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第三章 二口痛シ痒シ
五
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「里帰りをしたらどうか?」と色師に勧められ、久々にただの「咲」へ戻ることにした。実家へ戻るより先に一座へ向かい、座長に数日の無断欠勤を謝罪したまでは良いのだが。
「あの、父さん」
二人きりの楽屋で、父はもう四半時も口を噤んでいる。
「繰り返しになりますが、大変反省しております。その、黙って何日も家を空けてしまって」
迫力のある切れ長の目は、こちらを睨みつけたまま動かなかった。さすが役者なだけある。
「まず一つ」、と父が発したのは、聞いたこともないほど低い声だった。
「副業というのは、本当に危険な仕事ではないんだね?」
「はい。父さんが思っているような危険はないです」
雇い主が神で、時折神に喰われる危険はある、などとは言えない。が、嘘は言っていない。
「もう一つ。何か俺に隠し事をしてはいないかな? お前は時々、洒落にならない隠しごとをするからね」
初めて聞く話に、胸の奥がひゅっと笛のように鳴った。救いようのない嘘つきの自覚はあったが、まさかあのことまでバレて――。
「いや、やっぱり答えなくていい。お前を信じているから」
やはり。父はこうやって俺を簡単に許すのだ。今回も、あの時も。
震える唇を手で覆い隠し、さっさと楽屋を出た。まだ何か言いたげだった父を残して。
何やら玄関口が騒がしいが、今日は公演の日ではない。事件でもあったのかと向かってみたところ。癖の強い団員たちに囲まれても、ひと際目立つ赤い女がいた。
「刹那さん……?」
よりによって、今一番会いたくない神が乗り込んでくるとは。飾り棚で顔を隠していると、「迎えに来たぞ」、とこちらに向けて大声で叫ばれた。それでも知らぬふりを貫いていると、背後から強めの力で肩を叩かれる。
「よぉ咲、座長からのお説教の後は父ちゃんからか?」
声を掛けてきたのは、父よりも古参の団員だ。
「ええ……まぁ」
「おぅおぅ、お前さんは年中湿っぽいやなァ。父ちゃんを見習えよ」
団員の面倒見が良い人ではあるが、絡まれると面倒くさい。どうかわしたものか、と俯いていると、そっと撫でるような手が肩に触れた。
「あら、そんなこたねぇさ。咲ちゃんは桜花さんに似て器量良しだよ」
今度は割と最近入団した女だ。こちらは古参の男以上に面倒くさい。女の艶めいた顔が寄って来たかと思うと、「この後アタシの座敷に来ない?」、と耳打ちしてきた。これで三度目だ。
「しつこい」、と振り払いたいところだが。裏方が役者に強く言うと、父に何らかのしわ寄せが行くかもしれない。
「悪いが、こいつは私の相棒だ」
背後からの力強い語気に振り返ると。燃え盛る目で団員の女を睨みつけるのは、ふだんそんな台詞を口にするはずのない女だった。放心する間にも、刹那は俺の手を引いて一座の敷地から離れていく。
「おい、何で喋らない」
「え?」と訊き返すと、「ふだんよく喋るクセに、やけに大人しい」と返ってきた。
「別に、俺は元々静かなんですよ。『お咲』の時は、ただ気丈な女を演じているだけで」
刹那は開きかけた口を閉じ、踵を返した。規則正しい下駄の音を聞きながら、三途橋まで続く道を行く。
『父親に対して妙によそよそしいのは、負い目のせいか?』
今度は八咫か。胸元にしまっていたせいで、父とのやり取りは丸聞こえだったのだろう。
『何だって盗人稼業なんざやってたんだ? 変装までしてよぉ』
知りたがりの八咫は、『何でだ?』と繰り返す。こうなると、何か答えるまで止まらない。
「いくら仕事があるからって、家もギリギリなんです。だから少しでも銭を入れようと――」
『でもよ。お前のスリは金のためじゃねぇって、色師が最初に言ってたよなぁ』
まったく、余計なことばかり覚えているのだから困ったものだ。どうしたものか、と次の手を探していると、三途橋の手前で刹那が足を止めた。
