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amuse:指輪
1.「銀の指輪」
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10月2日 海辺の教会
子どもたちに「先生」と呼ばれるなど、イーストエンドで暮らしていた5歳の頃の私は想像できたでしょうか。ですが今ここ――教会の青空教室で、私は確かに先生と呼ばれているのです。
「ロリッサせんせー、算数って生きるのにひつようあるの?」
8人いる教え子たちの中、修道服の袖を引くのは、いつもシスターたちを困らせている少年でした。
日曜の青空教室にやってくる子たちはみんな純粋で可愛いものです。それはもう、些細なイタズラも許せるほどに。
「あなたが町でお買い物をする時、計算ができなかったらお金を誤魔化されても分からないでしょ? お給金だってそうですよ。ですから算数は生きるのにとっても大切なお勉強なんです」
胸を張って言ったつもりでしたが、彼はふさふさの眉根を寄せていました。
「ならロリッサせんせーはごまかされてばっかりじゃんか」
うっかり拳を握りかけましたが、ここは我慢です。「短気は未熟者の証」と、いつもお父様に叱られていることを忘れはしません。
爽やかな潮風を吸い込み、吐き出したところで、彼は不敵な笑みを浮かべました。
「じゃあ町にオレンジを24こ売りにいって、いっこ7ペニーで売れたら、いくらもうけたことになる?」
地面に式を書くための手頃な枝を拾おうとすると、枝を取り上げられました。暗算しろ、ということなのでしょうか。
「24が7倍……だから、ええと……」
今や先生と呼ばれる私の「先生」である彼の授業を思い出しながら、一緒に式も考えます。ですが「どうしたの?」、「まさか分からないの?」といった子どもたちのざわめきが、頭を真っ白に染めていきます。
「お……大人を試すようなことをしてはいけません!」
「うわっ、シスター・ロリッサがキレた!」
鬼ごっこのようにはしゃいで逃げていく子どもたちを追いかけようと、スカートの袖を持ち上げた瞬間。
「待ちなさい、シスター・ロリッサ」
柔らかな中に棘を含んだこの声は――振り返ると、私の先生であり兄代わりでもある神父が引きつった笑みを浮かべていました。
「の、ノット?」
こめかみに青筋が立っていますが、気にしている場合ではありません。今の私には、逃げられた子どもたち全員を捕まえてイスに戻すという使命がありますから。ですが「ロリッサ」、と改めて呼ばれると、言霊を浴びせられたかのように足が動かなくなりました。
魔術などの類は信じていませんが、プリエストの位にある彼――ノットならば、もしかしたら呪文のひとつやふたつ扱えるかもしれません。ノットはゆっくりとした足取りで私の進路を封鎖し、昼下がりの太陽を背に隠してこちらを見下ろします。
「子どもたちへの授業が上手くいっていないようですね。いったい原因は何でしょうか?」
ノットの海よりも深い碧眼に見つめられると、さっぱり言葉が出なくなるのはいつものことです。が、今日はすんなりと文句が浮かんできました。
「私はやっぱり、名家のお坊ちゃんのノットとは違うんです。そもそものできが良くないんですから。お父様……神父ビショップだってお医者さんの息子だって聞きましたし」
言い切った直後。ノットの笑みが深まったのを見て、頭を狙撃されたような心地がしました。
「言い訳、ですか?」
ノットが長い長いお説教から解放してくれたのは、保護者が子どもたちのお迎えに来る少し前でした。「今日はどうだった?」と尋ねるお母さまやおじいさまに対し、子どもたちは「楽しかった」と答えていますが――それは「鬼ごっこが楽しかった」という意味でしょう。そんな中、不穏な単語が聞こえてきました。今確かに「食人鬼(グルマン)」、と。
「ほら、この夕刊。食人鬼の調査がまた難航しているらしいな」
すぐ傍にいたノットは保護者のひとりから夕刊を受け取ると、目蓋を軽く伏せました。
