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hors d'oeuvre:秘匿
2. 「ロリポップ:ソルティバニラ味」
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マダーマム家へ潜入して5日目の朝。まさか潜入中に、青空市場へ来られるとは思ってもいませんでした。
この屋敷の人々は、自分たちの好む食材を自家採取しているようでしたから。ですがさすがに、あの赤い実(トウガラシというのだとか)は土地の特性上育てることができないようです。
「やっぱりショッピングは女の子とするに限るわねぇ!」
社交界でも『赤食家』と称えられるルイーズ夫人は、ご自分で食べる食材を厳選されていました。さらに今日は、1か月後の晩餐会で使用する食材を考えにいらしたのだとか。
白い天幕の中でもひと際目立つ黒ドレスを揺らしながら、夫人は軽快な足取りで店と店を行き来しています。修道服も黒ですから、目立つことには慣れていますが――お揃いのドレスというのはどうも落ち着きません。
「あたし娘も欲しかったのよねぇ。うちは男ばっかりでむさくるしいし、マチルダみたいな可愛い子がいてくれて、本当に助かっているわ」
これは後でマチルダに伝えてあげなければ。
心のメモを取っていると、夫人が「サリーナちゃんはどんな食べ物が好き?」と顔を寄せてきました。市場の喧騒に負けないよう、私も大きめの声量で答えます。「ポッピング菓子店のロリポップ、ソルティバニラ味」、と。
「あら、店まで決まっているなんて素晴らしいこだわりね。そんなに美味しいの?」
「はい。父がよく買ってきてくれて……一番好きなんです」
さすがに「これしか味が分かるものがない」、とは言えません。ですが気持ちは本当です。ビショップが町へ出た時、必ず私への土産にと買ってきてくださった菓子ですから。
せっかくだから食べてみたい、という夫人に連れられて、ポッピング菓子店にやってきました。この店へ直接来るのは本当に久しぶりです。
「ここのお菓子は色とりどりで可愛いわね。あたし甘いものは食べないんだけれど、食欲が湧いてくるわぁ」
混雑気味の店内をもろともせず、夫人はロリポップの棚を目指しています。夫人の醸し出す気迫に押されて、周囲の人々が道を開けてくれました。その後をついて行くのは大変心苦しいのですが、入り口で待っているわけにもいきません。
「あらまぁ、たくさんフレーバーがあるのね。えっ、ペッパー!? これすっごく気になるわ」
夫人が楽しんでくれているようで、ほっと胸を撫でおろしました。ここへは、私を気遣って連れてきてくださったようでしたから。
「この『アプリコット味』、ノットが好きみたいです」
いつもこれを選ぶから――そう言いかけた寸前、思いとどまりました。ですから私とノットは、5日前に会ったばかりの設定だというのに。
飴の柄を握ったままきょとんとしているルイーズは、やがて優しい笑みを浮かべました。
「ノットと仲良しになってくれたみたいね、サリーナちゃん」
「仲良し……ええ、はい」
兄代わりであり先生でもあるノットへの気持ちは、そんな言葉では足りないほどですが。
「あら? もしかしてあれ」
私を通り越しているルイーズ夫人の視線を追うと、そこにはよく見知った神父の姿がありました。
あちらはずっと私たちに気づいていたようで、夫人が「ノット」と呼びかけると、呆れ気味のため息を吐き出します。
「こんなところで何をしているのですか? 今朝は市場へ行くと仰っていましたが」
「もう市場での用は済んだの。今はサリーナちゃん一押しの菓子店でショッピングデートしていたところよ」
「デート? はぁ……母さん。サリーナ様にはあくまで『義母になるかもしれない人と花嫁候補』として接してくださいね。適切な関係であれば、仲良くするなとはいいませんから」
ノットの含みを持った言い回しに首を傾げましたが、話はみるみるうちに進んでいってしまいます。
「分かっているわよ。この子をあなたたちから取るつもりはないから、安心しなさい」
