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第一章 神の化粧師
三
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神の化粧師とはどんな仕事なのか。ろくに説明もないまま色師――もとい雇い主に、仮雇用と称して仕事を任された。化粧をしたいという神が、さっそく上階の座敷で待っているという。
「これをやり遂げれば、本雇用……」
仕事に関する指示は二つ。一つは、この化粧箱に入った色具を使って化粧をすること。もう一つは、刹那を用心棒として傍に置くことだ。
「私が盗人の用心棒だと!? しかもあの色狂いめ、私に『枷』をつけやがった」
今もこちらの胸ぐらを狙っている刹那が手を出してこないのは、色師が刹那に施した「繋縛(けいばく)」とやらが利いているからだろう。暴力神が手出ししようものなら、抑止力がはたらくらしい。
『どうどう刹那。主神が雇っちまったんだから、もう仕方ねぇだろうが』
「あぁそうだな。こいつが逃げでもしない限り、八つ裂きにすることすら叶わん」
帯に挟んだ鏡と話しながら、刹那は後ろをついてくる。
「あの……」
「あぁ?」
視線だけでも殺されそうだ。
ひとまず前に向き直り、やけに長い階段を昇りながら口を開いた。そもそも神にする化粧とは、ふつうと何が違うのか。他にも訊きたいことは沢山あったが、今一等必要な情報はそれだ。
『今人ってのは見目を良くするのに粧すだろ? でも昔人は違ぇ。儀式だの、身分差だの、化粧には印や表示の役割があったんだぜ。神の化粧は儀式用だ』
尖った威圧を放つ女神の代わりに、鏡が答えてくれた。刹那と同じで口は悪いが、この鏡は割とまともかもしれない。
『まぁ簡単に言やぁ、神を人に変えるための儀式――神粧の儀、だ』
「神が人に……? そんなことできるんですか?」
足を止めて振り返ると、どす黒い空気を醸し出す刹那に背中を小突かれた。そして「百聞は一見に負けずだろうが」、と睨まれる。色々訂正しようか迷ったが、ぐっと堪えて口をつぐんだ。
「さぁ、粧せ」
刹那に背を押され、座敷の目の前で転げそうになった。顔を上げると、襖の向こうにいる化け狐と目が合う。
神って、人型じゃないのか――!
一旦頭を落ちつけようと厠の場所を訊いてみたが、この暴力神が簡単に行かせてくれるはずもない。震える肩を押さえつけ、待っている狐に精いっぱいの笑顔を向ける。
「初めまして、獣の神様。これから神粧の儀を務めさせていただきます、化粧師の――」
色師に練習させられた挨拶の途中で、狐は荒い鼻息を吹きかけてきた。
『咲というのですね。我は六神がひと柱、≪獣≫の位を賜っております、雪見と申します』
絵でしか見たことはないが、ただの狐にここまで鋭い牙はなかったはずだ。化粧をする途中で味見されたら、どう責任をとってくれるのだろうか。しかしこの仕事をやり遂げなければ、結局あの色師とかいう神に殺される。腹をくくるしかない、ということだ。
「で、では――お顔を失礼いたします」
色師から預かったうち、「純白」と紙札の貼られた瓶から色具を出す。練粉状の白色を湯に溶かすと、液体の表面に白い星が弾けた。「今のは?」、と振り返ってみたものの、刹那は「黙ってやれ」と睨みをきかせてくる。いちいち感動することも許されないらしい。
化粧をする、といっても、どんな仕上がりが良いのか。好みの雰囲気を狐に尋ねると、『晴れの日にふさわしくありながら、ハイカラにお頼み申します』、と返ってきた。
「晴れの日、ハイカラ……」
刷毛の柔らかな毛先に純白を染み込ませ、ゆっくり息を吸う。またゆっくり吐き出した後、狐の柔らかい毛にそっと筆先をつけた。瞬間、獣の体毛が溶けて消え、滑らかな表面が現れる。人の肌によく似た質感だ。
これが、神粧の儀――。
金の目や黒い鼻も、筆を滑らせる度に人のものへと変わっていく。獣の毛が人の肌に変わっていく光景に惹き込まれ、色を乗せることに没頭する。
