ヒトカミ粧

見早

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第五章 濡羽ニ櫛

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 新緑の山を飛行する最中。大兄たちが神粧に反対するわけを尋ねると、烏梅はためらいつつも鳥の神――神たちの「在り方」について話してくれた。

『人は無垢に生まれ、自由に死にゆく。しかし神には、生まれながらのお役目というものがあってな。それを遂げずに消えゆくことは、恥とされておる』

 つまり。神が人になるということは、神としての名を捨て、お役目を降りるということだと烏梅は言う。

『また、ワシらの一族は人と関わることを良しとせぬ』

「でも、人相手に商売していますよね。温泉とか、このお酒もそうですけれど」

 二兄にもらったお神酒を掲げると、烏梅は小さくため息を吐いた。

『あの場所は本来ワシらの社じゃ。時代を経て人が寄りつかなくなったからのぅ。薬湯の宿は人を集め、信仰に代わるものを得る手段に過ぎん』

 宮司に化け、社を盛り立てていた雪見。人気作家子葉の代筆として、同人雑誌を製作していた伍。確かにこれまで出会った神も、そうやって生き抜こうとしていた。

『少し前。ワシはお役目に関係ないところで、人間と深く関わり過ぎたことがあった。罰として仮の姿を幼子へ変えられ、その人間からはワシが見えなくなるようにされてしまったのじゃ。まぁ自業自得じゃな!』

 烏梅の明るい声には、切なさが滲んでいた。今もその人と会いたいのだろうか――。

『それで、刹那とやらはどこにおるのじゃ? こちらも時間がなくてのぅ』

 どうやら『願い』の効果は一時的なものらしい。話をするうちに、烏梅はすっかり元の大きさのガラスに戻ってしまった。

「昨日の朝は、山道の途中で別れてしまったんです。黒さん……ええと、執神に襲われて」
『なに、執神じゃと? そんなんワシでも勝てぬわ! 無名神ともなれば、今頃腹の中でもおかしくはないぞ!?』

 烏梅の反応に、改めて執神の脅威を認識する。

「とにかく、山道に沿って飛んでください」

 お神酒をより強く抱きしめ、獣道を注意深く見張っていると――坂道に立つ鳥居の手前、横道の茂みに、植物を枯らしている黒い泥を見つけた。さらに奥には、巨大な影が動いている。

「烏梅さん! あの辺りを、もっと低く飛んでください」

 やはりあそこにいるのは黒だ。しかし様子がおかしい。黒の体から黒い泥の波が絶えず溢れ、その手にはいつもの禍々しい刀ではなく、白銀の刀身が光る刀が握られている。近くには、刹那も白もいないようだった。

『あれは不味い……咲、泥の中を見ろ』

 集中し、黒の溶けかけた体の中を観察する。そのうち、赤い着物の袖が泥の中から飛び出していることが分かった。

「そんな……! 刹那さんがあの中に?」
『共食いだ。そんなエグいことをやるのは邪神以外に聞いたことがない。あそこまで取り込まれてはもはや……』
「どうにか引っ張り出せないんですか!?」

 とにかく下に降ろすよう訴えるが、烏梅は「死にに行く気か!」、と進んでくれない。

「でも、このままじゃ刹那さんが……! 何か、何か手は……」

 願いの言葉を唱えても、刹那に聞こえないのでは意味がないようだ。別の案を必死に捻り出そうとしている最中に、烏梅がふとこちらを振り返った。

『邪神――そうか! ヤツの正体が邪神ならば、ワシらの造ったソレが効くやもしれぬ!』

 烏梅のいうソレはお神酒だった。宿の名物だと二兄からもらったこれが、あの黒に効くのだろうか。しかし今は烏梅を信じるしか手はない。

「分かりました……俺が刹那さんを引きずり出すので、烏梅さんは低く飛んでください」

 両手を離しても落ちないよう、烏梅の口ばしと俺の両足を帯紐で結びつける。そうして機を見計らい、烏梅は急降下をはじめる。

『今じゃ! それをヤツの本体へぶっかけろ!』

 黒の真上に差し掛かった瞬間、瓶の口を逆さにした。濁り酒が降りかかったところの泥が、えぐれるように溶けていく。
 ほんの一瞬目にした黒の瞳は、禍々しい闇に染まっていた。苦しみ悶えながら、森中の木々を揺らす叫びを上げている。さらに黒の手から白銀の刀が落ちると、月色に輝く刀身が膨張しだした。それが次第に人の形を成していく様に、思わず目が奪われる。

