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poisson:食
3.「美食家の系譜」
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「課題に協力してください」、とアールにお願いしたものの。足が向かわないまま、あれから3日が過ぎてしまいました。
エルの調査はもちろん、課題のソルベについても一切光明が見出せていないというのに。
「やぁ、苦労しているようだねぇ。この後時間あるかな?」
2人きりの昼食後、珍しくギュスターヴが声をかけてきました。いつもならば、すぐに自室へ向かうか車でお出かけになるのですが。
苦労も何もあなたが課した難題ですよ、と言いたいところですが――居候の分際で、当主にそのような文句が言えるはずありません。
「強力な助っ人を紹介するから、会いに行くといいよ」
早速、町への車をエルダーが回してくれました。ですが提案した本人は、「片付けなきゃいけない書類があってね」、と同行はしません。
「エルダー、どこへ向かっているのですか?」
「天文塔ですよ、ルーシー様」
まさか助っ人とは、リアンのことでしょうか。心強いような面倒なような気持ちで灰色の町並みを見つめていると。いつの間にか、ウェルズで1番高い天文塔の前に到着していました。
ここにお勤めの方は毎朝この無限階段を登っていらっしゃるのですから、きっと足腰が鍛えられることでしょう。そういえば、「これを登れなくなったら退職する時だ」、などという冗談話を以前職員の方からうかがったことがあります。
「お待ちしておりました、サリーナさん」
予想通り、出迎えてくれたのはリアンでした。それも私一人のために、天文塔の案内をして回るというのです。
「あなたに与えられた課題のことは存じていますよ。ですがせっかくいらっしゃったのですから、家族の職場を見て行かれてはいかがですか?」
そういえば私は、花嫁候補という肩書きでした。ご兄弟4人のうちリアン以外の全員に正体がバレているせいか、最近それすら忘れそうになっていけません。
いっそリアンにも正体を明かして協力を仰ぎましょうか――などと正気を失いかけていると。
「お手をどうぞ、お嬢様」
出会ったばかりの頃のような、妙に仰々しい口調も気になりますが。何より金縁眼鏡の奥で笑う赤眼が、いつもより冷たい光を宿しています。これがリアンの外用の顔なのでしょうか。
すれ違う人たちがリアンに頭を下げるのを横目に、何やら騒がしい渡り廊下を進んでいくと。石で囲まれた砂地の中庭が見えてきました。
四方の廊下、また遥か天まで伸びる吹き抜けの廊下から、大勢の人が顔を出しています。職員だけではなく、一般の方も混じっているようです。その視線の先にあるのは、中庭の中心にそびえる断頭台でした。もう百年使われていないというマダーマム家のものとは違い、刃が日光を反射して輝いています。
「あれは、罪人と処刑人?」
今まさに、処刑が行われようとしていました。
ですがギロチンは使われないようです。聴衆の声を受けて大鎌を振り上げるのは、恐ろしくも麗しい黒ドレスの処刑人――仮面をつけていますが、あの背格好と腕力はルイーズです。
「これは失礼いたしました! まさか刑執行の日と重なるとは。ご令嬢にお見せするようなものではございませんでしたね」
すっかり慣れた煽りに対し、リアンをきっと睨みつけます。
「相手が誰にせよ、私はマダーマム家に嫁ぐのですよね。これくらいで騒いでいたら、今後やっていけないのでは?」
そもそも初回の顔合わせで食堂へギロチンを持ち込み、ご令嬢方を震え上がらせたのは誰だったでしょうか。
遠い目で処刑台を見つめていると、リアンはいつもの豪快な笑い声を溢しました。罪人の首が落ち、聴衆が上げる最高潮の叫びに負けないほどの声で。