この高揚感には覚えがある。そうだ、初めて母から化粧を教わった時と同じ――否、それ以上にじっとしていられない。
人と神の境界を見続けるうちに、だんだんと目がぼやけてきた。いつの間にか、頭の中には見知らぬ女の姿が浮かんでいる。
「だ、れ……?」
会った覚えのない、少し古風で若い女だ。この狐と同じ巫女の白衣を身に纏い、古い床板の縁側に座っている。不思議なことに、「それを目指して筆を走らせろ」、と誰かが助言している気がした。
新鮮な空気を肺に取り込めたのは、獣の顔から乳白の毛と牙が残らず消えた後だった。目の前には、頭に浮かんでいた通りの女が正座している。
「チッ……やってのけたか。盗人小僧め、命拾いしたな」
刹那は悪態をつきながら、先ほどまで獣の神だった女――雪見に鏡を渡した。
これから人として生きる神の顔を、こんな簡単に作り上げてしまって良かったのだろうか。それも、何となくの想像で出来上がった顔だ。
「あの、やっぱり待って――」
「もう遅い。神粧にやり直しはきかない」
この顔はハイカラと言えるのだろうか。晴れの日に相応しいかどうかもよく分からない。
後悔が押し寄せる間にも、人になったばかりの神は鏡を覗き込んでいる。すると鏡が眩い光を放ち、雪見の全身を包み込んだ。
ほんの一瞬目を閉じている間に、白い光は消えていた。誰も今の光について教えてはくれなかったが、雪見は鏡に映った自分の姿に微笑んでいる。
「そう、この顔が良かったのです。注文通りハイカラな印象に仕上げていただいてありがとうございました、化粧師様」
喜んでくれた、と受け取って良いのだろうか。注文に応えられた感触はまったくないのだが。
それにしても、途中で見えた女の顔は何だったのだろう。化粧をしたと言っても、俺はあの顔を雪見から削り出しただけのようなものだ。
「誠に、誠にありがとうございました」
何度も頭を下げる雪見を玄関まで見送り、その姿が往来の中に消えるまで手を振り続ける。
初仕事は無事に終わったというのに。神が人になるあの光景が、今も目に焼き付いて離れなかった。
「ご苦労皆の衆! で、どうだった?」
色師は箪笥のてっぺんに胡坐をかいて、薄い板を彫っているところだった。何をしているのか問いかける前に、刹那が色師の元まで飛び上がる。
「『どうだった?』、ではない! 早く私にかけた枷を解け、この色狂いが」
あの大男まで襟を掴んで持ち上げてしまうとは、刹那の怪力は神の中でも特別なのだろうか。それとも、神は皆力持ちなのだろうか。ぼうっとする頭で箪笥の上の二柱を眺めていると、刹那の胸元が銀色に光った。
「儀は成功したみたいだねぇ。良くやったよ咲ちゃん! それに刹那と八咫も」
「誤魔化すな」、と平手打ちを浴びせる刹那をもろともせず、色師はひとり万歳をしている。
「何だかよく分からないうちに終わってしまいましたけど……死罪の代わりになる仕事が、こんな簡単で良いんですか? もっと危険で大変かと思ってましたが」
相変わらず「色」の一文字で顔は見えないが、その奥から注ぐ密かな視線を感じた。
「簡単、簡単ねぇ。残りの五柱を相手にしても、同じことが言えるかネ?」
あれ一回きりで終わりとは思っていなかったが、残りたった五柱とは嬉しい誤算だ。
「六柱はそれぞれ、
『獣』
『異形』
『付喪』
『鳥』
『草木』
『魚』
彼らはアタシ直属の上位神さ」
神には序列が存在するらしい。中でも特に力を持つ六柱の神が「六神」と呼ばれているのだと、色師は流れるような口調で教えてくれた。刹那に絞め技をかけられながら。
「でも神粧の儀は、神を人に変える儀式なんですよね。力を持つ神を、みんな人に変えてしまって良いんですか?」
何のために神粧の儀をするのか。獣の神は望んで儀をしに来たと言ったが、他の神も人になることを望んでいるのか。浮かんだ疑問をそのまま口にすると、色師の動きが止まった。