2人の会話の意味を解さないまま、話はなぜノットがここにいたのかに移りました。ノットは「教会の用事が近くであって」、と言葉を濁しましたが、私には分かります。おそらくノットは任務の最中だったのです。プリエストの位を賜り、ビショップにも信頼されているノットが任せられるような案件と言えば、今一番教会が力を入れている仕事――食人鬼(グルマン)に関すること。
すべてお見通しですよ、と強い視線を送りますが、ノットは一切こちらを見てくれません。昨晩と同じで。
「あっ。あたし天文塔に寄る用があったんだったわ。ノット、サリーナちゃんを家まで送ってあげてちょうだい」
「あなた今日はオフでしょう? なぜ天文塔に……」
「じゃあお願いねぇ!」
夫人はカゴいっぱいに詰めていたロリポップの会計を済ませると、鹿のような跳躍力で店を出て行かれました。一方ノットはため息にため息を重ね、ようやくこちらを向きます。
「少しお茶でもいかがですか?」
菓子店の2階には、ちょっとしたカフェスペースがあります。席はあまり多くありませんが、たしかテラスから街路樹並木を見ることができたはずです。
席に着いて紅茶と砂糖菓子を頼んだところで、ノットはようやく白状しました。やはり食人鬼の事件に関する任務で動いていたのだと。
私がマダーマム家での調査を進めている間、ノットも外部での調査をだいぶ進めていたようです。これまでの任務にも当然真剣に取り組んできましたが、昼夜僧兵として走り回ることなどそうはないでしょう。ということは、ノットも「あのこと」を憂いているに違いありません。
「次の犠牲者が出る前に早く犯人を捕まえないと。ノットだって、お父様とこれからもずっと一緒にいたいでしょう?」
「もしやあなた、聞いていたのですか?」
食人鬼の事件はすべて東区で起っています。そのため東区を管轄するビショップ――お父様に黎明教会の上部から圧力がかかったこと。5人目の犠牲者を出した時点でビショップを退会処分とする、とお偉い方々に言い渡されたことを先月確かに聞きました。マダーマム家への潜入を決意したあの日、ビショップの部屋を飛び出した直後に。
「ですからノット。お屋敷の中だけでなはく、外部の調査に私も協力させてください」
ノットは口を閉ざしてしまいました。周りに人の多い場所ですから、今こういった話を掘り下げるべきではないと分かっています。分かっているのですが――目を合わせてくれない碧眼から、ふと街路樹に視線を下ろしたその時。プラタナス並木の間で何かが光りました。
「あれは……?」
丸い光が一度だけ明滅した後、人影が見えた気もしますが。
「ひとまずいただきましょうか。これは『美味しいもの』ですよ、ロリッサ」
呼びかけに前を向くと、いつの間にか紅茶と菓子が運ばれていました。せっかく頼んでくれたのですから、熱いうちにいただきましょう。
「おいしいと思えたら良かったのに」
マダーマム家で彼らの食事風景を眺めていて一度、「いいなぁ」と呟いてしまったことがありました。あまりにも楽しそうに好物を貪っていらっしゃったので。
「生において何に喜びを感じるかは人それぞれです。ロリッサが楽しいと思うことを、これから見つければ良いのです」
「楽しいと思うこと……」
今こうして、ビショップの憂いを晴らすために動いている。それこそが喜び、楽しいこと。そのはずですが、ノットは「それとは別に」と言います。
「そろそろ行きましょう。よろしければ、この後もう一軒付き合っていただけますか?」
ノットに連れられてやって来た場所は、ポッピング菓子店のすぐ裏にある通りでした。細い路地に佇む古宿を、ノットは黒いベールのかかった碧眼で睨み上げます。
「昨年の12月14日17時頃、食人鬼第1の被害者リィンベル嬢は、学校の帰りに侍女とポッピング菓子店へ寄り道。侍女が店の外で待機している間に行方不明となりました。その日は夕方の時点で霧が濃く、聖誕祭の直前で店は大混雑だったそうです。そしてリィンベル嬢が行方不明になったその翌昼、ハーモニア家に速達で送られてきたものは人骨……火葬の形跡はなく、肉は綺麗に削がれていたそうです」
ここまで話したということは、調査に協力させてくれるということでしょう。それならば遠慮なく踏み込ませていただきます。
「食人鬼は、どこで彼女の解体を行ったのでしょうか?」
「霧が出ていたとはいえ、騒がないよう近くの建物に連れ込んだと予測できます。そこで1年前の事件当時、犯行現場の候補に上がったのがここ、裏通りにある宿場です」
