ヒトカミ粧

見早

文字の大きさ
上 下
24 / 39
第五章 濡羽ニ櫛

しおりを挟む
『さ、儀を続けておくれ』
「……分かりました」

 ふっと後ろを振り返ると、刹那の姿が消えていた。代わりに残っていた八咫が、『アイツは一足先に行ってるとよ』、と言う。キヨのところへ行ったということだろうか。ひとまず考えることを止め、目の前の烏梅に集中する。
 与えられた色具を塗るだけ、とこれまで思っていた。しかしこの仕事は、そんなに簡単なものではない。これは、新たに生まれる命を「祝福」する儀だ。晴れの化粧で、これから人生を歩むことになる神を送り出す。化粧師(おれ)はただ無心に筆を動かすのではいけない。神の顔を粧すこの時に、悔いのない『祝福』を込める。彼らがこの先、幸福な人生を歩めるよう『願う』。それが、神粧の儀――。

「終わりました」

 最初に出会った時と同じ、瞳に十字の星を宿した少女の顔だ。八咫を預けると、烏梅はにっこり微笑んだ。すると烏梅の体から溢れた神力が、眩い光となって八咫へ吸収されていく。

「良い仕事じゃ。昔のワシと同じ年頃にしなかったのは、お主の優しさか」
「……とにかく、今はおキヨさんのところへ行きましょう。時間がないのでしょう?」

 なぜ烏梅は「時間がない」と急かすのか。なぜ刹那が先に向かったのか。今になってやっと分かってきた。



 母屋で、キヨは湯を沸かしているところだった。

「あぁ咲ちゃん、おかえり。お友達が先来とるよ」

 刹那は縁側であぐらをかいていた。キヨは、茶を出そうとしてくれているのだろう。

「おキヨさん。あなたに会わせたい人がいるんです」
「オラにか? こーんな年寄りに会いにきてくれるなんて、一体どこの誰……」

 今の烏梅は、キヨの知っている姿とは違う。それでもキヨのシワに埋もれていた目が、烏梅を捉えた瞬間大きく見開いた。

「……あぁ、今茶を沸かすでな。縁側で待っとくれ」

 烏梅は静かに奥へ向かっていった。何かを言いかけた唇を噛みしめながら。
 縁側へ行く前に、キヨが干してくれた旅装束に着替える。遅れて向かうと、小さく丸まっている烏梅の横で、刹那は少し霧がかった満月を見上げていた。

「あの老人、もう長くないぞ」
「……そう、ですか」

 烏梅の焦りから、そして刹那の態度から、その可能性は感じていた。力のある神は人間の寿命が分かると、以前八咫が言っていたからだ。ただ、改めて言われると落ち着いていられなくなる。最初からそれを分かっていて、烏梅は「時間がない」と繰り返していたのだ。

「お待たせ。はいよ」

 四組の湯呑みを運んできた盆が、かすかに震えていた。昨日は震えひとつない手だったのに、と些細なことまで気にかかる。
 キヨが隣に座っても、烏梅は何も言わない。一方キヨも、庭の小川を眺めながら茶をすするだけだ。このままでは埒が明かない――。

「あっ、そうだ! おキヨさん、昨晩見せてくれた櫛、もう一度見てもいいですか?」
「……構わないよ。そういや咲ちゃんのも仕上げが終わったんだ。持っておいき」

 沈黙の流れる縁側から抜け出し、キヨの作業台に向かう。そこには白椿の櫛が置いてあった。俺が昨日描いた絵に、より立体的になるよう彫りが入っている。その横には、あの櫛が置いてあった。装飾箱にしまっていないということは、キヨはこの櫛をずっと眺めていたに違いない。自分の櫛を懐にしまい、もう片方の櫛を縁側のキヨまで持って行く。

