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第6章 願いごとは赤い文字で
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「雨水が」
「いや、ミチどの、おそらく雨水だけではあるまいぞ」
ミチの手を引く者があった。
見ると津江さんだ。
津江さんは同時に進一郎の手も引いた。
「二人とも足を動かしや。上まで戻るぞな」
「津江さん、でも、あのアヤたちが」
「よくごらん、ミチどの。そしてよくお聞きや。声がするかえ」
ミチはハッとした。
そういわれてみれば、あのたくさんの声がいつの間にか聞こえない。
ミチは頭上を見上げた。
岩からにじみ出た黒い影たちはたしかにそこにいた。まるで絵のような影。
だけどその影たちは動きを止めていた。
そこにただようのは、まるで息をひそめているかのような気配だった。
津江さんが言った。
「アヤは寄主を選ぶ。よいかえ、このことは決して順序をたがえぬぞな。まねる者がまねる相手を選ぶのよ。ところが、あのアヤたちは選びあぐねておるえ」
「選びあぐねる?」
「赤い目が寄主にふさわしいかどうか、吟味しておるぞな。まねるに足る者であるかどうかを、よーく見定めようとしておる――進一郎どの、ようおやりなさったえ」
津江さんがうなずいた。
「もし進一郎どのがまねれば、あのアヤは大いに力を誇示できたであろうよ。人間がアヤをまねた、寄主とアヤが逆転したと」
「はい」
「だが、進一郎どのは耐えなさった」
進一郎はそれに答えず、すっと目をそらした。
彼が口にしたのはべつのことだった。
「行きましょう、とりあえず上へ移動しましょう」
三人は水に足をとられないように大股で歩きはじめた。
一番先に津江さん、まんなかにミチ、最後に進一郎。着物姿の津江さんがいちばん歩きづらそうだとミチは思った。
あの細くて曲がりくねった通路に入るとき、ミチはちらっと後ろを振りかえった。ちょうど進一郎もおなじことをしていた。ミチの目に進一郎の、上を向いた後ろ姿が見えた。その向こうに暗い洞穴。
岩の天井のところどころに赤いものが見えた。
壁にはりついた影、実体になりかけて途中でとどまったアヤたちの赤い目だった。
(様子をうかがっているんだ)
ミチの肌がザッと粟立ち、ふるえた。
(あいつはどこにいるんだろう)
ミチはあの赤い眼球をさがそうとしたが、津江さんに手を引っぱられた。いそげということだろう。
ミチは足を動かした。
バシャッと水がはねた。水の増すスピードがどんどん上がっていた。いつの間にかすでにミチの足首まで浸かりはじめていた。
(通路は上がり坂だ。墳の壁画の場所までもどれば、たぶん大丈夫なはずだ。そこも水が来るなら進一郎さんの家まで――)
ミチがそう考えるのと、
「ゆるさぬ ぞ」
という声がとどろきミチの手首にはげしい痛みが走ったのと、ドンッという大きな衝撃がその場をおそったのが、ほとんどすべて同時だった。
ミチはつんのめりその場に転んだ。バシャバシャと水がはねた。津江さんが引いたのと反対の手が地面についた。
左の手首がズキンズキンと痛んだ。
ミチは膝をついた。津江さんがぐいっとミチの手を引いたので、それを支えにしてどうにか立ちあがった。心臓がバクバクとはげしく鳴った。のどから出てきてしまうのではないかというほどはげしく鳴った。
ふらふらと立ちあがったミチはもう一度振りかえって後ろを見た。
通路に入るすぐ手前で進一郎が両手を広げて、大きな球体を押していた。
赤い眼球をだ。
「そこ を どけ」
「どかない」
唸るような声で進一郎が言った。
「進一郎さんっ」
ミチは叫んだ。
それとほぼ同時に、進一郎が後ろ足でなにかを蹴飛ばした。
バンッ!と大きな音がして、いきなりミチの視界がさえぎられた。