「本当にあなたという人は! フリだけでもして欲しいものですが」
「え?」
今、「フリ」と言ったような気がしましたが。
「まぁ良いでしょう。いつまでも眺めていられる場所ですが、次もありますし」
廊下ですれ違うスーツの方々は、老若男女問わずリアンに丁寧なお辞儀をしています。まるでリアンが王様、私がそのお付きのような心地です。
「もしかして、リアンって相当偉い人なんですか?」
「いいえ。いち部署の統括という立場なだけですが。それ以上に身分の関係がありますからね」
天文塔のような政務機関では、組織での役職ではなく、王家から与えられた爵位が上下関係を定めている――そうリアンは教えてくれました。すると侯爵家であるマダーマム出身というだけで、あのような視線を向けられるのでしょうか。天文塔も、黎明教会とはまた違った、しがらみの多そうな組織です。
「『ほんとはこの方小児愛者です』、って叫んでも良いですか?」
いつものように、冗談半分で言ったつもりだったのですが。
「おや。そんな面白いことをするつもりならば、私も乗らなければいけませんね」
リアンの腕が伸びて来たかと思うと、肩に手が添えられました。さらに抱き寄せられたまま、何食わぬ顔で歩き出したのです。廊下のあちこちに人がいるにもかかわらず。
「ねぇリアン。これのどこが面白いのですか?」
ノットと手を繋いでいるのとは違い、これは――いくら相手がリアンとはいえ、人前で男性と密着して歩くのには抵抗があります。さり気なくすり抜けようとしても、腕で首を固められてしまう始末です。
諦めて脱力したところ、「私をからかうなんて10年早いですよ」と耳打ちされました。確かにリアンとの歳の差は10ですが。
初めての大衆食堂で目撃したのは、仕事終わりにエールの大樽を酌み交わす職人や商人の皆さんでした。
間違っても、貴族以上の身分の方はいないようです。この卓以外は。
「『美食に関して妥協なし!』な我が息子。そして『黒が似合う可愛いお嫁さん!』なサリーナちゃん、2人の将来に乾杯!」
「はい、乾杯」
妙に興奮した様子のルイーズ夫人が掲げるエール、そして妙に声の小さなリアンのエールに、ぶどうジュースのグラスを重ねて鳴らしたところ。
「アンタら見ない顔だなぁ。出稼ぎかい?」
隣の卓で宴会をしている作業着の方々から、明るい声がかかりました。「そんなところよ」、と庶民のドレスに変装したルイーズが答えたところで、ちょうど大皿の料理が運ばれてきます。
これは3人でも食べ切れるのか分からない量の揚げ物(サモサ)です。
「ルイーズ様、ここへはよく来られるのですか?」
左隣を見遣ると、ルイーズは赤い粉を皿の端に落としていました。あれは持参したペッパーでしょうか。
「いーえ? 特別な仕事をした後だけよ。どうしても昂るから」
マダーマム家の皆さんが仕事――処刑人をする時は、相手方からの「指名制」だとリアンが説明してくれました。
リアンはいつも通り上質なスーツを纏っていますが、室内だというのに黒レンズの眼鏡をかけています。変装のつもりでしょうけれど、逆に目を引くのではないでしょうか――と思ったのですが。酒気を帯びた周りは大騒ぎで、場違いな男性を誰も気にしていないようです。
「ほら、温かいうちに食べましょう! 今夜はサリーナちゃんに、何が料理を美味しくするのかを知ってほしいのよ。それが分かれば、きっとソルベの答えも見つかるわ」
知ってほしい、とルイーズはおっしゃったものの。特別講義をするわけではないようです。ただ食器を鳴らす音と楽しげな声を背景に、取り留めのない話を繰り広げる――それだけでした。
こうしていると、教会での夕食を思い出します。幼い弟妹たちが食事中に喧嘩をはじめ、スープの器をひっくり返してはシスター・アグネスを怒らせて――それをノットがなだめるところまでがいつもの流れです。ビショップはそれを見て、怒りもせず笑っていました。慈愛に満ちたお顔で。