背伸びをして夕刊を覗き込んだところ、食人鬼の第3犠牲者である娼婦、それから遺骨発見現場の写真が載っています。
「夜霧に紛れる食人鬼……怖いわぁ。肉は残らず喰われて、骨しか残っていないってんでしょ? これが人間の仕業なのかねぇ」
「亡くなった人の身分や年齢はバラバラだっていうし、アタシたちも気は抜けないよ。天文塔の人たちが早く捕まえてくれればいいんだけどねぇ、神父様」
ノットは憂い混じりに頷いただけで、ご婦人方に言葉をかけようとはしません。代わりに「大丈夫、神とその僕(しもべ)である私たちがついていますから」、と答えると、保護者の方々は少し微笑み返してくれました。
そう。彼ら守られるべき一般の方々には、私たちがついています。彼らを安心させるためにも、お父様を守るためにも、私は――。
「ロリッサ、聞いていますか?」
保護者を見送った後のノットがこちらを覗き込んでいました。まさかお説教の続きではないでしょうね、と身構えましたが、ノットは静かに眉を下げただけです。
「今晩、あなたに『任務』の予定はありませんでしたね。ビショップからの指令でもないのに、勝手はいけませんよ」
「言われなくたって分かってますよ、そんなこと」
これ以上ノットといると、反抗期のティーンみたいなことばかり溢してしまいそうです。
特大の洗濯カゴを両肩に担いでいるシスター・アグネスの背中を見つけ、逃げるついでに手伝いへ向かおうとしたその時。どこからともなく、目の前に黒い壁が現れました。壁の正体はノットと同じ、お説教のために現れた人物です。
「ノットの言う通りだ、シスター・ロリッサ。例の件は他のブラザーやシスターがすでに動いてくれています。お前は大人しくしていなさい」
私の目にも見える神様、愛すべき父。そんな彼、神父ビショップのために私はあるというのに――困ったように笑うお父様に背を向けると、温かい手がそっと頭に触れました。
「そうむくれないで。あなたには、あなたのできることがあるはずです」
もう10年以上私を見守り、支えてくれたノットの手。彼はお父様と同じ、大切な家族です。この「海辺の教会」という名の世界――私のすべて。
心地よい熱をくれる手を振り払い、「もう子どもではないのですから」、とアグネスの後を追って駆け出しました。
そう、私はもう無力な子どもではないのです。それを証明するため、今夜も「任務」へ出ることに決めました。
夜の任務支度はもはや慣れたものです。
黒いベールを脱ぎ、十字架を胸の中へ隠し、獲物のナイフを体中へ仕込む――夜闇に紛れて駆けるうちに、東街へあっという間に着いてしまいました。
今夜注意することは2つ。ひとつは本来調査を担当しているノットたちに見つからないこと。そして最も重要なのは、今夜こそ食人鬼の正体を暴くこと。
食人鬼は賢く、天文塔の法務局員が配置されている場所へは決して近寄りません。すると今夜もし現れるとすればここ――東町の外れ。イーストエンド手前には、風変わりな噂が立っている貴族屋敷があるのみで、特筆すべき建造物はありません。
住宅地の屋根で、腹ばいのまま息を殺すこと半刻。やがて夜霧の中から「ぎ」と短い悲鳴が上がりました。人か、それとも犬か猫かも定かではありませが、もし霧の中で今誰かが襲われていたら――すぐさま屋根から飛び降り、ガス灯の近くに降りました。
身を低くして霧をかき分けていくと、大きな影が見えてきます。かすかに動く影の中央あたりには、銀色の小さな何かが光っていました。
あれはガス灯の明かりを反射しているのでしょうか。さらに距離を詰めたところで、ナイフに手をかけた瞬間。
霧の中の不審者は、こちらを振り向く間もなく駆け出しました。「待て!」と叫びたいのを必死に抑えて足を駆りますが、一向に追いつけません。かろうじて後ろ姿が確認できる距離で走り続けるうちに、影は高い塀の向こう側へ消えてしまいました。
あそこは風変わりな噂の絶えない「狂食の館」、貴族家マダーマムの邸宅です。そして地面に落ちているのは、おそらく先ほど逃げていった何者かの胸に光っていた物――銀の指輪でした。
