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第5章 カゲイシオオカミの急襲
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「好機だとっ、なにをバカなっ」
「ちと人間が増えすぎだ。うるさいやつらめ、少しばかり数を減らしてもいい頃だ。もしあの赤い目もそれを望むのであれば、手を組んでやらぬこともない」
「そんなの、あいつに都合よく使われているだけだ」
ミチは思わず言った。
声がふるえた。墳のなかで赤い目と目を合わせたときもすごくこわかったが、そのときと同じくらい、このカゲイシオオカミと対峙するのもこわかった。
それでもミチは思わず言ってしまった。こわさよりも憤りが勝った。
外のイチョウやナナカマドウシのほうを見ていたカゲイシオオカミが、顔をミチへ向けた。ミチの足はいっそうふるえた。それでもミチは言った。口がひとりでに動いた。
「だってあなたが今動いたのは、あの赤い目が動きだしたからだ。そんなの、そんなのは、ただの便乗だ」
三頭のカゲイシオオカミが怒った気配をミチは感じた。すごく感じた。
とくに左右のやつらはグルルルル、と、おどかすようなうなり声をあげた。
だが、中央の一頭は沈黙したままだった。そいつはじっとミチを見つめた。ミチの心臓の鼓動がますます早くなった。壊れそうな勢いで鳴った。
ミチは思った。
(まんなかのがボスだ。きっとそうだ)
ボスだとあたりをつけたやつが、低くつぶやいた。
「子ども。ちっぽけで無力な子ども、ふん」
ミチのことを「ちっぽけで無力」というその言葉には、憎々しさが含まれていた。吐き捨てるような声だった。まるで、ミチが小さくて無力であることが罪状でもあるかのような口調だった。
ミチは体を固くした。
カゲイシオオカミはさらに口を開いたが、次に出たのは、意外な言葉だった。
「子ども、お前の目にはなぜ濁りがないのだ」
「え」
「となりの子どもは濁っている。当然だ。近ごろでは濁った目の子どもだけが、おれたちを見つける。だがお前はちがう。目になんの濁りもない。お前はあのアヤに会っていないのか。いや、だが、それならどうしておれたちを見ることができるのだ」
「ぼくは」
ミチは何を言えばいいのかわからなかった。ミチだって自分がどんな状態なのか、わからないのだ。カゲイシオオカミの疑問への答えはミチだって知らないのだ。
だが、一つだけはっきりわかることがある。
カゲイシオオカミはナナカマドウシやイチョウとはちがう。ミチを助けようとしているわけじゃない。むしろその逆のようだった。もしもカゲイシオオカミがその気になれば、ミチの体なんか、ひと噛みでミンチみたいにぐちゃぐちゃにできるはずだ。なんといってもこの三頭はあのナナカマドウシを傷つけることができるのだから。
カゲイシオオカミのボスが動いた。
ミチがアッと思う間もないほど速い動きだった。
そいつはミチに飛びかかった。ミチの体は床に押し倒された。強い圧迫感がミチを襲った。
「ミチッ」
快斗が叫んだ。
カゲイシオオカミの前足がミチの喉にのしかかった。ミチは声も出なかった。
のしかかっているのは四本の足のうちほんの一本なのに、それはひどく重かった。
ナナカマドウシの訴えが聞こえた。
「きみ、止してくれ。その子を傷つけないでほしい」
「ナナカマドウシ、言え、この子どもは何者だ」
「その子から離れてくれ」
「うすのろな貴様でもわかるだろう、ナナカマドウシ、おれがその気になれば人間の子の体など一瞬でつぶせる。それがいやなら答えろ。この子の目には濁りがないのになぜおれたちが見えるのだ、貴様は知っているのか」
つかのま、沈黙がおりた。
その一瞬はひどく長かった。
ミチには外にいるナナカマドウシのなにかが急激に減ったように感じた。ギュッと引きしぼられたような緊張がわずかにたわみ、たわんだ隙間に、緊張よりもっと重いものが入りこんだようだった。
ヒュウっと鳴りそこないの笛みたいな空気の流れが聞こえた。
ナナカマドウシの呼吸だ。
ナナカマドウシが言った。
「その子は――あのアヤの寄主になりかけている」
一瞬、ミチは息が止まったかと思った。ナナカマドウシの言葉がまるで焼きごてを押しつけたみたいに、おそろしく乱暴にミチの頭のなかへ侵入してきた。
寄主という言葉は昨日も聞いた。津江さんの口からだ。
そのときには自分がどんなアヤの寄主になりかけているのか、気づかなかった。
わかったとたん昨日気づかなかったことをひどく不自然に感じるくらい、あの話はこのことだった。
ミチは昨日の進一郎を思いだした。乱暴に津江さんの話を断ち切った様子を。
(進一郎さんは話を聞いてすぐ気づいたんだ)とミチは思った。
石の目――カゲイシオオカミの目がミチをじいっと見すえた。