するとここは天文塔の局員が調べつくしているはず。それでも証拠が出なかったというのに、なぜノットは改めてここを調べる気になったのでしょうか。
問いかける間もなく、ノットは宿の中へ入っていきました。
かなりのご高齢と思われる店主は私たちを交互に見ると、白い眉毛に隠れかかった目を細めます。何が面白かったのでしょう。
「聖誕祭前の夜は、10ある部屋が満室でしたからね。いちいち人の顔なんざ覚えちゃいませんよ」
「当時の宿泊者名簿は残っていますか?」
「ありますけどねぇ、神父様。どうせ皆さん偽名ですよ。聖誕祭前、こんな安宿にわざわざ来なさるのは、たいてい世を忍ぶ男女ですからねぇ」
店主から何やら不快な視線を感じますが、ひとまず今は宿の名簿に集中しなければなりません。12月14日の宿泊者は22名、うち10名が代表として名前を残していらっしゃいますが――「Iscario(イスカリオ)」の名がふと目に留まりました。
「ノット。この方の筆跡、何となく見覚えありませんか? 『r』のくねった感じ」
すると教会で見たという他ありませんが、もしかしたら頂き物の添え状や郵便物で目にした可能性もあります。
「では、この方が泊まった8号室を見せていただけませんか?」
ノットの申し出に店主はしわを深めましたが、「ちょうど空いてますし」と許可をくださいました。
「神父様たちが泊まってってくれたら儲けもんですがねぇ」
「いえ、すぐに帰ります」、とはっきりお断りを入れたノットは、さっさと階段の方へ歩き出します。なぜそんなに慌てているのか尋ねますが、進む足が速くなるだけでした。
「8」の文字が掠れたプレートの部屋に入るなり、ノットはようやくこちらを振り返ります。暗色に濡れた瞳は、床板に向いていました。
「あの……昨晩のことですが」
「えっ」、と思わず肩を揺らしてしまいました。熱の発散をした後、放心したノットを放置して帰ったのがまずかったのでしょうか。
あまり目を合わせてくれないのも、それで怒っているから――?
「ノット、その、昨晩はごめんなさ――」
謝罪の言葉はノットの手に遮られました。口を塞いだ手が肩まで降り、ベッドに座るよう促してきます。一方ノットは、目の前の床に片膝をつきました。そして教典を読み上げる時のような厳かな口調で、告解紛いのことをはじめたのです。
神父があの行い(熱の発散のことと思われます)をするのは、教義に反するということ。さらにはシスターにあのような行いをさせることも同様である、と。
「でも僧兵の任務の時には必要なことが許される、とビショップが教えてくださいました。ノットだって、あの家にいる間の特別と言っていたではありませんか」
私が無理にお願いをしたせいではないか、と思い至りましたが、ノットは「駄目」と言ったことは決して教えてくれません。
「こんなに後悔するくらいなら、どうしてお願いを聞いてくれたのですか?」
あの熱も、我慢すればそのうち治っていたかもしれません。少なくともノットにこんな顔をさせるくらいなら、私は我慢を選んだでしょう。そう訴えると、ノットはより苦し気に眉をひそめました。
「おそらく香油に入っていたものは、マダーマム家特製の薬ですから……あれは毒気が抜けるまでに時間がかかる危険なものです。その、熱を発散させることが一番簡単な対処法ですし」
「そういえば、初めてノットのお部屋へ行った時もあの香油を塗られていたの。どうしてあの時は効かなかったのでしょうか?」
ノットは「あくまで予想ですが」、と前置きをしてから話してくださいました。私は性的感覚に対して未熟だからなのだろう、と。次にノット自身が効かなかったわけを問うと、ノットは視線を泳がせました。「一応耐性がありますから」、と答えてはくださいましたが、それ以上は言い淀んでしまいます。
「ノット、もういいです。言いにくいことを無理に話す必要はありません。ノット自身がいつもそう言ってるじゃありませんか。それより早く、このお部屋を調査しましょう」
「ロリッサ……成長しましたね。いえ、ありがとうございます、シスター・ロリッサ」
ようやくお日様のような微笑みが見られたころで、ひとつ大切なことを思い出しました。
「あぁでも、花嫁修業に必要なことはこれからもご教授願います。シスター・アグネスに聞けなかったことも、まだまだありますから」
