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poisson:食
2.「無色の味」
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ノットの「弱点強化特訓」を受けた今。最強の装備を身に着けた心地で、地下室への石段を下りて行きました。
当主から与えられた晩餐会の課題、「ソルベ(口直し)の内容を考える」――それを口実にさせていただき、アールとエルとの接触を試みます。そのための準備として、フルーツのカゴも持参しました。
「アール、こんばんは。ちょっと手伝っていただきたいことが――」
鉄格子の向こうで筆を握るアールは、まったくこちらに気づいていない様子です。先日は夕暮れの田舎風景だったキャンバスには、小柄な女性らしきもののラフが描かれていました。
肩の上あたりで切り揃えた髪、丸い瞳に小さな鼻と口――「誰だろう」、と無意識に漏れた言葉に、自分で驚いた直後。アールはこちらを振り返るよりも早く、キャンバスに覆い布を被せました。
「こんばんは、『サリーナ』。随分と眠そうだね」
この絵には触れるな、と見えない圧をかけてくるアールの意思を汲み、キャンバスの絵を話題にすることは控えました。
手元を見ずに錠前を落とし、勝手に格子の中へお邪魔します。こちら側へ入るのは、エルと初めて会った日以来です。
「それで、今度は何の用? まさかピクニック気分で牢屋へ来たわけじゃないよな」
フルーツのカゴをテーブルに置き、課題のことを話したところ。アールはエプロンと筆を道具箱に置き、作業イスに腰掛けました。同時にこちらにも、ベッドへ掛けるよう勧めてくれます。
「いいよ。ウチの晩餐会ってことは、ただのソルベを提案するだけじゃあ合格ライン超えないだろうし。俺も一緒に考えてあげる」
そういえば、エルのことを話してくれた時からでしょうか。あまり自分から口を開かなかった彼が、よく喋るようになった気がします。あれから何度か格子越しにお話ししたのですが、一緒にいる時は筆より口を動かしている時間の方が長いほどに。
「それで。まずはアールに、このカゴの中のフルーツの味を教えていただきたいのです」
唖然としているアールに、「ダメですか?」と首を傾げたところ。アールは少しムッとした様子で、カゴのオレンジをひとつ手に取りました。さらに道具箱から小さなナイフを取り出すと、慣れた手つきで皮を剥きはじめます。
「はい、どうぞ。自分で剥けないならそう言えばいいじゃないか」
みずみずしいオレンジをひとかけら、アールは口元に向けてきました。
「キミ、シスターになる前は良いところのお嬢様だったの?」
そうではありません。「どうせ味覚が鈍いのにもったいない」、と手をアールの口元へ押し返すと、からかうような笑みが消えました。
もたついた唇が「そう、なんだ」と紡ぎ、薄橙の汁に濡れた手が引っ込められた――と思った直後。勢いづいた指が、強引にオレンジを口へねじ込んできました。
「舌がピリピリして唾液が出てくる感覚は分かる? これがオレンジの『酸っぱい』だよ。鈍いだけなら、リハビリすれば味覚が戻る可能性だってあるだろ」
たしかにその通りですが、戻す必要性はありません。そもそもこれまでの人生において、ビショップが持ってきてくださったソルティバニラ味以外に、味がするものなどありませんでしたから。
どう誤魔化して伝えようか迷っていると、前の物が残っているうちに次のオレンジを口へ入れられました。
「はひほふふんへふは」
「食べたまま喋るな。あと指、離して」
歯に当たっている硬いものが、オレンジの種ではなく指だったとは。ですが「離せ」といっても、果実と指がちょうど口にピッタリはまり、抜けそうにありません。
「ひははふひ(今は無理)」、と伝えたつもりだったのですが。間違ってアールの指を噛んでしまった途端に、視線を逸らされました。それも顔ごと壁の方を向いて。相当痛かったのでしょう。
