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第五章 濡羽ニ櫛
一
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木、木、木――行けども森しかない山道を歩き続け、少なくとも一刻は経っている。
「あー! もう足が限界です! 本当にこんな山奥に鳥の神がいるんですか?」
『おう。奴ら棲み処は変わらねぇみたいだな』
旅装束に高下駄で万全のはずだったのだが、すでに体力は限界だ。さっさと坂を上る刹那は、息ひとつ切れていない。やはり神は、人間よりも頑丈にできているようだ。
地べたに座り込んでいると、向かいから人が降りてきた。手拭いを首に掛けた男二人組だ。顔からは湯気がホクホクと立ち昇っている。上で何をしてきたのか訊くと、中年の男たちは薬湯の宿へ行った帰りだと話してくれた。
「噂にたがわぬ秘湯だったよ! アンタたちも行ってみると良い」
その温泉宿は、さらに半刻ほど登ると見えてくるそうだ。男たちを見送った後、八咫に温泉宿と鳥の神は関係があるのか尋ねてみたが、そんなもの昔はなかったという。
「うーん、でも他に手掛はなさそうですよね。刹那さんは何か知っていますか?」
刹那を振り返り、目が合った瞬間。やっと落ち着いたばかりの鼓動が速くなった。一昨日のことを思い出し、さり気なく視線を逸らす。
「おい貴様、今目を逸らしたな? 相手に何かを問う時はこちらを見ろ」
至極当然のことを諭され、余計に頬が熱くなる。それでも目を見ることができない。
「おい、聞いているのか? 小ぞ……!」
言葉の端が切れた途端、禍々しい黒煙が目の前を横切った。
「こんばんは、お二方」
紫の炎を帯びた刀の切っ先が迫る。刃は鼻先で留まり、つい先日見たばかりの笑顔がその後ろに見えた。黒だ。
容赦のない腕が振り下ろされる直前、刹那が鎖で拘束してくれた。それでも黒は、こちらに不気味な殺気を送り付けてくる。
「先日はありがとうございました、咲様。そして――」
黒は、刹那の方を首だけで振り返った。
「刹那様。やはり貴方と力比べしても勝てそうにありませんね……素晴らしい!」
恍惚として刹那を見つめる黒の横顔に、腹の底から怒りが湧いてくる。
「小僧、出てくるなよ!」
刹那の乱暴な腕に襟首を掴まれ、茂みに投げられた。やり場のない衝動を必死に抑えていると、懐がじわりと熱くなる。
『咲、願え。人が願えば願うほど、アイツの神力は力を増すんだからな』
「八咫さん……心に思うだけで良いんですか? それとも、声に出した方が強くなるとか」
『どんなやり方でも構わねぇ。ただアイツに願うだけで』
「勝ってほしい」。少し違う。「守りきってほしい」。自分本位だ。ならば――。
「お願いですから、『どうか無事で――』」
すべて言い切る寸前、声が出なくなった。
「こんばんは」
振り返るよりも早く、体が宙に浮いた。どこかで嗅いだような甘い匂いが漂ってくる。
「『ソレ』はダメだよ、咲」
「白?」
白に背後から抱えられ、山の針葉樹よりも高いところまで昇っている。
「分かってる? 君の命は僕の腕の中……暴れても危険、『願い』を口にしてもいけない」
「どこへ行く気ですか?」
「……君が黒に殺されないところ。アイツ、戦いに入ると理性飛ぶから」
そう言いつつ、これも神粧の儀を邪魔するための作戦に違いない。無を貼り付けた白の顔を、キッと睨み上げる。
「こんなことをしたって無駄ですよ。刹那さんはひとりだって、きっと大丈夫ですから」
確信を持った目で白を見上げると、桜色の唇から小さなため息が漏れた。そこには薄く噛み痕が残っている。
「やっぱりそう。あの無名神を慕ってるんだ」
それは付喪神の洋館で、白の口から聞いた言葉と同じだった。執神、それも敵を公言する白が、なぜそんなことを気にするのか。