「私、見たんです。犯人が『狂食の館』へ入っていくところを!」
任務の翌朝。届いたばかりの朝刊を握りしめ、お父様――神父ビショップの私室へ突撃しました。言いつけを破ったことについて、ビショップは蒸気機関車の汽笛よりも甲高い声で責め立てようとしますが、今はお説教を聞いている場合ではありません。
「助けられなかったわ。止められたかもしれないのに」
今朝未明、食人鬼第4の犠牲者である浮浪者の遺骨が見つかった場所は、東町の外れ――昨晩不審者を追った、あの場所です。新聞の現場写真を見つめていると、すっかり熱を覚ましたビショップが「ロリッサ、いいかい?」と目の前に片膝をつきました。
「我々にはすべてを救うことはできない。だから、お前がすべてを背負う必要なんてないんだ」
それでも、もっと早く見つけられていたら――震える指が新聞紙に突き刺さってからしばらくして、紙面が赤く染まっていることに気づきました。いつの間にか自分の手のひらにまで、爪を立ててしまったようです。
「あ……これも未熟者の証、ですね。ごめんなさい、ビショップ」
顔を上げると同時に、こちらへ伸びていたビショップの腕が引っ込みました。
「ビショップ……いえ、お父様、どうして遠慮するの?」
神父とシスターではなく親子として尋ねると、ビショップは迷った末に白状しました。昨日私がノットに向けて言ったこと――『もう子どもじゃないんだから』、がためらいの原因であると。
「お父様はいいの。いつまでも、お父様だけは。だからこれからもずっと、私を本当の子みたいに思って欲しいわ」
するとようやく、優しい手が肩に触れました。いつも道を示してくれた大きな手、見守ってくれた優しい眼差し、安心感のある胸板――懐かしい感触を堪能していると、「お前は今までもこれからも、ずっと私の子だよ」と囁きが降ってきました。
そろそろ、好機でしょうか。
「じゃあお父様、私の話聞いて」、と顔を上げると、ビショップの目が真ん丸になりました。
「私ね、突き止めたいの。『狂食の館』、マダーマム家の中にいる食人鬼(グルマン)の正体を」
「突き止めるって、どうするつもりだ? まさか……」
ビショップの言葉を待てず「使用人か何かに化けて潜入するわ」と返すと、想像していた通り――「そんなの許せるわけがない」、がビショップから飛び出しました。
ふだん他のシスターやブラザーに対しては穏和な態度だというのに、私に対して遠慮のないところは喜んで良いのか悪いのか。言い争いが白熱してきた頃、いつものようにノットが仲裁にやって来ます。
「はしたないですよ2人とも! 声が外にまで響いています」
こうなったらノットを味方に引き込みましょう、と事情を話したところ。ノットが加勢したのはビショップ側でした。その上最悪なことに、ノットは見たこともないほど怖い顔で「それだけはダメだ」、と言い放ちます。
「こうしてる間にも新たな犠牲者が出るかもしれないし、それに食人鬼を捕まえられなかったらお父様が……とにかく、もう潜入すると決めたので」
出ていったもの勝ち――新聞を握り締め、部屋を出ようとした瞬間。
「ロリッサ!」、とノットが叫ぶと同時に左の手首を掴まれました。腕が白くなるほど力を込められるのは、覚えている限り初めてです。
「離してお兄ちゃん」
「離しません。まだ話の途中で……!?」
掴まれた手を捻り、体を前に一回転。その勢いを利用して、腕力だけでは持ち上げることのできないノットを投げ飛ばさせていただきました。
「申し訳ありませんが、もう『待て』はできません」
「大丈夫かノット!? こら、ロリッサ待ちなさい!」
ビショップ、お父様――あなたを、そしてこの場所を守るため、必ず食人鬼を探し出して参ります。
そう胸の内に唱えながらドアを出て行くと、見たことのない神父様とすれ違いました。立ち止まりお辞儀をしましたが、こちらを一瞥することなくビショップの部屋へ入っていきます。