「それは……」

 返し文の櫛を見た瞬間、烏梅の目に灯る光が揺れた。

「まだ、持っていたのか?」

 十字の瞳を、キヨが真っすぐに見つめ返す。その眼に宿る光は、烏梅の記憶で見た娘時代のキヨと少しも変わっていなかった。

「ええ。櫛はたんと作ってきましたけんど、この櫛は……オラの魂を捧げた、唯一の櫛じゃて」

 キヨが震える指で櫛の鳥を撫でると、烏梅の目から涙がこぼれ落ちた。あぁ、彼女はもう人になったのだ――。

「おキヨ、許しておくれ……ワシは、ワシは……」
「最初から恨んでなんかいやしません。ただ己にいくばくか、憤りを感じておるがね」

 泣き崩れる烏梅の頭を膝に抱え、キヨは笑っている。

「櫛をいただいた時、なしてオラは『連れでって』って言わなかったのか。ねぇ――鳥の神様」

 最初に烏梅を見た時の、あの反応――キヨは烏梅が神であると、最初から知っていたのだ。

「ワシらは人の世に『在るもの』であって、『生き物』ではなし……其方を連れて行くことは、できなんだ……」

 吐息のような弁解を聞くうちに、胸がいっぱいになっていく。月明かりに光るキヨの頬を、真っすぐに見ることができない。

「ええ、ええ……もうすべて良いのです。だって、こうしてまた逢えたんだから」

 櫛を挟んで手を握り合う二人から、そっと後退った。ずっと存在感を消している刹那の袖を引き、居間の方を無言で指差す。居間まで遠ざかり、障子戸を静かに閉めた。

「しばらく、二人きりにしてあげましょう」

 振り返ると、刹那は畳の目を見つめていた。元々よく喋る方ではないが、ここまでだんまりになっているのも珍しい。

「あの、刹那さん……」
「神と人は結ばれない」

 突然足元が崩れたような感覚がして、思わず近くの桐箪笥にしがみついた。左胸の激しい脈に、懐の櫛が押されている。

「ただ、神粧の儀はそれを覆す。そのことが今回はよく分かった」

 稀に見る刹那の柔らかい笑みに、足元の崩壊が収まった。刹那は――刹那自身は、神と人の絆をどう考えているのだろうか。

「烏梅さんみたいに、もし人を好きになったら……刹那さんはどうしますか?」

 聞きたくない。が、聞きたい。死罪の宣告を受けた時よりも、胸が破裂しそうになっている。じっと耐えていると、刹那の真紅の唇が少し尖った。

「ふっ……はははははは! この私が、人を?」

 見たこともないほどの爆笑に、開いた口が塞がらなくなった。やがて燃え盛る赤眼が真っすぐこちらを射抜く。

「私は神だ。たとえ無名であろうと、それは揺るぎない。私は私として生きる――ゆえに、人を慈しむことはない」

 生き物として……否、「在り方」として、刹那と自分は違う。そうはっきりと突きつけられた瞬間だった。
 ここではないどこかへ、今すぐ消えてしまいたい――土間へ降りようとしたその時、縁側と居間を隔てる障子戸が開いた。

「烏梅さん……」

 先ほどはキヨが烏梅を抱えていたが、今は烏梅がキヨを腕に抱いている。安らかに眠るキヨの顔に、十字の瞳が温かい眼差しを送っていた。

「逝ったよ」

 あんなに涙を流していた烏梅が、今は笑っている。

「咲、頼みがある」

 揺さぶられる心が涙へ変わる前に、烏梅の言葉へ耳を傾けた。頼みとは、「化粧をしてやってほしい」、というものだ。
 仏を粧すなんて、母以来か――。
 三人で、まずはキヨの全身を清めた。最後まで娘時代と同じ輝きを失わなかった顔を、櫛師として長く働いてきた指を、禊川の水を含めた布で拭う。そうして最後に、青白い顔色へ紅を差した。熱を失っていく肉には、化粧が馴染まない。それでも何度も塗り重ねながら、キヨの安らかな旅路を願った。
 まる二日をかけ、埋葬まで終えた後。

「ワシはここに残る」

 烏梅はキヨの暮らしたこの家に、ひとりで住むと言い出した。

「今のあなたは、まだ幼い女の子なんですよ? 事情を話してお宿へ戻れば……」
「それはいかん! ワシは大兄者に逆らった身じゃ。勘当されたも同然であろう」

 納得いかないが、烏梅の意志は固かった。ひとまず庭の小川と八咫を水鏡で繋ぐことで、いつでも行き来できるようにする。何かあればすぐに常世へ渡るという約束を取り付けた。

「人が神の世へ干渉するのは、本来良いことではないんじゃがのぅ」
「俺なんて頻繁に出入りしてますよ?」
「お主はあの紋が……いや。とにかくワシはへーきじゃ! お主らは色師の元へ行くのじゃろう? さっさと行ってしまえ」

 平気なようには見えないが、いつまでもここでゆっくりするわけにもいかない。そっぽを向いている烏梅に手を振り、魚の背が光る小川に向かう。

「咲」

 振り返った先には、今にも泣きそうな笑顔があった。

「ありがとうございました……主神殿にも、感謝の言葉を伝えておくれ」

 つられて込み上げるものを飲み込み、大きく頷く。
 今度こそ出発だ。そう胸に唱え、振り返ったその時。小川の縁に立つ刹那の体が、ぐらりと揺れた。とっさに手を伸ばすも、刹那は自分ですっと起き上がる。まるで「今何か起きたか?」、とでもいうような顔だ。

「まだ本調子ではないのでしょう? 無理はしないでくださいね」

 出しかけた手を引っ込め、炎のチラつく瞳からそっと視線を逸らす。

「私に無理などというものは存在しない。行くぞ」

 刹那がいつになく強気の口調で踵を返した、その時。

「刹那さん!」

 瞬きの間に肉が溶け、赤い着物に包まれた体が音もなく崩れていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~

ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。 そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。 そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。

処理中です...