『疾くその女神を回収するんじゃ!』

 烏梅の怒号に、一瞬で我に返った。溶けた泥から現れた刹那の腕を掴み、烏梅に浮上の合図を出す。

『お、重っ……く、ぅおらぁぁぁぁあ!』

 羽を散して急上昇する烏梅に合わせ、刹那の腕にしがみついた。決して離さない――それだけを考え腕に力を籠める。すると泥の中から、刹那の全身が引っこ抜けた。

「やりました烏梅さん!」

 こちらを睨む黒が遠ざかっていく。泥まみれの神の姿が見えなくなったところで、ぐったりした刹那の頬に触れた。

「刹那さん! 刹那さん!?」

 軽く揺さぶっても、耳元で声をかけ続けても反応がない。

『落ち着け、咲。その女神をこれから行く川へ落とせ!』

 そんなことをして大丈夫なのか。刹那は本当に助かるのか。絶えず湧く疑問が頭を乱す。しかし今は、烏梅を信じるしかない。

『衣を剥いで、体の内と外から禊川の水を――あぁ面倒じゃ! お主も行け!』

 口ばしに結び付けていた帯を切られ、体が大きく傾いた。その拍子に刹那を抱えたまま落ちていく。覚えのある衝撃の直後、冷たい水が口に入り込んできた。歯を食いしばり、烏梅の言葉を思い出す。衣を剥がして、川の水を体の内と外に浸けるのだったか――帯を緩め着物の合わせを開くと、刹那のうなじにある紋がぼんやり光っていた。付喪神の洋館で初めて目にした、紅花に似た形の紋だ。
 そうか。以前、この紋をどこかで見たことがあるような気がしていたが……烏梅が「神紋」と言った、俺の胸にあるこの痣。はだけた胸の隙間から、刹那の紋と同じ光を放っている。気づいた途端、溜めていた息がすべて泡になり、刹那の長いまつ毛を撫でて昇っていった。一度浮上し、刹那の体を陸に引き上げる。

『どうした?』

 肺が痛い、耳がうまく聞えない。そんなことより――。

「せつ、な、さん……目を、覚まさない!」
『川の水を体内に口移せ!』

 もうろうとする頭に過るのは、先日の情けない記憶だった。

『いいからやれ! 失ってからでは遅いのだぞ!?』

 烏梅の言葉に、頭を置いて足が動いた。川に顔を突っ込むと、赤く染まりかけていた視界が治まっていく。決心して刹那の横に膝を着いたものの、口に含んだ水を押し出すほどに、心の臓が脈打っていた。まったく動かない刹那の小さな唇に水滴が垂れ、すうっと流れていく。水滴を何度か見送った後。震える唇を、青白い唇に押し当てた。
 冷たい。熱い。頭が破裂しそうだ。水をすべて流し込んだ後も、頬に手を添える。やがて刹那の肉が少しずつ溶け、骨が露になっていった。

「……わたし、は」

 骸化した刹那は、自分の手を見るやいなや固まってしまった。その手を握りしめると、刹那は俺の手を振りほどこうとする。

「……見るな……私に、触れるな……熱が、分からない……感じない」

 うわ言のように呟く刹那の手を引き寄せ、滑々の体を抱きしめた。

「生きてたっ……」

 もう決してこんな、心の臓をすり潰されるような思いはしたくない。それが腕の中の骨にも伝わったのか、ためらい気味の手が背中にそっと回った。


 刹那が目覚めた後、八咫はすぐに見つかった。俺が落ちたところにそのまま沈んでいたようだ。ひとまず近くにあるキヨの家の蔵を借り、烏梅との約束を果たすことにする。

『まったく、扱いにゃ気を付けてくれよな。吾じゃない鏡だったら割れてたぜ?』
「すみません……って、俺が悪いんですか?」

 こちらだって落とされたのだ。文句は白に言ってくれ、と言い合っていると、刹那の平手が飛んできた。

「貴様らうるさいぞ。今烏梅から仔細を聞いているところだ」

 先ほどまで蔵の隅で大人しくしていたかと思えば、刹那はもう元気になっていた。それでも平手の威力が弱々しく、まだ本調子ではないことが分かる。

「それで、烏梅さん。本当に良いんですか?」

 烏梅の一族が総出で止めにかかったことを思い出すと、このまま儀をして良いものか不安になる。まだ烏梅が人になりたい理由も聞いていないというのに。

「あぁ、もう時間がない。今すぐにでも頼む」

 何をそこまで焦っているのか。聞いたところで、今の烏梅は答えてくれそうになかった。ならば、アレに頼るしかない――。
 刹那から化粧箱を受け取り、鳥の神用にと預かった『山吹』の色具を取り出した。