「邪魔をするってことは、あの先に鳥の神がいるんですか?」
表情の変わらない白だが、一瞬言葉に詰まった。これは当たりだ。
「戻ってください! あのまま放っておいたら、黒さんだってどうなるか分かりませんよ?」
「対のご心配どうも。黒が消えれば鎖が切れるから……無事なのは分かる」
やはりこの鎖は、目に見えない何かで黒と白を繋いでいるらしい。ということは、だ――。
「あっ、こらっ、鎖はダメ……!」
こうすれば、刹那と戦闘中の黒を妨害できるかもしれない。望みをかけて、白の首輪に繋がる短い鎖を引っ張る。
「君がそのつもりなら……」
白の片手が脇腹に触れ、くすぐるように動き回った。この手の悪戯には強いつもりだったが、白は的確に弱点を狙ってくる。
「あっ、そこはちょっ、あはっ、あははははは!」
「ほら、鎖を離して。離さないと止めな……あっ」
突然声を張り上げた白に、思わず鎖を引く手を止めた。
白の腕と、俺の体が離れている。そう気づいた瞬間。胸の中心がヒヤリと涼しくなった。
「咲……!」
上から伸ばされた白の腕が、超速で離れていく。掴もうとしても、もう届かない。耳を塞ぐ轟音の中、頭を過ったのは「死」の一文字だった。
背中に走る激しい衝撃と同時に、全身が冷たくなった。まるで水の中へ入っているかのように息ができない。目が開けられない。おまけに鼻が痛い。
「……お……ぅ……い……」
耳だけはまだ生きているのか、誰かの声がくぐもって聞こえる。どうにか目を開けてみようと思うと、目を開けることもできた。上に水面のような光がゆらゆら揺れている。そのきらめきが、少しずつ明るくなり――。
ようやく息が吸えた。日の光が眩しい。鼻が痛い。
「ありゃあ! 桃太郎じゃのうて、桃姫が流れてきよった」
川から引き上げてくれたのは、きらめく瞳をまん丸にしたお婆さんだった。
「『姫』じゃのうて『太郎』じゃったとは思わなんだけんど、本当にオラの着物でええの? じっさまのも残ってはおるが」
「大丈夫です。ありがとうございます」
洗濯物と一緒に俺を川から上げてくれたのは、キヨというお婆さんだった。
キヨの家は、小川沿いにぽつんと建つかやぶき屋根の民家だ。中には少し酸いような匂いが漂い、土間を占領している広い作業台には、黄色い木のクズが沢山落ちている。
「着物が乾くまでここにおればええ。どうせ年寄りひとりじゃて」
すぐにでも刹那のところへ引き返したいが、借りものをそのまま着ていくわけにはいかない。
そういえば、一緒に落ちたはずの八咫は無事だろうか。びしょ濡れになった着物の袖口を探ってみたが、八咫は入っていなかった。
裸足のまま縁側から庭へ飛び出し、着物の裾をまくる。川へ入り浅瀬を探ってみるも、錆びた鏡は見つからない。
「失せ物かぇ?」
「これくらいの青銅鏡で、俺と一緒に落ちてきたはずなんです!」
キヨは首を傾げながらも、小川の捜索を手伝ってくれた。しかし八咫の姿はどこにもない。
「咲ちゃんが落ちてきたんは、もっとあっちの深いとこだよ。危ねぇからやめときな」
キヨの言う通りだと思い、ひとまず引き返すことにした。刹那と合流できれば、八咫の気配を追って探してくれるだろう。今焦っても仕方がない。
「すまなんだが、急ぎの仕事があるでな。オラのことは放って、咲ちゃんはゆっくりしてけれ」
縁側に緑茶を出してくれた後、キヨは土間の作業台へ向かっていった。キヨは櫛を作る職人――櫛師だという。時には庭の小川に光る魚の背を眺め、時には後ろのキヨの進捗を見る。そうするうちに、ゆっくりと日が落ちていった。
「――ちゃん、咲ちゃん」
優しい呼び声に、はっと我に返った。うたた寝をしていたようだ。
「あ……すみません。こんなに安らげたのは久しぶりで」
「そりゃあえかった。夕餉の支度ができたよ」
世話になりっぱなしで申し訳ない。せめて何か手伝うと申し出ると、夕餉の後に運んでほしいものがあると頼まれた。