ひとまず実を飲み込んでしまえば指が抜けるはず、と舌を動かすと、口の端から汁が溢れてしまいました。
流れた汁が鎖骨まで這う感覚に、ふるっと身を震わせた瞬間。こちらを横目で見るアールと視線がぶつかりました。申し訳なさそうに揺れる赤眼は、何か言い訳をしているようです。
やがて果肉が喉を滑り落ちた後も、指は離れていきませんでした。瞬きもせずに固まっているアールを見上げたまま、舌に乗っている指を吸ってみると――。
「な……にするんだよ! 早く離して」
強引にねじ込んできたのはそちらの指ですが。
ひとまず、滴るほど指についた汁まで綺麗に舐めとりました。するとその行動が気に障ったのか、アールは一切こちらを見てくれなくなったのです。
「アール、怒りました? でも汁がもったいなくて」
もったいないは嘘ですが。アールの指に絡みついた汁を舐めた途端、たしかに「甘い」と感じました。まるでロリポップのソルティバニラ味を舐めた時と同じように。
「それに少しだけ味がしました。甘かったです」
半身だけこちらを向いたアールは、自分でもオレンジを口に含みました。
「……このオレンジ、かなり酸味が強いけど」
「では、アールの指が甘かったのかもしれません」
あり得る可能性を指摘しただけなのですが。耳を染めたアールは、「キミは本当に」、「人の気も知らないで」と呟いています。
元はといえば、口いっぱいにオレンジを詰め込んできたのはアールです。ですがそこはお姉さんとして(1歳だけですが)、言葉を収めることにしました。
「指を噛んでしまった代わりに、といってはアレですが。少し私の話を聞いていただけませんか?」
味覚と痛覚が鈍い。それも「異常」なまでに。そのこと自体は、教会の兄姉たちにも周知の事実です。ですがその理由を話したことはありません。ノットは気づいているような素振りを見せますが、それでも。私の口から誰かに明かすのは、これが初めてでした。
「私は幼い頃、生きるために不要だと思うものを捨ててきました。味覚は飢えと誘惑をもたらし、痛覚は迷いと弱さをもたらす。自分への関心を殺せば、それほど難しいことではありませんでしたから」
これはサリーナではなくロリッサの半生です。それを容疑者に話すことが、どれほど危険なことか。頭の中にノットの怒声が響きますが、後悔はしていません。
「教会に入った後も同じです。教義で決められていたわけではありませんが、『神様のために、神様の手足となる』――その結果、私の小さな世界が守られれば、それ以上の幸せはありません……ごめんなさい。何を言っているのか分かりませんよね」
アールは話を聞いてくれている間、布のかかったキャンバスを見つめていました。口を閉じてからしばらくして、「人生損してるよ、それ」とため息混じりに言い放ちます。
「神は人じゃないけれど、キミは今を生きている人間だろ」
「それは……」
違う。と、ここへ来る前の私ならば答えていたでしょう。ですがここ、マダーマム家へ来てからというものの、殺してきたはずの『私』が輪郭を表すようになっていました。先ほど味覚がはたらいたのも、きっとその一端なのでしょう――教会だけの世界で満たされていたというのに。
「私、ここへ来て贅沢になりました」
「もっと贅沢になればいいさ。キミは意外と謙虚なんだから……本当に意外だけど」
わざと強調するアールに、今度は自然と笑いが溢れました。毒を含みつつも、彼の言葉と表情からは優しい温度が感じられます。それはもう、安心して眠くなるほどに――。
「サリーナ? そろそろ帰って、ちゃんと寝た方がいいんじゃない」
そっと肩を揺すられて、自分が船を漕いでいたことに気づきました。もうこの場で寝てしまいたい気分でしたが、そういうわけにもいきません。
「エルもこの会話を聞いてるの?」
「多分ね。時々認識にズレがあるから、もしかしたら寝てる時もあるかもしれないけど」
つまり、アールが知っていることをエルが知らないことがある。その逆もまた然り――ということでしょうか。
