと落としてあった。元々細やかな顔の作りだが、素顔はやはり男らしい顔つきだ。これまでは見るのも辛かった父の顔が、今は少しだけ真っ直ぐに見られる。痛々しく残った傷痕も――。

「ん……咲?」

 薄っすら開いた目が俺を捉えると、父は弾かれたように体を起こした。そして、「本当に咲ちゃん!」と肩を掴まれる。長らく不在にしていたせいで、かなり心配をかけてしまったようだ。

「ただいま帰りました、父さん」

 久しぶりに、父と二人きりで朝餉をとることにした。俺が火を起こす間に、父が菜っ葉を刻む。無言が、どういうわけか以前よりも苦しくない。

「それで、あの娘とはどうなったの?」

あえて「え?」と訊き直すと、やはり刹那のことだった。父は甕の水を鍋に移しながら、「前に劇団にも来てくれてたよね」、と付け加える。父と団長、二重のお説教を喰らったあの日のことだ。まったく、いつの間に見ていたのだろうか。

「どうも何も、刹那さんとは住む世界が違うんです……最初から報われない想いですから」
「あら、父さんと母さんも住む世界が違ったんだよ?」

 思わず炭をいじる手を止め、素朴に微笑む父を見上げた。そんな話、聞いたことがない。

「俺の家は代々さざめ一座に世話になってるって話はしたね。でも母さんは、高貴な家のお姫様だったんだ」

 今でこそ一座は落花街に落ち着いているが、昔は各地を転々とする旅興行をしていた。父は俺くらいの歳頃の時、立ち寄った街で母と出会ったのだと言う。

「よく相手の家に母との結婚を許してもらえましたね」
「許してもらってないよ。次の街に移動したら、なんと吃驚! 芸事の道具入れに母さんが入ってたんだよねぇ。『荷物なら仕方ない』ってことで、みんな見て見ぬふりしてくれたんだ」
「えっ、それって!」

 家出、もしくは駆け落ちというのだろうか。そう指摘すると、父は菜っ葉の鍋に味噌を溶かしながら、数度咳払いをした。

「それにしても、親子は似るんだねぇ。母さんも俺より年上だったし」

 しかし俺の場合、住む世界が違うどころか根本から違う。厄介なことに、相手は神様だ。
 釜土の燃え盛る赤を見つめながら口を噤んでいると、頭にそっと手が触れた。

「咲。自分の気持ちに嘘をつくことだけは、いけないよ」

顔を上げると、温かく透明な光が父の目にあふれているのが見えた。まったく違うはずだというのに、その光を見ていると、乱暴で真っ直ぐな神様の目を思い出す。その神様は、こう宣った――『お前が何度道を誤まろうが、私は決して見捨てない』、と。

「あの、父さん」
「ん?」
「俺ずっと……苦しかった」

 父の傷跡を見る度、あの日の赤を思い出すこと。父が許してくれることで、自分を責め続けていたこと。その方法まで、ぽつり、ぽつりと口にする。乱れる息を、何とか押し出して。
 長い沈黙が、これまでにすれ違ってきた死よりも、ずっと恐ろしい。やがて父が土間に膝をつき、熱を持った額が俺の手に触れた。
「咲……ごめん」、と、震える吐息が手の甲にかかった直後。

「許すも許さないもないんだ。何があっても、俺たちは親と子なんだよ」

 演技でも慰めでもない声に、視界が揺らぐ。そして言葉よりも何よりも、父の額から伝わる温度に思考が溶かされる。父が仕事に出るまで、胸に込み上げる嗚咽が治まることはなかった。



 実家を出た後。助六じいさんのところに顔を出してみたが、やはりお露はいなかった。おかしなことに、じいさんは「ワシに孫などおらん。お前が孫代わりみたいなものだ」、と日課の新聞読みをしている。お露のことを話しても、俺を妙な顔で見るだけで相手にしてくれない。

『なぁ咲、色師から呼び出しだぜ』

 八咫がいつもの調子で少し胸が楽になった。じいさんの中庭にある池をくぐり、常世に戻る。
 玄関の水瓶から這い出たところで、ここにいるはずのない神とばったり会った。

「刹那さん、もう起きて大丈夫なんですか?」

 震える手には、黒い封筒が一枚くしゃくしゃに握られている。何だか様子がおかしい。

「平気だ。お前も今日くらいすべて忘れて、休むことに集中しろ」

 刹那の方が休むべきでは。そう忠告する前に、「コイツ借りてくぞ」と八咫をひったくられた。

「あっ! もう……刹那さん、どこ行くんだろう」

 ひとまず彩色の間へ向かうと、色師はひとりで箪笥の上に正座していた。やけに着衣の乱れた取り巻き神も、今日はいない。

「やぁ、お休み中に申し訳ない。急なんだけど、一緒に草木のところへ行ってくれないかな?」
「一緒にって、色師さんはここから出られないのでは? 刹那さんと八咫さんもいませんし」
「だいじょーぶ! この子にアタシの目になってもらうからね。神力はこの器でも回収できるようになったし、今回は用心棒も必要ないよ」

