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第5章 カゲイシオオカミの急襲
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ミチはカゲイシオオカミを見上げた。
カゲイシオオカミは何も言わず、ただ顎をしゃくってみせた。どうもこれはナナカマドウシに話のつづきをうながすしぐさらしい。その通りに、ナナカマドウシは話をつづけた。
「狭間嘉右衛門の誘導によって、ミマネイケは池に投げられる願いをかなえることが人をまねることだと考えるようになったのだよ。するとそれが重なるにつれて変化が起きた。ミマネイケがゆっくりと変わっていったのだ」
「あっ」
声をあげた者がいた。快斗だ。
「池が小さくなったんだっ。あの池、前はもっと深かったっ」
「わかるのか、快斗」
「いまの池って屋根つき橋の半分くらいから先にあるだろ。あれは、おれが幼稚園のころはもっと水があった、だんだん減ってるっ」
「きみのいう通りだ。つけ加えると、きみの生まれる前には、池はもっとずっと大きかった。おかしいと感じないかね、橋の途中から水があることを。はじめにあの屋根つき橋をかけたときには橋のすぐたもとまで水がたゆたっていたのだよ」
ミチは外を見た。
ナナカマドウシの姿を見たかった。だけど床に倒れたミチの目に見えるのは壊れた窓の向こうに見える木の幹だけだった。それだってナナカマドウシにちがいないが、そうしてみるとただの木の幹に見えた。
カゲイシオオカミが低くうなり、それから言葉を発した。
「お前の話は奇妙だぞ、ナナカマドウシ。あの石はほとんど残っていないはずだ」
「ひごめ石のことかね」
「そうだ、人間どもがそう呼ぶ、あの赤い石だ。あの石は嘉右衛門が採りつくした。いまでもときどきは欠片が土にまぎれていることがある、だがそれだけだ。人間の子らは人間の道具で文字を書いているはずだ。あの石ではない」
(なんの話だろう、ひごめ石がどうしたんだ)
ミチはアヤたちの会話に必死で耳を傾けた。
なんだかすごく重要な話を耳にしているような気がしたからだ。
ナナカマドウシがこたえた。
「そう、きみの言うとおり、人の子らはひごめ石を使って文字を書くわけではない。赤い文字にはちがいないが、それだけだ」
「それなのにミマネイケに対して効力があるというのか。書かれたものが我らに力を及ぼすのは、あの石があってこそだ。あの石で書かれたものだけが、こちらの世界と我らをつなぐ、それは今も昔もおなじはず」
ミチは思わずアッと声をあげそうになって、だけどどうにかそれをこらえた。津江さんがミチの額に書いたまじないを思いだした。
(あれはひごめ石だったんだ、石の欠片。いまカゲイシオオカミが言った、ときどき石の欠片が土にまぎれているって。まじないに使ったのがひごめ石だったから、効きめがあったんだ)
どうやら、ひごめ石はただ単に美しくて高価な顔料になるだけでは、ないようだ。アヤたちとこの世界をつなぐはたらきや、アヤたちになんらかの影響をおよぼす力があるようだった。
ナナカマドウシの考え深い声が周りに、しずかにひびいた。
「きみが効力というのは、それを受ける者の意思にかかわらず及ぶ力のことだろう。だがミマネイケは自らが望んで人の子が書く文字を読んだ。おそらく、だからこそ、ひごめ石で書いた文字かどうかは関係ないのだよ。もっといえばミマネイケが読んだのは文字ですらなく、子どもの願いそのものかもしれない、私はそう考える」
その声がゆっくりとあたりに満ちると、やがてミチの体の上で低い笑い声がした。
「フ、フフ、ククク」
声とともにカゲイシオオカミがかすかにゆれた。
黒い石のかたまりが、わらっていた。
「おもしろい、実におもしろい話だ。」
「私にはこの話のどこがそれほどおもしろいのか、わからない」
「うすのろな貴様にとってはそうだろうとも」
カゲイシオオカミが前足をミチの喉からおろした。そして言った。
「かつてないことが起きている、つまりはそうなのだな。」
圧迫感から解放されてミチは息をついだ。カゲイシオオカミがくいっと顎でミチに指図をした。
「起きろ、子ども」
ミチはその通りにした。
体を起こしたら、自分がこきざみにふるえていることに初めて気づいた。
雨のなかを快斗と歩いたのは、ほんの三十分くらい前のことだ。
それなのにそのときといまはまるでべつの、まったくつながりのない時間のように感じた。何もかもが変わってしまった。
カゲイシオオカミがミチに向かって命令した。
「子ども、立て。外へ出ろ。お前はおれの前を歩け。逃げられると思うな、おれから逃げようとしたら八つ裂きにしてやるからな」
もしもカゲイシオオカミが本気でそうしようと思えば、それはとても簡単だろう、ミチはそう思った。ミチの体のふるえは途切れることなくつづいた。
「ミチ、おれも一緒に行くっ」
