花嫁シスター×美食家たち

見早

文字の大きさ
上 下
2 / 37
amuse:指輪

1.「銀の指輪」

しおりを挟む
 10月2日 海辺の教会
 
 子どもたちに「先生」と呼ばれるなど、イーストエンドで暮らしていた5歳の頃の私は想像できたでしょうか。ですが今ここ――教会の青空教室で、私は確かに先生と呼ばれているのです。

「ロリッサせんせー、算数って生きるのにひつようあるの?」

 8人いる教え子たちの中、修道服の袖を引くのは、いつもシスターたちを困らせている少年でした。
 日曜の青空教室にやってくる子たちはみんな純粋で可愛いものです。それはもう、些細なイタズラも許せるほどに。

「あなたが町でお買い物をする時、計算ができなかったらお金を誤魔化されても分からないでしょ? お給金だってそうですよ。ですから算数は生きるのにとっても大切なお勉強なんです」

 胸を張って言ったつもりでしたが、彼はふさふさの眉根を寄せていました。

「ならロリッサせんせーはごまかされてばっかりじゃんか」

 うっかり拳を握りかけましたが、ここは我慢です。「短気は未熟者の証」と、いつもお父様に叱られていることを忘れはしません。
 爽やかな潮風を吸い込み、吐き出したところで、彼は不敵な笑みを浮かべました。

「じゃあ町にオレンジを24こ売りにいって、いっこ7ペニーで売れたら、いくらもうけたことになる?」

 地面に式を書くための手頃な枝を拾おうとすると、枝を取り上げられました。暗算しろ、ということなのでしょうか。

「24が7倍……だから、ええと……」

 今や先生と呼ばれる私の「先生」である彼の授業を思い出しながら、一緒に式も考えます。ですが「どうしたの?」、「まさか分からないの?」といった子どもたちのざわめきが、頭を真っ白に染めていきます。

「お……大人を試すようなことをしてはいけません!」
「うわっ、シスター・ロリッサがキレた!」

 鬼ごっこのようにはしゃいで逃げていく子どもたちを追いかけようと、スカートの袖を持ち上げた瞬間。

「待ちなさい、シスター・ロリッサ」

 柔らかな中に棘を含んだこの声は――振り返ると、私の先生であり兄代わりでもある神父が引きつった笑みを浮かべていました。

「の、ノット?」

 こめかみに青筋が立っていますが、気にしている場合ではありません。今の私には、逃げられた子どもたち全員を捕まえてイスに戻すという使命がありますから。ですが「ロリッサ」、と改めて呼ばれると、言霊を浴びせられたかのように足が動かなくなりました。
 魔術などの類は信じていませんが、プリエストの位にある彼――ノットならば、もしかしたら呪文のひとつやふたつ扱えるかもしれません。ノットはゆっくりとした足取りで私の進路を封鎖し、昼下がりの太陽を背に隠してこちらを見下ろします。

「子どもたちへの授業が上手くいっていないようですね。いったい原因は何でしょうか?」

 ノットの海よりも深い碧眼に見つめられると、さっぱり言葉が出なくなるのはいつものことです。が、今日はすんなりと文句が浮かんできました。

「私はやっぱり、名家のお坊ちゃんのノットとは違うんです。そもそものできが良くないんですから。お父様……神父ビショップだってお医者さんの息子だって聞きましたし」

 言い切った直後。ノットの笑みが深まったのを見て、頭を狙撃されたような心地がしました。

「言い訳、ですか?」

 ノットが長い長いお説教から解放してくれたのは、保護者が子どもたちのお迎えに来る少し前でした。「今日はどうだった?」と尋ねるお母さまやおじいさまに対し、子どもたちは「楽しかった」と答えていますが――それは「鬼ごっこが楽しかった」という意味でしょう。そんな中、不穏な単語が聞こえてきました。今確かに「食人鬼(グルマン)」、と。

