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第3章 障療院、そして二冊あった本
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「早い子なら中学一年生のころ、遅くても高校生になるころには、幻覚が消えます。目の色もふつうにもどります。瞳孔、つまり黒目の部分がはっきりしてくる」
砂森は説明をつづけた。
「実はミチ君がその年ではじめて見るのはめずらしいです。それに赤ちゃんや幼稚園児くらいの子も見ない。みれちゃんのように一年生くらいからという子がほとんどでそして、ゆっくり消えていきます」
そのとき、扉をへだてたとなりから声がした。
「こんにちはーっ」
複数の声、子どもの声だ。砂森が立ちあがった。
「北小の子たちが到着したね。みんな学習室に移動してください」
「はい」
「はーい」
紗とみれが返事をした。砂森を先頭に、三人とも扉の向こうへ歩いていく。
砂森が振りむいて気づかわしげな顔でミチに声をかけた。
「ミチくん、ゆっくりでいいよ。無理しないでください」
カラカラ、と木の扉が開いてまたすぐに閉められた。
ミチはただ黙ってそれを見つめた。
扉の向こうで声が聞こえる。すぐ近くでする声なのに、やけに遠くから聞こえた。声の一つ一つが毛布かなにかで包まれているみたいに、ぼんやりしている。
「なぜ」とか「どうして」という疑問は、なにか一つわからないときに出てくる言葉なのだと、ミチは気づいた。
なにもかも、すべてがわからないときには、そんな言葉さえ出てこない。
ミチは長机に両手をついて自分の腕を見た。手首とひじの間がヒリヒリと痛んだ。パーカーの袖を反対の手でずりあげると、ひとすじの赤くて細い傷が出てきた。
あの鳥のくちばしがかすめた傷だ。ミサイルみたいに飛んできた鳥。
ミチは後ろを振りかえった。閉じた窓の向こうへ視線を投げた。
そこには色づきかけた低い山と、その向こうに広がる空が見えた。
鳥はどこにもいなかった。
ミチは足元へ視線を落とした。そして気づいた。
黄色いものが落ちていた。
(そうだ、羽毛。黄色い鳥の体から抜け落ちた。あの鳥たちがここに来た証拠だ)
ミチはいそいでそれを拾いあげた。
だけどそれは羽毛ではなかった。
色づいた銀杏の葉だった。
ミチはまたたきをした。目をこらして何度もそれを見た。
まちがいなく銀杏の葉だ。
ミチはぐっと眉毛に力を入れて、声を出した。
「ちがう、ほんものだった。ぼくをつついた。幻覚じゃない」
そして、さっきの自分がバカみたいに砂森や紗の言葉をくりかえしつづけた理由に気づいた。ミチの本当に言いたかったことが、砂森の話したことの正反対だったにもかかわらず、そのことをミチだって信じたくないのだ。
津江さんの言葉がフッとうかんだ。
『お前さまは何を信じるのかえ』
信じるってなんだろう、とミチは思った。
ミチは黄色い鳥をたしかに見た。みれが赤いマジックペンで書いたなにかを細かくひきちぎるのを見た。ミチに向かって飛んできたのを見た。
見た、見た、見た。それと『信じる』のとなにがちがうのだろう、と考えた。
考えたけどまとまらなかった。頭がうまく動かない感じだった。さっき見た光景や津江さんの言葉がくり返し浮かぶばかりだった。
しばらくしたあとミチはあきらめてとなりの部屋へ向かった。
二冊の本を手にして。
学習室では三本の長机に七人の子どもが座っていた。
聖はいない。となりの遊戯室でまだ眠っているのだろうか。ミチは聖のことが気になって仕方なかった。この部屋にいないのに、この部屋にいるだれより気になる。
この場にいるなかでは、ミチが見たところ、みれがいちばん小さくて紗がいちばん大きい。それぞれ鉛筆を片手にノートを開いていた。
カリカリ、と鉛筆を走らせる音や、カサ、とページをめくる音がする。
両手をあげてのびをする男子が見えた。快斗だ。
「快斗くん、ほら、はじめてください」