「これは立派な蔵ですね」
「じゃろ? 昔じっさまが作ったんだ」
そこには切り落としの木材が何本か保管されていた。年寄りの腕では、これを母屋へ運ぶのは大変だろう。
「ちょっと前まではオラひとりでもいけたんだが、ここんとこ急に力が無くなっちまってねぇ」
キヨは深いしわの寄った顔をすぼめると、亡くなったお爺さんの話をしてくれた。キヨは櫛師の家の娘で、お爺さんは婿養子として家業を継いだという。
「じっさまは働き者で、人のええ男じゃった。オラにはもったいねぇほどの」
木材を家まで運び終えると、キヨは作っている途中の櫛を見せてくれた。よく露店で売っている櫛と同じ形になっているが、まだ完成ではないのだという。
「この歯を何回も磨いてやれば、櫛はスッと髪をとかしてくれる、ええ使い心地になる」
さらにキヨは、櫛に透かしや絵を入れることのできる職人だった。これまでに作った櫛を見せてもらうと、どれも細かい装飾が施されている。
「これ、とても鮮やかな山と鳥の絵ですね。あれ?」
よく見ると、飛び立つ鳥の絵が端で切れている。キヨに促されて裏返すと、表の鳥は裏側に描かれた鳥と額を合わせていた。止まり木に、対の鳥が止まっているような構図になっている。
「それは『返し文』じゃ。裏と表が一つになって、完成する絵模様でな」
「へぇ! 粋な図柄ですね。あ、でも裏と表で何か違うような?」
そう指摘すると、キヨの小さな瞳が一瞬揺れた。
「ええ目をもっとるね……どうじゃ、咲ちゃんもひとつこさえてみるかぇ?」
こんな機会は滅多にないだろう。そう思った瞬間、頭がきゅっとしめつけられた。刹那が大変な時に、まして八咫が行方不明だというのに、こんなことをしていて良いのだろうか。
「あの、やっぱり……」
「咲ちゃんは、好いた人がおるんか?」
喉が塞がったままキヨを見つめていると、キヨの震える頬が微かに持ち上がる。
「好いた人がおるんなら、その人に贈るとええ」
ふと赤い着物にはどんな柄の櫛が合うだろうか、などと考えてしまった。しかし――。
「私には今、やるべきことがあるんです。それは私自身の気持ちよりずっと大切なことで……」
神粧のこと、刹那の呪いのこと。これらを成し遂げるために、きっとこの想いは邪魔なものだ。まして俺のような人間が――。
「あれはオラが咲ちゃんくらいの頃だったか、今でもはっきり覚えとる」
キヨは先ほどの返し文が施された櫛を大切に持ったまま、目を閉じている。やがて秋色の素朴な唇は、キヨの娘時代を語り出した。
「うちには男児がいなくてのう。オラが家を継ぐことになってたもんだから、トトさまは養子を欲しがってた。じっさまは、トトさまが町で見つけてきた相手だよ」
キヨは櫛師の家に生まれた時から、櫛師になると決まっていた。物作りが好きだったため、特に反発もなかったという。
「ただ、オラの心を捧げる相手は童の頃から決まっていた」
キヨが想いを寄せるその人は、櫛のお得意様だった。問屋か、あるいは行商人かは分からないが、キヨが幼い頃からの馴染みだったという。時々、キヨのか細い指が対の鳥を撫でていた。
「じっさまと見合いする前、その人からオラに依頼が入った。特別な人へ送る櫛をひとつ、作ってくれと。ただ絵は描かなくてえいって言う。自分で鳥の絵を描くから、って」
「もしかして、その依頼の櫛って……」
「ああ、これだよ。出来上がった素の櫛を届けた後、その人が表に絵を描いてオラに渡してくれたんだ。『キヨも同じ思いならば、裏に返事を描いておくれ』、って」
キヨはすぐに裏の絵を描き、その人に渡した。が、その櫛がこうしてキヨの手元にあるということは――。
「『これは思い出に取っておいてくれ』、って返されてね。その人はとんと消えちまった」
キヨの寂しげな笑みを見つけた瞬間、言葉が胸に詰まった。
