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potage:器
2.「肉に焦がれる病」
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「デート、しませんか」
そんな単純な言葉で男性を連れ出すことができるなど、思ってもいませんでした。ですが彼、モアは二つ返事で承諾したのです。
アールのことを教えてもらう条件に、あんな性的――むしろ猟奇的な要求をしてくるくらいですから、女性好きという噂は嘘ではないのでしょう。
そう、思っていたのですが。
「で、何を企んでるの?」
「えぇっ!? 企んでるって何をです?」
東町に着いてすぐ、眉根を寄せたモアに右手を掴まれました。そのまま指を絡め、外れないように力を込めています。
これは「逃がさない」、ということでしょうか。
「僕が聞いてるんだけど……情緒ゼロのアンタがデートとか、裏があるに決まってる」
どうしましょうパイル――思っていたよりずっと、彼の勘は鋭いようです。
「別に裏とかないですよ。好きなお菓子が切れてしまったので、誰かに買い出しへ連れて行っていただきたいなぁって」
そう。ポッピング菓子店へ行きたいというのは本当のことです。ただし、モアとはここでお別れする予定だったのですが――このしっかり結ばれた手をどうしましょう。
適当なところで「お手洗いに行く」と言えば、さすがに離してくれるでしょうか。そう期待して、菓子店のドアを開けたその時。
「わぁ、モア様奇遇で……す、ね?」
ドア横に立っていた麗しいご令嬢が、こちらを見るなり買い物カゴを落とされました。
「その女性はどなたですか? 手を、手……? 私だって、まだ握っていただいてない、のに!」
モアはこんな時にも平然としていますが、この胸を圧迫するような空気間――これは修羅場。そして私にとっては予想外の好機です。
「あっ、私お邪魔ですよね! この方はただの同居人です! ごゆっくりどうぞ!」
モアの手が緩んだ一瞬を狙い、閉じかけたドアの隙間から脱出しました。モアか、それともご令嬢か、誰かの声に呼び止められた気がしますが、モアを撒けるチャンスは今しかありません。
裏通りに出たところで屋根に飛び乗り、ポッピング菓子店から数本外れた道の先へ降りました。ここまですれば、さすがのモアでも追っては来られないでしょう。
約束の民家――閑静な住宅地に佇むモダンな家屋のドアを5回、続けて3回叩くと、そっとドアが開きました。
ハンチング帽を深く被って出てきたのは彼(やはり彼女のような気もしますが)、タブロイド紙記者のパイル・ナッツです。
「お待たせしました。ちょっと手間取ってしまいまして」
「苦労話は中で聞くから、早く入ってよお姉さん。もう専門家も来てるよ」
先日の電話でパイルが話していた専門家さん。その方は、マダーマム家の秘密に関わる「とある病」について長年研究されているそうです。「口が堅い職業だから大丈夫」、とパイルは言っていましたが、どのような方なのでしょうか。
玄関からリビングへ通されると、先にいらっしゃっていた専門家さん――もとい身内がこちらを振り返りました。
「初めまして。あなたが私の研究分野に興味があるという学せ……」
初めましても何も。後ろ姿を目にした時から、すぐに分かりました。その私服用ジャケットは、私が2年前に贈ったものですから。
「エブライヒ・コールターと申します。どうぞよろしく」
「……サリーナ・ブライトです。よろしくお願いいたします」
たくさんの「なぜ」が湧いてくる中、何とか初対面を装うことができました。まさかお父様相手にこんな演技をする日が来ようとは、思いもしませんでしたが。
小さなローテーブルを3人で囲んだところで、医師を名乗るコールターさんは新聞の切り抜きを何枚か天板に並べました。
「まず、私が長年研究している『魔人病』とは何か。それからご説明いたします」
ビショップが医師免許を持っていることは知っていましたが、「魔人病」と、それを研究していたことは初耳です。
「密かに蔓延しているこの病を、多くの医者は狂気ゆえの病と解釈していますが、実際には違います。『人の肉に焦がれた対価』――人肉食によって引き起こされる病なのです」