ミチは一瞬なにが起きたのかわからなかった。
進一郎が蹴飛ばしたのは、通路と洞穴の境目にある古い木の扉だった。ミチの目の前でその扉が閉まったのだ。
ミチはあわてて扉を押したが動かない。ミチは気づかなかったが反対側で進一郎が扉に体を押しつけていた。ミチはひどくあせって扉を必死でぐいぐいと押した。
と、津江さんがミチを押しのけた。津江さんは扉のすぐ前に立つと、するどい声をあげた。
「進一郎どの、開けや」
扉の向こうから声が聞こえた。
「行ってください」
扉一枚へだてたせいで、その声はなんだかくぐもって聞こえた。力のない声みたいに聞こえたのだ。
ミチはもう一度叫んだ。
「一緒に行きましょう、進一郎さんっ」
「いいから二人で先に行くんだ。おれは後から行くから」
ジャバジャバ、と扉の向こうから水がもれてきた。
ミチは水の勢いがどんどん増していくような気がした。
(後からなんて、そんなことできるんだろうか)
できるとはとても思えなかった。ここに留まって溺れずにすむのは、あとわずかの時間だろう。
津江さんがドンドンッと扉を叩いた。
「進一郎どの、ここを開けや。この水はまことに危ない。今なら墳まで戻れるぞな」
「そうです、津江さん。今はできる――でも」
進一郎が言葉を切ったので、一瞬、水の音だけがあたりにひびいた。
「――おれがこいつにずっと逆らうのは、無理だ」
ミチの心臓が大きくはねた。
「手首がうずく。どうしようもなくなる」
ミチにはその感覚がとてもよくわかった。ミチは我知らず首を横に振った。
だめだ、そう思った。
「進一郎さん、いいからここを出ましょう」
「一回はできた、二回でも、なんとかできるかもしれない、もしかしたら三回目も。だけど、いつまでもは無理だ」
「進一郎さん、それは、だけど、そんなの」
ジャバジャバ、ジャバジャバ、と水が増えていく。
扉の向こうから聞こえてくる声は、やけにしずかに感じられた。
進一郎の声は話の内容に比べたら、むしろ不自然なくらいに落ちついていた。
「なんでもできるような気がしてしまう。誘われたり命令されたら、それに従いたくなる。おれは強くなりたいから、強くなれると言われたら、いつまでも逆らいつづけられる気がしない」
進一郎が言った。
「でも、今はできる。大丈夫だ」
「そこを どけ」
赤い眼球の声がとどろいた。
「どかない。二人とも行ってくれ」
不意に津江さんがミチの手を引っぱった。年とった女の姿で一体どこにそんな力があるのかとふしぎになるほど、強い力だった。津江さんはミチを引きずるようにして歩きはじめた。
ミチはありったけの力をふりしぼって声をあげた。
「進一郎さんっ、進一郎さんっ」
「早く行け」
扉の向こうから声がした。
ミチは無茶苦茶に叫んだ。
「いやだよ、だめだっ。ここまで一緒に来たんだ、もどるのも一緒だっ」
だけどミチの足はよろよろと進んだ。
古い扉から、浸水する洞穴から、遠ざかりつつあった。
津江さんの力に逆らえなかった。
それでもミチは顔だけを後ろに向けて大声をあげた。水音にかき消されないように声をかぎりに呼びかけた。
「進一郎さんっ」
「行くんだ」
進一郎の声が小さくなった。そのぶんだけミチと津江さんが進んだのだ。
ミチは(こんなのはおかしい)と思った。これほど一緒に行きたいのに、どうして津江さんも進一郎も聞き入れてくれないのかと思った。
本当はミチだってわかっていた。たとえどれほどミチが声を限りにして叫んでも、どうするか決めてしまった進一郎の心を変えることはできない。
それにミチだって、行かなければいけない。
それでもミチは叫んだ。
「進一郎さんっ」
ジャバジャバ、ジャバジャバ、と扉のすきまから水が流れた。
扉の向こうから最後に聞こえた声は、
「君はそそっかしいから、迷子になるんじゃないぞ」