そうなれば、やはり彼を容疑者から外すわけにはいきません。たとえこの指輪が、アールの物ではないとしても。
「……キミが会いに来てくれるのは、俺たちを疑っているからだろ」
突然か細くなった声に、心臓がいやな音を立てました。ドクン、ドクンと脈打つ音が頭の中で増幅し、目の前が真っ青になります。
全部分かっていたことです。モアに正体を見破られたあの日――いえ、それ以前に私がサリーナを名乗った時から、アールは私が「嘘つき」だと知っていたのです。
アールがあまりにも自然に迎えてくれるため、忘れてしまっていましたが。
「ご……ごめん、なさい。でも、私は守らないと……家族を、ビショップを」
脈が速すぎて、うまく言葉が紡げません。
そもそもです。マダーマム家の兄弟を疑ってやって来た人間に、アールはなぜこれまで優しく接してくれたのでしょうか。
今までそのことに気づかなかった自分の愚かさを嘆く間もなく、立ち去ろうとしたところ。熱をもった手に両肩を掴まれました。
「謝るなよ。キミは自分の仕事をしているだけだ。存分に俺たちを疑えばいい」
「疑われてるって分かってたのに、どうしてこれまで追い返さなかったの?」
すると肩に添えられていた手が両腕に移り、そのまま腕を引き寄せられました。油絵具とそれに混じる甘い何かの匂いを感じていると、不安げに揺れる赤い瞳と視線がぶつかります。
「アール?」
初めてじっくり見る瞳には、静かな炎が燻っていました。この牢獄の天井を焦がす炎よりずっと小さいものでしたが、見ているだけでほっとするような美しい火です。
アールの鼻先が頬をくすぐり、震える吐息が口角にかかった瞬間。唇が触れる――かと思ったのですが。
ひと呼吸の距離を保ったまま、アールは固まってしまいました。
「ごめん……」
何が「ごめん」なのでしょうか。シャツの襟を引き寄せ、離れていこうとした唇に自分の唇を重ねました。
触れた部分がじんわりと熱くなり、目の前にいる彼のこと以外何も考えられなくなる――ただそれだけ。
初めてした唇同士の口付けは、教会の結婚式で目にしていた愛の誓いよりも甘美ではありません。
体中の神経が唇に集中している以外は特に異変もなく、触れただけの唇が自然と離れていきます。
「なっ……」と発したきり時が止まっていたアールは、ようやくこちらを見てくれました。赤面を通り越して、今にも泣きそうな顔で。
「キミ、シスターだろ? こんなことして……」
「『純潔を守るように』と教義にはありますが、口付けは禁止されていません。さっきはそれを気にして止めようとしたの?」
平静を保とうとして、思わず早口になってしまいました。そのせいか、アールは目を見開いたままポカンとしています。
やがて何か言おうとしては口を閉じ、を3度繰り返した後。アールは両手で顔を覆ったまま、作業イスに崩れ落ちました。
「……キミは誰にでもこういうことするのか」
「はい。キスは祝福の証ですから。父に、それからノット、アグネス、幼い弟妹たちへ――」
「違う!」
地下中へ反響する声に口を噤んだところ。肩で息をしているアールは、深く俯いてしまいました。
「はぁ……ごめん。今日はもう帰りなよ」
身動きひとつせずにいるアールを振り返りながら、格子のドアに手をかけると。「当分ここには来ない方が良い」、と背後から声がかかりました。
「そろそろ、アイツが出てきそうな気がするんだ」
「そう、『エル』が出てくるのですね。でも来てはいけないのはどうして?」
ただ純粋に尋ねたつもりだったのですが。アールは弾かれたように作業イスから立ち上がります。
「どうしてって、あんなことがあったのにキミは……とにかく、アイツはキミのことを良く思っていないみたいだから」
「じゃあアールは、私のことを良く思ってくれているってことね」
消えた噛み痕を手で押さえ、微笑んだところ。アールは少し肩を揺らし、再び俯いてしまいました。いつまで経っても無言のアールに手を振り、「おやすみなさい」を残していきます。
談話室へ続く石段を昇る間。眠りかけの頭には、自問の嵐が吹き荒れていました。