「クソ鏡が。無理に聞き出そうとするな」
『でもよぉ、お前だって気になるだろ?』
否定もせず口を噤んでしまった刹那の横顔に、鼓動が小さく跳ねた。別に、関心がないわけではなかったのか――いつまでも動き出そうとしない刹那を眺めているうちに、俺の「中身」を明かしたいような気になってきた。きっと一昨日、この女神が自身の「中身」に触れさせてくれたからだろう。
「神と人じゃなくて、相棒として対等でありたい……そう言ったら、怒りますか?」
刹那は一瞬目を見開くと、静かに瞼を伏せた。そして橋の欄干に飛び乗り、「お前も来い」と腕を引き上げてくれる。
楼閣の隙間に沈む夕日を見送りながら、少しずつ、少しずつ、記憶の彼方にある「赤」を呼び起こすことにした。
母は、父を誰よりも美しく粧すことのできる人だった。
『ねぇ桜花さん、咲坊がお化粧を熱心に見ていますよ』
役者の化粧師をしていたわけではない。自分も役者をする傍ら、父専属の化粧師として毎朝父の顔を塗っていたのだ。
『咲は男子だけれど、俺を見て育ったら化粧に興味をもつかもしれないね』
親たちが仕事に出ている間、残された子どもは楽屋にあるもので遊ぶしかなかった。母が父にするように、水で延ばした白粉を刷毛で塗る。その後筆で眉墨を描き、紅を引く。たったこれだけ。しかし自分がまるで別人のようになった気がして、化粧という行為に夢中になった。
やがて上手く塗れた顔を誰かに見せたくなり、親の言いつけを破って劇団を出た。
『坊主、カカァの化粧を見て覚えたのか? 紅が減ったらカカァたちが困るだろうよ』
花街の陰に住みながら、何でも知っている、何でも持っている骨董屋の助六じいさんは、母が時々銭を工面しに行く相手だった。もちろんそんなことは後から知ったことだが。
それから少し経って、母が亡くなった。十の時だ。流行りのコロリだと医者は言った。
『咲……大丈夫だよ。俺はほら、父さんにも母さんにもなれるしね!』
これまで舞台の外では男装をしていた父が、平時も女形で過ごすようになった。そしていつも笑っていた。葬儀の時も、その後も、父が泣いているところを一度も見たことがない。母の死は当分受け入れられなかったが、俺には父がいる。美しくも逞しい、自慢の父が。だからこれ以上幸せが奪われることはない。そう割り切ることができるようになった、母の三回忌直前――あの日はやって来た。
『父さん、配達の仕事行ってきます』
『あぁ、気をつけて行っておいで』
役者たちの顔を塗る傍ら、茶屋の饅頭を届ける仕事に就いたばかりの頃だ。家を出たものの、途中で店の半纏を忘れたことに気づき、引き返した。
『父さん、俺の半て……』
『三年も待ったんだ。そろそろ考えてくれないか? 桜花』
なぜ、家の戸が少し空いている時点で気づかなかったのだろう。
『お客さん、その、ここでこういうことは……』
住み慣れた荒屋で「異常」が起こっている。切羽詰まった見知らぬ男が、抵抗する父を座敷に押し倒している。それを目にしただけで、すべてを解した。
あれは俺の――俺たちの幸福を奪いに来たのだ、と。
『……い』
二人が気づかないうちに、右手は釜土の横に吊り下がっている灰かき棒へと伸びていた。
『……ない』
骨が砕けても構うものか、と全身全霊で鉄の棒を振りかぶる。
『許さない……!』
影に気づいた男と父が顔を上げた瞬間――父が、男の前に飛び出たのだ。
あの時のことを思い出すと、「赤」が視界一面に広がる。今目の前にある刹那の瞳より、ずっと鮮烈な「赤」が。
「俺は、父を襲っていたあの男ではなく……父を、傷つけてしまった」
あの時家に居た男は、父に執着していた舞台の客だった。俺が罪を被らないよう、父は身を挺して男を守ったのだ。美しく逞しい自慢の父は、あの時も「大丈夫」と繰り返し呟いていた。土間を染め上げるほどの血を流しながら
。
「消えない傷が、父の顔に残ったんです……だけど一度も俺を責めたことはなくて。俺は自分を許せないっていうのに」