ビショップいわく。人の肉を人が食べると、『魔人病』を発症することがある。その病は人の正常な意識や記憶を少しずつ蝕み、やがてはさらに人肉を欲する狂人に変えてしまう、というのです。
「世間を恐怖に陥れている食人鬼(グルマン)は、おそらくこの病にかかっているのでしょう。ですが、もしかすると本人には自覚がないかもしれません。魔人病は記憶すら作り変えてしまう恐ろしい病ですから、自分が殺人を犯したことも忘れている可能性がある」
「ですがいくら病気だからって、他人の命を奪って許されるわけがありません」
つい普段話すような態度で向き合ってしまい、急いで視線を逸らしました。ビショップ相手だと、思ったことがそのまま口から出てしまいます。
「それでコールター先生、その病がマダーマム家とどう関係しているんですか?」
パイルがメモ用紙と万年筆を構えたところで、ビショップは栗色のまつ毛を伏せました。
ずっと一緒にいたせいか、教会では気づきませんでしたが。いつの間にか目の下にシワが増えています。それから濃いクマも。
「魔人病は遺伝する病だと私は考えています。マダーマム家には、初代ファウストの頃にはじまった病が、呪いのように受け継がれているのです。その証拠に、どの世代にもひとりは魔人病に罹患した食人家(カニバリスト)が生まれています」
「それでは食人鬼の正体は――」、と言いかけたところで、ビショップが待ったをかけました。
「ですが、マダーマム家の直系たちには病に対する素晴らしい耐性があり……病による『肉に焦がれる衝動』や『意識・記憶の混濁』を、自らの意思で制御できるようなのです」
ですがそれは、絶対に殺人を犯さない、という根拠にはなり得ません。ただマダーマム家のご兄弟――リアン、アール、モアが、意図的に殺人を犯すような方には思えないのです。
「たとえマダーマム家の方だとしても、例外として耐性がない場合だってあるのでは? そうしたら、罪の意識や自分の意思など関係なく、肉欲しさに殺人を犯してしまうのでは……」
自分で口にしていて、何だか気分が悪くなってきました。彼らを信じたい気持ちと、疑いを持ち続けなければならない使命感とで胸が塞がれます。
「そこでなんだけどねぇ、お姉さん。ボクがこの間名前を出したアール、彼はどこに消えたんだと思う? 卒業とほぼ同時に連絡が取れなくなったんだけど、それって食人鬼の最初の事件が起こった直後だったんだよね~」
つまりパイルが言いたいのは、アールの失踪と食人鬼は何か関係があるのではないか、ということです。
「たしかにマダーマム関連のゴシップは良い値がつくけど、ボクはただ純粋にアールの心配をしてるんだ。友達だったからさ」
パイルの口調から、冗談めいた雰囲気が消えた途端。正面に座るビショップが小さく首を横に振りました。それに気づかず、真剣な顔つきのパイルは続けます。
「さぁて、ここからは交換条件だよ。もしお姉さんがアールの居場所と状況を探り出してくれたら、ボクが食人鬼に関して調査したこと全部教えてあげる」
「えっ……どうしてそれが交換条件になるのですか?」
パイルから見て、私はマダーマム家で花嫁修行をする令嬢であり、正体は知らないはず――と、そこでようやく重大なミスに気がつきました。
「ボクの同級生に、サリーナ・ブライトって名前の伯爵令嬢がいたんだけどね~? いやぁー、同姓同名って珍しいなぁ。しかも貴族家で」
やはりパイルは気づいていたようです。するとビショップをここに呼んだのも――。
「あぁ、神父様をお呼びしたのは本当に偶然。会社のセンパイの古い伝手で、魔人病に詳しい人を探してもらったら、たまたま彼だったわけです」
私はすでに知っています。アールがどこでどうしているのかを。ですがそれを、今この時、彼に伝えてしまって良いのでしょうか。
もしかしたら、容疑者を絞り込めるような情報を彼が持っているかもしれません。そうすれば、より早くビショップを救うことができる――もしビショップなら、こういう時どうするのでしょうか。
輪郭の柔らかい瞳を見つめても、「それはお前が決めることだよ」、と静かに突き放されているような気がします。
「アールについて何か分かったら、また連絡ちょうだい? シスター様」
ふだんは暖炉に隠されているこの石段を降りるのは、今夜で3度目になります。
地下室の三男さん――アールは、最初こそ取りつく島もないご様子でしたが、前回の訪問では他にも絵を見せてくれたのです。地下に幽閉されているわけは話してもらえませんが、別れ際には「また来ても構わない」とも。