なぜあの時、離れていく唇を追いかけたくなったのでしょうか。その直前、まったく別のことを話していたと思うのですが。
当主から与えられた晩餐会の課題、「ソルベ(口直し)の内容を考える」――それを口実にさせていただき、アールとエルとの接触を試みます。そのための準備として、フルーツのカゴも持参しました。
「アール、こんばんは。ちょっと手伝っていただきたいことが――」
鉄格子の向こうで筆を握るアールは、まったくこちらに気づいていない様子です。先日は夕暮れの田舎風景だったキャンバスには、小柄な女性らしきもののラフが描かれていました。
肩の上あたりで切り揃えた髪、丸い瞳に小さな鼻と口――「誰だろう」、と無意識に漏れた言葉に、自分で驚いた直後。アールはこちらを振り返るよりも早く、キャンバスに覆い布を被せました。
「こんばんは、『サリーナ』。随分と眠そうだね」
この絵には触れるな、と見えない圧をかけてくるアールの意思を汲み、キャンバスの絵を話題にすることは控えました。
手元を見ずに錠前を落とし、勝手に格子の中へお邪魔します。こちら側へ入るのは、エルと初めて会った日以来です。
「それで、今度は何の用? まさかピクニック気分で牢屋へ来たわけじゃないよな」
フルーツのカゴをテーブルに置き、課題のことを話したところ。アールはエプロンと筆を道具箱に置き、作業イスに腰掛けました。同時にこちらにも、ベッドへ掛けるよう勧めてくれます。
「いいよ。ウチの晩餐会ってことは、ただのソルベを提案するだけじゃあ合格ライン超えないだろうし。俺も一緒に考えてあげる」
そういえば、エルのことを話してくれた時からでしょうか。あまり自分から口を開かなかった彼が、よく喋るようになった気がします。あれから何度か格子越しにお話ししたのですが、一緒にいる時は筆より口を動かしている時間の方が長いほどに。
「それで。まずはアールに、このカゴの中のフルーツの味を教えていただきたいのです」
唖然としているアールに、「ダメですか?」と首を傾げたところ。アールは少しムッとした様子で、カゴのオレンジをひとつ手に取りました。さらに道具箱から小さなナイフを取り出すと、慣れた手つきで皮を剥きはじめます。
「はい、どうぞ。自分で剥けないならそう言えばいいじゃないか」
みずみずしいオレンジをひとかけら、アールは口元に向けてきました。
「キミ、シスターになる前は良いところのお嬢様だったの?」
そうではありません。「どうせ味覚が鈍いのにもったいない」、と手をアールの口元へ押し返すと、からかうような笑みが消えました。
もたついた唇が「そう、なんだ」と紡ぎ、薄橙の汁に濡れた手が引っ込められた――と思った直後。勢いづいた指が、強引にオレンジを口へねじ込んできました。
「舌がピリピリして唾液が出てくる感覚は分かる? これがオレンジの『酸っぱい』だよ。鈍いだけなら、リハビリすれば味覚が戻る可能性だってあるだろ」
たしかにその通りですが、戻す必要性はありません。そもそもこれまでの人生において、ビショップが持ってきてくださったソルティバニラ味以外に、味がするものなどありませんでしたから。
どう誤魔化して伝えようか迷っていると、前の物が残っているうちに次のオレンジを口へ入れられました。
「はひほふふんへふは」
「食べたまま喋るな。あと指、離して」
歯に当たっている硬いものが、オレンジの種ではなく指だったとは。ですが「離せ」といっても、果実と指がちょうど口にピッタリはまり、抜けそうにありません。
「ひははふひ(今は無理)」、と伝えたつもりだったのですが。間違ってアールの指を噛んでしまった途端に、視線を逸らされました。それも顔ごと壁の方を向いて。相当痛かったのでしょう。
ひとまず実を飲み込んでしまえば指が抜けるはず、と舌を動かすと、口の端から汁が溢れてしまいました。
流れた汁が鎖骨まで這う感覚に、ふるっと身を震わせた瞬間。こちらを横目で見るアールと視線がぶつかりました。申し訳なさそうに揺れる赤眼は、何か言い訳をしているようです。