お顔は存じ上げませんが、あのユリの紋章――おそらくビショップよりもお偉い方に違いありません。
子どもたちに「先生」と呼ばれるなど、イーストエンドで暮らしていた5歳の頃の私は想像できたでしょうか。ですが今ここ――教会の青空教室で、私は確かに先生と呼ばれているのです。
「ロリッサせんせー、算数って生きるのにひつようあるの?」
8人いる教え子たちの中、修道服の袖を引くのは、いつもシスターたちを困らせている少年でした。
日曜の青空教室にやってくる子たちはみんな純粋で可愛いものです。それはもう、些細なイタズラも許せるほどに。
「あなたが町でお買い物をする時、計算ができなかったらお金を誤魔化されても分からないでしょ? お給金だってそうですよ。ですから算数は生きるのにとっても大切なお勉強なんです」
胸を張って言ったつもりでしたが、彼はふさふさの眉根を寄せていました。
「ならロリッサせんせーはごまかされてばっかりじゃんか」
うっかり拳を握りかけましたが、ここは我慢です。「短気は未熟者の証」と、いつもお父様に叱られていることを忘れはしません。
爽やかな潮風を吸い込み、吐き出したところで、彼は不敵な笑みを浮かべました。
「じゃあ町にオレンジを24こ売りにいって、いっこ7ペニーで売れたら、いくらもうけたことになる?」
地面に式を書くための手頃な枝を拾おうとすると、枝を取り上げられました。暗算しろ、ということなのでしょうか。
「24が7倍……だから、ええと……」
今や先生と呼ばれる私の「先生」である彼の授業を思い出しながら、一緒に式も考えます。ですが「どうしたの?」、「まさか分からないの?」といった子どもたちのざわめきが、頭を真っ白に染めていきます。
「お……大人を試すようなことをしてはいけません!」
「うわっ、シスター・ロリッサがキレた!」
鬼ごっこのようにはしゃいで逃げていく子どもたちを追いかけようと、スカートの袖を持ち上げた瞬間。
「待ちなさい、シスター・ロリッサ」
柔らかな中に棘を含んだこの声は――振り返ると、私の先生であり兄代わりでもある神父が引きつった笑みを浮かべていました。
「の、ノット?」
こめかみに青筋が立っていますが、気にしている場合ではありません。今の私には、逃げられた子どもたち全員を捕まえてイスに戻すという使命がありますから。ですが「ロリッサ」、と改めて呼ばれると、言霊を浴びせられたかのように足が動かなくなりました。
魔術などの類は信じていませんが、プリエストの位にある彼――ノットならば、もしかしたら呪文のひとつやふたつ扱えるかもしれません。ノットはゆっくりとした足取りで私の進路を封鎖し、昼下がりの太陽を背に隠してこちらを見下ろします。
「子どもたちへの授業が上手くいっていないようですね。いったい原因は何でしょうか?」
ノットの海よりも深い碧眼に見つめられると、さっぱり言葉が出なくなるのはいつものことです。が、今日はすんなりと文句が浮かんできました。
「私はやっぱり、名家のお坊ちゃんのノットとは違うんです。そもそものできが良くないんですから。お父様……神父ビショップだってお医者さんの息子だって聞きましたし」
言い切った直後。ノットの笑みが深まったのを見て、頭を狙撃されたような心地がしました。
「言い訳、ですか?」
ノットが長い長いお説教から解放してくれたのは、保護者が子どもたちのお迎えに来る少し前でした。「今日はどうだった?」と尋ねるお母さまやおじいさまに対し、子どもたちは「楽しかった」と答えていますが――それは「鬼ごっこが楽しかった」という意味でしょう。そんな中、不穏な単語が聞こえてきました。今確かに「食人鬼(グルマン)」、と。
「ほら、この夕刊。食人鬼の調査がまた難航しているらしいな」
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背伸びをして夕刊を覗き込んだところ、食人鬼の第3犠牲者である娼婦、それから遺骨発見現場の写真が載っています。