「あの人はオラの家の事情を知ってたから、潔く身を引いたんだろうよ。だがオラは納得いかなかった。じっさまにゃ悪いが、八十の婆さんになった今も」
老人とは思えない力強い口調と眼力に、背筋がすっと伸びた。哀愁の漂う影は、もうとっくにキヨの顔から消えている。
「自分の気持ちさ素直になってればえがった。己の気持ちは何にも代えられねぇもんだって、年喰ってから気づいたんだ……だから『自分の気持ちより大切なことがある』なんて、寂しいこと言わんでちょうだいよ」
キヨが胸の内を明かしてくれたからか。それとも、自分の気持ちに少し余裕ができたからか。素の櫛に絵を描いてみたいと、自分から申し出た。化粧をするのとはまた違う。同じ色具と筆を使う作業でも、小さな櫛に絵を描くことは、また別の繊細な作業だ。
一晩かけて何とか描き終え、ようやく床に就くことができた。
「絵……あれで良かったかな」
作業台の方をちらりと見、再び目を閉じる。そうしてじっとしていると、今日の疲れが一気に押し寄せてきた。刹那と八咫のことは、とりあえず明日考えよう。
「これ、起きろ」
あと少しで寝入りそうなところに、幼子の声が降ってきた。きっと疲れているのだろう。黒白のことや絵付け作業など、色々なことがあったせいだ。
「これ、坊」
「痛っ! 何なんですか?」
叩かれた額を押さえながら、仕方なく目を開ける。すると腹の上に乗っている、小さな娘と目が合った。
「えっ、誰……?」
まさか噂に聞く座敷童だろうか。十字型をした少女の瞳は、琥珀色に光っている。そのおかげで、真夜中でも少女の顔をよく見ることができた。
「其方が色師に仕えておるという化粧師じゃな? ワシに神粧の儀とやらをしてはくれまいか」
この異様に軽い少女。どうやら座敷童ではなく、神のようだ。
「あー! もう足が限界です! 本当にこんな山奥に鳥の神がいるんですか?」
『おう。奴ら棲み処は変わらねぇみたいだな』
旅装束に高下駄で万全のはずだったのだが、すでに体力は限界だ。さっさと坂を上る刹那は、息ひとつ切れていない。やはり神は、人間よりも頑丈にできているようだ。
地べたに座り込んでいると、向かいから人が降りてきた。手拭いを首に掛けた男二人組だ。顔からは湯気がホクホクと立ち昇っている。上で何をしてきたのか訊くと、中年の男たちは薬湯の宿へ行った帰りだと話してくれた。
「噂にたがわぬ秘湯だったよ! アンタたちも行ってみると良い」
その温泉宿は、さらに半刻ほど登ると見えてくるそうだ。男たちを見送った後、八咫に温泉宿と鳥の神は関係があるのか尋ねてみたが、そんなもの昔はなかったという。
「うーん、でも他に手掛はなさそうですよね。刹那さんは何か知っていますか?」
刹那を振り返り、目が合った瞬間。やっと落ち着いたばかりの鼓動が速くなった。一昨日のことを思い出し、さり気なく視線を逸らす。
「おい貴様、今目を逸らしたな? 相手に何かを問う時はこちらを見ろ」
至極当然のことを諭され、余計に頬が熱くなる。それでも目を見ることができない。
「おい、聞いているのか? 小ぞ……!」
言葉の端が切れた途端、禍々しい黒煙が目の前を横切った。
「こんばんは、お二方」
紫の炎を帯びた刀の切っ先が迫る。刃は鼻先で留まり、つい先日見たばかりの笑顔がその後ろに見えた。黒だ。
容赦のない腕が振り下ろされる直前、刹那が鎖で拘束してくれた。それでも黒は、こちらに不気味な殺気を送り付けてくる。
「先日はありがとうございました、咲様。そして――」
黒は、刹那の方を首だけで振り返った。
「刹那様。やはり貴方と力比べしても勝てそうにありませんね……素晴らしい!」
恍惚として刹那を見つめる黒の横顔に、腹の底から怒りが湧いてくる。
「小僧、出てくるなよ!」
刹那の乱暴な腕に襟首を掴まれ、茂みに投げられた。やり場のない衝動を必死に抑えていると、懐がじわりと熱くなる。