快斗の声がした。ミチは快斗を見た。快斗は口をへの字に曲げて、ミチを見つめていた。快斗の体もこきざみにふるえていた。こわいのだ、とミチは思った。明るくて元気な快斗がこわがっている。そしてそれは無理もないのだ。
ミチと快斗はとなりの部屋へ移動した。
学習室はぐちゃぐちゃになっていた。
三頭のカゲイシオオカミが乱入したために図書室の机や椅子、それに木の扉が学習室へなだれこみ、それが学習室の机や椅子をなぎ倒し、見わたすかぎりすべての机と椅子が部屋の端に寄っていた。
そして机の向こうに人が倒れていた。
ミチはハッとした。
(机のなだれに巻きこまれたんだ)
ミチは顔から血の気が引くのを感じた。
黒い靴と灰色の生地が見えた。山橋という男だ。
山橋には悪いがミチはホッとした。これが他の、みれや紗や砂森だったら――だがそう思った直後、山橋の体のさらに奥に砂森の横顔が見えて、ミチは今度こそ生きた心地が失せた。
砂森は膝を床についているようだ。
下を見つめている。
「砂森さん」
ミチの声はかすれた。
その声に反応して砂森が顔を上げ、ミチを見た。そして言った。
「根島先生が、みれちゃんたちをかばって、いま意識がありません。救急車を呼びましたが、時間がかかりそうです」
砂森は一言一言をことさらゆっくりと話した。
そうすることで自分自身を落ちつかせたいかのようだった。
ミチは短くたずねた。
「どうして。」
「この大雨のために先に他へ出動している、という説明でした。どうも、ひごめの数か所で同時に崖崩れが発生したらしい。……今日はなんて日だ、そう思いますよ」
ミチは気づいた。
砂森はミチを見ている、そしてそれだけだ。その態度はまるでカゲイシオオカミがこの場に存在しないかのようだった。
ミチはあらためて思った。
(砂森さんには本当に見えないんだ)
カゲイシオオカミがミチをうながした。
「進め、子ども」
ミチはとなりにいる快斗の腕を引くと砂森に声をかけた。
「砂森さん、快斗も紗ちゃんたちと一緒に」
「バカ、ミチ、お前なに言ってるんだ。おれミチと一緒に行くってば!」
「だめだ、危ないから」
「だからだろっ、ミチだけ危ない目に合うなんてもっとダメだよっ」
こんなときなのに、ミチは(快斗はいいやつだな)と思った。こんなときなので、それだけで泣きそうな気分になった。日常が一瞬で吹き飛ばされぐちゃぐちゃになり得体の知れないことに巻きこまれてしまったのに。
昨日の津江さんたちの話をきいていないぶん、快斗のほうがミチよりずっとわけがわからないはずだ。それなのにミチを心配している快斗。
カゲイシオオカミは何も言わず、ただ顎をしゃくってみせた。どうもこれはナナカマドウシに話のつづきをうながすしぐさらしい。その通りに、ナナカマドウシは話をつづけた。
「狭間嘉右衛門の誘導によって、ミマネイケは池に投げられる願いをかなえることが人をまねることだと考えるようになったのだよ。するとそれが重なるにつれて変化が起きた。ミマネイケがゆっくりと変わっていったのだ」
「あっ」
声をあげた者がいた。快斗だ。
「池が小さくなったんだっ。あの池、前はもっと深かったっ」
「わかるのか、快斗」
「いまの池って屋根つき橋の半分くらいから先にあるだろ。あれは、おれが幼稚園のころはもっと水があった、だんだん減ってるっ」
「きみのいう通りだ。つけ加えると、きみの生まれる前には、池はもっとずっと大きかった。おかしいと感じないかね、橋の途中から水があることを。はじめにあの屋根つき橋をかけたときには橋のすぐたもとまで水がたゆたっていたのだよ」
ミチは外を見た。
ナナカマドウシの姿を見たかった。だけど床に倒れたミチの目に見えるのは壊れた窓の向こうに見える木の幹だけだった。それだってナナカマドウシにちがいないが、そうしてみるとただの木の幹に見えた。
カゲイシオオカミが低くうなり、それから言葉を発した。
「お前の話は奇妙だぞ、ナナカマドウシ。あの石はほとんど残っていないはずだ」
「ひごめ石のことかね」
「そうだ、人間どもがそう呼ぶ、あの赤い石だ。あの石は嘉右衛門が採りつくした。いまでもときどきは欠片が土にまぎれていることがある、だがそれだけだ。人間の子らは人間の道具で文字を書いているはずだ。あの石ではない」
(なんの話だろう、ひごめ石がどうしたんだ)
ミチはアヤたちの会話に必死で耳を傾けた。
なんだかすごく重要な話を耳にしているような気がしたからだ。
ナナカマドウシがこたえた。
「そう、きみの言うとおり、人の子らはひごめ石を使って文字を書くわけではない。赤い文字にはちがいないが、それだけだ」
「それなのにミマネイケに対して効力があるというのか。書かれたものが我らに力を及ぼすのは、あの石があってこそだ。あの石で書かれたものだけが、こちらの世界と我らをつなぐ、それは今も昔もおなじはず」
ミチは思わずアッと声をあげそうになって、だけどどうにかそれをこらえた。津江さんがミチの額に書いたまじないを思いだした。