キャンバスに描かれた晴天の田舎風景を思い出しながら、一つ目の牢屋を過ぎ、二つ目の牢屋も過ぎたところ。今夜のアールは絵を描いていませんでした。頭からシーツを被り、ベッドで膝を抱えていたのです。
まるで天井と壁に描かれた炎から逃れるように。
「アール、具合が悪いのですか?」
「お前は……」
暗い赤の瞳が二つ、静かにこちらを睨んでいます。ひとまず錠前を外し、檻の中へ入ったのですが――「どうして来た」、と苛立ち混じりの声が反響しました。
「どうしてって、約束したから。アール、本当にどこか悪いのではないですか?」
様子がおかしい、という程度の話ではありません。アールの顔つきは、まるで別人のように険しいのです。「失礼します」、と額に触れてみましたが、白い肌はひんやりとしていました。
「熱はないようですね」
額から手を離そうとすると、冷えた指に手首を掴まれました。骨が軋むほどの力に引き寄せられ、見上げた顔には薄っぺらな笑顔が張り付いています。
「あぁ、そうか。他の兄弟じゃ物足りなくて、俺のところに来たってわけか」
「は?」
言葉を噛み砕くより早く、背中に衝撃が走りました。壁に叩きつけられたのだ、と認識する間もなく、今度はベッドに投げ出されます。
「どう、して?」
咳混じりに尋ねると、両手首をシーツごと巻き込んで拘束されました。
「どうしてって、こうされに来たんだろ?」
倒れ込んできたアールの胸に、肺を圧迫された瞬間。
「いっ……!? な、何をしてるの?」
首筋を這う生暖かい感触に震えが走りました。覆いかぶさっているアールのシャツを掴んで引き離そうとすれば、涼しくなった首元に衝撃が走ります。
「あっ……」
ピリッとした刺激の直後。顔を上げたアールの八重歯には、鮮やかな赤が滴っていました。加虐の光が揺れる瞳――それは人間をいたぶって愉しむ連中と酷似しています。
「あぁ、良い顔になったね。お前は最初から、俺にもこの空間にも動じてないみたいだったからさ。危機感がないの? それともただのバカ?」
いつもより饒舌なアールに圧倒され、身動きが取れなくなりました。正確には動きたくても動けない、でしょうか。「恐怖」と同程度の「違和感」が、体の自由を奪うのです。
「アール?」
呼び声は無視され、夜着のボタンに手が掛けられました。先ほどの乱暴さとは一変、ボタンを外す手は繊細です。絵筆を動かす時と同じように。
「アール、具合が悪いのなら寝ていないと――」
「うるさい。ていうか何だよこの下着。つけてる意味あるのか?」
これまで誰にも指摘されませんでしたが、やはりそうなのですね。
あまり機能的ではない下着に手がかかったところで、アールの腕を押さえつけようとしましたが――「やっぱり力あるね」、とからかい混じりに言われただけで、アールの腕はまったく動かなくなりました。
繊細な指が胸の紐を解き、晒された乳房にそっと触れた途端。シーツに擦れていた背中がピンと張り詰めました。
自分とは別の意志をもった指が、好き勝手に肌を滑る感覚――じっとしていられなくなります。
痛みには鈍感なはずですが。乳房に噛み付かれた時、頭を突き抜けるような衝撃が走りました。「痛い」、だけではない何かが混濁した刺激です。
思わず首を下に向けると、肌にくっきりと浮かび上がった歯型から、脇腹に流れ落ちるほどの血が滴っていました。
今さら血の一滴や二滴で騒ぐほどやわではありません。ですがその血を丁寧に舐めとる様子を見ていると、顔が火照ってくるのです。
熱い舌が肌へ触れる度に込み上げる息を、唇を噛みしめ抑えていたのですが。舌が胸の頂を掠めた瞬間。高い声が、喉の奥から勝手に発せられました。
自分の出した声に驚愕していると、アールはなぜか満足げな笑みを浮かべます。
「噛んでも痛がらないし、不感症かと思ったけど。コレは感じるんだ」
まさかこんなところに、思考を鈍らせる弱点が存在するとは――噛み殺していた唸り声が、硬くなった胸の頂を貪る舌によって少しずつ溶けていきます。さらに不思議なことに、舌が触れている場所だけでなく下腹部までもがじんわりと熱くなってきたのです。
なぜ「聖なる場所」が疼くのでしょうか――そのうち自分の声に、低く短い吐息が重なるようになりました。
「……嫌じゃないのか。ならお望みどおり、ぐちゃぐちゃにしてあげるよ」