「ほら、この夕刊。食人鬼の調査がまた難航しているらしいな」

 すぐ傍にいたノットは保護者のひとりから夕刊を受け取ると、目蓋を軽く伏せました。
 背伸びをして夕刊を覗き込んだところ、食人鬼の第3犠牲者である娼婦、それから遺骨発見現場の写真が載っています。

「夜霧に紛れる食人鬼……怖いわぁ。肉は残らず喰われて、骨しか残っていないってんでしょ? これが人間の仕業なのかねぇ」
「亡くなった人の身分や年齢はバラバラだっていうし、アタシたちも気は抜けないよ。天文塔の人たちが早く捕まえてくれればいいんだけどねぇ、神父様」

 ノットは憂い混じりに頷いただけで、ご婦人方に言葉をかけようとはしません。代わりに「大丈夫、神とその僕(しもべ)である私たちがついていますから」、と答えると、保護者の方々は少し微笑み返してくれました。
 そう。彼ら守られるべき一般の方々には、私たちがついています。彼らを安心させるためにも、お父様を守るためにも、私は――。

「ロリッサ、聞いていますか?」

 保護者を見送った後のノットがこちらを覗き込んでいました。まさかお説教の続きではないでしょうね、と身構えましたが、ノットは静かに眉を下げただけです。

「今晩、あなたに『任務』の予定はありませんでしたね。ビショップからの指令でもないのに、勝手はいけませんよ」
「言われなくたって分かってますよ、そんなこと」

 これ以上ノットといると、反抗期のティーンみたいなことばかり溢してしまいそうです。
 特大の洗濯カゴを両肩に担いでいるシスター・アグネスの背中を見つけ、逃げるついでに手伝いへ向かおうとしたその時。どこからともなく、目の前に黒い壁が現れました。壁の正体はノットと同じ、お説教のために現れた人物です。

「ノットの言う通りだ、シスター・ロリッサ。例の件は他のブラザーやシスターがすでに動いてくれています。お前は大人しくしていなさい」

 私の目にも見える神様、愛すべき父。そんな彼、神父ビショップのために私はあるというのに――困ったように笑うお父様に背を向けると、温かい手がそっと頭に触れました。

「そうむくれないで。あなたには、あなたのできることがあるはずです」

 もう10年以上私を見守り、支えてくれたノットの手。彼はお父様と同じ、大切な家族です。この「海辺の教会」という名の世界――私のすべて。
 心地よい熱をくれる手を振り払い、「もう子どもではないのですから」、とアグネスの後を追って駆け出しました。
 そう、私はもう無力な子どもではないのです。それを証明するため、今夜も「任務」へ出ることに決めました。



 夜の任務支度はもはや慣れたものです。
 黒いベールを脱ぎ、十字架を胸の中へ隠し、獲物のナイフを体中へ仕込む――夜闇に紛れて駆けるうちに、東街へあっという間に着いてしまいました。
 今夜注意することは2つ。ひとつは本来調査を担当しているノットたちに見つからないこと。そして最も重要なのは、今夜こそ食人鬼の正体を暴くこと。
 食人鬼は賢く、天文塔の法務局員が配置されている場所へは決して近寄りません。すると今夜もし現れるとすればここ――東町の外れ。イーストエンド手前には、風変わりな噂が立っている貴族屋敷があるのみで、特筆すべき建造物はありません。
 住宅地の屋根で、腹ばいのまま息を殺すこと半刻。やがて夜霧の中から「ぎ」と短い悲鳴が上がりました。人か、それとも犬か猫かも定かではありませが、もし霧の中で今誰かが襲われていたら――すぐさま屋根から飛び降り、ガス灯の近くに降りました。
 身を低くして霧をかき分けていくと、大きな影が見えてきます。かすかに動く影の中央あたりには、銀色の小さな何かが光っていました。
 あれはガス灯の明かりを反射しているのでしょうか。さらに距離を詰めたところで、ナイフに手をかけた瞬間。
 霧の中の不審者は、こちらを振り向く間もなく駆け出しました。「待て!」と叫びたいのを必死に抑えて足を駆りますが、一向に追いつけません。かろうじて後ろ姿が確認できる距離で走り続けるうちに、影は高い塀の向こう側へ消えてしまいました。
 あそこは風変わりな噂の絶えない「狂食の館」、貴族家マダーマムの邸宅です。そして地面に落ちているのは、おそらく先ほど逃げていった何者かの胸に光っていた物――銀の指輪でした。