砂森が快斗をうながすと、快斗はしぶしぶといったようすで漢字ドリルを開いた。そして鉛筆を走らせながら、歌いはじめた。
「かなしかったらーなーいていいー、つらかったらーなやんでいいー、くるしかったらーしんこきゅうー、ぜんぶーいきてるしょうこだからー」
アクションヒーローが主役のアニメの主題歌だ。
だいぶ調子外れだが快斗はまったく気にしていないようだ。
「そんなきーみをーたすけにいくー、かならずいくよー、だってそれがヒーローだからー。いっしょにすすもうー。あといっぽだけまえへすすもうー」
「快斗くん、宿題はしずかにやってください」
砂森が注意したが、どうも真剣に叱れないようだ。
笑いをこらえるような顔だった。
快斗は頭をかいた。
「おれ、歌いながら書くほうが集中できるよ。ねえねえ、昨日のゼンオウガーかっこよかったよ砂森さん。おれもああいう風になりたい」
「うん、なれるといいね。でもいまは、しずかにね」
ミチは自分にいちばん近い位置の椅子を、大きな音をたてないように注意しながら引いた。それから二冊の本を重ねて机のうえに置いた。
ななめ向かいにみれが座っている。みれは、またしても赤いマジックペンをにぎりしめていた。
左手だ、とミチは気づいた。
みれがふっと頭をあげた。ミチとみれの目があう。みれが声を出さずに、唇だけを動かした。なにが言いたいのかわからずにミチは首をかしげた。するとみれが、赤いマジックペンを紙に走らせた。きゅきゅきゅっと音がする。
みれがその紙をミチに寄こした。
『ねがいごとをあかいじでかく』
願いごとを赤い字で書く。
ミチはもう一度みれを見た。
みれはこくんとうなずき、そしてミチの手元の本をゆびさした。みれはさっと横を向いて、砂森がべつの子どもの宿題をみていることをたしかめると、ミチに向かって体をのばし、小声でささやいた。
「その本に出てくるの」
「出てくるって、なにが」
ミチもささやき声でたずねた。
みれがとてもまじめな顔をしてささやいた。
たいせつな打ちあけ話をするようなようすで。
「観音さま」
ミチがみれの顔をまじまじと見つめると、みれはこくんとうなずいた。ミチは本を開いた。さきほど砂森に手渡された本、表紙に女の絵が描かれたほうの本だ。
目次を見ると、十本ほどのタイトルが書いてある。
ミチは一番目の話を読んだ。
砂森は説明をつづけた。
「実はミチ君がその年ではじめて見るのはめずらしいです。それに赤ちゃんや幼稚園児くらいの子も見ない。みれちゃんのように一年生くらいからという子がほとんどでそして、ゆっくり消えていきます」
そのとき、扉をへだてたとなりから声がした。
「こんにちはーっ」
複数の声、子どもの声だ。砂森が立ちあがった。
「北小の子たちが到着したね。みんな学習室に移動してください」
「はい」
「はーい」
紗とみれが返事をした。砂森を先頭に、三人とも扉の向こうへ歩いていく。
砂森が振りむいて気づかわしげな顔でミチに声をかけた。
「ミチくん、ゆっくりでいいよ。無理しないでください」
カラカラ、と木の扉が開いてまたすぐに閉められた。
ミチはただ黙ってそれを見つめた。
扉の向こうで声が聞こえる。すぐ近くでする声なのに、やけに遠くから聞こえた。声の一つ一つが毛布かなにかで包まれているみたいに、ぼんやりしている。
「なぜ」とか「どうして」という疑問は、なにか一つわからないときに出てくる言葉なのだと、ミチは気づいた。
なにもかも、すべてがわからないときには、そんな言葉さえ出てこない。
ミチは長机に両手をついて自分の腕を見た。手首とひじの間がヒリヒリと痛んだ。パーカーの袖を反対の手でずりあげると、ひとすじの赤くて細い傷が出てきた。
あの鳥のくちばしがかすめた傷だ。ミサイルみたいに飛んできた鳥。
ミチは後ろを振りかえった。閉じた窓の向こうへ視線を投げた。
そこには色づきかけた低い山と、その向こうに広がる空が見えた。
鳥はどこにもいなかった。
ミチは足元へ視線を落とした。そして気づいた。
黄色いものが落ちていた。