ギラギラと沸騰する赤眼に射抜かれたその時。混沌とした頭の中に、ふと言葉が浮かんできました。
「あなたは……誰?」
そんな単純な言葉で男性を連れ出すことができるなど、思ってもいませんでした。ですが彼、モアは二つ返事で承諾したのです。
アールのことを教えてもらう条件に、あんな性的――むしろ猟奇的な要求をしてくるくらいですから、女性好きという噂は嘘ではないのでしょう。
そう、思っていたのですが。
「で、何を企んでるの?」
「えぇっ!? 企んでるって何をです?」
東町に着いてすぐ、眉根を寄せたモアに右手を掴まれました。そのまま指を絡め、外れないように力を込めています。
これは「逃がさない」、ということでしょうか。
「僕が聞いてるんだけど……情緒ゼロのアンタがデートとか、裏があるに決まってる」
どうしましょうパイル――思っていたよりずっと、彼の勘は鋭いようです。
「別に裏とかないですよ。好きなお菓子が切れてしまったので、誰かに買い出しへ連れて行っていただきたいなぁって」
そう。ポッピング菓子店へ行きたいというのは本当のことです。ただし、モアとはここでお別れする予定だったのですが――このしっかり結ばれた手をどうしましょう。
適当なところで「お手洗いに行く」と言えば、さすがに離してくれるでしょうか。そう期待して、菓子店のドアを開けたその時。
「わぁ、モア様奇遇で……す、ね?」
ドア横に立っていた麗しいご令嬢が、こちらを見るなり買い物カゴを落とされました。
「その女性はどなたですか? 手を、手……? 私だって、まだ握っていただいてない、のに!」
モアはこんな時にも平然としていますが、この胸を圧迫するような空気間――これは修羅場。そして私にとっては予想外の好機です。
「あっ、私お邪魔ですよね! この方はただの同居人です! ごゆっくりどうぞ!」
モアの手が緩んだ一瞬を狙い、閉じかけたドアの隙間から脱出しました。モアか、それともご令嬢か、誰かの声に呼び止められた気がしますが、モアを撒けるチャンスは今しかありません。
裏通りに出たところで屋根に飛び乗り、ポッピング菓子店から数本外れた道の先へ降りました。ここまですれば、さすがのモアでも追っては来られないでしょう。
約束の民家――閑静な住宅地に佇むモダンな家屋のドアを5回、続けて3回叩くと、そっとドアが開きました。
ハンチング帽を深く被って出てきたのは彼(やはり彼女のような気もしますが)、タブロイド紙記者のパイル・ナッツです。
「お待たせしました。ちょっと手間取ってしまいまして」
「苦労話は中で聞くから、早く入ってよお姉さん。もう専門家も来てるよ」
先日の電話でパイルが話していた専門家さん。その方は、マダーマム家の秘密に関わる「とある病」について長年研究されているそうです。「口が堅い職業だから大丈夫」、とパイルは言っていましたが、どのような方なのでしょうか。
玄関からリビングへ通されると、先にいらっしゃっていた専門家さん――もとい身内がこちらを振り返りました。
「初めまして。あなたが私の研究分野に興味があるという学せ……」
初めましても何も。後ろ姿を目にした時から、すぐに分かりました。その私服用ジャケットは、私が2年前に贈ったものですから。
「エブライヒ・コールターと申します。どうぞよろしく」
「……サリーナ・ブライトです。よろしくお願いいたします」
たくさんの「なぜ」が湧いてくる中、何とか初対面を装うことができました。まさかお父様相手にこんな演技をする日が来ようとは、思いもしませんでしたが。
小さなローテーブルを3人で囲んだところで、医師を名乗るコールターさんは新聞の切り抜きを何枚か天板に並べました。
「まず、私が長年研究している『魔人病』とは何か。それからご説明いたします」
ビショップが医師免許を持っていることは知っていましたが、「魔人病」と、それを研究していたことは初耳です。
「密かに蔓延しているこの病を、多くの医者は狂気ゆえの病と解釈していますが、実際には違います。『人の肉に焦がれた対価』――人肉食によって引き起こされる病なのです」
ビショップいわく。人の肉を人が食べると、『魔人病』を発症することがある。その病は人の正常な意識や記憶を少しずつ蝕み、やがてはさらに人肉を欲する狂人に変えてしまう、というのです。
