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序
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「さぁ、粧せ」
赤い着物の女は不敵に笑むと、人の背中を不躾に押しやった。
粧せも何も。襖の向こうで三つ指をついているのは、狭い座敷にぴたりと収まった化け狐。その巨体を白衣と朱色の袴に押し込めている。
顔にびっしり毛が生えた獣を、どうやって粧せというのか。
「あ……あの、厠ってどっちでしたっけ?」
筆と色具のひしめく箱を畳に降ろし、柱に寄りかかっている赤い女を振り返ると。
「行っても構わないが」
女はにっこりとして襖を開けた。
「ずらかるつもりならば、貴様を二度と厠へ行けない体にしてやるぞ?」
駄目だ、逃げられない。
震える肩を押さえつけ、待っている狐に精いっぱいの笑顔を向ける。そして、先ほど叩きこまれたばかりの挨拶文を頭に思い浮かべた。
「初めまして、獣の神様。神粧(かみめかし)の儀を務めさせていただきます、化粧師の――」
『人の子、咲(さく)というのですね。我は六神がひと柱、≪獣≫の位を賜っております、雪見(ゆきみ)と申します』
名を把握されていることは神にありがちなことだから、この際気にしないとして――獣の神が本当に「獣」だとは聞いていない。
『ふふふっ。十六の男児とはいえ、まだまだ可愛らしいものですね。食べちゃいたいくらい』
冗談だろうか。いや、冗談だと信じたい。
見張り兼用心棒の女を振り返ると、「前を向け」とあご先で指示された。こうなったら腹をくくるしかない。後ろの暴力神に蹴られるより、獣に化粧をする方がマシだ。
「で、では――お顔を失礼いたします」
器用に正座している狐の前に座り、勝手の分からない化粧箱から道具を取り出した。刷毛や筆は何本も太さの違うものが揃っているが、色具は黒、白、赤しか入っていない。漆塗りの椀に白粉を溶きながら、どんな雰囲気が好みかを狐に尋ねた。
『晴れの日にふさわしくありながら、ハイカラにお頼み申します』
伝統色三色で、どうやってハイカラにしろというのか。世間で流行っている薄紅や楓などの色はない。とにかく、白は今昔ともに主流な色だ。間違いはないだろう。
湯を含ませた白粉を刷毛につけ、深く息を吸った。そうして狐の柔らかい毛に、そっと白を乗せた瞬間。獣の体毛が溶けて消え、滑らかな表面が現れた。人の肌によく似た質感だ。
神を人に変える化粧――盗みの罰として与えられた仕事が、こんなにも奇妙奇天烈なものだったとは。
「怯むな。続けろ」
背後からの低音に、止まっていた筆を再び動かした。獣の金の目や黒い鼻も、筆を滑らせる度に人のものへと変わっていく。その光景に惹き込まれ、見張りの女が放つ鋭い視線も気にならなくなってきた。狐の中に隠されている、素朴な女の顔を露わにすること。それだけを目指して筆を走らせる。
やっと息を吸うことができたのは、獣の顔から乳白の毛と鋭い牙が残らず消えた後だった。目の前には背筋の伸びた女が一人、慎ましやかに正座している。
「チッ……やってのけたか。盗人小僧め、命拾いしたな」
赤い女は悪態をつきながら、先ほどまで獣の神だった女に鏡を渡した。
はたして、これで良かったのだろうか。疑問が過った瞬間、達成感に浸っていた頭がぎゅっと引き締まる。
「あの、やっぱり待って――」
「もう遅い。神粧の儀にやり直しはきかない」
これから人として生きる神の顔が、まさかこんな一瞬で決まってしまうとは。もっと本人と相談をして、好みも細かく確認して、それから――。
後悔が押し寄せる間にも、人になったばかりの元神は鏡を覗き込んでいた。
赤い着物の女は不敵に笑むと、人の背中を不躾に押しやった。
粧せも何も。襖の向こうで三つ指をついているのは、狭い座敷にぴたりと収まった化け狐。その巨体を白衣と朱色の袴に押し込めている。
顔にびっしり毛が生えた獣を、どうやって粧せというのか。
「あ……あの、厠ってどっちでしたっけ?」
筆と色具のひしめく箱を畳に降ろし、柱に寄りかかっている赤い女を振り返ると。
「行っても構わないが」
女はにっこりとして襖を開けた。
「ずらかるつもりならば、貴様を二度と厠へ行けない体にしてやるぞ?」
駄目だ、逃げられない。
震える肩を押さえつけ、待っている狐に精いっぱいの笑顔を向ける。そして、先ほど叩きこまれたばかりの挨拶文を頭に思い浮かべた。
「初めまして、獣の神様。神粧(かみめかし)の儀を務めさせていただきます、化粧師の――」
『人の子、咲(さく)というのですね。我は六神がひと柱、≪獣≫の位を賜っております、雪見(ゆきみ)と申します』
名を把握されていることは神にありがちなことだから、この際気にしないとして――獣の神が本当に「獣」だとは聞いていない。
『ふふふっ。十六の男児とはいえ、まだまだ可愛らしいものですね。食べちゃいたいくらい』
冗談だろうか。いや、冗談だと信じたい。
見張り兼用心棒の女を振り返ると、「前を向け」とあご先で指示された。こうなったら腹をくくるしかない。後ろの暴力神に蹴られるより、獣に化粧をする方がマシだ。
「で、では――お顔を失礼いたします」
器用に正座している狐の前に座り、勝手の分からない化粧箱から道具を取り出した。刷毛や筆は何本も太さの違うものが揃っているが、色具は黒、白、赤しか入っていない。漆塗りの椀に白粉を溶きながら、どんな雰囲気が好みかを狐に尋ねた。
『晴れの日にふさわしくありながら、ハイカラにお頼み申します』
伝統色三色で、どうやってハイカラにしろというのか。世間で流行っている薄紅や楓などの色はない。とにかく、白は今昔ともに主流な色だ。間違いはないだろう。
湯を含ませた白粉を刷毛につけ、深く息を吸った。そうして狐の柔らかい毛に、そっと白を乗せた瞬間。獣の体毛が溶けて消え、滑らかな表面が現れた。人の肌によく似た質感だ。
神を人に変える化粧――盗みの罰として与えられた仕事が、こんなにも奇妙奇天烈なものだったとは。
「怯むな。続けろ」
背後からの低音に、止まっていた筆を再び動かした。獣の金の目や黒い鼻も、筆を滑らせる度に人のものへと変わっていく。その光景に惹き込まれ、見張りの女が放つ鋭い視線も気にならなくなってきた。狐の中に隠されている、素朴な女の顔を露わにすること。それだけを目指して筆を走らせる。
やっと息を吸うことができたのは、獣の顔から乳白の毛と鋭い牙が残らず消えた後だった。目の前には背筋の伸びた女が一人、慎ましやかに正座している。
「チッ……やってのけたか。盗人小僧め、命拾いしたな」
赤い女は悪態をつきながら、先ほどまで獣の神だった女に鏡を渡した。
はたして、これで良かったのだろうか。疑問が過った瞬間、達成感に浸っていた頭がぎゅっと引き締まる。
「あの、やっぱり待って――」
「もう遅い。神粧の儀にやり直しはきかない」
これから人として生きる神の顔が、まさかこんな一瞬で決まってしまうとは。もっと本人と相談をして、好みも細かく確認して、それから――。
後悔が押し寄せる間にも、人になったばかりの元神は鏡を覗き込んでいた。
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