「お腹が空いてきました」
ふと口からこぼれた言葉に、ルイーズは満面の笑みを浮かべました。ビショップと同じ色が灯った笑顔に居心地が悪くなり、「これは良くない」と続けて唱えます。
「どうして? 生きるための食事も大事だけれど、『楽しむ食事』はもっと人生を豊かにしてくれるのよ」
必要以上の贅を貪ることは教義に反していますが、彼女の言葉も理解できます。マダーマム家の皆さんが、「食べること」を究極まで楽しんでいる姿を見ていますから。
まだ熱いサモサをひとつ口に運び、かすかに香ばしい皮と肉の層を噛みしめていると。
「……何ですか?」
リアンはいつもの胡散臭い笑みを浮かべています。
「我が家の偉大なる祖ファウストは、『食事は情事に通ずる』という言葉を残したそうですよ」
公共の場で相応しくない話題に、「周りが騒がしくて良かった」――と安心したのも束の間。
「あらリアン、『真の美食家』だった彼はこうも言ったわ。『至高の香味とは、愛する者の放つ芳香』って。匂いフェティだったのかしら?」
これが親子の会話だというのでしょうか。屋敷で食事をする時はほとんどギュスターヴが喋っているため、この2人の間にある「異常」に気がつきませんでした。
頼みますから話を振らないでくださいよ、とサモサを頬張っていると。
「サリーナちゃんも、ファウストについてはマチルダから説明があったでしょ?」
マチルダから教えられたことは、あくまで対外的なマダーマム家の歴史のみ。むしろエブライヒさん――ビショップから聞いた話の方が真に迫っていました。
「魔人病が初代ファウストからはじまった、というのは事実なのでしょうか」
今、明らかに――テーブルを囲む2人の熱が、一瞬にして冷めたのを感じました。
あぁ神様、お父様。
これは愚かな判断なのかもしれません。彼らマダーマムは、自らの領域に踏み込む相手を、恐ろしいほど徹底的に排除しようとしますから。
それでも、恐れてばかりでは成果を得ることはできないでしょう。たとえ今ここで、この2人を相手に死闘を繰り広げることになったとしても――スカートに隠しているナイフに手を添えると。
「ええ、そうよ。しっかり勉強しているのね」
空気が殺伐としたのは、気のせいだったのでしょうか。
「なんでも魔人病にかかると、人肉に焦がれるあまり、性交中に相手の肉を噛んだり舐めたりするとか」
そう思えるほど、母子は何食わぬ顔でエールの瓶を次々と空にしています。
「でも愛しい人を食べたいって気持ちは、人なら誰もが秘めているものよ。病とか関係なくね」
魔人病と食人鬼の関わりが指摘される今。彼らにとって、この話題は気持ちの良いものではなかったでしょう。それを承知で切り込んだつもりだったのですが――。
「あぁ、ご安心を。今のマダーマム家に魔人病はいませんよ。我が家に代々伝わる処刑術とは違い、病は必ずしも遺伝するものではありませんから」
リアンの口調は、誤魔化そうとも、からかおうともしていません。それでも、素直にその言葉を飲み込めるほど純粋ではありませんでした。
肉に焦がれる病――噛み跡が消えた後も、エルへの疑念はまだ消えないのです。
ですがこの場では、この辺が限界でしょうか。後はエル本人と話をする他ないでしょうから。
「ところで、サリーナさんは成人されていますよね。本当にジュースだけでよろしいのですか?」
「飲酒」は必要以上の贅に当たる、と私自身は解釈しています。それ以前に、「どうせ何を飲んでも同じ味」という理由もありますが。
顔色一つ変えずに6杯目のエールを飲み干したリアンに対し、ルイーズは空になった7杯目を店員さんに渡しました。
「そういえば、どちらの方がお酒に強いのですか?」
ふと浮かんだ疑問を口にしたところ、2人は目を瞬かせて見つめ合います。
嫌な予感がして、発言を取り消そうとしたのですが――時すでに遅し、です。ルイーズが「あるだけのエールを持ってきて!」、と叫んだことがきっかけになり、店中を巻き込んでの「酒豪勝負」がはじまってしまいました。