「世間を恐怖に陥れている食人鬼(グルマン)は、おそらくこの病にかかっているのでしょう。ですが、もしかすると本人には自覚がないかもしれません。魔人病は記憶すら作り変えてしまう恐ろしい病ですから、自分が殺人を犯したことも忘れている可能性がある」
「ですがいくら病気だからって、他人の命を奪って許されるわけがありません」
つい普段話すような態度で向き合ってしまい、急いで視線を逸らしました。ビショップ相手だと、思ったことがそのまま口から出てしまいます。
「それでコールター先生、その病がマダーマム家とどう関係しているんですか?」
パイルがメモ用紙と万年筆を構えたところで、ビショップは栗色のまつ毛を伏せました。
ずっと一緒にいたせいか、教会では気づきませんでしたが。いつの間にか目の下にシワが増えています。それから濃いクマも。
「魔人病は遺伝する病だと私は考えています。マダーマム家には、初代ファウストの頃にはじまった病が、呪いのように受け継がれているのです。その証拠に、どの世代にもひとりは魔人病に罹患した食人家(カニバリスト)が生まれています」
「それでは食人鬼の正体は――」、と言いかけたところで、ビショップが待ったをかけました。
「ですが、マダーマム家の直系たちには病に対する素晴らしい耐性があり……病による『肉に焦がれる衝動』や『意識・記憶の混濁』を、自らの意思で制御できるようなのです」
ですがそれは、絶対に殺人を犯さない、という根拠にはなり得ません。ただマダーマム家のご兄弟――リアン、アール、モアが、意図的に殺人を犯すような方には思えないのです。
「たとえマダーマム家の方だとしても、例外として耐性がない場合だってあるのでは? そうしたら、罪の意識や自分の意思など関係なく、肉欲しさに殺人を犯してしまうのでは……」
自分で口にしていて、何だか気分が悪くなってきました。彼らを信じたい気持ちと、疑いを持ち続けなければならない使命感とで胸が塞がれます。
「そこでなんだけどねぇ、お姉さん。ボクがこの間名前を出したアール、彼はどこに消えたんだと思う? 卒業とほぼ同時に連絡が取れなくなったんだけど、それって食人鬼の最初の事件が起こった直後だったんだよね~」
つまりパイルが言いたいのは、アールの失踪と食人鬼は何か関係があるのではないか、ということです。
「たしかにマダーマム関連のゴシップは良い値がつくけど、ボクはただ純粋にアールの心配をしてるんだ。友達だったからさ」
パイルの口調から、冗談めいた雰囲気が消えた途端。正面に座るビショップが小さく首を横に振りました。それに気づかず、真剣な顔つきのパイルは続けます。
「さぁて、ここからは交換条件だよ。もしお姉さんがアールの居場所と状況を探り出してくれたら、ボクが食人鬼に関して調査したこと全部教えてあげる」
「えっ……どうしてそれが交換条件になるのですか?」
パイルから見て、私はマダーマム家で花嫁修行をする令嬢であり、正体は知らないはず――と、そこでようやく重大なミスに気がつきました。
「ボクの同級生に、サリーナ・ブライトって名前の伯爵令嬢がいたんだけどね~? いやぁー、同姓同名って珍しいなぁ。しかも貴族家で」
やはりパイルは気づいていたようです。するとビショップをここに呼んだのも――。
「あぁ、神父様をお呼びしたのは本当に偶然。会社のセンパイの古い伝手で、魔人病に詳しい人を探してもらったら、たまたま彼だったわけです」
私はすでに知っています。アールがどこでどうしているのかを。ですがそれを、今この時、彼に伝えてしまって良いのでしょうか。
もしかしたら、容疑者を絞り込めるような情報を彼が持っているかもしれません。そうすれば、より早くビショップを救うことができる――もしビショップなら、こういう時どうするのでしょうか。
輪郭の柔らかい瞳を見つめても、「それはお前が決めることだよ」、と静かに突き放されているような気がします。
「アールについて何か分かったら、また連絡ちょうだい? シスター様」
ふだんは暖炉に隠されているこの石段を降りるのは、今夜で3度目になります。
地下室の三男さん――アールは、最初こそ取りつく島もないご様子でしたが、前回の訪問では他にも絵を見せてくれたのです。地下に幽閉されているわけは話してもらえませんが、別れ際には「また来ても構わない」とも。
キャンバスに描かれた晴天の田舎風景を思い出しながら、一つ目の牢屋を過ぎ、二つ目の牢屋も過ぎたところ。今夜のアールは絵を描いていませんでした。頭からシーツを被り、ベッドで膝を抱えていたのです。