「神粧の儀はね、罰なんだよ。神は平等、衆生のためにある存在……それを破って、個人と深く関わった神への罰さ」
ずっとお茶らけていた色師の声が、ほんの一瞬沈んだ。それにも構わず、刹那は色師のみぞおちに乱れ突きを連打している。
よく分からないが、神が特定の人間と懇意になることは許されない、ということだろうか。
「ところで他の神も、神粧の儀を受けることは承知の上なんですよね?」
「やだなぁ咲ちゃん、罰を望んで受ける神なんていなくない? ぶっちゃけ雪見以外には反発されてるんだよねー! 異形からは絶縁状が送られてきたよっ」
色師の声は妙に明るい。あまりの呑気さに、全身の力が抜けていく。
「じゃあ、どうやって儀式をするんですか? そんな状態で大人しく化粧なんてさせてくれないでしょう?」
色塗れの畳に胡坐をかき、箪笥の上で醜い争いを続ける二柱の神を見上げた。どうせもうバレているのだ。ここで女の所作を演じる必要はない。
「神粧の儀にはいくつか条件があるんだよねー。あっ、これ契約書と手引きだよ! 逃げずにやってくれれば、ちゃんとお賃金も出すし、休暇も頻繁に入れるから」
箪笥の上から、古めかしい半紙が二枚降ってきた。まさか今用意したのだろうか。
「はい、復唱してネ。『神に雇われる化粧師の手引き』第一章、神粧の儀を行う条件。一、神が儀の実行を受け入れること」
「それ最初から駄目じゃないですか!」
簡単な仕事だ、などと安易に口にしたのはどこの誰だったか。頭を抱えていると、色師の手が、色師の胴体に絡まっている刹那の足に添えられた。
「ま、た、は、こうやって屈伏させるって手もあるんだ」
節くれた長い指が、刹那の白いふくらはぎを滑るように撫でる。すると、巨体を絞め上げる手足がより力を強めた。
「触るな色狂い! 早く枷を解けと言っているだろうが」
下駄の歯まで色師のすねに食い込み、軋むような音を立てている。
どの辺が「こうやって」なのだろうか――。
「アダダダダ、分かった降参! 暴力反対!」
この国で一番偉い神、という肩書が完全に失われたところで、色師は絞め技から解放された。
「と、このように相手を屈伏させれば儀式は行えるのさ。後の条件は、お茶でも飲みながら読んでおいてネ! てことで、引き続き刹那には咲ちゃんの用心棒をしてもらいまーす」
俺の「えぇ!?」は刹那の怒声に掻き消されてしまった。
「何故私が盗人小僧の子守りをしなければならない!」
「こっちだってお断りですよ!」
用心棒どころか、この神が一番危険ではないか。
「中には好戦的な神もいるし、一筋縄ではいかない子もいるからね。キミみたいな無名神(ななしのかみ)と違って、彼らは神階に数えられる上位の神々だけど……まぁ何とかなるでしょ!」
色師は刹那を指して、「無名神」と言った。位を持つ神々は、この暴力神より強いというのか。
「刹那、これはお願いじゃない。雇い主――すなわち主神からの詔(めい)だ。『人の子と共に、六神全員の神粧を遂行せよ』」
「チッ……」
刹那は箪笥から飛び降りると、こちらを一瞥してから障子戸の向こうへ消えていった。正確には障子戸を破り、その穴から出ていったのだが。
「ごめんねー、愛想なしの神で。とりあえず『繋縛』はかけてあるから、キミを喰い殺しはしないはずさっ」
先行きに闇しかないが、ここで辞めると言い出せばその闇すら見えなくなる。それに神粧の儀を全て成功させるには、刹那の助けを借りる他なさそうだ。
「はい、できた!」
箪笥の上からヒラヒラと降ってきたのは、一枚の瓦版だった。
「何ですかこれ?」
ため息を吐くこちらに構いもせず、色師はそれを「早く見ろ」と急かす。刷りたての紙面には、下ろし髪の娘と見覚えのある化け狐が描かれていた。人気絵師にも引けを取らない画力だが、その内容は――何匹もの狐が娘を取り囲み、その臓腑を喰い破っている不愉快な絵だ。
「これは結果報告だよ。アタシには少し先の未来が見えるからねぇ。それを趣味の瓦版で彫ってみたってわけさ」