力の抜けた成人男性は、なぜこうも重いのでしょうか。担ぐ相手の生死にかかわらず、いつも思うことですが。
「さすが私の息子ね。あともう一つ大樽空けてたら、いくら何でもヤバかったわぁ」
ガス灯の下でエルダーのお迎えを待つ間、足元のおぼつかないリアンを、ルイーズと2人で抱えていると。ルイーズは笑い混じりに、「そうそう」とこちらを振り返りました。
「アールとは仲良しになれた?」
聞き間違えかと思いましたが、夫人は改めて言いました。「もしかして、あまり上手くいってないの?」、と。
「……知っていらっしゃったのですか?」
「私はね、ギュスターヴよりも息子たちのことを把握しているのよ」
そして私のことも――ということでしょうか。もし夫人がすべて知っている上で、私の存在を黙認するというのならば。いっそ聞いてしまいましょう。
「ルイーズ様は、アールが幽閉されていることをどう思っていらっしゃるのですか?」
いくらリアンを傷つけた罰といっても、8か月もの間閉じ込めておくのはおかしい気がします。他に理由があるように思えてなりません。
「ふふっ、あなたはアールのことを心配してくれているのね」
ルイーズの飾らない笑顔に、ふと我に帰りました。
私がアールを心配してる――?
処理できない感情が頭を駆け巡る中、温かい熱が手に触れました。手の甲は白く繊細に見えますが、夫人の手のひらには硬いマメがいくつもできています。
「でもね。あの子を閉じ込めているのは罰じゃなくて、あの子を守るためなのよ」
何から守るというのか、と言葉を続けますが、ルイーズは柔らかく微笑むだけでした。
「私とも、たまにでいいからデートしてね。もしサリーナちゃんが息子たちを気に入らなければ、私って選択肢もあるんだから」
ご兄弟を選ばなければ、ルイーズを選ぶ――ですが彼女はギュスターヴの奥方です。言葉の意図を尋ねると、ルイーズの手に力が込められました。
「いいの、忘れて……いいえ、やっぱり頭の片隅に留めておいて」
エルの調査はもちろん、課題のソルベについても一切光明が見出せていないというのに。
「やぁ、苦労しているようだねぇ。この後時間あるかな?」
2人きりの昼食後、珍しくギュスターヴが声をかけてきました。いつもならば、すぐに自室へ向かうか車でお出かけになるのですが。
苦労も何もあなたが課した難題ですよ、と言いたいところですが――居候の分際で、当主にそのような文句が言えるはずありません。
「強力な助っ人を紹介するから、会いに行くといいよ」
早速、町への車をエルダーが回してくれました。ですが提案した本人は、「片付けなきゃいけない書類があってね」、と同行はしません。
「エルダー、どこへ向かっているのですか?」
「天文塔ですよ、ルーシー様」
まさか助っ人とは、リアンのことでしょうか。心強いような面倒なような気持ちで灰色の町並みを見つめていると。いつの間にか、ウェルズで1番高い天文塔の前に到着していました。
ここにお勤めの方は毎朝この無限階段を登っていらっしゃるのですから、きっと足腰が鍛えられることでしょう。そういえば、「これを登れなくなったら退職する時だ」、などという冗談話を以前職員の方からうかがったことがあります。
「お待ちしておりました、サリーナさん」
予想通り、出迎えてくれたのはリアンでした。それも私一人のために、天文塔の案内をして回るというのです。
「あなたに与えられた課題のことは存じていますよ。ですがせっかくいらっしゃったのですから、家族の職場を見て行かれてはいかがですか?」
そういえば私は、花嫁候補という肩書きでした。ご兄弟4人のうちリアン以外の全員に正体がバレているせいか、最近それすら忘れそうになっていけません。
いっそリアンにも正体を明かして協力を仰ぎましょうか――などと正気を失いかけていると。