カゲイシオオカミから興奮の気配がした。いやな興奮だった。黒光りする石の塊がさっきまでより高い声をあげた。
「くわしく話せ」
ミチの喉にかかった力がわずかに強くなった。ミチは手足をジタバタと動かしたがカゲイシオオカミの前足がミチの喉から外れる気配は、まったくなかった。
ナナカマドウシはカゲイシオオカミの求めに応じることにしたようだ。
「わかった」
という声が聞こえた。
ナナカマドウシの声がさっきより遠くから聞こえてくるように、ミチは感じた。
それに少しだけ疲れて聞こえた。
ナナカマドウシが話をはじめた。
「きみの見立てどおりだ。その子の目には濁りがない。だが、その子はまちがいなく墳のなかへ入り、あのアヤと目をあわせた。これはあのアヤにかかわった近頃の人の子のなかでは例がない」
「証拠はあるのか、この子どもの体にアヤは」
「私が昨日見たのは手の甲だった」
「子ども、手を出せ」
カゲイシオオカミがミチの喉にこめる力を強めた。いうことをきかなければ、このまま喉をつぶすつもりだろう、それも迷うことなくだ。ミチは仕方なく、手を掲げてみせた。さきほどビリッとした痛みの走ったほうの手だ。すると手からひじにかけて血がしたたり、ツウっと流れた。
(気がつかなかった、痛いわけだ)
そんな風に自分の手から血がたれているところなんか、ミチは初めて見た。だが、自分の体に起きていることなのに、どこか遠くで起きている出来事みたいに感じた。ナナカマドウシの言葉の衝撃が強すぎて、ケガのことに気が回らないのだ。
手についた傷とそこから流れた血は、だけど、あの赤くて丸いアザのようなものを消したりはしなかったようだ。
カゲイシオオカミの目つきが変化した。はっきりとなにかをみとめた目になった。カゲイシオオカミは低くうなるように言った。
「あのメギツネはこれをどう見ているのだ」
カゲイシオオカミがだれのことを『メギツネ』と呼んだのか、一瞬ミチにはわからなかった。だがナナカマドウシはすぐに察したようだ。
「津江さんの考えはこうだ。いくつか長い年月をかけて変化したものがある。一つは人間だ。アヤと交わる人間が子どもに限られるようになった。そして、それができる子どもの数も減っていった」
「ふん」
「もう一つは、墳に閉じこめられたアヤだ。あのアヤは長い時間をかけて少しずつ股肱を増やし、また同時にあのアヤ自身もゆっくりと力をたくわえた」
ミチにとっては昨日も聞いた話だった――そこまでは。
ナナカマドウシがヒュウっと呼吸をした。そしてつけ加えた。
「だが、変化したものは他にもある」
「ちと人間が増えすぎだ。うるさいやつらめ、少しばかり数を減らしてもいい頃だ。もしあの赤い目もそれを望むのであれば、手を組んでやらぬこともない」
「そんなの、あいつに都合よく使われているだけだ」
ミチは思わず言った。
声がふるえた。墳のなかで赤い目と目を合わせたときもすごくこわかったが、そのときと同じくらい、このカゲイシオオカミと対峙するのもこわかった。
それでもミチは思わず言ってしまった。こわさよりも憤りが勝った。
外のイチョウやナナカマドウシのほうを見ていたカゲイシオオカミが、顔をミチへ向けた。ミチの足はいっそうふるえた。それでもミチは言った。口がひとりでに動いた。
「だってあなたが今動いたのは、あの赤い目が動きだしたからだ。そんなの、そんなのは、ただの便乗だ」
三頭のカゲイシオオカミが怒った気配をミチは感じた。すごく感じた。
とくに左右のやつらはグルルルル、と、おどかすようなうなり声をあげた。
だが、中央の一頭は沈黙したままだった。そいつはじっとミチを見つめた。ミチの心臓の鼓動がますます早くなった。壊れそうな勢いで鳴った。
ミチは思った。
(まんなかのがボスだ。きっとそうだ)
ボスだとあたりをつけたやつが、低くつぶやいた。
「子ども。ちっぽけで無力な子ども、ふん」
ミチのことを「ちっぽけで無力」というその言葉には、憎々しさが含まれていた。吐き捨てるような声だった。まるで、ミチが小さくて無力であることが罪状でもあるかのような口調だった。
ミチは体を固くした。
カゲイシオオカミはさらに口を開いたが、次に出たのは、意外な言葉だった。
「子ども、お前の目にはなぜ濁りがないのだ」
「え」
「となりの子どもは濁っている。当然だ。近ごろでは濁った目の子どもだけが、おれたちを見つける。だがお前はちがう。目になんの濁りもない。お前はあのアヤに会っていないのか。いや、だが、それならどうしておれたちを見ることができるのだ」
「ぼくは」
ミチは何を言えばいいのかわからなかった。ミチだって自分がどんな状態なのか、わからないのだ。カゲイシオオカミの疑問への答えはミチだって知らないのだ。
だが、一つだけはっきりわかることがある。