何度謝罪しようと、父は笑って「大丈夫だから」と返すだけだ。自分への気休めにしかならないと分かり、謝罪はやめた。父の顔と正面から向き合うことが、日々辛く感じるようになった。他にどうすれば過ちを償えるのか――。
「まさか、償いのためにスリで銭を集めていたとでも言う気か?」
「違いますよ」
父のする笑顔を真似て刹那に笑いかける。すると、夕焼けと共鳴し合うように燃える瞳が不安げに揺らいだ。
「悪事を働くと、俺の中の『何か』が減っていくんです。それが減ると、いつも寂しくなる、不安になる……それが俺への罰になるんだって、気づいたんです」
ただ、父にこれ以上迷惑をかけることはできない。そのために化粧で念入りに変装し、身元がバレないようにした。
「最初に色師さんから死罪を言い渡された時、ふざけるなって思いましたよ。俺はまだ、十分苦しんでいないのにって」
欄干から飛び降りた刹那は、凪いだ瞳を夕焼けに向けた。
「お前。自分の気を楽にするためなら、道理に背いても良いのか?」
普段と違う穏やかな声色が、真っすぐ胸の芯に突き刺さる。
そうだ。あの客のような欲に塗れた男共を標的にすれば、問題はないと自分に言い聞かせていた。しかし先日刹那に出会った時。俺はその信条を破ってしまったのだ。
奥歯を噛みしめたままでいると、刹那の盛大な舌打ちが響いた。直後、左頬に痛みが走る。
「え……?」
痺れた頬に手を添え、腕を振り切っている刹那を見上げた。
「責め苦が欲しいなら私がくれてやる。だから今後一切、物は盗むな」
燃え盛る瞳から目が逸らせない。夕日まで飲み込みそうな目を見ていると、頬から痛みが消えていく。
返事を待たず、刹那は八咫を俺の胸に押し付けてきた。『吾もう喋っていいのか?』と尋ねる八咫を無視して、刹那は橋の欄干に飛び乗る。
「ぼさっとするな。帰るぞ」
濁った三途川へ、刹那はためらいなく飛び込んでいった。
『吾に人のごたごたは分からねぇけどよ。お前はもっと周りを頼った方がいいんじゃねぇか?』
「頼る……?」
これまで当たり前のように、周りへ迷惑をかけて生きてきた。助六じいさんに、お露に、そして父に。これ以上誰かに寄りかかることが許されるのだろうか。
「そうですね……考えてみます」
文句を垂れ流す八咫を握りしめ、三途川の濁った水面めがけて飛び降りた。
「あの、父さん」
二人きりの楽屋で、父はもう四半時も口を噤んでいる。
「繰り返しになりますが、大変反省しております。その、黙って何日も家を空けてしまって」
迫力のある切れ長の目は、こちらを睨みつけたまま動かなかった。さすが役者なだけある。
「まず一つ」、と父が発したのは、聞いたこともないほど低い声だった。
「副業というのは、本当に危険な仕事ではないんだね?」
「はい。父さんが思っているような危険はないです」
雇い主が神で、時折神に喰われる危険はある、などとは言えない。が、嘘は言っていない。
「もう一つ。何か俺に隠し事をしてはいないかな? お前は時々、洒落にならない隠しごとをするからね」
初めて聞く話に、胸の奥がひゅっと笛のように鳴った。救いようのない嘘つきの自覚はあったが、まさかあのことまでバレて――。
「いや、やっぱり答えなくていい。お前を信じているから」
やはり。父はこうやって俺を簡単に許すのだ。今回も、あの時も。
震える唇を手で覆い隠し、さっさと楽屋を出た。まだ何か言いたげだった父を残して。
何やら玄関口が騒がしいが、今日は公演の日ではない。事件でもあったのかと向かってみたところ。癖の強い団員たちに囲まれても、ひと際目立つ赤い女がいた。
「刹那さん……?」
よりによって、今一番会いたくない神が乗り込んでくるとは。飾り棚で顔を隠していると、「迎えに来たぞ」、とこちらに向けて大声で叫ばれた。それでも知らぬふりを貫いていると、背後から強めの力で肩を叩かれる。
「よぉ咲、座長からのお説教の後は父ちゃんからか?」
声を掛けてきたのは、父よりも古参の団員だ。
「ええ……まぁ」
「おぅおぅ、お前さんは年中湿っぽいやなァ。父ちゃんを見習えよ」