「お手をどうぞ、お嬢様」
出会ったばかりの頃のような、妙に仰々しい口調も気になりますが。何より金縁眼鏡の奥で笑う赤眼が、いつもより冷たい光を宿しています。これがリアンの外用の顔なのでしょうか。
すれ違う人たちがリアンに頭を下げるのを横目に、何やら騒がしい渡り廊下を進んでいくと。石で囲まれた砂地の中庭が見えてきました。
四方の廊下、また遥か天まで伸びる吹き抜けの廊下から、大勢の人が顔を出しています。職員だけではなく、一般の方も混じっているようです。その視線の先にあるのは、中庭の中心にそびえる断頭台でした。もう百年使われていないというマダーマム家のものとは違い、刃が日光を反射して輝いています。
「あれは、罪人と処刑人?」
今まさに、処刑が行われようとしていました。
ですがギロチンは使われないようです。聴衆の声を受けて大鎌を振り上げるのは、恐ろしくも麗しい黒ドレスの処刑人――仮面をつけていますが、あの背格好と腕力はルイーズです。
「これは失礼いたしました! まさか刑執行の日と重なるとは。ご令嬢にお見せするようなものではございませんでしたね」
すっかり慣れた煽りに対し、リアンをきっと睨みつけます。
「相手が誰にせよ、私はマダーマム家に嫁ぐのですよね。これくらいで騒いでいたら、今後やっていけないのでは?」
そもそも初回の顔合わせで食堂へギロチンを持ち込み、ご令嬢方を震え上がらせたのは誰だったでしょうか。
遠い目で処刑台を見つめていると、リアンはいつもの豪快な笑い声を溢しました。罪人の首が落ち、聴衆が上げる最高潮の叫びに負けないほどの声で。
「本当にあなたという人は! フリだけでもして欲しいものですが」
「え?」
今、「フリ」と言ったような気がしましたが。
「まぁ良いでしょう。いつまでも眺めていられる場所ですが、次もありますし」
廊下ですれ違うスーツの方々は、老若男女問わずリアンに丁寧なお辞儀をしています。まるでリアンが王様、私がそのお付きのような心地です。
「もしかして、リアンって相当偉い人なんですか?」
「いいえ。いち部署の統括という立場なだけですが。それ以上に身分の関係がありますからね」
天文塔のような政務機関では、組織での役職ではなく、王家から与えられた爵位が上下関係を定めている――そうリアンは教えてくれました。すると侯爵家であるマダーマム出身というだけで、あのような視線を向けられるのでしょうか。天文塔も、黎明教会とはまた違った、しがらみの多そうな組織です。
「『ほんとはこの方小児愛者です』、って叫んでも良いですか?」
いつものように、冗談半分で言ったつもりだったのですが。
「おや。そんな面白いことをするつもりならば、私も乗らなければいけませんね」
リアンの腕が伸びて来たかと思うと、肩に手が添えられました。さらに抱き寄せられたまま、何食わぬ顔で歩き出したのです。廊下のあちこちに人がいるにもかかわらず。
「ねぇリアン。これのどこが面白いのですか?」
ノットと手を繋いでいるのとは違い、これは――いくら相手がリアンとはいえ、人前で男性と密着して歩くのには抵抗があります。さり気なくすり抜けようとしても、腕で首を固められてしまう始末です。
諦めて脱力したところ、「私をからかうなんて10年早いですよ」と耳打ちされました。確かにリアンとの歳の差は10ですが。
初めての大衆食堂で目撃したのは、仕事終わりにエールの大樽を酌み交わす職人や商人の皆さんでした。
間違っても、貴族以上の身分の方はいないようです。この卓以外は。
「『美食に関して妥協なし!』な我が息子。そして『黒が似合う可愛いお嫁さん!』なサリーナちゃん、2人の将来に乾杯!」
「はい、乾杯」
妙に興奮した様子のルイーズ夫人が掲げるエール、そして妙に声の小さなリアンのエールに、ぶどうジュースのグラスを重ねて鳴らしたところ。
「アンタら見ない顔だなぁ。出稼ぎかい?」