やがて果肉が喉を滑り落ちた後も、指は離れていきませんでした。瞬きもせずに固まっているアールを見上げたまま、舌に乗っている指を吸ってみると――。
「な……にするんだよ! 早く離して」
強引にねじ込んできたのはそちらの指ですが。
ひとまず、滴るほど指についた汁まで綺麗に舐めとりました。するとその行動が気に障ったのか、アールは一切こちらを見てくれなくなったのです。
「アール、怒りました? でも汁がもったいなくて」
もったいないは嘘ですが。アールの指に絡みついた汁を舐めた途端、たしかに「甘い」と感じました。まるでロリポップのソルティバニラ味を舐めた時と同じように。
「それに少しだけ味がしました。甘かったです」
半身だけこちらを向いたアールは、自分でもオレンジを口に含みました。
「……このオレンジ、かなり酸味が強いけど」
「では、アールの指が甘かったのかもしれません」
あり得る可能性を指摘しただけなのですが。耳を染めたアールは、「キミは本当に」、「人の気も知らないで」と呟いています。
元はといえば、口いっぱいにオレンジを詰め込んできたのはアールです。ですがそこはお姉さんとして(1歳だけですが)、言葉を収めることにしました。
「指を噛んでしまった代わりに、といってはアレですが。少し私の話を聞いていただけませんか?」
味覚と痛覚が鈍い。それも「異常」なまでに。そのこと自体は、教会の兄姉たちにも周知の事実です。ですがその理由を話したことはありません。ノットは気づいているような素振りを見せますが、それでも。私の口から誰かに明かすのは、これが初めてでした。
「私は幼い頃、生きるために不要だと思うものを捨ててきました。味覚は飢えと誘惑をもたらし、痛覚は迷いと弱さをもたらす。自分への関心を殺せば、それほど難しいことではありませんでしたから」
これはサリーナではなくロリッサの半生です。それを容疑者に話すことが、どれほど危険なことか。頭の中にノットの怒声が響きますが、後悔はしていません。
「教会に入った後も同じです。教義で決められていたわけではありませんが、『神様のために、神様の手足となる』――その結果、私の小さな世界が守られれば、それ以上の幸せはありません……ごめんなさい。何を言っているのか分かりませんよね」
アールは話を聞いてくれている間、布のかかったキャンバスを見つめていました。口を閉じてからしばらくして、「人生損してるよ、それ」とため息混じりに言い放ちます。
「神は人じゃないけれど、キミは今を生きている人間だろ」
「それは……」
違う。と、ここへ来る前の私ならば答えていたでしょう。ですがここ、マダーマム家へ来てからというものの、殺してきたはずの『私』が輪郭を表すようになっていました。先ほど味覚がはたらいたのも、きっとその一端なのでしょう――教会だけの世界で満たされていたというのに。
「私、ここへ来て贅沢になりました」
「もっと贅沢になればいいさ。キミは意外と謙虚なんだから……本当に意外だけど」
わざと強調するアールに、今度は自然と笑いが溢れました。毒を含みつつも、彼の言葉と表情からは優しい温度が感じられます。それはもう、安心して眠くなるほどに――。
「サリーナ? そろそろ帰って、ちゃんと寝た方がいいんじゃない」
そっと肩を揺すられて、自分が船を漕いでいたことに気づきました。もうこの場で寝てしまいたい気分でしたが、そういうわけにもいきません。
「エルもこの会話を聞いてるの?」
「多分ね。時々認識にズレがあるから、もしかしたら寝てる時もあるかもしれないけど」
つまり、アールが知っていることをエルが知らないことがある。その逆もまた然り――ということでしょうか。
そうなれば、やはり彼を容疑者から外すわけにはいきません。たとえこの指輪が、アールの物ではないとしても。
「……キミが会いに来てくれるのは、俺たちを疑っているからだろ」
突然か細くなった声に、心臓がいやな音を立てました。ドクン、ドクンと脈打つ音が頭の中で増幅し、目の前が真っ青になります。