「では……始めます」

 格子窓から西日が射し、烏梅の濡れ羽が薄っすら赤みを帯びている。その規則正しく生え揃った羽に筆をつける直前、ちらりと後ろを振り返った。見守ってくれている刹那は、無言で頷く。さて――ここからは賭けだ。これまで神に触れるたび、必ずと言っていいほど起こってきた現象。だが、意図的に起こそうとしたことはない。
 筆先が震える。そのままゆっくりと、烏梅の口ばしに筆先をつけた瞬間。

『お主、キヨというのか?』

 頭の中に烏梅の声が反響した。来た――。
 喜ぶ間も無く、夕日の射す蔵が朝焼けの山道へと変わる。これは烏梅の記憶だ。そのはず、なのだが。

『おキヨ、ほれ、泣くでない!』

 転んで泣き喚く子ども時代のキヨを慰めているのは、袴姿の勇ましい女だった。男に見えなくもない……が、おそらく女だ。

『××さまぁ……キヨのあし、とれておらんか?』
『ふははっ! 取れておらんよ。ほれ、ひとりで立ち上がってみろ』

 名は聞こえないが、やはり烏梅だ。そう認識した途端、瞬きの間に景色が切り替わった。
 今度はキヨの家の前にある小川だ。成長したキヨが草履を脱いで、小川に素足を浸けている。一方烏梅は、キリリと上がった眉を押さえつけていた。

『おキヨよ。お主は婿を取るじゃろう。ワシと遊ぶのもそろそろ……』

 これはもしかすると――昨晩、キヨから聞いた昔話がよみがえる。妙な確信を持ったその時、再び景色が飛び去った。
 山道に戻ってきたようだが、先ほどの場面から時が経っているのだろう。キヨの背丈が少し烏梅に近づいていた。

『おキヨ、めでたいのぅ。あんなにちいっこかったお主が、もうすぐ見合いか』

 木の枝に腰掛けた二人は、隣り合って夕日を眺めている。キヨの手は、烏梅の袖をこっそり握っていた。
 口を閉ざしてしまったキヨに、烏梅は深く息を吐き出す。

『のう。櫛を作ってはくれぬか?』

「仕事の依頼ならばすでに親が受けている」、と言うキヨに、烏梅は淡い笑顔を見せた。

『お主に依頼したいんじゃ。素の櫛で良い。ワシが鳥の絵をつけるでな』

 キヨが櫛の送り先を尋ねると、烏梅は「特別な人へ送るのだ」、と答えた。
 家路についたキヨは、依頼された櫛を曇った表情で磨いている。きっとこの時は、この櫛がまさか自分に贈られるとは思ってもいなかったのだろう。納品の日、烏梅は受け取った櫛を大切そうに懐へしまった。この時もまだ、キヨはむすっとしたままだ。

『あぁ、良い仕事じゃ……やはりお主に頼んで良かった』

 私情を挟まないところに、キヨの職人としての矜持を感じる。しかし顔の不満は隠せていないキヨが、あの櫛を渡された時にどのような表情を見せるのか。期待を抱いた途端、また時が飛んだ。いや違う。これは――。

『……く、咲。のう、聞こえておるか?』

 烏梅――子どもの姿だ。ということは、元の場所に戻ってきたのだろう。

「続きは? あの後、どうなったんですか!?」

 夜色の瞳に詰め寄ると、烏梅は羽を小さく震わせた。

『お主、さてはおキヨから何か聞きよったな?』
「おキヨさんは、『素直になれば良かった』って言っていました。どうして烏梅さんは、おキヨさんの前からいなくなったんですか?」

 キヨは、烏梅が家の事情を汲んで身を引いたのだろうと言っていた。しかし本当にそうだろうか。もしそうならば、最初から櫛など渡さない気がするが。

『咲、時間がない。疾くワシを人に降ろしてくれ……おキヨにもうひと目会いたいんじゃ』

 決意を灯した瞳が、正面を向いた瞬間。『その人間からはワシが見えなくなるようにされてしまったのじゃ』、と烏梅が飛行中に言っていたことを思い出した。そうか、だから――。
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