(あれはひごめ石だったんだ、石の欠片。いまカゲイシオオカミが言った、ときどき石の欠片が土にまぎれているって。まじないに使ったのがひごめ石だったから、効きめがあったんだ)
どうやら、ひごめ石はただ単に美しくて高価な顔料になるだけでは、ないようだ。アヤたちとこの世界をつなぐはたらきや、アヤたちになんらかの影響をおよぼす力があるようだった。
ナナカマドウシの考え深い声が周りに、しずかにひびいた。
「きみが効力というのは、それを受ける者の意思にかかわらず及ぶ力のことだろう。だがミマネイケは自らが望んで人の子が書く文字を読んだ。おそらく、だからこそ、ひごめ石で書いた文字かどうかは関係ないのだよ。もっといえばミマネイケが読んだのは文字ですらなく、子どもの願いそのものかもしれない、私はそう考える」
その声がゆっくりとあたりに満ちると、やがてミチの体の上で低い笑い声がした。
「フ、フフ、ククク」
声とともにカゲイシオオカミがかすかにゆれた。
黒い石のかたまりが、わらっていた。
「おもしろい、実におもしろい話だ。」
「私にはこの話のどこがそれほどおもしろいのか、わからない」
「うすのろな貴様にとってはそうだろうとも」
カゲイシオオカミが前足をミチの喉からおろした。そして言った。
「かつてないことが起きている、つまりはそうなのだな。」
圧迫感から解放されてミチは息をついだ。カゲイシオオカミがくいっと顎でミチに指図をした。
「起きろ、子ども」
ミチはその通りにした。
体を起こしたら、自分がこきざみにふるえていることに初めて気づいた。
雨のなかを快斗と歩いたのは、ほんの三十分くらい前のことだ。
それなのにそのときといまはまるでべつの、まったくつながりのない時間のように感じた。何もかもが変わってしまった。
カゲイシオオカミがミチに向かって命令した。
「子ども、立て。外へ出ろ。お前はおれの前を歩け。逃げられると思うな、おれから逃げようとしたら八つ裂きにしてやるからな」
もしもカゲイシオオカミが本気でそうしようと思えば、それはとても簡単だろう、ミチはそう思った。ミチの体のふるえは途切れることなくつづいた。
「ミチ、おれも一緒に行くっ」
快斗の声がした。ミチは快斗を見た。快斗は口をへの字に曲げて、ミチを見つめていた。快斗の体もこきざみにふるえていた。こわいのだ、とミチは思った。明るくて元気な快斗がこわがっている。そしてそれは無理もないのだ。
ミチと快斗はとなりの部屋へ移動した。
学習室はぐちゃぐちゃになっていた。
三頭のカゲイシオオカミが乱入したために図書室の机や椅子、それに木の扉が学習室へなだれこみ、それが学習室の机や椅子をなぎ倒し、見わたすかぎりすべての机と椅子が部屋の端に寄っていた。
そして机の向こうに人が倒れていた。
ミチはハッとした。
(机のなだれに巻きこまれたんだ)
ミチは顔から血の気が引くのを感じた。
黒い靴と灰色の生地が見えた。山橋という男だ。
山橋には悪いがミチはホッとした。これが他の、みれや紗や砂森だったら――だがそう思った直後、山橋の体のさらに奥に砂森の横顔が見えて、ミチは今度こそ生きた心地が失せた。
砂森は膝を床についているようだ。
下を見つめている。
「砂森さん」
ミチの声はかすれた。
その声に反応して砂森が顔を上げ、ミチを見た。そして言った。
「根島先生が、みれちゃんたちをかばって、いま意識がありません。救急車を呼びましたが、時間がかかりそうです」
砂森は一言一言をことさらゆっくりと話した。
そうすることで自分自身を落ちつかせたいかのようだった。
ミチは短くたずねた。
「どうして。」
「この大雨のために先に他へ出動している、という説明でした。どうも、ひごめの数か所で同時に崖崩れが発生したらしい。……今日はなんて日だ、そう思いますよ」
ミチは気づいた。
砂森はミチを見ている、そしてそれだけだ。その態度はまるでカゲイシオオカミがこの場に存在しないかのようだった。
ミチはあらためて思った。
(砂森さんには本当に見えないんだ)
カゲイシオオカミがミチをうながした。
「進め、子ども」
ミチはとなりにいる快斗の腕を引くと砂森に声をかけた。
「砂森さん、快斗も紗ちゃんたちと一緒に」
「バカ、ミチ、お前なに言ってるんだ。おれミチと一緒に行くってば!」
「だめだ、危ないから」
「だからだろっ、ミチだけ危ない目に合うなんてもっとダメだよっ」
こんなときなのに、ミチは(快斗はいいやつだな)と思った。こんなときなので、それだけで泣きそうな気分になった。日常が一瞬で吹き飛ばされぐちゃぐちゃになり得体の知れないことに巻きこまれてしまったのに。
昨日の津江さんたちの話をきいていないぶん、快斗のほうがミチよりずっとわけがわからないはずだ。それなのにミチを心配している快斗。
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