ヒトカミ粧

見早

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第一章 神の化粧師

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 骨董屋を追い出された後、鏡の持ち主である赤い着物の女を探し回ったのだが。人の往来が盛んなこの街で、目当ての人物が容易に見つかるはずもない。碁盤の目のように正確な通りを一巡してから、三途橋の欄干に寄りかかって足を休めることにする。

「悪い心地、かぁ」

 周りの誰も見ていないことを確認してから、懐の鏡を取り出した。手のひらよりも少し大きい丸鏡。裏は錆びついた青銅で、尾の長い鳥の装飾があちこちに施されている。鏡面に映るのは粧した娘。自分を黒、白、赤で覆い隠した偽りの姿――のはずだった。

「え?」

 鏡の滑らかな表面が一瞬、水面が揺らいだように波打った。すると目の前に現れたのは、色を落とした本当の自分。
 慌てて頭に触れてみたが、足し毛は取れていない。顔の白粉や紅も落ちていない。鏡面を袖で磨いてみたが、やはり鏡に映るのは、仕事用の顔ではなく「俺」だった。
 妙な虚像と見つめ合っていると、突然鏡の「俺」の背後に赤い骸骨が現れた。

「貴様、男だったのか」

 じわり、と頭を侵食する低音と吐息に、体が大きく跳ねる。振り返ると赤い女――この鏡の持ち主が、すぐ横の欄干に腰掛けていた。

「あ、い、いつからここに!?」
「私から逃げられるとでも思ったか? 盗人小僧め」

 衣同士が擦れるほど近くにいるというのに、気配をまったく感じなかった。

「どうしてここが……?」

 淀んだ川面に視線を落としたまま問いかけたが、返事はない。代わりにあごを掴まれ、強引に女の方を見上げさせられた。鮮やかな紅を差した目は、熱を感じるほどに燃えている。

『ギャハハハ! 刹那(せつな)め、こんなチンチクリンに吾(おれ)を盗られるとはねぇ。お前もヤキが回ったんじゃねぇか?』

 ガサガサと掠れた男の声が手元から響いた瞬間、振動で鏡が手から滑り落ちた。
 間違いない、今――。

「か、か、か――」

 そんなことはあり得ない、と否定する頭が言葉を遮っている間に、女はこの手を離れた鏡を掴んでいた。

「鏡から男の声が!」
「そんなことより小僧、神の持ち物を盗むとはどういう了見だ?」

「そんなことより」、ではない。
 鏡が喋ったというのに――!
 何が起こっているのか。自分がおかしくなったのか。息を吸う間も惜しんで問いかける。

「まったく、よく喋る小僧だな」

 舌打ちが耳元に響いた直後。突然視界が反転した。

『おいチンチクリン、さっさと土下座しとけよ。この女、お前をアッチ側へ連れて行くつもりだぜ?』

 目の前にあるのは、底の見えないドブ川の水面。信じられないことに、片足を掴まれて宙吊りにされている。赤い女の華奢な片腕で、それも軽々と。歳の割に小柄だと父には言われるが、それでも女の細腕一本で耐えられる重さではない。
 赤い女と鏡が騒ぎ立てているが、喉は塞がったまま、頭はぐちゃぐちゃのままだ。ただ一つ、「裁く」という単語だけは聞き取れた。

「お巡りだけは勘弁してください! 父に迷惑は掛けたくないんです」
「口を塞いでいろ」

 女の燃え盛る目に睨まれると、一切逆らうことができなくなる。

「貴様を裁くのは『おまわり』とやらではない。万物の主、あの変人、色狂い――つまりは神だ」

 その言葉を合図に、体が下へ下へと落ちていった。
 沈む。
 この世の汚物全てを流し込んだかのようなドブ川に、体が飲み込まれていく。最後に見えたのは、こちらを見下ろす赤い女の冷笑だった。