そうノットに向けて微笑むと、せっかく戻ったばかりの笑顔が引きつってしまいました。算術については嬉々として教えてくれるというのに、いったい何が不満なのでしょう。
この屋敷の人々は、自分たちの好む食材を自家採取しているようでしたから。ですがさすがに、あの赤い実(トウガラシというのだとか)は土地の特性上育てることができないようです。
「やっぱりショッピングは女の子とするに限るわねぇ!」
社交界でも『赤食家』と称えられるルイーズ夫人は、ご自分で食べる食材を厳選されていました。さらに今日は、1か月後の晩餐会で使用する食材を考えにいらしたのだとか。
白い天幕の中でもひと際目立つ黒ドレスを揺らしながら、夫人は軽快な足取りで店と店を行き来しています。修道服も黒ですから、目立つことには慣れていますが――お揃いのドレスというのはどうも落ち着きません。
「あたし娘も欲しかったのよねぇ。うちは男ばっかりでむさくるしいし、マチルダみたいな可愛い子がいてくれて、本当に助かっているわ」
これは後でマチルダに伝えてあげなければ。
心のメモを取っていると、夫人が「サリーナちゃんはどんな食べ物が好き?」と顔を寄せてきました。市場の喧騒に負けないよう、私も大きめの声量で答えます。「ポッピング菓子店のロリポップ、ソルティバニラ味」、と。
「あら、店まで決まっているなんて素晴らしいこだわりね。そんなに美味しいの?」
「はい。父がよく買ってきてくれて……一番好きなんです」
さすがに「これしか味が分かるものがない」、とは言えません。ですが気持ちは本当です。ビショップが町へ出た時、必ず私への土産にと買ってきてくださった菓子ですから。
せっかくだから食べてみたい、という夫人に連れられて、ポッピング菓子店にやってきました。この店へ直接来るのは本当に久しぶりです。
「ここのお菓子は色とりどりで可愛いわね。あたし甘いものは食べないんだけれど、食欲が湧いてくるわぁ」
混雑気味の店内をもろともせず、夫人はロリポップの棚を目指しています。夫人の醸し出す気迫に押されて、周囲の人々が道を開けてくれました。その後をついて行くのは大変心苦しいのですが、入り口で待っているわけにもいきません。
「あらまぁ、たくさんフレーバーがあるのね。えっ、ペッパー!? これすっごく気になるわ」
夫人が楽しんでくれているようで、ほっと胸を撫でおろしました。ここへは、私を気遣って連れてきてくださったようでしたから。
「この『アプリコット味』、ノットが好きみたいです」
いつもこれを選ぶから――そう言いかけた寸前、思いとどまりました。ですから私とノットは、5日前に会ったばかりの設定だというのに。
飴の柄を握ったままきょとんとしているルイーズは、やがて優しい笑みを浮かべました。
「ノットと仲良しになってくれたみたいね、サリーナちゃん」
「仲良し……ええ、はい」
兄代わりであり先生でもあるノットへの気持ちは、そんな言葉では足りないほどですが。
「あら? もしかしてあれ」
私を通り越しているルイーズ夫人の視線を追うと、そこにはよく見知った神父の姿がありました。
あちらはずっと私たちに気づいていたようで、夫人が「ノット」と呼びかけると、呆れ気味のため息を吐き出します。
「こんなところで何をしているのですか? 今朝は市場へ行くと仰っていましたが」
「もう市場での用は済んだの。今はサリーナちゃん一押しの菓子店でショッピングデートしていたところよ」
「デート? はぁ……母さん。サリーナ様にはあくまで『義母になるかもしれない人と花嫁候補』として接してくださいね。適切な関係であれば、仲良くするなとはいいませんから」
ノットの含みを持った言い回しに首を傾げましたが、話はみるみるうちに進んでいってしまいます。
「分かっているわよ。この子をあなたたちから取るつもりはないから、安心しなさい」
2人の会話の意味を解さないまま、話はなぜノットがここにいたのかに移りました。ノットは「教会の用事が近くであって」、と言葉を濁しましたが、私には分かります。おそらくノットは任務の最中だったのです。プリエストの位を賜り、ビショップにも信頼されているノットが任せられるような案件と言えば、今一番教会が力を入れている仕事――食人鬼(グルマン)に関すること。
すべてお見通しですよ、と強い視線を送りますが、ノットは一切こちらを見てくれません。昨晩と同じで。