団員の面倒見が良い人ではあるが、絡まれると面倒くさい。どうかわしたものか、と俯いていると、そっと撫でるような手が肩に触れた。
「あら、そんなこたねぇさ。咲ちゃんは桜花さんに似て器量良しだよ」
今度は割と最近入団した女だ。こちらは古参の男以上に面倒くさい。女の艶めいた顔が寄って来たかと思うと、「この後アタシの座敷に来ない?」、と耳打ちしてきた。これで三度目だ。
「しつこい」、と振り払いたいところだが。裏方が役者に強く言うと、父に何らかのしわ寄せが行くかもしれない。
「悪いが、こいつは私の相棒だ」
背後からの力強い語気に振り返ると。燃え盛る目で団員の女を睨みつけるのは、ふだんそんな台詞を口にするはずのない女だった。放心する間にも、刹那は俺の手を引いて一座の敷地から離れていく。
「おい、何で喋らない」
「え?」と訊き返すと、「ふだんよく喋るクセに、やけに大人しい」と返ってきた。
「別に、俺は元々静かなんですよ。『お咲』の時は、ただ気丈な女を演じているだけで」
刹那は開きかけた口を閉じ、踵を返した。規則正しい下駄の音を聞きながら、三途橋まで続く道を行く。
『父親に対して妙によそよそしいのは、負い目のせいか?』
今度は八咫か。胸元にしまっていたせいで、父とのやり取りは丸聞こえだったのだろう。
『何だって盗人稼業なんざやってたんだ? 変装までしてよぉ』
知りたがりの八咫は、『何でだ?』と繰り返す。こうなると、何か答えるまで止まらない。
「いくら仕事があるからって、家もギリギリなんです。だから少しでも銭を入れようと――」
『でもよ。お前のスリは金のためじゃねぇって、色師が最初に言ってたよなぁ』
まったく、余計なことばかり覚えているのだから困ったものだ。どうしたものか、と次の手を探していると、三途橋の手前で刹那が足を止めた。
「クソ鏡が。無理に聞き出そうとするな」
『でもよぉ、お前だって気になるだろ?』
否定もせず口を噤んでしまった刹那の横顔に、鼓動が小さく跳ねた。別に、関心がないわけではなかったのか――いつまでも動き出そうとしない刹那を眺めているうちに、俺の「中身」を明かしたいような気になってきた。きっと一昨日、この女神が自身の「中身」に触れさせてくれたからだろう。
「神と人じゃなくて、相棒として対等でありたい……そう言ったら、怒りますか?」
刹那は一瞬目を見開くと、静かに瞼を伏せた。そして橋の欄干に飛び乗り、「お前も来い」と腕を引き上げてくれる。
楼閣の隙間に沈む夕日を見送りながら、少しずつ、少しずつ、記憶の彼方にある「赤」を呼び起こすことにした。
母は、父を誰よりも美しく粧すことのできる人だった。
『ねぇ桜花さん、咲坊がお化粧を熱心に見ていますよ』
役者の化粧師をしていたわけではない。自分も役者をする傍ら、父専属の化粧師として毎朝父の顔を塗っていたのだ。
『咲は男子だけれど、俺を見て育ったら化粧に興味をもつかもしれないね』
親たちが仕事に出ている間、残された子どもは楽屋にあるもので遊ぶしかなかった。母が父にするように、水で延ばした白粉を刷毛で塗る。その後筆で眉墨を描き、紅を引く。たったこれだけ。しかし自分がまるで別人のようになった気がして、化粧という行為に夢中になった。
やがて上手く塗れた顔を誰かに見せたくなり、親の言いつけを破って劇団を出た。
『坊主、カカァの化粧を見て覚えたのか? 紅が減ったらカカァたちが困るだろうよ』
花街の陰に住みながら、何でも知っている、何でも持っている骨董屋の助六じいさんは、母が時々銭を工面しに行く相手だった。もちろんそんなことは後から知ったことだが。
それから少し経って、母が亡くなった。十の時だ。流行りのコロリだと医者は言った。
『咲……大丈夫だよ。俺はほら、父さんにも母さんにもなれるしね!』
これまで舞台の外では男装をしていた父が、平時も女形で過ごすようになった。そしていつも笑っていた。葬儀の時も、その後も、父が泣いているところを一度も見たことがない。母の死は当分受け入れられなかったが、俺には父がいる。美しくも逞しい、自慢の父が。だからこれ以上幸せが奪われることはない。そう割り切ることができるようになった、母の三回忌直前――あの日はやって来た。