「……さく……」

 誰かが呼んでいる。人の話を聞かないあの女よりも、低く軽快な声だ。

「咲ちゃーん?」

 もやが晴れた視界に映るのは、極彩色の天井だった。

「俺、川に落ちたんじゃ……」

 ぼやっとする頭に、鐘つきのような規則正しい痛みが走る。古い匂いの畳から体を起こすと、今度は色の波が目に飛び込んできた。赤、青、黄、緑……色彩が互いを塗りつぶさんとする勢いで、障子や畳、正面の襖に飛び散っている。

「咲ちゃん、起きたー?」

 背後にそびえ立つ漆黒の箪笥以外、だだっ広い畳の間に物陰はなく、声の主は確認できない。

「あと三歩後ろに下がって、こっちを見上げてネ」

 言われた通りにすると、箪笥のてっぺんで胡座をかいている大男を見つけた。夕焼け色の長い編み髪が、宝石に彩られた紺碧の羽織に垂れている。
 足し髪が取れていないことを確認し、とりあえずその場に正座した。

「アタシは色師(いろし)。よろしくどうぞ、咲ちゃん……いんや、今は『お咲ちゃん』?」

「色」の一字が書かれた白布で、男は顔を覆っている。それでも不思議と表情が伝わってきた。

「どうしてお……私の名前……」
「こう見えてアタシ、この国で一番偉いカミサマなんだよ? キミの名くらい分かるさ」

 カミサマ――?

「あれぇ、どしたのー? 刹那に乱暴されすぎて、まだ目が覚めていないのかなー?」
「刹那って、あの赤い着物の人ですか?」
「左様! キミはアレにここまで連れて来られたんだよ」

 三途橋から川に落とされて、気がついたらこの色塗れの間にいた。まったく状況が分からない。

「ここは人の世の裏に存在する神の街――『常世』さ」

 常世――?

「ふふっ……あははは!」
「おお、思いの外元気だねキミぃ」

 この尋常ではない状況に、危うく騙されるところだった。

「神なんて、いるわけないじゃないですか」

 あの「色」を掲げた男が、もしや父の言っていた化粧の神か――などと思ってしまったが、そんなはずはない。鏡に映った妙なアレも、赤い女の恐ろしい腕力も、きっと夢だったのだ。

「うーん、キミに信じてもらわないと話が進まないし、ここはひとつアタシの神力を……んんっ、見えた!」

 何がどうした、と口を挟む間もなく、色師の黒い爪がこちらに向いた。

「キミはそんなナリだけど十六の男児。花街の外堀にある粗ま……小さな荒屋で、役者の父上と暮らしている」

 そんなこと、少し調べれば分かる話だ。

「キミは父上に内緒で、スリ稼業をしているみたいだネ。暮らしのためって言っているけれど……実は銭のためじゃあない。どう、合ってる?」

 戻りつつあった冷静が、まとめて飛び去って行った。後半については、助六じいさんやお露でさえ知り得ないことだ。改めて「色」の字を掲げる男を真っ直ぐに見つめる。

「本当に、神様……?」
「信じてもらえたかな? あっと、ちょうど良い時に来た」

 ほら、と神が指す先には、刹那という女が立っていた。女は座敷の隅の柱に寄りかかり、眉を吊り上げている。

「早くしろ。上で客が待っている」
「雪見ちゃんもう来たんだ。じゃ、さっさと本題に入るねぇ」

 色師が背を正した途端、畳の極彩色がいっぺんに褪せた。襖や天井にまで飛び散る色も、みんな灰色に近づいていく。

「キミは神の鏡を盗んだ。間違いない? それで、神の持ち物を盗んだ場合は……」

 座敷の彩度が失われていくと同時に、周りの温度も凍るように冷たくなっていく。息を呑み、神の沙汰を待っていたその時。

「あれぇ、なんだっけ?」

 張りつめていた空気が一気に緩んだ。この国で一番偉いと言っていたが、本当なのだろうか。

「知るか。自分で調べろ」

 後ろから冷めた視線を送ってくる女の方が、色師よりもよほど恐ろしい。辛辣な物言いにもけろっとした様子で、色師は懐から分厚い書物を取り出した。頁めくりのあまりの速さに、つい目が釘付けになる。