「夜霧に紛れる食人鬼……怖いわぁ。肉は残らず喰われて、骨しか残っていないってんでしょ? これが人間の仕業なのかねぇ」
「亡くなった人の身分や年齢はバラバラだっていうし、アタシたちも気は抜けないよ。天文塔の人たちが早く捕まえてくれればいいんだけどねぇ、神父様」
ノットは憂い混じりに頷いただけで、ご婦人方に言葉をかけようとはしません。代わりに「大丈夫、神とその僕(しもべ)である私たちがついていますから」、と答えると、保護者の方々は少し微笑み返してくれました。
そう。彼ら守られるべき一般の方々には、私たちがついています。彼らを安心させるためにも、お父様を守るためにも、私は――。
「ロリッサ、聞いていますか?」
保護者を見送った後のノットがこちらを覗き込んでいました。まさかお説教の続きではないでしょうね、と身構えましたが、ノットは静かに眉を下げただけです。
「今晩、あなたに『任務』の予定はありませんでしたね。ビショップからの指令でもないのに、勝手はいけませんよ」
「言われなくたって分かってますよ、そんなこと」
これ以上ノットといると、反抗期のティーンみたいなことばかり溢してしまいそうです。
特大の洗濯カゴを両肩に担いでいるシスター・アグネスの背中を見つけ、逃げるついでに手伝いへ向かおうとしたその時。どこからともなく、目の前に黒い壁が現れました。壁の正体はノットと同じ、お説教のために現れた人物です。
「ノットの言う通りだ、シスター・ロリッサ。例の件は他のブラザーやシスターがすでに動いてくれています。お前は大人しくしていなさい」
私の目にも見える神様、愛すべき父。そんな彼、神父ビショップのために私はあるというのに――困ったように笑うお父様に背を向けると、温かい手がそっと頭に触れました。
「そうむくれないで。あなたには、あなたのできることがあるはずです」
もう10年以上私を見守り、支えてくれたノットの手。彼はお父様と同じ、大切な家族です。この「海辺の教会」という名の世界――私のすべて。
心地よい熱をくれる手を振り払い、「もう子どもではないのですから」、とアグネスの後を追って駆け出しました。
そう、私はもう無力な子どもではないのです。それを証明するため、今夜も「任務」へ出ることに決めました。
夜の任務支度はもはや慣れたものです。
黒いベールを脱ぎ、十字架を胸の中へ隠し、獲物のナイフを体中へ仕込む――夜闇に紛れて駆けるうちに、東街へあっという間に着いてしまいました。
今夜注意することは2つ。ひとつは本来調査を担当しているノットたちに見つからないこと。そして最も重要なのは、今夜こそ食人鬼の正体を暴くこと。
食人鬼は賢く、天文塔の法務局員が配置されている場所へは決して近寄りません。すると今夜もし現れるとすればここ――東町の外れ。イーストエンド手前には、風変わりな噂が立っている貴族屋敷があるのみで、特筆すべき建造物はありません。
住宅地の屋根で、腹ばいのまま息を殺すこと半刻。やがて夜霧の中から「ぎ」と短い悲鳴が上がりました。人か、それとも犬か猫かも定かではありませが、もし霧の中で今誰かが襲われていたら――すぐさま屋根から飛び降り、ガス灯の近くに降りました。
身を低くして霧をかき分けていくと、大きな影が見えてきます。かすかに動く影の中央あたりには、銀色の小さな何かが光っていました。
あれはガス灯の明かりを反射しているのでしょうか。さらに距離を詰めたところで、ナイフに手をかけた瞬間。
霧の中の不審者は、こちらを振り向く間もなく駆け出しました。「待て!」と叫びたいのを必死に抑えて足を駆りますが、一向に追いつけません。かろうじて後ろ姿が確認できる距離で走り続けるうちに、影は高い塀の向こう側へ消えてしまいました。
あそこは風変わりな噂の絶えない「狂食の館」、貴族家マダーマムの邸宅です。そして地面に落ちているのは、おそらく先ほど逃げていった何者かの胸に光っていた物――銀の指輪でした。
「私、見たんです。犯人が『狂食の館』へ入っていくところを!」