ゾクリ、と背筋に悪寒が走った。目を凝らしてみると、娘の横には「お咲」と書かれている。
「それがキミの、初仕事の結果というわけだ。残念だけれども」
「そんな、どうして……」
雪見は笑顔でこの楼閣を出て行ったはずだ。あの後、一体何が起こったというのか。
「これをやり遂げれば、本雇用……」
仕事に関する指示は二つ。一つは、この化粧箱に入った色具を使って化粧をすること。もう一つは、刹那を用心棒として傍に置くことだ。
「私が盗人の用心棒だと!? しかもあの色狂いめ、私に『枷』をつけやがった」
今もこちらの胸ぐらを狙っている刹那が手を出してこないのは、色師が刹那に施した「繋縛(けいばく)」とやらが利いているからだろう。暴力神が手出ししようものなら、抑止力がはたらくらしい。
『どうどう刹那。主神が雇っちまったんだから、もう仕方ねぇだろうが』
「あぁそうだな。こいつが逃げでもしない限り、八つ裂きにすることすら叶わん」
帯に挟んだ鏡と話しながら、刹那は後ろをついてくる。
「あの……」
「あぁ?」
視線だけでも殺されそうだ。
ひとまず前に向き直り、やけに長い階段を昇りながら口を開いた。そもそも神にする化粧とは、ふつうと何が違うのか。他にも訊きたいことは沢山あったが、今一等必要な情報はそれだ。
『今人ってのは見目を良くするのに粧すだろ? でも昔人は違ぇ。儀式だの、身分差だの、化粧には印や表示の役割があったんだぜ。神の化粧は儀式用だ』
尖った威圧を放つ女神の代わりに、鏡が答えてくれた。刹那と同じで口は悪いが、この鏡は割とまともかもしれない。
『まぁ簡単に言やぁ、神を人に変えるための儀式――神粧の儀、だ』
「神が人に……? そんなことできるんですか?」
足を止めて振り返ると、どす黒い空気を醸し出す刹那に背中を小突かれた。そして「百聞は一見に負けずだろうが」、と睨まれる。色々訂正しようか迷ったが、ぐっと堪えて口をつぐんだ。
「さぁ、粧せ」
刹那に背を押され、座敷の目の前で転げそうになった。顔を上げると、襖の向こうにいる化け狐と目が合う。
神って、人型じゃないのか――!
一旦頭を落ちつけようと厠の場所を訊いてみたが、この暴力神が簡単に行かせてくれるはずもない。震える肩を押さえつけ、待っている狐に精いっぱいの笑顔を向ける。
「初めまして、獣の神様。これから神粧の儀を務めさせていただきます、化粧師の――」
色師に練習させられた挨拶の途中で、狐は荒い鼻息を吹きかけてきた。
『咲というのですね。我は六神がひと柱、≪獣≫の位を賜っております、雪見と申します』
絵でしか見たことはないが、ただの狐にここまで鋭い牙はなかったはずだ。化粧をする途中で味見されたら、どう責任をとってくれるのだろうか。しかしこの仕事をやり遂げなければ、結局あの色師とかいう神に殺される。腹をくくるしかない、ということだ。
「で、では――お顔を失礼いたします」
色師から預かったうち、「純白」と紙札の貼られた瓶から色具を出す。練粉状の白色を湯に溶かすと、液体の表面に白い星が弾けた。「今のは?」、と振り返ってみたものの、刹那は「黙ってやれ」と睨みをきかせてくる。いちいち感動することも許されないらしい。
化粧をする、といっても、どんな仕上がりが良いのか。好みの雰囲気を狐に尋ねると、『晴れの日にふさわしくありながら、ハイカラにお頼み申します』、と返ってきた。
「晴れの日、ハイカラ……」
刷毛の柔らかな毛先に純白を染み込ませ、ゆっくり息を吸う。またゆっくり吐き出した後、狐の柔らかい毛にそっと筆先をつけた。瞬間、獣の体毛が溶けて消え、滑らかな表面が現れる。人の肌によく似た質感だ。
これが、神粧の儀――。
金の目や黒い鼻も、筆を滑らせる度に人のものへと変わっていく。獣の毛が人の肌に変わっていく光景に惹き込まれ、色を乗せることに没頭する。
この高揚感には覚えがある。そうだ、初めて母から化粧を教わった時と同じ――否、それ以上にじっとしていられない。