カゲイシオオカミはナナカマドウシやイチョウとはちがう。ミチを助けようとしているわけじゃない。むしろその逆のようだった。もしもカゲイシオオカミがその気になれば、ミチの体なんか、ひと噛みでミンチみたいにぐちゃぐちゃにできるはずだ。なんといってもこの三頭はあのナナカマドウシを傷つけることができるのだから。
カゲイシオオカミのボスが動いた。
ミチがアッと思う間もないほど速い動きだった。
そいつはミチに飛びかかった。ミチの体は床に押し倒された。強い圧迫感がミチを襲った。
「ミチッ」
快斗が叫んだ。
カゲイシオオカミの前足がミチの喉にのしかかった。ミチは声も出なかった。
のしかかっているのは四本の足のうちほんの一本なのに、それはひどく重かった。
ナナカマドウシの訴えが聞こえた。
「きみ、止してくれ。その子を傷つけないでほしい」
「ナナカマドウシ、言え、この子どもは何者だ」
「その子から離れてくれ」
「うすのろな貴様でもわかるだろう、ナナカマドウシ、おれがその気になれば人間の子の体など一瞬でつぶせる。それがいやなら答えろ。この子の目には濁りがないのになぜおれたちが見えるのだ、貴様は知っているのか」
つかのま、沈黙がおりた。
その一瞬はひどく長かった。
ミチには外にいるナナカマドウシのなにかが急激に減ったように感じた。ギュッと引きしぼられたような緊張がわずかにたわみ、たわんだ隙間に、緊張よりもっと重いものが入りこんだようだった。
ヒュウっと鳴りそこないの笛みたいな空気の流れが聞こえた。
ナナカマドウシの呼吸だ。
ナナカマドウシが言った。
「その子は――あのアヤの寄主になりかけている」
一瞬、ミチは息が止まったかと思った。ナナカマドウシの言葉がまるで焼きごてを押しつけたみたいに、おそろしく乱暴にミチの頭のなかへ侵入してきた。
寄主という言葉は昨日も聞いた。津江さんの口からだ。
そのときには自分がどんなアヤの寄主になりかけているのか、気づかなかった。
わかったとたん昨日気づかなかったことをひどく不自然に感じるくらい、あの話はこのことだった。
ミチは昨日の進一郎を思いだした。乱暴に津江さんの話を断ち切った様子を。
(進一郎さんは話を聞いてすぐ気づいたんだ)とミチは思った。
石の目――カゲイシオオカミの目がミチをじいっと見すえた。
カゲイシオオカミから興奮の気配がした。いやな興奮だった。黒光りする石の塊がさっきまでより高い声をあげた。
「くわしく話せ」
ミチの喉にかかった力がわずかに強くなった。ミチは手足をジタバタと動かしたがカゲイシオオカミの前足がミチの喉から外れる気配は、まったくなかった。
ナナカマドウシはカゲイシオオカミの求めに応じることにしたようだ。
「わかった」
という声が聞こえた。
ナナカマドウシの声がさっきより遠くから聞こえてくるように、ミチは感じた。
それに少しだけ疲れて聞こえた。
ナナカマドウシが話をはじめた。
「きみの見立てどおりだ。その子の目には濁りがない。だが、その子はまちがいなく墳のなかへ入り、あのアヤと目をあわせた。これはあのアヤにかかわった近頃の人の子のなかでは例がない」
「証拠はあるのか、この子どもの体にアヤは」
「私が昨日見たのは手の甲だった」
「子ども、手を出せ」
カゲイシオオカミがミチの喉にこめる力を強めた。いうことをきかなければ、このまま喉をつぶすつもりだろう、それも迷うことなくだ。ミチは仕方なく、手を掲げてみせた。さきほどビリッとした痛みの走ったほうの手だ。すると手からひじにかけて血がしたたり、ツウっと流れた。
(気がつかなかった、痛いわけだ)
そんな風に自分の手から血がたれているところなんか、ミチは初めて見た。だが、自分の体に起きていることなのに、どこか遠くで起きている出来事みたいに感じた。ナナカマドウシの言葉の衝撃が強すぎて、ケガのことに気が回らないのだ。
手についた傷とそこから流れた血は、だけど、あの赤くて丸いアザのようなものを消したりはしなかったようだ。
カゲイシオオカミの目つきが変化した。はっきりとなにかをみとめた目になった。カゲイシオオカミは低くうなるように言った。
「あのメギツネはこれをどう見ているのだ」
カゲイシオオカミがだれのことを『メギツネ』と呼んだのか、一瞬ミチにはわからなかった。だがナナカマドウシはすぐに察したようだ。
「津江さんの考えはこうだ。いくつか長い年月をかけて変化したものがある。一つは人間だ。アヤと交わる人間が子どもに限られるようになった。そして、それができる子どもの数も減っていった」
「ふん」
「もう一つは、墳に閉じこめられたアヤだ。あのアヤは長い時間をかけて少しずつ股肱を増やし、また同時にあのアヤ自身もゆっくりと力をたくわえた」
ミチにとっては昨日も聞いた話だった――そこまでは。
ナナカマドウシがヒュウっと呼吸をした。そしてつけ加えた。
「だが、変化したものは他にもある」
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