ひごめの赤い石

紙川也

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第3章 障療院、そして二冊あった本

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 聖はミチが通った扉のすぐそばに手をかけていた。
 灯りのスイッチだ。

 聖がささやいた。
 ほんの小声だったけれど、声はミチと聖の二人きりの空間でよく聞こえた。

「 そ の ほ ん 」

 ミチはごくんと唾をのんだ。それからぎゅっと腹に力を入れた。
 聖はやわらかくほほえみ、それから言葉をつづけた。
「わたして」
「いやだ」
 こわくてたまらないくせに、やけにはっきりした声がミチの口から出た。
「たのまれたんだ」
「たのまれた」

「津江さんにたのまれた。だから聖くんには渡さない。ぼくはこの本を読む」

 言ったとたん、ミチはその言葉がすごく強い力を持っているように感じた。

 聖が目を細めた。ほんのわずか表情が変化しただけだが、それでも口で話す言葉よりはっきりと「気に入らない」という様子になった。

 聖が手をふった。

 聖の手が壁にめりこんだ。
 手がふれたところからざーっと壁が黒く変色していった。
 そしてあのにおいが立ちこめた。
「わたして」
「いやだ」
「そのほんをぼくにわたして。きみがみたことはだれにもいわないで。そうしたら」
 ボロリ、と壁がくずれた。
 ミチは顔をゆがめた。耐えがたい、とてもいやなにおい。オエっとえずきたくなるのをミチは必死でこらえた。
 吐き気がするにおい。
「きみのことをみのがしてあげる」
 聖の口がその言葉をすべて話しおえるより早く、ミチはくるっと聖に背を向けて走りだした。

 くずれた壁の向かい側には襖が並んでいた。
 さっきの御殿とくらべるとずいぶんこじんまりした建物のようだ。全速力で走るとあっという間に廊下の端にたどりついた。
 つきあたりに木の扉があった。ミチはそれを開けようとして、がくぜんとした。
 開かないのだ。ミチは必死になって手に力をこめたが扉はガタガタと鳴るばかりで閉じたままだ。よく見ると鍵穴がある。
(鍵が閉まってる)
 ミチはバッと顔をあげて襖を見た。一瞬、なかの部屋へ入って隠れようかと考えたのだ。だがすぐにミチは考え直した。
(だめだ、なかに入ったらきっとすぐつかまる。そこでおしまいだ。外へ出たほうがまだいい)
 ミチは次に窓を見た。
 窓の奥を見ると雨戸が閉めてあった。そのために暗かったのだ。
 聖の足音が聞こえる。
 ゆっくりした足音だった。歩いているんだ、とミチは気づいた。ミチがこれ以上、どこへも行けないと知っているのだ。ミチの額からぶわっと汗がふきだした。

 そのとき津江さんの顔がミチの頭をかすめた。
 ミチが生まれてはじめて見た真剣な顔。
(たのまれたんだ。)
 ぜったいやる、とミチは思った。

 ミチは窓をもう一度見た。
 木でできた窓枠に鍵がある。くすんだ金属の鍵だ。鍵穴ではないことにミチは気づいた。ねじの頭のようなものがぴょこんとサッシから飛びだしていた。
 ミチはそれにふれた。
 こねくりまわすとねじが回る感覚がミチの指に伝わってきた。そしてそのぶん木のサッシがほんのわずかにたわんだ。
 サッシとサッシのあいだにすきまが生じたのを、ミチの指先が感じた。
(動いたっ)
 ミチはそれを回した。はやく、と気がせいた。その間にも足音が近づいてくる。
 きゅ、きゅ、と音をたててねじがゆるんだ。ミチは古い木のサッシに手をかけた。窓が開いた。
 ミチは今度は雨戸に手をかけた。雨戸はガタガタと鳴った。おおいそぎで雨戸に上から下まで視線を走らせ、窓とおなじようにねじのような鍵があるのを見つけた。
 ミチはそれも回した。
 鍵がゆるんだ瞬間、ミチはもう一度雨戸に手をかけた。
 ガラッと大きな音がして雨戸が開いた。外の光りが廊下に入りこんできた。

 もう日が傾いている。
 ミチは外へ飛びだした。

 着地したとたん足のうらに体重がかかって衝撃を感じた。にぶい痛みが足のうらをジンっとおそった。なにしろ靴がなくて、靴下を履いているだけなのだ。
 その靴下があっという間にしめった。昨日とおなじだ。でも昨日以上にそんなことへ気をつかう余裕なんてミチにはなかった。
 ミチの左手に御殿の建物が見えた。渡ってきた廊下もだ。
 二番御殿の二階とミチがいま出た小さな建物の一階がつながっているのが見えた。この小さな建物は山の斜面に建っているので、御殿よりも高いところに床があるのだ。
 ミチは走った。
 足に草が引っかかった。下は土だ。靴下があっというまに地面のしめりけを吸って足の先に冷たさが伝わった。
 ミチの顔に木の葉が落ちてきた。赤い紅葉だ。ミチはそれを手で払った。
 ザザ、と木の葉がゆれる音がした。ザザ、ザザ。
 そのたびに赤く色づいた木の葉が落ちてくる。

 背後から声が聞こえた。
「まちなよ」

 その声を聞いたとたん一瞬でミチの体じゅうの肌にザーッと鳥肌が立った。
 聖だ。

「そのほんをわたして。」

 ぜったい渡さない、とふたたびミチは思った。
 聖が渡せというならなおさら渡してはいけないのだ。
 走るスピードをさらにあげようとして、しかしつぎの瞬間ミチの足が止まった。

 かわいた木の葉がミチの顔に落ちてくる。
 一枚、またすぐに一枚。小さな小さな葉だ。
 紅葉した木がゆれている。

(木、これ木なのか。いや、ちがう――)
 赤い木の葉、木の枝、植物のつる、そんなものがたくさん絡まった大きなかたまりのなかに、二つの空洞が見えた。
 うろのなかはまっくらだ。
 ミチは息をのんだ。
(目だ、さっきの)

 そこに、大きなものがいた。
 洞の目がミチを見ていた。

 ガサっとひときわ大きな音がして、木の葉がふりそそぐように一斉に落ちてきた。ミチはそいつを見あげた。
 かたちは、四つ足の動物に見えた。牛とか、そういう動物。でも木のかたまりだ。絡みあった蔓や枝でできているのだ。だから植物かもしれない。でなければ動物とも植物ともちがう何者かだ。
 大きい。大きいなんてものじゃなかった。三階建ての家ほどもあるような木のかたまりだ。動いていることに気づかなければただの森にしか見えない。
 そいつが足を動かした。一歩進むとズシンと地面が大きくゆれた。そのたびに赤い木の葉がふってくる。ほんの一歩でミチのすぐ目の前にそいつが来た。
 そいつは前足を曲げた。また木の葉がふってミチの顔にあたった。そいつの大きな洞の目がミチを見ていた。
 そしてそいつは口をあけた。
 洞の目よりさらにおおきな洞が、ふたつの目の下に発生した。

(ぼくを食べる気だ)
 とっさにミチはそう思った。

 息をのんだその瞬間、ミチのそでに、ふれる何者かの気配を感じた。
 聖の手だ。
 それに気づくか気づかないかの一瞬でミチは走った。
 立ち止まったままでは聖につかまる。でも前へ進めば――おおきな洞の口がミチの目の前にあった。聖と大きな洞の口、どちらがましか。
 ミチはすぐさま決めた。考える前に決めた。ミチは洞の口のなかへ飛びこんだ。
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