ひごめの赤い石

紙川也

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第7章 決着をつける

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 台風は時速四十五キロメートルの速さで北北西に進み、夜のあいだずっと暴風雨がつづいた。ひごめ市を流れる知戸川の水かさがどんどん増した。川はいつ氾濫してもおかしくないほどの濁流となり、消防に携わる大人たちは一晩中緊張しつづけた。
 激しい、激しすぎる濁流は、山から集まる雨水とはべつの要因もあった。
 メガネ池から知戸川へ向かって水が流れたのだ。
 もともとメガネ池は知戸川とはつながっていない。ひとつの独立した水のかたまりだった。
 だがこの夜、メガネ池からひとすじの水の流れが生まれて知戸川とつながった。
 水は池から川へ、あとからあとから流れつづけた。夜の間ずっとそれがつづいた。
 ただし人々の注意は崩れた崖や氾濫寸前だった知戸川と吹川の合流点へ向けられたので、そのことに気づく者はだれもいなかった。
 メガネ池のうち片方の池の水がすべて流れて、池そのものが消滅したことを人々が発見したのは、翌日のことだった。ふたつの池がひとつだけになってしまった。
 そして、夜のうちに濁流に飲みこまれた不幸な人たちが、日付が変わり明るくなってから遺体で発見された。県内で三人の死者が出た。

 そのうちの一人が、ひごめ高校一年の狭間進一郎だった。
 彼の遺体は消滅した池の跡で見つかった。




 狭間進一郎の葬式は、彼が遺体で見つかった四日後に執り行われた。
 その日は、あのひどい台風などなかったかのようによく晴れ、乾いた空気が辺りを覆った。風は冷たいが日ざしはまだ暖かい、そんな秋の日だった。
 場所は狭間家の古い母屋。
 葬儀会場を使わず家で行うのは近頃ではめずらしい。だが、もともとこの屋敷では何百年も前から嫁入りも弔いも座敷の襖を取りはらって大広間をしつらえることで、当たり前に行ってきたのだ。
 昔ながらのひごめの仕来しきたりにのっとった葬送になった。
 狭間家は土地に根ざした古い血筋の家だったから、親戚を含めた地元の人たちが、おおぜい集まった。
 ひごめ館の関係者はほとんど全員やってきた。黒い着物姿の津江さんもだ。それに高校からも道場からもたくさん参列者がおとずれて、そのなかには未成年も多かったので、ミチが混ざっても違和感はなかった。
 ほんの数日会っただけの間柄だったが、砂森や羽根島先生のはからいでミチも参列したのだ。

 参列する者全員を屋敷に入れるのは無理だったので、座敷に連なる縁側を開放して庭に折り畳みの椅子が並べられた。
 ミチは進一郎の両親を、その場で初めて見た。
 父親と母親どちらにも進一郎や聖のおもかげがあり、そしてどちらもひどくやつれているように見えた。入院していたという母親のほうは特にそうだった。
 会長もいた。大きな体をせかせかと動かして葬式を取り仕切っていた。
 その場にいない進一郎の親族はただ一人、弟の聖だけだった。

 参列したのは人間だけではなかった。
 古い日本家屋の屋根の上には黄色い鳥がたくさんとまっていた。
 屋敷の外から見える一ツ目山のふもとでは、ななかまどの大きな木が、ときに吹く風で紅葉を散らしていた。
 どっちみち、木は木にしか見えなかった。これまでその場所にななかまどの木など立っていたのかなどということを気にする大人は、一人を除いて存在しなかった。
 その一人、羽根島先生は屋敷に入る前にその木をちらりと見て目を細めただけで、口に出してはなにも言わなかった。
 もっとも羽根島先生はあのとき骨折した体のあちこちの骨、鎖骨や肋骨などがまだひどく痛むために、そしておそらく体とはべつのところにも生まれた痛みのために、日ごろほがらかなこの人にしてはめずらしいほど無口だった。
 ミチはななかまどの木のそばに、黒い岩が転がっているのも見た。
 日に当たった個所が黒光りする岩だ。ミチはそのことを意外に感じた。

 棺桶のなかの進一郎は目を閉じ、表情だけを見たらまるで眠っているようだった。でも顔色はうっすらと緑味をおび血の気がまったくなくて、その顔色が生死の区別を明確につけていた。
 お焼香をすませて縁側から庭へ出たミチの肩をとんとんと指でつついた者がいた。
「ミチどの」
 津江さんだ。津江さんがミチより先にお焼香をあげたのをミチはさっき見ていた。その津江さんがミチにだけ聞こえる小声でささやいた。
「一緒に来やれ」
 ミチはなるべくそっと立ち上がった。
 津江さんはお焼香の列を作るために並ぶ人々の流れとは逆の方向へ進んだ。母屋に沿ってまっすぐに進み、端まで来るとそこを母屋の縁側に沿って曲がった。
 そうするのが当然といった様子の、自然な足取りだった。
 だれも津江さんに声をかけなかった。
 ともすれば立ち止まりたい気持ちをおさえつけて、ミチは津江さんの後を追った。

 母屋の端を曲がると津江さんは一ツ目山の山すそにあたる木々のなかへ分け入ろうとしているところだった。
 ミチの足が落ち葉の固まりを踏んでガサリと音を立てた。
 津江さんが振りかえった。
「ミチどの」
 話しかけないでほしいとミチは思った。
 だけど声の主は、ミチの気持ちなんかまったく無視した。
 あの日、ミチの手を強く引いて歩いたときとおなじだ。

「まだ終わっておらぬえ、ミチどの」

 ミチは津江さんを強い目でぎゅっと見すえた。
 四日のあいだ泣きはらしたせいで、ミチの白目は赤く、腫れぼったかった。だからにらみつけてもぜんぜん迫力がなかった。それでもミチはそうした。
 ミチは言った。
「ぼくはいま津江さんと話をしたくないです」
 だって話したら津江さんを責めてしまいそうだった。
 進一郎が死んだことを津江さんのせいにしてしまいそうだった。
 べつに津江さんが進一郎を殺したわけじゃない、もちろんちがう。
 そんなことはミチだってよくわかっていた、頭では。
 でも、と、頭で割り切れない気持ちの部分が津江さんを責めたがっていた。
 津江さんだったら、もしかしたら何とかできたのじゃないか、そう思ってしまう、いや、そう思いたがっている。
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