という、お説教みたいな言葉だった。
とても進一郎らしい言葉だった。
「いや、ミチどの、おそらく雨水だけではあるまいぞ」
ミチの手を引く者があった。
見ると津江さんだ。
津江さんは同時に進一郎の手も引いた。
「二人とも足を動かしや。上まで戻るぞな」
「津江さん、でも、あのアヤたちが」
「よくごらん、ミチどの。そしてよくお聞きや。声がするかえ」
ミチはハッとした。
そういわれてみれば、あのたくさんの声がいつの間にか聞こえない。
ミチは頭上を見上げた。
岩からにじみ出た黒い影たちはたしかにそこにいた。まるで絵のような影。
だけどその影たちは動きを止めていた。
そこにただようのは、まるで息をひそめているかのような気配だった。
津江さんが言った。
「アヤは寄主を選ぶ。よいかえ、このことは決して順序をたがえぬぞな。まねる者がまねる相手を選ぶのよ。ところが、あのアヤたちは選びあぐねておるえ」
「選びあぐねる?」
「赤い目が寄主にふさわしいかどうか、吟味しておるぞな。まねるに足る者であるかどうかを、よーく見定めようとしておる――進一郎どの、ようおやりなさったえ」
津江さんがうなずいた。
「もし進一郎どのがまねれば、あのアヤは大いに力を誇示できたであろうよ。人間がアヤをまねた、寄主とアヤが逆転したと」
「はい」
「だが、進一郎どのは耐えなさった」
進一郎はそれに答えず、すっと目をそらした。
彼が口にしたのはべつのことだった。
「行きましょう、とりあえず上へ移動しましょう」
三人は水に足をとられないように大股で歩きはじめた。
一番先に津江さん、まんなかにミチ、最後に進一郎。着物姿の津江さんがいちばん歩きづらそうだとミチは思った。
あの細くて曲がりくねった通路に入るとき、ミチはちらっと後ろを振りかえった。ちょうど進一郎もおなじことをしていた。ミチの目に進一郎の、上を向いた後ろ姿が見えた。その向こうに暗い洞穴。
岩の天井のところどころに赤いものが見えた。
壁にはりついた影、実体になりかけて途中でとどまったアヤたちの赤い目だった。
(様子をうかがっているんだ)
ミチの肌がザッと粟立ち、ふるえた。
(あいつはどこにいるんだろう)
ミチはあの赤い眼球をさがそうとしたが、津江さんに手を引っぱられた。いそげということだろう。
ミチは足を動かした。
バシャッと水がはねた。水の増すスピードがどんどん上がっていた。いつの間にかすでにミチの足首まで浸かりはじめていた。
(通路は上がり坂だ。墳の壁画の場所までもどれば、たぶん大丈夫なはずだ。そこも水が来るなら進一郎さんの家まで――)
ミチがそう考えるのと、
「ゆるさぬ ぞ」
という声がとどろきミチの手首にはげしい痛みが走ったのと、ドンッという大きな衝撃がその場をおそったのが、ほとんどすべて同時だった。
ミチはつんのめりその場に転んだ。バシャバシャと水がはねた。津江さんが引いたのと反対の手が地面についた。
左の手首がズキンズキンと痛んだ。
ミチは膝をついた。津江さんがぐいっとミチの手を引いたので、それを支えにしてどうにか立ちあがった。心臓がバクバクとはげしく鳴った。のどから出てきてしまうのではないかというほどはげしく鳴った。
ふらふらと立ちあがったミチはもう一度振りかえって後ろを見た。
通路に入るすぐ手前で進一郎が両手を広げて、大きな球体を押していた。
赤い眼球をだ。
「そこ を どけ」
「どかない」
唸るような声で進一郎が言った。
「進一郎さんっ」
ミチは叫んだ。
それとほぼ同時に、進一郎が後ろ足でなにかを蹴飛ばした。
バンッ!と大きな音がして、いきなりミチの視界がさえぎられた。
ミチは一瞬なにが起きたのかわからなかった。
進一郎が蹴飛ばしたのは、通路と洞穴の境目にある古い木の扉だった。ミチの目の前でその扉が閉まったのだ。