全部分かっていたことです。モアに正体を見破られたあの日――いえ、それ以前に私がサリーナを名乗った時から、アールは私が「嘘つき」だと知っていたのです。
アールがあまりにも自然に迎えてくれるため、忘れてしまっていましたが。
「ご……ごめん、なさい。でも、私は守らないと……家族を、ビショップを」
脈が速すぎて、うまく言葉が紡げません。
そもそもです。マダーマム家の兄弟を疑ってやって来た人間に、アールはなぜこれまで優しく接してくれたのでしょうか。
今までそのことに気づかなかった自分の愚かさを嘆く間もなく、立ち去ろうとしたところ。熱をもった手に両肩を掴まれました。
「謝るなよ。キミは自分の仕事をしているだけだ。存分に俺たちを疑えばいい」
「疑われてるって分かってたのに、どうしてこれまで追い返さなかったの?」
すると肩に添えられていた手が両腕に移り、そのまま腕を引き寄せられました。油絵具とそれに混じる甘い何かの匂いを感じていると、不安げに揺れる赤い瞳と視線がぶつかります。
「アール?」
初めてじっくり見る瞳には、静かな炎が燻っていました。この牢獄の天井を焦がす炎よりずっと小さいものでしたが、見ているだけでほっとするような美しい火です。
アールの鼻先が頬をくすぐり、震える吐息が口角にかかった瞬間。唇が触れる――かと思ったのですが。
ひと呼吸の距離を保ったまま、アールは固まってしまいました。
「ごめん……」
何が「ごめん」なのでしょうか。シャツの襟を引き寄せ、離れていこうとした唇に自分の唇を重ねました。
触れた部分がじんわりと熱くなり、目の前にいる彼のこと以外何も考えられなくなる――ただそれだけ。
初めてした唇同士の口付けは、教会の結婚式で目にしていた愛の誓いよりも甘美ではありません。
体中の神経が唇に集中している以外は特に異変もなく、触れただけの唇が自然と離れていきます。
「なっ……」と発したきり時が止まっていたアールは、ようやくこちらを見てくれました。赤面を通り越して、今にも泣きそうな顔で。
「キミ、シスターだろ? こんなことして……」
「『純潔を守るように』と教義にはありますが、口付けは禁止されていません。さっきはそれを気にして止めようとしたの?」
平静を保とうとして、思わず早口になってしまいました。そのせいか、アールは目を見開いたままポカンとしています。
やがて何か言おうとしては口を閉じ、を3度繰り返した後。アールは両手で顔を覆ったまま、作業イスに崩れ落ちました。
「……キミは誰にでもこういうことするのか」
「はい。キスは祝福の証ですから。父に、それからノット、アグネス、幼い弟妹たちへ――」
「違う!」
地下中へ反響する声に口を噤んだところ。肩で息をしているアールは、深く俯いてしまいました。
「はぁ……ごめん。今日はもう帰りなよ」
身動きひとつせずにいるアールを振り返りながら、格子のドアに手をかけると。「当分ここには来ない方が良い」、と背後から声がかかりました。
「そろそろ、アイツが出てきそうな気がするんだ」
「そう、『エル』が出てくるのですね。でも来てはいけないのはどうして?」
ただ純粋に尋ねたつもりだったのですが。アールは弾かれたように作業イスから立ち上がります。
「どうしてって、あんなことがあったのにキミは……とにかく、アイツはキミのことを良く思っていないみたいだから」
「じゃあアールは、私のことを良く思ってくれているってことね」
消えた噛み痕を手で押さえ、微笑んだところ。アールは少し肩を揺らし、再び俯いてしまいました。いつまで経っても無言のアールに手を振り、「おやすみなさい」を残していきます。
談話室へ続く石段を昇る間。眠りかけの頭には、自問の嵐が吹き荒れていました。
なぜあの時、離れていく唇を追いかけたくなったのでしょうか。その直前、まったく別のことを話していたと思うのですが。
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