『咲、願え。人が願えば願うほど、アイツの神力は力を増すんだからな』
「八咫さん……心に思うだけで良いんですか? それとも、声に出した方が強くなるとか」
『どんなやり方でも構わねぇ。ただアイツに願うだけで』
「勝ってほしい」。少し違う。「守りきってほしい」。自分本位だ。ならば――。
「お願いですから、『どうか無事で――』」
すべて言い切る寸前、声が出なくなった。
「こんばんは」
振り返るよりも早く、体が宙に浮いた。どこかで嗅いだような甘い匂いが漂ってくる。
「『ソレ』はダメだよ、咲」
「白?」
白に背後から抱えられ、山の針葉樹よりも高いところまで昇っている。
「分かってる? 君の命は僕の腕の中……暴れても危険、『願い』を口にしてもいけない」
「どこへ行く気ですか?」
「……君が黒に殺されないところ。アイツ、戦いに入ると理性飛ぶから」
そう言いつつ、これも神粧の儀を邪魔するための作戦に違いない。無を貼り付けた白の顔を、キッと睨み上げる。
「こんなことをしたって無駄ですよ。刹那さんはひとりだって、きっと大丈夫ですから」
確信を持った目で白を見上げると、桜色の唇から小さなため息が漏れた。そこには薄く噛み痕が残っている。
「やっぱりそう。あの無名神を慕ってるんだ」
それは付喪神の洋館で、白の口から聞いた言葉と同じだった。執神、それも敵を公言する白が、なぜそんなことを気にするのか。
「邪魔をするってことは、あの先に鳥の神がいるんですか?」
表情の変わらない白だが、一瞬言葉に詰まった。これは当たりだ。
「戻ってください! あのまま放っておいたら、黒さんだってどうなるか分かりませんよ?」
「対のご心配どうも。黒が消えれば鎖が切れるから……無事なのは分かる」
やはりこの鎖は、目に見えない何かで黒と白を繋いでいるらしい。ということは、だ――。
「あっ、こらっ、鎖はダメ……!」
こうすれば、刹那と戦闘中の黒を妨害できるかもしれない。望みをかけて、白の首輪に繋がる短い鎖を引っ張る。
「君がそのつもりなら……」
白の片手が脇腹に触れ、くすぐるように動き回った。この手の悪戯には強いつもりだったが、白は的確に弱点を狙ってくる。
「あっ、そこはちょっ、あはっ、あははははは!」
「ほら、鎖を離して。離さないと止めな……あっ」
突然声を張り上げた白に、思わず鎖を引く手を止めた。
白の腕と、俺の体が離れている。そう気づいた瞬間。胸の中心がヒヤリと涼しくなった。
「咲……!」
上から伸ばされた白の腕が、超速で離れていく。掴もうとしても、もう届かない。耳を塞ぐ轟音の中、頭を過ったのは「死」の一文字だった。
背中に走る激しい衝撃と同時に、全身が冷たくなった。まるで水の中へ入っているかのように息ができない。目が開けられない。おまけに鼻が痛い。
「……お……ぅ……い……」
耳だけはまだ生きているのか、誰かの声がくぐもって聞こえる。どうにか目を開けてみようと思うと、目を開けることもできた。上に水面のような光がゆらゆら揺れている。そのきらめきが、少しずつ明るくなり――。
ようやく息が吸えた。日の光が眩しい。鼻が痛い。
「ありゃあ! 桃太郎じゃのうて、桃姫が流れてきよった」
川から引き上げてくれたのは、きらめく瞳をまん丸にしたお婆さんだった。
「『姫』じゃのうて『太郎』じゃったとは思わなんだけんど、本当にオラの着物でええの? じっさまのも残ってはおるが」
「大丈夫です。ありがとうございます」
洗濯物と一緒に俺を川から上げてくれたのは、キヨというお婆さんだった。
キヨの家は、小川沿いにぽつんと建つかやぶき屋根の民家だ。中には少し酸いような匂いが漂い、土間を占領している広い作業台には、黄色い木のクズが沢山落ちている。
「着物が乾くまでここにおればええ。どうせ年寄りひとりじゃて」
すぐにでも刹那のところへ引き返したいが、借りものをそのまま着ていくわけにはいかない。