ミチはあわてて扉を押したが動かない。ミチは気づかなかったが反対側で進一郎が扉に体を押しつけていた。ミチはひどくあせって扉を必死でぐいぐいと押した。
と、津江さんがミチを押しのけた。津江さんは扉のすぐ前に立つと、するどい声をあげた。
「進一郎どの、開けや」
扉の向こうから声が聞こえた。
「行ってください」
扉一枚へだてたせいで、その声はなんだかくぐもって聞こえた。力のない声みたいに聞こえたのだ。
ミチはもう一度叫んだ。
「一緒に行きましょう、進一郎さんっ」
「いいから二人で先に行くんだ。おれは後から行くから」
ジャバジャバ、と扉の向こうから水がもれてきた。
ミチは水の勢いがどんどん増していくような気がした。
(後からなんて、そんなことできるんだろうか)
できるとはとても思えなかった。ここに留まって溺れずにすむのは、あとわずかの時間だろう。
津江さんがドンドンッと扉を叩いた。
「進一郎どの、ここを開けや。この水はまことに危ない。今なら墳まで戻れるぞな」
「そうです、津江さん。今はできる――でも」
進一郎が言葉を切ったので、一瞬、水の音だけがあたりにひびいた。
「――おれがこいつにずっと逆らうのは、無理だ」
ミチの心臓が大きくはねた。
「手首がうずく。どうしようもなくなる」
ミチにはその感覚がとてもよくわかった。ミチは我知らず首を横に振った。
だめだ、そう思った。
「進一郎さん、いいからここを出ましょう」
「一回はできた、二回でも、なんとかできるかもしれない、もしかしたら三回目も。だけど、いつまでもは無理だ」
「進一郎さん、それは、だけど、そんなの」
ジャバジャバ、ジャバジャバ、と水が増えていく。
扉の向こうから聞こえてくる声は、やけにしずかに感じられた。
進一郎の声は話の内容に比べたら、むしろ不自然なくらいに落ちついていた。
「なんでもできるような気がしてしまう。誘われたり命令されたら、それに従いたくなる。おれは強くなりたいから、強くなれると言われたら、いつまでも逆らいつづけられる気がしない」
進一郎が言った。
「でも、今はできる。大丈夫だ」
「そこを どけ」
赤い眼球の声がとどろいた。
「どかない。二人とも行ってくれ」
不意に津江さんがミチの手を引っぱった。年とった女の姿で一体どこにそんな力があるのかとふしぎになるほど、強い力だった。津江さんはミチを引きずるようにして歩きはじめた。
ミチはありったけの力をふりしぼって声をあげた。
「進一郎さんっ、進一郎さんっ」
「早く行け」
扉の向こうから声がした。
ミチは無茶苦茶に叫んだ。
「いやだよ、だめだっ。ここまで一緒に来たんだ、もどるのも一緒だっ」
だけどミチの足はよろよろと進んだ。
古い扉から、浸水する洞穴から、遠ざかりつつあった。
津江さんの力に逆らえなかった。
それでもミチは顔だけを後ろに向けて大声をあげた。水音にかき消されないように声をかぎりに呼びかけた。
「進一郎さんっ」
「行くんだ」
進一郎の声が小さくなった。そのぶんだけミチと津江さんが進んだのだ。
ミチは(こんなのはおかしい)と思った。これほど一緒に行きたいのに、どうして津江さんも進一郎も聞き入れてくれないのかと思った。
本当はミチだってわかっていた。たとえどれほどミチが声を限りにして叫んでも、どうするか決めてしまった進一郎の心を変えることはできない。
それにミチだって、行かなければいけない。
それでもミチは叫んだ。
「進一郎さんっ」
ジャバジャバ、ジャバジャバ、と扉のすきまから水が流れた。
扉の向こうから最後に聞こえた声は、
「君はそそっかしいから、迷子になるんじゃないぞ」
という、お説教みたいな言葉だった。
とても進一郎らしい言葉だった。
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