「あっ。あたし天文塔に寄る用があったんだったわ。ノット、サリーナちゃんを家まで送ってあげてちょうだい」
「あなた今日はオフでしょう? なぜ天文塔に……」
「じゃあお願いねぇ!」
夫人はカゴいっぱいに詰めていたロリポップの会計を済ませると、鹿のような跳躍力で店を出て行かれました。一方ノットはため息にため息を重ね、ようやくこちらを向きます。
「少しお茶でもいかがですか?」
菓子店の2階には、ちょっとしたカフェスペースがあります。席はあまり多くありませんが、たしかテラスから街路樹並木を見ることができたはずです。
席に着いて紅茶と砂糖菓子を頼んだところで、ノットはようやく白状しました。やはり食人鬼の事件に関する任務で動いていたのだと。
私がマダーマム家での調査を進めている間、ノットも外部での調査をだいぶ進めていたようです。これまでの任務にも当然真剣に取り組んできましたが、昼夜僧兵として走り回ることなどそうはないでしょう。ということは、ノットも「あのこと」を憂いているに違いありません。
「次の犠牲者が出る前に早く犯人を捕まえないと。ノットだって、お父様とこれからもずっと一緒にいたいでしょう?」
「もしやあなた、聞いていたのですか?」
食人鬼の事件はすべて東区で起っています。そのため東区を管轄するビショップ――お父様に黎明教会の上部から圧力がかかったこと。5人目の犠牲者を出した時点でビショップを退会処分とする、とお偉い方々に言い渡されたことを先月確かに聞きました。マダーマム家への潜入を決意したあの日、ビショップの部屋を飛び出した直後に。
「ですからノット。お屋敷の中だけでなはく、外部の調査に私も協力させてください」
ノットは口を閉ざしてしまいました。周りに人の多い場所ですから、今こういった話を掘り下げるべきではないと分かっています。分かっているのですが――目を合わせてくれない碧眼から、ふと街路樹に視線を下ろしたその時。プラタナス並木の間で何かが光りました。
「あれは……?」
丸い光が一度だけ明滅した後、人影が見えた気もしますが。
「ひとまずいただきましょうか。これは『美味しいもの』ですよ、ロリッサ」
呼びかけに前を向くと、いつの間にか紅茶と菓子が運ばれていました。せっかく頼んでくれたのですから、熱いうちにいただきましょう。
「おいしいと思えたら良かったのに」
マダーマム家で彼らの食事風景を眺めていて一度、「いいなぁ」と呟いてしまったことがありました。あまりにも楽しそうに好物を貪っていらっしゃったので。
「生において何に喜びを感じるかは人それぞれです。ロリッサが楽しいと思うことを、これから見つければ良いのです」
「楽しいと思うこと……」
今こうして、ビショップの憂いを晴らすために動いている。それこそが喜び、楽しいこと。そのはずですが、ノットは「それとは別に」と言います。
「そろそろ行きましょう。よろしければ、この後もう一軒付き合っていただけますか?」
ノットに連れられてやって来た場所は、ポッピング菓子店のすぐ裏にある通りでした。細い路地に佇む古宿を、ノットは黒いベールのかかった碧眼で睨み上げます。
「昨年の12月14日17時頃、食人鬼第1の被害者リィンベル嬢は、学校の帰りに侍女とポッピング菓子店へ寄り道。侍女が店の外で待機している間に行方不明となりました。その日は夕方の時点で霧が濃く、聖誕祭の直前で店は大混雑だったそうです。そしてリィンベル嬢が行方不明になったその翌昼、ハーモニア家に速達で送られてきたものは人骨……火葬の形跡はなく、肉は綺麗に削がれていたそうです」
ここまで話したということは、調査に協力させてくれるということでしょう。それならば遠慮なく踏み込ませていただきます。
「食人鬼は、どこで彼女の解体を行ったのでしょうか?」
「霧が出ていたとはいえ、騒がないよう近くの建物に連れ込んだと予測できます。そこで1年前の事件当時、犯行現場の候補に上がったのがここ、裏通りにある宿場です」
するとここは天文塔の局員が調べつくしているはず。それでも証拠が出なかったというのに、なぜノットは改めてここを調べる気になったのでしょうか。
問いかける間もなく、ノットは宿の中へ入っていきました。
かなりのご高齢と思われる店主は私たちを交互に見ると、白い眉毛に隠れかかった目を細めます。何が面白かったのでしょう。