そういえば、一緒に落ちたはずの八咫は無事だろうか。びしょ濡れになった着物の袖口を探ってみたが、八咫は入っていなかった。
裸足のまま縁側から庭へ飛び出し、着物の裾をまくる。川へ入り浅瀬を探ってみるも、錆びた鏡は見つからない。
「失せ物かぇ?」
「これくらいの青銅鏡で、俺と一緒に落ちてきたはずなんです!」
キヨは首を傾げながらも、小川の捜索を手伝ってくれた。しかし八咫の姿はどこにもない。
「咲ちゃんが落ちてきたんは、もっとあっちの深いとこだよ。危ねぇからやめときな」
キヨの言う通りだと思い、ひとまず引き返すことにした。刹那と合流できれば、八咫の気配を追って探してくれるだろう。今焦っても仕方がない。
「すまなんだが、急ぎの仕事があるでな。オラのことは放って、咲ちゃんはゆっくりしてけれ」
縁側に緑茶を出してくれた後、キヨは土間の作業台へ向かっていった。キヨは櫛を作る職人――櫛師だという。時には庭の小川に光る魚の背を眺め、時には後ろのキヨの進捗を見る。そうするうちに、ゆっくりと日が落ちていった。
「――ちゃん、咲ちゃん」
優しい呼び声に、はっと我に返った。うたた寝をしていたようだ。
「あ……すみません。こんなに安らげたのは久しぶりで」
「そりゃあえかった。夕餉の支度ができたよ」
世話になりっぱなしで申し訳ない。せめて何か手伝うと申し出ると、夕餉の後に運んでほしいものがあると頼まれた。
「これは立派な蔵ですね」
「じゃろ? 昔じっさまが作ったんだ」
そこには切り落としの木材が何本か保管されていた。年寄りの腕では、これを母屋へ運ぶのは大変だろう。
「ちょっと前まではオラひとりでもいけたんだが、ここんとこ急に力が無くなっちまってねぇ」
キヨは深いしわの寄った顔をすぼめると、亡くなったお爺さんの話をしてくれた。キヨは櫛師の家の娘で、お爺さんは婿養子として家業を継いだという。
「じっさまは働き者で、人のええ男じゃった。オラにはもったいねぇほどの」
木材を家まで運び終えると、キヨは作っている途中の櫛を見せてくれた。よく露店で売っている櫛と同じ形になっているが、まだ完成ではないのだという。
「この歯を何回も磨いてやれば、櫛はスッと髪をとかしてくれる、ええ使い心地になる」
さらにキヨは、櫛に透かしや絵を入れることのできる職人だった。これまでに作った櫛を見せてもらうと、どれも細かい装飾が施されている。
「これ、とても鮮やかな山と鳥の絵ですね。あれ?」
よく見ると、飛び立つ鳥の絵が端で切れている。キヨに促されて裏返すと、表の鳥は裏側に描かれた鳥と額を合わせていた。止まり木に、対の鳥が止まっているような構図になっている。
「それは『返し文』じゃ。裏と表が一つになって、完成する絵模様でな」
「へぇ! 粋な図柄ですね。あ、でも裏と表で何か違うような?」
そう指摘すると、キヨの小さな瞳が一瞬揺れた。
「ええ目をもっとるね……どうじゃ、咲ちゃんもひとつこさえてみるかぇ?」
こんな機会は滅多にないだろう。そう思った瞬間、頭がきゅっとしめつけられた。刹那が大変な時に、まして八咫が行方不明だというのに、こんなことをしていて良いのだろうか。
「あの、やっぱり……」
「咲ちゃんは、好いた人がおるんか?」
喉が塞がったままキヨを見つめていると、キヨの震える頬が微かに持ち上がる。
「好いた人がおるんなら、その人に贈るとええ」
ふと赤い着物にはどんな柄の櫛が合うだろうか、などと考えてしまった。しかし――。
「私には今、やるべきことがあるんです。それは私自身の気持ちよりずっと大切なことで……」
神粧のこと、刹那の呪いのこと。これらを成し遂げるために、きっとこの想いは邪魔なものだ。まして俺のような人間が――。
「あれはオラが咲ちゃんくらいの頃だったか、今でもはっきり覚えとる」
キヨは先ほどの返し文が施された櫛を大切に持ったまま、目を閉じている。やがて秋色の素朴な唇は、キヨの娘時代を語り出した。