「あぁ、あった! 『死をもって償うこと』、だってー」

 先ほどまでのふざけた調子と、何ら変わらない色師の言葉に耳を疑った。
 地獄行きも承知の上でやっている。そう覚悟していたはずなのだが、納得よりも怒りが沸々と湧き上ってきた。
 神とは何様なのか――。
 震えの治まらない体を畳に這わせ、箪笥のてっぺんで笑う色師を睨み上げる。

「冗談、ですよね?」
「まさか。被害神さんはどうするべきだと思う?」

 沈黙を守っていた女を振り返ると、暗い赤の瞳と視線がぶつかった。

「死罪だな」

 一片の慈悲もない物言いに、脈打つ頭が真っ赤に染まる。大嫌いな、赤に。

 笑う色師を、そして仏頂面の女――刹那を睨みつけ、肺が軋むまで深く息を吸う。

「確かに俺は、父に顔向けできないことを繰り返してきました……それでもまだ死ねない。俺はまだ、何も償っていないんだ」

 白布の下は、相変わらずニヤリと笑っている。一方刹那は、紅を引いた唇を結んだまま、瞬きひとつしないでいる。何とか絞りだした威勢が、沈黙に押しつぶされる寸前。紅の唇がふっと息を吹き出し、だだっ広い座敷に豪快な笑い声が響いた。

「盗人小僧」

 突然、黒い気を漂わせる刹那に胸ぐらを掴まれた。覚えのある状況に、自然と体が身構える。

「何を恐れる? 貴様の死が償いになるというのに」

 そんなものが、神の与える罰――?

「人の事情も知らないクセに」
「……ふざけるな」

 凍てつく吐息が頬を掠めた直後、つま先が畳を離れた。宙吊りにされたと思った瞬間、背中に強い衝撃が走る。

「そこの主神(バカ)、早くこの不愉快な小僧を裁け」

 極彩色の畳に大の字で寝たまま、人を投げ飛ばした女を睨み返す。「理不尽な神め」、と喉まで出かかったその時。ずっと箪笥のてっぺんにいた色師が、ふわりと目の前に降り立った。「色」の一文字に覆われた顔を、ずいっと耳元に寄せてくる。

「暴力神はああ言ってるけどねぇ、キミ、アタシの与える仕事をやってみない?」

 布越しに張りつめた視線を感じ、「色」の字から目を逸らせない。

「実をいうとねぇ、ちょうど人間の働き手が欲しかったんだよ。キミの神相手にも引けを取らない豪胆と、化粧の腕を買ってあげよう」

 突如差した光に、全身が固まったその時。色師のゴツゴツとした指先が、緊張の解けた頬に向かって伸びてきた。

「神の化粧師になることを、死罪に代わる償いとしよう。ただし逃げ出したら『死』、だけどネ」

 熱を帯びた親指が、紅を拭い滑っていく。指はそのまま顎を伝い、脈打つ首筋に食い込んだ。

「本当に……?」
「カミサマがウソをつくはずないでしょー?」

 つい先ほどまで、俺の処刑に乗り気だったのはどこの神だったか。薄目で「色」の字を見つめていると、首筋を圧迫している指が力を強めていく。

「アタシの元で働くか、今ここで死ぬか……さぁ、どうする?」

 よりによって、ここでも化粧か。切り替えの早さも引っかかるが――。

「俺は何をすれば良いんですか?」

 選択肢などないようなものだ。首にかけられた手を振り払い、「色」の布を睨みつけると、白布の隙間から大ぶりの歯が覗いた。

「良いねぇ決断早くて。なに、神を粧せば良いのさ。キミの仕事はたったそれだけだよ」
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