 すると茶色に染まった畳から、見覚えのある陶器がにゅっと生えてきた。

「これ、隅にあったやつですよね?」
「うん。割れちゃったんだけど、捨てるのもったいないしね! アタシのお出かけ用の器に造り変えちゃった」

 しかもこの接ぎだらけの埴輪、幻の中で八咫が聞き取れない名で呼んでいたアレだ。

「大丈夫なんですか? これ、使って……」

 色師は首を傾げた後、「うん、ただの入れ物だし!」と笑う。

「それじゃあ向かおう! 五柱目の六神、『稲妻』の元へ」

 最後に箪笥のてっぺんを見上げると、「色」の向こう側の顔が寂しげに微笑んだ気がした。
 八咫がいないと水鏡が使えないため、「箪笥の裏にある戸から出てね」、と指示を受けた。まさかこんなところに常世と人の世を繋ぐ戸があるとは。真っ暗闇の中、石段を足裏の感覚だけで降りていく。そのうち、かすかな光が現れた。少しずつ大きくなる光に、全身を包まれる。
 眩んだ目が、ようやく見えるようになった頃。景色が開け、雑踏に混じる汽笛の音が聞こえてきた。ここは――。

「鉄道駅?」

 振り返ると、風景を切り取るように開いていた暗闇の戸が霧散していった。

『さて、彼がいるのはこっちだよ』

 足元にはあの埴輪がいた。短い手足をこまごまと動かし、少しずつ前進している。
 埴輪越しの色師に洋風の街を案内され、辿り着いたのは殺風景な広場だった。その隅に佇む巨大な切り株を、埴輪の丸い手が指し示す。

『あれが草木の神――稲妻さ』

 切り株の傍には、大黒柱にでもなりそうな倒木が転がっている。きっと何百、何千年と生きた木だったのだろう。太い幹には朽ちかけた注連縄が残っている。

『可哀そうにねぇ。近代化のために、彼の大きな体が邪魔になったんだろう。でも、まだ神力は残っているからね。回収しよう』

 促されるまま、大木の幹に触れる。すると急に辺りが暗くなり、目の前で息絶えようとしている神の「記憶」が周囲を旋回しはじめた。祝い、争い、弔い――稲妻の見てきたものは、人間の歴史だ。頭が割れそうに痛むのは、情報が一気に流れ込んでくるせいか、それとも稲妻の悲しみに呼応しているのか。やがて強風に吹かれる雲のような像が、跡形もなく消え去った。

『そうか、これが……』

 色師の声が揺れている気がして、ふと埴輪を見下ろした。すると、ぽっかり開いた二つの穴から透明な滴が垂れている。

『良いかい咲くん。しかと目に焼き付けておいてくれたまえ。神は確かに存在した。神は人のために生まれ、役目を果たそうとしてきた。ただ時は過ぎ、人は自らの力を信じて歩むようになったんだ。そう、まさにキミのようにね』

 頭の中に直接響く声が、遠のいていく。完全に止んだところで埴輪を見下ろすと、滴などというものは跡形もなく消えていた。見間違い、だったのだろうか。

『キミはこれまでに、ああいうものをずっと見て来たのかい?』
「ええ。この力に何度も助けられてきました……って、これ色師さんの神力の影響ですよね?」

 何を今更言っているのか、と埴輪を見下ろすと、埴輪はその場で足を止めた。

『いや、こんなの初めて見たよ? アタシの力じゃないね』
「でも、色師さんは特別な目をもっていますよね? 色具を通して、俺にその力が及んでいるとか――」
『それは未来視さ。アタシには過去を視ることなんてできないよ』

 では、どこから来ている力だというのか。俺は化粧をするしか能のない、ただの人間だ。

『まぁ、そんなことどうだっていいじゃない。結果的に助かってるんだから、幸運(ラッキー)!』

 埴輪は『まだ付き合ってもらうよ』、と急ぎ足で先をいく。
 路面電車に揺られながら、隣の色師――もとい埴輪は懐かしむような吐息を漏らした。

『アタシと刹那がはじめて出会ったのは、ちょうどあの座敷あたりさ。その時にはすでに、刹那は呪いを受けていたんだ』

 誰から受けた呪いなのか、そう問いかけると、色師は「知らない」と笑った。ちょうどそれは、先に神紋のことを尋ねた時と同じような反応だ。刹那の呪いも、色師よりさらに上位の神がかけたものなのだろうか。

「誰が何のために、呪いなんてものをかけたんでしょうね? あの骸化のせいで、刹那さんは苦しんでいるのに……許せない」
『嗚呼、そうだね。決して許されないことだ』

 神妙な口調の色師に、隣の埴輪を横目で見た。

「あの、色師さん。今日は何だか……」
『キミで良かったよ』

 唐突な言葉に、言いかけたことが頭から抜け落ちる。

『キミは償いを受け、与えられた仕事をこなし、そして――いや、本当によくやってくれたね』

 いつものからかいではない真っ直ぐな賛辞に、埴輪から視線を逸らした。誰かからこんな風に言われるのは初めてだ。それも相手は神様だというのだから、余計に妙な気分になる。

「色師さんもでしょう? 神は生まれながらに役を与えられているって、前に烏梅さんから聞きました。それって、常に人のために働いてるってことじゃないですか」

 思い返せば、色師が俺に与えてくれたこの仕事――化粧師だって、俺にとっては救いになった。普段は色欲に塗れているように見えるが、色師だって自分の仕事をこなしているのだ。

『……そろそろ降車だ。行こう、咲ちゃん!』

 照れているのか、それとも何か考え込んでいたのか。色師は特別答えることなく、電車から降りて行った。
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