「うちには男児がいなくてのう。オラが家を継ぐことになってたもんだから、トトさまは養子を欲しがってた。じっさまは、トトさまが町で見つけてきた相手だよ」
キヨは櫛師の家に生まれた時から、櫛師になると決まっていた。物作りが好きだったため、特に反発もなかったという。
「ただ、オラの心を捧げる相手は童の頃から決まっていた」
キヨが想いを寄せるその人は、櫛のお得意様だった。問屋か、あるいは行商人かは分からないが、キヨが幼い頃からの馴染みだったという。時々、キヨのか細い指が対の鳥を撫でていた。
「じっさまと見合いする前、その人からオラに依頼が入った。特別な人へ送る櫛をひとつ、作ってくれと。ただ絵は描かなくてえいって言う。自分で鳥の絵を描くから、って」
「もしかして、その依頼の櫛って……」
「ああ、これだよ。出来上がった素の櫛を届けた後、その人が表に絵を描いてオラに渡してくれたんだ。『キヨも同じ思いならば、裏に返事を描いておくれ』、って」
キヨはすぐに裏の絵を描き、その人に渡した。が、その櫛がこうしてキヨの手元にあるということは――。
「『これは思い出に取っておいてくれ』、って返されてね。その人はとんと消えちまった」
キヨの寂しげな笑みを見つけた瞬間、言葉が胸に詰まった。
「あの人はオラの家の事情を知ってたから、潔く身を引いたんだろうよ。だがオラは納得いかなかった。じっさまにゃ悪いが、八十の婆さんになった今も」
老人とは思えない力強い口調と眼力に、背筋がすっと伸びた。哀愁の漂う影は、もうとっくにキヨの顔から消えている。
「自分の気持ちさ素直になってればえがった。己の気持ちは何にも代えられねぇもんだって、年喰ってから気づいたんだ……だから『自分の気持ちより大切なことがある』なんて、寂しいこと言わんでちょうだいよ」
キヨが胸の内を明かしてくれたからか。それとも、自分の気持ちに少し余裕ができたからか。素の櫛に絵を描いてみたいと、自分から申し出た。化粧をするのとはまた違う。同じ色具と筆を使う作業でも、小さな櫛に絵を描くことは、また別の繊細な作業だ。
一晩かけて何とか描き終え、ようやく床に就くことができた。
「絵……あれで良かったかな」
作業台の方をちらりと見、再び目を閉じる。そうしてじっとしていると、今日の疲れが一気に押し寄せてきた。刹那と八咫のことは、とりあえず明日考えよう。
「これ、起きろ」
あと少しで寝入りそうなところに、幼子の声が降ってきた。きっと疲れているのだろう。黒白のことや絵付け作業など、色々なことがあったせいだ。
「これ、坊」
「痛っ! 何なんですか?」
叩かれた額を押さえながら、仕方なく目を開ける。すると腹の上に乗っている、小さな娘と目が合った。
「えっ、誰……?」
まさか噂に聞く座敷童だろうか。十字型をした少女の瞳は、琥珀色に光っている。そのおかげで、真夜中でも少女の顔をよく見ることができた。
「其方が色師に仕えておるという化粧師じゃな? ワシに神粧の儀とやらをしてはくれまいか」
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【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~
桂
ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。
そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。
そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。
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