「私、見たんです。犯人が『狂食の館』へ入っていくところを!」

 任務の翌朝。届いたばかりの朝刊を握りしめ、お父様――神父ビショップの私室へ突撃しました。言いつけを破ったことについて、ビショップは蒸気機関車の汽笛よりも甲高い声で責め立てようとしますが、今はお説教を聞いている場合ではありません。

「助けられなかったわ。止められたかもしれないのに」

 今朝未明、食人鬼第4の犠牲者である浮浪者の遺骨が見つかった場所は、東町の外れ――昨晩不審者を追った、あの場所です。新聞の現場写真を見つめていると、すっかり熱を覚ましたビショップが「ロリッサ、いいかい?」と目の前に片膝をつきました。

「我々にはすべてを救うことはできない。だから、お前がすべてを背負う必要なんてないんだ」

 それでも、もっと早く見つけられていたら――震える指が新聞紙に突き刺さってからしばらくして、紙面が赤く染まっていることに気づきました。いつの間にか自分の手のひらにまで、爪を立ててしまったようです。

「あ……これも未熟者の証、ですね。ごめんなさい、ビショップ」

 顔を上げると同時に、こちらへ伸びていたビショップの腕が引っ込みました。

「ビショップ……いえ、お父様、どうして遠慮するの?」

 神父とシスターではなく親子として尋ねると、ビショップは迷った末に白状しました。昨日私がノットに向けて言ったこと――『もう子どもじゃないんだから』、がためらいの原因であると。

「お父様はいいの。いつまでも、お父様だけは。だからこれからもずっと、私を本当の子みたいに思って欲しいわ」

 するとようやく、優しい手が肩に触れました。いつも道を示してくれた大きな手、見守ってくれた優しい眼差し、安心感のある胸板――懐かしい感触を堪能していると、「お前は今までもこれからも、ずっと私の子だよ」と囁きが降ってきました。
 そろそろ、好機でしょうか。
「じゃあお父様、私の話聞いて」、と顔を上げると、ビショップの目が真ん丸になりました。

「私ね、突き止めたいの。『狂食の館』、マダーマム家の中にいる食人鬼(グルマン)の正体を」
「突き止めるって、どうするつもりだ? まさか……」

 ビショップの言葉を待てず「使用人か何かに化けて潜入するわ」と返すと、想像していた通り――「そんなの許せるわけがない」、がビショップから飛び出しました。
 ふだん他のシスターやブラザーに対しては穏和な態度だというのに、私に対して遠慮のないところは喜んで良いのか悪いのか。言い争いが白熱してきた頃、いつものようにノットが仲裁にやって来ます。

「はしたないですよ2人とも! 声が外にまで響いています」

 こうなったらノットを味方に引き込みましょう、と事情を話したところ。ノットが加勢したのはビショップ側でした。その上最悪なことに、ノットは見たこともないほど怖い顔で「それだけはダメだ」、と言い放ちます。

「こうしてる間にも新たな犠牲者が出るかもしれないし、それに食人鬼を捕まえられなかったらお父様が……とにかく、もう潜入すると決めたので」

 出ていったもの勝ち――新聞を握り締め、部屋を出ようとした瞬間。
「ロリッサ!」、とノットが叫ぶと同時に左の手首を掴まれました。腕が白くなるほど力を込められるのは、覚えている限り初めてです。