隣の卓で宴会をしている作業着の方々から、明るい声がかかりました。「そんなところよ」、と庶民のドレスに変装したルイーズが答えたところで、ちょうど大皿の料理が運ばれてきます。
これは3人でも食べ切れるのか分からない量の揚げ物(サモサ)です。
「ルイーズ様、ここへはよく来られるのですか?」
左隣を見遣ると、ルイーズは赤い粉を皿の端に落としていました。あれは持参したペッパーでしょうか。
「いーえ? 特別な仕事をした後だけよ。どうしても昂るから」
マダーマム家の皆さんが仕事――処刑人をする時は、相手方からの「指名制」だとリアンが説明してくれました。
リアンはいつも通り上質なスーツを纏っていますが、室内だというのに黒レンズの眼鏡をかけています。変装のつもりでしょうけれど、逆に目を引くのではないでしょうか――と思ったのですが。酒気を帯びた周りは大騒ぎで、場違いな男性を誰も気にしていないようです。
「ほら、温かいうちに食べましょう! 今夜はサリーナちゃんに、何が料理を美味しくするのかを知ってほしいのよ。それが分かれば、きっとソルベの答えも見つかるわ」
知ってほしい、とルイーズはおっしゃったものの。特別講義をするわけではないようです。ただ食器を鳴らす音と楽しげな声を背景に、取り留めのない話を繰り広げる――それだけでした。
こうしていると、教会での夕食を思い出します。幼い弟妹たちが食事中に喧嘩をはじめ、スープの器をひっくり返してはシスター・アグネスを怒らせて――それをノットがなだめるところまでがいつもの流れです。ビショップはそれを見て、怒りもせず笑っていました。慈愛に満ちたお顔で。
「お腹が空いてきました」
ふと口からこぼれた言葉に、ルイーズは満面の笑みを浮かべました。ビショップと同じ色が灯った笑顔に居心地が悪くなり、「これは良くない」と続けて唱えます。
「どうして? 生きるための食事も大事だけれど、『楽しむ食事』はもっと人生を豊かにしてくれるのよ」
必要以上の贅を貪ることは教義に反していますが、彼女の言葉も理解できます。マダーマム家の皆さんが、「食べること」を究極まで楽しんでいる姿を見ていますから。
まだ熱いサモサをひとつ口に運び、かすかに香ばしい皮と肉の層を噛みしめていると。
「……何ですか?」
リアンはいつもの胡散臭い笑みを浮かべています。
「我が家の偉大なる祖ファウストは、『食事は情事に通ずる』という言葉を残したそうですよ」
公共の場で相応しくない話題に、「周りが騒がしくて良かった」――と安心したのも束の間。
「あらリアン、『真の美食家』だった彼はこうも言ったわ。『至高の香味とは、愛する者の放つ芳香』って。匂いフェティだったのかしら?」
これが親子の会話だというのでしょうか。屋敷で食事をする時はほとんどギュスターヴが喋っているため、この2人の間にある「異常」に気がつきませんでした。
頼みますから話を振らないでくださいよ、とサモサを頬張っていると。
「サリーナちゃんも、ファウストについてはマチルダから説明があったでしょ?」
マチルダから教えられたことは、あくまで対外的なマダーマム家の歴史のみ。むしろエブライヒさん――ビショップから聞いた話の方が真に迫っていました。
「魔人病が初代ファウストからはじまった、というのは事実なのでしょうか」
今、明らかに――テーブルを囲む2人の熱が、一瞬にして冷めたのを感じました。
あぁ神様、お父様。
これは愚かな判断なのかもしれません。彼らマダーマムは、自らの領域に踏み込む相手を、恐ろしいほど徹底的に排除しようとしますから。
それでも、恐れてばかりでは成果を得ることはできないでしょう。たとえ今ここで、この2人を相手に死闘を繰り広げることになったとしても――スカートに隠しているナイフに手を添えると。
「ええ、そうよ。しっかり勉強しているのね」
空気が殺伐としたのは、気のせいだったのでしょうか。