任務の翌朝。届いたばかりの朝刊を握りしめ、お父様――神父ビショップの私室へ突撃しました。言いつけを破ったことについて、ビショップは蒸気機関車の汽笛よりも甲高い声で責め立てようとしますが、今はお説教を聞いている場合ではありません。
「助けられなかったわ。止められたかもしれないのに」
今朝未明、食人鬼第4の犠牲者である浮浪者の遺骨が見つかった場所は、東町の外れ――昨晩不審者を追った、あの場所です。新聞の現場写真を見つめていると、すっかり熱を覚ましたビショップが「ロリッサ、いいかい?」と目の前に片膝をつきました。
「我々にはすべてを救うことはできない。だから、お前がすべてを背負う必要なんてないんだ」
それでも、もっと早く見つけられていたら――震える指が新聞紙に突き刺さってからしばらくして、紙面が赤く染まっていることに気づきました。いつの間にか自分の手のひらにまで、爪を立ててしまったようです。
「あ……これも未熟者の証、ですね。ごめんなさい、ビショップ」
顔を上げると同時に、こちらへ伸びていたビショップの腕が引っ込みました。
「ビショップ……いえ、お父様、どうして遠慮するの?」
神父とシスターではなく親子として尋ねると、ビショップは迷った末に白状しました。昨日私がノットに向けて言ったこと――『もう子どもじゃないんだから』、がためらいの原因であると。
「お父様はいいの。いつまでも、お父様だけは。だからこれからもずっと、私を本当の子みたいに思って欲しいわ」
するとようやく、優しい手が肩に触れました。いつも道を示してくれた大きな手、見守ってくれた優しい眼差し、安心感のある胸板――懐かしい感触を堪能していると、「お前は今までもこれからも、ずっと私の子だよ」と囁きが降ってきました。
そろそろ、好機でしょうか。
「じゃあお父様、私の話聞いて」、と顔を上げると、ビショップの目が真ん丸になりました。
「私ね、突き止めたいの。『狂食の館』、マダーマム家の中にいる食人鬼(グルマン)の正体を」
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ビショップの言葉を待てず「使用人か何かに化けて潜入するわ」と返すと、想像していた通り――「そんなの許せるわけがない」、がビショップから飛び出しました。
ふだん他のシスターやブラザーに対しては穏和な態度だというのに、私に対して遠慮のないところは喜んで良いのか悪いのか。言い争いが白熱してきた頃、いつものようにノットが仲裁にやって来ます。
「はしたないですよ2人とも! 声が外にまで響いています」
こうなったらノットを味方に引き込みましょう、と事情を話したところ。ノットが加勢したのはビショップ側でした。その上最悪なことに、ノットは見たこともないほど怖い顔で「それだけはダメだ」、と言い放ちます。
「こうしてる間にも新たな犠牲者が出るかもしれないし、それに食人鬼を捕まえられなかったらお父様が……とにかく、もう潜入すると決めたので」
出ていったもの勝ち――新聞を握り締め、部屋を出ようとした瞬間。
「ロリッサ!」、とノットが叫ぶと同時に左の手首を掴まれました。腕が白くなるほど力を込められるのは、覚えている限り初めてです。
「離してお兄ちゃん」
「離しません。まだ話の途中で……!?」
掴まれた手を捻り、体を前に一回転。その勢いを利用して、腕力だけでは持ち上げることのできないノットを投げ飛ばさせていただきました。
「申し訳ありませんが、もう『待て』はできません」
「大丈夫かノット!? こら、ロリッサ待ちなさい!」
ビショップ、お父様――あなたを、そしてこの場所を守るため、必ず食人鬼を探し出して参ります。
そう胸の内に唱えながらドアを出て行くと、見たことのない神父様とすれ違いました。立ち止まりお辞儀をしましたが、こちらを一瞥することなくビショップの部屋へ入っていきます。
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