『父さん、配達の仕事行ってきます』
『あぁ、気をつけて行っておいで』
役者たちの顔を塗る傍ら、茶屋の饅頭を届ける仕事に就いたばかりの頃だ。家を出たものの、途中で店の半纏を忘れたことに気づき、引き返した。
『父さん、俺の半て……』
『三年も待ったんだ。そろそろ考えてくれないか? 桜花』
なぜ、家の戸が少し空いている時点で気づかなかったのだろう。
『お客さん、その、ここでこういうことは……』
住み慣れた荒屋で「異常」が起こっている。切羽詰まった見知らぬ男が、抵抗する父を座敷に押し倒している。それを目にしただけで、すべてを解した。
あれは俺の――俺たちの幸福を奪いに来たのだ、と。
『……い』
二人が気づかないうちに、右手は釜土の横に吊り下がっている灰かき棒へと伸びていた。
『……ない』
骨が砕けても構うものか、と全身全霊で鉄の棒を振りかぶる。
『許さない……!』
影に気づいた男と父が顔を上げた瞬間――父が、男の前に飛び出たのだ。
あの時のことを思い出すと、「赤」が視界一面に広がる。今目の前にある刹那の瞳より、ずっと鮮烈な「赤」が。
「俺は、父を襲っていたあの男ではなく……父を、傷つけてしまった」
あの時家に居た男は、父に執着していた舞台の客だった。俺が罪を被らないよう、父は身を挺して男を守ったのだ。美しく逞しい自慢の父は、あの時も「大丈夫」と繰り返し呟いていた。土間を染め上げるほどの血を流しながら
。
「消えない傷が、父の顔に残ったんです……だけど一度も俺を責めたことはなくて。俺は自分を許せないっていうのに」
何度謝罪しようと、父は笑って「大丈夫だから」と返すだけだ。自分への気休めにしかならないと分かり、謝罪はやめた。父の顔と正面から向き合うことが、日々辛く感じるようになった。他にどうすれば過ちを償えるのか――。
「まさか、償いのためにスリで銭を集めていたとでも言う気か?」
「違いますよ」
父のする笑顔を真似て刹那に笑いかける。すると、夕焼けと共鳴し合うように燃える瞳が不安げに揺らいだ。
「悪事を働くと、俺の中の『何か』が減っていくんです。それが減ると、いつも寂しくなる、不安になる……それが俺への罰になるんだって、気づいたんです」
ただ、父にこれ以上迷惑をかけることはできない。そのために化粧で念入りに変装し、身元がバレないようにした。
「最初に色師さんから死罪を言い渡された時、ふざけるなって思いましたよ。俺はまだ、十分苦しんでいないのにって」
欄干から飛び降りた刹那は、凪いだ瞳を夕焼けに向けた。
「お前。自分の気を楽にするためなら、道理に背いても良いのか?」
普段と違う穏やかな声色が、真っすぐ胸の芯に突き刺さる。
そうだ。あの客のような欲に塗れた男共を標的にすれば、問題はないと自分に言い聞かせていた。しかし先日刹那に出会った時。俺はその信条を破ってしまったのだ。
奥歯を噛みしめたままでいると、刹那の盛大な舌打ちが響いた。直後、左頬に痛みが走る。
「え……?」
痺れた頬に手を添え、腕を振り切っている刹那を見上げた。
「責め苦が欲しいなら私がくれてやる。だから今後一切、物は盗むな」
燃え盛る瞳から目が逸らせない。夕日まで飲み込みそうな目を見ていると、頬から痛みが消えていく。
返事を待たず、刹那は八咫を俺の胸に押し付けてきた。『吾もう喋っていいのか?』と尋ねる八咫を無視して、刹那は橋の欄干に飛び乗る。
「ぼさっとするな。帰るぞ」
濁った三途川へ、刹那はためらいなく飛び込んでいった。
『吾に人のごたごたは分からねぇけどよ。お前はもっと周りを頼った方がいいんじゃねぇか?』
「頼る……?」
これまで当たり前のように、周りへ迷惑をかけて生きてきた。助六じいさんに、お露に、そして父に。これ以上誰かに寄りかかることが許されるのだろうか。
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