「離してお兄ちゃん」
「離しません。まだ話の途中で……!?」

 掴まれた手を捻り、体を前に一回転。その勢いを利用して、腕力だけでは持ち上げることのできないノットを投げ飛ばさせていただきました。

「申し訳ありませんが、もう『待て』はできません」
「大丈夫かノット!? こら、ロリッサ待ちなさい!」

 ビショップ、お父様――あなたを、そしてこの場所を守るため、必ず食人鬼を探し出して参ります。
 そう胸の内に唱えながらドアを出て行くと、見たことのない神父様とすれ違いました。立ち止まりお辞儀をしましたが、こちらを一瞥することなくビショップの部屋へ入っていきます。
 お顔は存じ上げませんが、あのユリの紋章――おそらくビショップよりもお偉い方に違いありません。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

美人家庭科教師が姉になったけど、家庭での素顔は俺だけが知っている。

ぽんぽこ@書籍発売中!!
恋愛
俺には血の繋がっていない姉さんがいる。 高校で家庭科を教えている、美人で自慢の姉。 だけど家では、学校とは全く違う顔を見せてくる。 「ヒロ~、お姉ちゃんの肩揉んで」 「まず風呂上がりに下着姿でこっち来ないでくれます!?」 家庭科教師のくせに、ちっとも家庭的ではない姉さんに俺はいつも振り回されっぱなし。 今夜も、晩飯を俺ひとりに作らせて無防備な姿でソファーに寝転がり…… 『この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません』 表紙イラスト/イトノコ(@misokooekaki)様より

肉食令嬢×食人鬼狩り

見早
恋愛
 貴族学校で注目を集める異色の令嬢、フルーラ・マダーマム。  狂気の美食家がそろう処刑屋一族の彼女は『殺人女王(マーダークイーン)』と呼ばれつつも、人を食人鬼に豹変させる「魔人病」を治療するため医者を志していた。  ある夜フルーラは、被検体を入手するために屋敷を脱走。そこで食人鬼を狩る謎の女と、彼女に襲われる上級生ジルに遭遇する。  ジルが現場にいた理由を知るためフルーラは彼と「恋人契約」を結ぶが、いつの間にか自分が翻弄されるようになり――「食」×「性」の織りなす背徳ラブファンタジー。 ※前作「花嫁シスター×美食家たち」と繋がっていますが、単品でもお楽しみいただけます。

ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生

花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。 女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感! イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡

皇帝陛下!私はただの専属給仕です!

mock
恋愛
食に関してうるさいリーネ国皇帝陛下のカーブス陛下。 戦いには全く興味なく、美味しい食べ物を食べる事が唯一の幸せ。 ただ、気に入らないとすぐ解雇されるシェフ等の世界に投げ込まれた私、マール。 胃袋を掴む中で…陛下と過ごす毎日が楽しく徐々に恋心が…。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【R18】隣のデスクの歳下後輩君にオカズに使われているらしいので、望み通りにシてあげました。

雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向け33位、人気ランキング146位達成※隣のデスクに座る陰キャの歳下後輩君から、ある日私の卑猥なアイコラ画像を誤送信されてしまい!?彼にオカズに使われていると知り満更でもない私は彼を部屋に招き入れてお望み通りの行為をする事に…。強気な先輩ちゃん×弱気な後輩くん。でもエッチな下着を身に付けて恥ずかしくなった私は、彼に攻められてすっかり形成逆転されてしまう。 ——全話ほぼ濡れ場で小難しいストーリーの設定などが無いのでストレス無く集中できます(はしがき・あとがきは含まない) ※完結直後のものです。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

地味令嬢画家とマルキ公爵の秘密

みるみる
恋愛
マルキ公爵は家族の愛に恵まれず常に孤独だった。その為空想の世界へと救いを求めていったのだった。 そんな日々の中、彼は屋敷のとある部屋の壁画制作を、地味な女画家に依頼した。 そして、壁画の完成後彼女は‥‥。

処理中です...