「聖誕祭前の夜は、10ある部屋が満室でしたからね。いちいち人の顔なんざ覚えちゃいませんよ」
「当時の宿泊者名簿は残っていますか?」
「ありますけどねぇ、神父様。どうせ皆さん偽名ですよ。聖誕祭前、こんな安宿にわざわざ来なさるのは、たいてい世を忍ぶ男女ですからねぇ」
店主から何やら不快な視線を感じますが、ひとまず今は宿の名簿に集中しなければなりません。12月14日の宿泊者は22名、うち10名が代表として名前を残していらっしゃいますが――「Iscario(イスカリオ)」の名がふと目に留まりました。
「ノット。この方の筆跡、何となく見覚えありませんか? 『r』のくねった感じ」
すると教会で見たという他ありませんが、もしかしたら頂き物の添え状や郵便物で目にした可能性もあります。
「では、この方が泊まった8号室を見せていただけませんか?」
ノットの申し出に店主はしわを深めましたが、「ちょうど空いてますし」と許可をくださいました。
「神父様たちが泊まってってくれたら儲けもんですがねぇ」
「いえ、すぐに帰ります」、とはっきりお断りを入れたノットは、さっさと階段の方へ歩き出します。なぜそんなに慌てているのか尋ねますが、進む足が速くなるだけでした。
「8」の文字が掠れたプレートの部屋に入るなり、ノットはようやくこちらを振り返ります。暗色に濡れた瞳は、床板に向いていました。
「あの……昨晩のことですが」
「えっ」、と思わず肩を揺らしてしまいました。熱の発散をした後、放心したノットを放置して帰ったのがまずかったのでしょうか。
あまり目を合わせてくれないのも、それで怒っているから――?
「ノット、その、昨晩はごめんなさ――」
謝罪の言葉はノットの手に遮られました。口を塞いだ手が肩まで降り、ベッドに座るよう促してきます。一方ノットは、目の前の床に片膝をつきました。そして教典を読み上げる時のような厳かな口調で、告解紛いのことをはじめたのです。
神父があの行い(熱の発散のことと思われます)をするのは、教義に反するということ。さらにはシスターにあのような行いをさせることも同様である、と。
「でも僧兵の任務の時には必要なことが許される、とビショップが教えてくださいました。ノットだって、あの家にいる間の特別と言っていたではありませんか」
私が無理にお願いをしたせいではないか、と思い至りましたが、ノットは「駄目」と言ったことは決して教えてくれません。
「こんなに後悔するくらいなら、どうしてお願いを聞いてくれたのですか?」
あの熱も、我慢すればそのうち治っていたかもしれません。少なくともノットにこんな顔をさせるくらいなら、私は我慢を選んだでしょう。そう訴えると、ノットはより苦し気に眉をひそめました。
「おそらく香油に入っていたものは、マダーマム家特製の薬ですから……あれは毒気が抜けるまでに時間がかかる危険なものです。その、熱を発散させることが一番簡単な対処法ですし」
「そういえば、初めてノットのお部屋へ行った時もあの香油を塗られていたの。どうしてあの時は効かなかったのでしょうか?」
ノットは「あくまで予想ですが」、と前置きをしてから話してくださいました。私は性的感覚に対して未熟だからなのだろう、と。次にノット自身が効かなかったわけを問うと、ノットは視線を泳がせました。「一応耐性がありますから」、と答えてはくださいましたが、それ以上は言い淀んでしまいます。
「ノット、もういいです。言いにくいことを無理に話す必要はありません。ノット自身がいつもそう言ってるじゃありませんか。それより早く、このお部屋を調査しましょう」
「ロリッサ……成長しましたね。いえ、ありがとうございます、シスター・ロリッサ」
ようやくお日様のような微笑みが見られたころで、ひとつ大切なことを思い出しました。
「あぁでも、花嫁修業に必要なことはこれからもご教授願います。シスター・アグネスに聞けなかったことも、まだまだありますから」
そうノットに向けて微笑むと、せっかく戻ったばかりの笑顔が引きつってしまいました。算術については嬉々として教えてくれるというのに、いったい何が不満なのでしょう。
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