まるで天井と壁に描かれた炎から逃れるように。
「アール、具合が悪いのですか?」
「お前は……」
暗い赤の瞳が二つ、静かにこちらを睨んでいます。ひとまず錠前を外し、檻の中へ入ったのですが――「どうして来た」、と苛立ち混じりの声が反響しました。
「どうしてって、約束したから。アール、本当にどこか悪いのではないですか?」
様子がおかしい、という程度の話ではありません。アールの顔つきは、まるで別人のように険しいのです。「失礼します」、と額に触れてみましたが、白い肌はひんやりとしていました。
「熱はないようですね」
額から手を離そうとすると、冷えた指に手首を掴まれました。骨が軋むほどの力に引き寄せられ、見上げた顔には薄っぺらな笑顔が張り付いています。
「あぁ、そうか。他の兄弟じゃ物足りなくて、俺のところに来たってわけか」
「は?」
言葉を噛み砕くより早く、背中に衝撃が走りました。壁に叩きつけられたのだ、と認識する間もなく、今度はベッドに投げ出されます。
「どう、して?」
咳混じりに尋ねると、両手首をシーツごと巻き込んで拘束されました。
「どうしてって、こうされに来たんだろ?」
倒れ込んできたアールの胸に、肺を圧迫された瞬間。
「いっ……!? な、何をしてるの?」
首筋を這う生暖かい感触に震えが走りました。覆いかぶさっているアールのシャツを掴んで引き離そうとすれば、涼しくなった首元に衝撃が走ります。
「あっ……」
ピリッとした刺激の直後。顔を上げたアールの八重歯には、鮮やかな赤が滴っていました。加虐の光が揺れる瞳――それは人間をいたぶって愉しむ連中と酷似しています。
「あぁ、良い顔になったね。お前は最初から、俺にもこの空間にも動じてないみたいだったからさ。危機感がないの? それともただのバカ?」
いつもより饒舌なアールに圧倒され、身動きが取れなくなりました。正確には動きたくても動けない、でしょうか。「恐怖」と同程度の「違和感」が、体の自由を奪うのです。
「アール?」
呼び声は無視され、夜着のボタンに手が掛けられました。先ほどの乱暴さとは一変、ボタンを外す手は繊細です。絵筆を動かす時と同じように。
「アール、具合が悪いのなら寝ていないと――」
「うるさい。ていうか何だよこの下着。つけてる意味あるのか?」
これまで誰にも指摘されませんでしたが、やはりそうなのですね。
あまり機能的ではない下着に手がかかったところで、アールの腕を押さえつけようとしましたが――「やっぱり力あるね」、とからかい混じりに言われただけで、アールの腕はまったく動かなくなりました。
繊細な指が胸の紐を解き、晒された乳房にそっと触れた途端。シーツに擦れていた背中がピンと張り詰めました。
自分とは別の意志をもった指が、好き勝手に肌を滑る感覚――じっとしていられなくなります。
痛みには鈍感なはずですが。乳房に噛み付かれた時、頭を突き抜けるような衝撃が走りました。「痛い」、だけではない何かが混濁した刺激です。
思わず首を下に向けると、肌にくっきりと浮かび上がった歯型から、脇腹に流れ落ちるほどの血が滴っていました。
今さら血の一滴や二滴で騒ぐほどやわではありません。ですがその血を丁寧に舐めとる様子を見ていると、顔が火照ってくるのです。
熱い舌が肌へ触れる度に込み上げる息を、唇を噛みしめ抑えていたのですが。舌が胸の頂を掠めた瞬間。高い声が、喉の奥から勝手に発せられました。
自分の出した声に驚愕していると、アールはなぜか満足げな笑みを浮かべます。
「噛んでも痛がらないし、不感症かと思ったけど。コレは感じるんだ」
まさかこんなところに、思考を鈍らせる弱点が存在するとは――噛み殺していた唸り声が、硬くなった胸の頂を貪る舌によって少しずつ溶けていきます。さらに不思議なことに、舌が触れている場所だけでなく下腹部までもがじんわりと熱くなってきたのです。
なぜ「聖なる場所」が疼くのでしょうか――そのうち自分の声に、低く短い吐息が重なるようになりました。
「……嫌じゃないのか。ならお望みどおり、ぐちゃぐちゃにしてあげるよ」
ギラギラと沸騰する赤眼に射抜かれたその時。混沌とした頭の中に、ふと言葉が浮かんできました。
「あなたは……誰?」
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