人と神の境界を見続けるうちに、だんだんと目がぼやけてきた。いつの間にか、頭の中には見知らぬ女の姿が浮かんでいる。
「だ、れ……?」
会った覚えのない、少し古風で若い女だ。この狐と同じ巫女の白衣を身に纏い、古い床板の縁側に座っている。不思議なことに、「それを目指して筆を走らせろ」、と誰かが助言している気がした。
新鮮な空気を肺に取り込めたのは、獣の顔から乳白の毛と牙が残らず消えた後だった。目の前には、頭に浮かんでいた通りの女が正座している。
「チッ……やってのけたか。盗人小僧め、命拾いしたな」
刹那は悪態をつきながら、先ほどまで獣の神だった女――雪見に鏡を渡した。
これから人として生きる神の顔を、こんな簡単に作り上げてしまって良かったのだろうか。それも、何となくの想像で出来上がった顔だ。
「あの、やっぱり待って――」
「もう遅い。神粧にやり直しはきかない」
この顔はハイカラと言えるのだろうか。晴れの日に相応しいかどうかもよく分からない。
後悔が押し寄せる間にも、人になったばかりの神は鏡を覗き込んでいる。すると鏡が眩い光を放ち、雪見の全身を包み込んだ。
ほんの一瞬目を閉じている間に、白い光は消えていた。誰も今の光について教えてはくれなかったが、雪見は鏡に映った自分の姿に微笑んでいる。
「そう、この顔が良かったのです。注文通りハイカラな印象に仕上げていただいてありがとうございました、化粧師様」
喜んでくれた、と受け取って良いのだろうか。注文に応えられた感触はまったくないのだが。
それにしても、途中で見えた女の顔は何だったのだろう。化粧をしたと言っても、俺はあの顔を雪見から削り出しただけのようなものだ。
「誠に、誠にありがとうございました」
何度も頭を下げる雪見を玄関まで見送り、その姿が往来の中に消えるまで手を振り続ける。
初仕事は無事に終わったというのに。神が人になるあの光景が、今も目に焼き付いて離れなかった。
「ご苦労皆の衆! で、どうだった?」
色師は箪笥のてっぺんに胡坐をかいて、薄い板を彫っているところだった。何をしているのか問いかける前に、刹那が色師の元まで飛び上がる。
「『どうだった?』、ではない! 早く私にかけた枷を解け、この色狂いが」
あの大男まで襟を掴んで持ち上げてしまうとは、刹那の怪力は神の中でも特別なのだろうか。それとも、神は皆力持ちなのだろうか。ぼうっとする頭で箪笥の上の二柱を眺めていると、刹那の胸元が銀色に光った。
「儀は成功したみたいだねぇ。良くやったよ咲ちゃん! それに刹那と八咫も」
「誤魔化すな」、と平手打ちを浴びせる刹那をもろともせず、色師はひとり万歳をしている。
「何だかよく分からないうちに終わってしまいましたけど……死罪の代わりになる仕事が、こんな簡単で良いんですか? もっと危険で大変かと思ってましたが」
相変わらず「色」の一文字で顔は見えないが、その奥から注ぐ密かな視線を感じた。
「簡単、簡単ねぇ。残りの五柱を相手にしても、同じことが言えるかネ?」
あれ一回きりで終わりとは思っていなかったが、残りたった五柱とは嬉しい誤算だ。
「六柱はそれぞれ、
『獣』
『異形』
『付喪』
『鳥』
『草木』
『魚』
彼らはアタシ直属の上位神さ」
神には序列が存在するらしい。中でも特に力を持つ六柱の神が「六神」と呼ばれているのだと、色師は流れるような口調で教えてくれた。刹那に絞め技をかけられながら。
「でも神粧の儀は、神を人に変える儀式なんですよね。力を持つ神を、みんな人に変えてしまって良いんですか?」
何のために神粧の儀をするのか。獣の神は望んで儀をしに来たと言ったが、他の神も人になることを望んでいるのか。浮かんだ疑問をそのまま口にすると、色師の動きが止まった。
「神粧の儀はね、罰なんだよ。神は平等、衆生のためにある存在……それを破って、個人と深く関わった神への罰さ」
ずっとお茶らけていた色師の声が、ほんの一瞬沈んだ。それにも構わず、刹那は色師のみぞおちに乱れ突きを連打している。