「なんでも魔人病にかかると、人肉に焦がれるあまり、性交中に相手の肉を噛んだり舐めたりするとか」
そう思えるほど、母子は何食わぬ顔でエールの瓶を次々と空にしています。
「でも愛しい人を食べたいって気持ちは、人なら誰もが秘めているものよ。病とか関係なくね」
魔人病と食人鬼の関わりが指摘される今。彼らにとって、この話題は気持ちの良いものではなかったでしょう。それを承知で切り込んだつもりだったのですが――。
「あぁ、ご安心を。今のマダーマム家に魔人病はいませんよ。我が家に代々伝わる処刑術とは違い、病は必ずしも遺伝するものではありませんから」
リアンの口調は、誤魔化そうとも、からかおうともしていません。それでも、素直にその言葉を飲み込めるほど純粋ではありませんでした。
肉に焦がれる病――噛み跡が消えた後も、エルへの疑念はまだ消えないのです。
ですがこの場では、この辺が限界でしょうか。後はエル本人と話をする他ないでしょうから。
「ところで、サリーナさんは成人されていますよね。本当にジュースだけでよろしいのですか?」
「飲酒」は必要以上の贅に当たる、と私自身は解釈しています。それ以前に、「どうせ何を飲んでも同じ味」という理由もありますが。
顔色一つ変えずに6杯目のエールを飲み干したリアンに対し、ルイーズは空になった7杯目を店員さんに渡しました。
「そういえば、どちらの方がお酒に強いのですか?」
ふと浮かんだ疑問を口にしたところ、2人は目を瞬かせて見つめ合います。
嫌な予感がして、発言を取り消そうとしたのですが――時すでに遅し、です。ルイーズが「あるだけのエールを持ってきて!」、と叫んだことがきっかけになり、店中を巻き込んでの「酒豪勝負」がはじまってしまいました。
力の抜けた成人男性は、なぜこうも重いのでしょうか。担ぐ相手の生死にかかわらず、いつも思うことですが。
「さすが私の息子ね。あともう一つ大樽空けてたら、いくら何でもヤバかったわぁ」
ガス灯の下でエルダーのお迎えを待つ間、足元のおぼつかないリアンを、ルイーズと2人で抱えていると。ルイーズは笑い混じりに、「そうそう」とこちらを振り返りました。
「アールとは仲良しになれた?」
聞き間違えかと思いましたが、夫人は改めて言いました。「もしかして、あまり上手くいってないの?」、と。
「……知っていらっしゃったのですか?」
「私はね、ギュスターヴよりも息子たちのことを把握しているのよ」
そして私のことも――ということでしょうか。もし夫人がすべて知っている上で、私の存在を黙認するというのならば。いっそ聞いてしまいましょう。
「ルイーズ様は、アールが幽閉されていることをどう思っていらっしゃるのですか?」
いくらリアンを傷つけた罰といっても、8か月もの間閉じ込めておくのはおかしい気がします。他に理由があるように思えてなりません。
「ふふっ、あなたはアールのことを心配してくれているのね」
ルイーズの飾らない笑顔に、ふと我に帰りました。
私がアールを心配してる――?
処理できない感情が頭を駆け巡る中、温かい熱が手に触れました。手の甲は白く繊細に見えますが、夫人の手のひらには硬いマメがいくつもできています。
「でもね。あの子を閉じ込めているのは罰じゃなくて、あの子を守るためなのよ」
何から守るというのか、と言葉を続けますが、ルイーズは柔らかく微笑むだけでした。
「私とも、たまにでいいからデートしてね。もしサリーナちゃんが息子たちを気に入らなければ、私って選択肢もあるんだから」
ご兄弟を選ばなければ、ルイーズを選ぶ――ですが彼女はギュスターヴの奥方です。言葉の意図を尋ねると、ルイーズの手に力が込められました。
「いいの、忘れて……いいえ、やっぱり頭の片隅に留めておいて」
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