よく分からないが、神が特定の人間と懇意になることは許されない、ということだろうか。
「ところで他の神も、神粧の儀を受けることは承知の上なんですよね?」
「やだなぁ咲ちゃん、罰を望んで受ける神なんていなくない? ぶっちゃけ雪見以外には反発されてるんだよねー! 異形からは絶縁状が送られてきたよっ」
色師の声は妙に明るい。あまりの呑気さに、全身の力が抜けていく。
「じゃあ、どうやって儀式をするんですか? そんな状態で大人しく化粧なんてさせてくれないでしょう?」
色塗れの畳に胡坐をかき、箪笥の上で醜い争いを続ける二柱の神を見上げた。どうせもうバレているのだ。ここで女の所作を演じる必要はない。
「神粧の儀にはいくつか条件があるんだよねー。あっ、これ契約書と手引きだよ! 逃げずにやってくれれば、ちゃんとお賃金も出すし、休暇も頻繁に入れるから」
箪笥の上から、古めかしい半紙が二枚降ってきた。まさか今用意したのだろうか。
「はい、復唱してネ。『神に雇われる化粧師の手引き』第一章、神粧の儀を行う条件。一、神が儀の実行を受け入れること」
「それ最初から駄目じゃないですか!」
簡単な仕事だ、などと安易に口にしたのはどこの誰だったか。頭を抱えていると、色師の手が、色師の胴体に絡まっている刹那の足に添えられた。
「ま、た、は、こうやって屈伏させるって手もあるんだ」
節くれた長い指が、刹那の白いふくらはぎを滑るように撫でる。すると、巨体を絞め上げる手足がより力を強めた。
「触るな色狂い! 早く枷を解けと言っているだろうが」
下駄の歯まで色師のすねに食い込み、軋むような音を立てている。
どの辺が「こうやって」なのだろうか――。
「アダダダダ、分かった降参! 暴力反対!」
この国で一番偉い神、という肩書が完全に失われたところで、色師は絞め技から解放された。
「と、このように相手を屈伏させれば儀式は行えるのさ。後の条件は、お茶でも飲みながら読んでおいてネ! てことで、引き続き刹那には咲ちゃんの用心棒をしてもらいまーす」
俺の「えぇ!?」は刹那の怒声に掻き消されてしまった。
「何故私が盗人小僧の子守りをしなければならない!」
「こっちだってお断りですよ!」
用心棒どころか、この神が一番危険ではないか。
「中には好戦的な神もいるし、一筋縄ではいかない子もいるからね。キミみたいな無名神(ななしのかみ)と違って、彼らは神階に数えられる上位の神々だけど……まぁ何とかなるでしょ!」
色師は刹那を指して、「無名神」と言った。位を持つ神々は、この暴力神より強いというのか。
「刹那、これはお願いじゃない。雇い主――すなわち主神からの詔(めい)だ。『人の子と共に、六神全員の神粧を遂行せよ』」
「チッ……」
刹那は箪笥から飛び降りると、こちらを一瞥してから障子戸の向こうへ消えていった。正確には障子戸を破り、その穴から出ていったのだが。
「ごめんねー、愛想なしの神で。とりあえず『繋縛』はかけてあるから、キミを喰い殺しはしないはずさっ」
先行きに闇しかないが、ここで辞めると言い出せばその闇すら見えなくなる。それに神粧の儀を全て成功させるには、刹那の助けを借りる他なさそうだ。
「はい、できた!」
箪笥の上からヒラヒラと降ってきたのは、一枚の瓦版だった。
「何ですかこれ?」
ため息を吐くこちらに構いもせず、色師はそれを「早く見ろ」と急かす。刷りたての紙面には、下ろし髪の娘と見覚えのある化け狐が描かれていた。人気絵師にも引けを取らない画力だが、その内容は――何匹もの狐が娘を取り囲み、その臓腑を喰い破っている不愉快な絵だ。
「これは結果報告だよ。アタシには少し先の未来が見えるからねぇ。それを趣味の瓦版で彫ってみたってわけさ」
ゾクリ、と背筋に悪寒が走った。目を凝らしてみると、娘の横には「お咲」と書かれている。
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