(そうだ、羽毛。黄色い鳥の体から抜け落ちた。あの鳥たちがここに来た証拠だ)
ミチはいそいでそれを拾いあげた。
だけどそれは羽毛ではなかった。
色づいた銀杏の葉だった。
ミチはまたたきをした。目をこらして何度もそれを見た。
まちがいなく銀杏の葉だ。
ミチはぐっと眉毛に力を入れて、声を出した。
「ちがう、ほんものだった。ぼくをつついた。幻覚じゃない」
そして、さっきの自分がバカみたいに砂森や紗の言葉をくりかえしつづけた理由に気づいた。ミチの本当に言いたかったことが、砂森の話したことの正反対だったにもかかわらず、そのことをミチだって信じたくないのだ。
津江さんの言葉がフッとうかんだ。
『お前さまは何を信じるのかえ』
信じるってなんだろう、とミチは思った。
ミチは黄色い鳥をたしかに見た。みれが赤いマジックペンで書いたなにかを細かくひきちぎるのを見た。ミチに向かって飛んできたのを見た。
見た、見た、見た。それと『信じる』のとなにがちがうのだろう、と考えた。
考えたけどまとまらなかった。頭がうまく動かない感じだった。さっき見た光景や津江さんの言葉がくり返し浮かぶばかりだった。
しばらくしたあとミチはあきらめてとなりの部屋へ向かった。
二冊の本を手にして。
学習室では三本の長机に七人の子どもが座っていた。
聖はいない。となりの遊戯室でまだ眠っているのだろうか。ミチは聖のことが気になって仕方なかった。この部屋にいないのに、この部屋にいるだれより気になる。
この場にいるなかでは、ミチが見たところ、みれがいちばん小さくて紗がいちばん大きい。それぞれ鉛筆を片手にノートを開いていた。
カリカリ、と鉛筆を走らせる音や、カサ、とページをめくる音がする。
両手をあげてのびをする男子が見えた。快斗だ。
「快斗くん、ほら、はじめてください」
砂森が快斗をうながすと、快斗はしぶしぶといったようすで漢字ドリルを開いた。そして鉛筆を走らせながら、歌いはじめた。
「かなしかったらーなーいていいー、つらかったらーなやんでいいー、くるしかったらーしんこきゅうー、ぜんぶーいきてるしょうこだからー」
アクションヒーローが主役のアニメの主題歌だ。
だいぶ調子外れだが快斗はまったく気にしていないようだ。
「そんなきーみをーたすけにいくー、かならずいくよー、だってそれがヒーローだからー。いっしょにすすもうー。あといっぽだけまえへすすもうー」
「快斗くん、宿題はしずかにやってください」
砂森が注意したが、どうも真剣に叱れないようだ。
笑いをこらえるような顔だった。
快斗は頭をかいた。
「おれ、歌いながら書くほうが集中できるよ。ねえねえ、昨日のゼンオウガーかっこよかったよ砂森さん。おれもああいう風になりたい」
「うん、なれるといいね。でもいまは、しずかにね」
ミチは自分にいちばん近い位置の椅子を、大きな音をたてないように注意しながら引いた。それから二冊の本を重ねて机のうえに置いた。
ななめ向かいにみれが座っている。みれは、またしても赤いマジックペンをにぎりしめていた。
左手だ、とミチは気づいた。
みれがふっと頭をあげた。ミチとみれの目があう。みれが声を出さずに、唇だけを動かした。なにが言いたいのかわからずにミチは首をかしげた。するとみれが、赤いマジックペンを紙に走らせた。きゅきゅきゅっと音がする。
みれがその紙をミチに寄こした。
『ねがいごとをあかいじでかく』
願いごとを赤い字で書く。
ミチはもう一度みれを見た。
みれはこくんとうなずき、そしてミチの手元の本をゆびさした。みれはさっと横を向いて、砂森がべつの子どもの宿題をみていることをたしかめると、ミチに向かって体をのばし、小声でささやいた。
「その本に出てくるの」
「出てくるって、なにが」
ミチもささやき声でたずねた。
みれがとてもまじめな顔をしてささやいた。
たいせつな打ちあけ話をするようなようすで。
「観音さま」
ミチがみれの顔をまじまじと見つめると、みれはこくんとうなずいた。ミチは本を開いた。さきほど砂森に手渡された本、表紙に女の絵が描かれたほうの本だ。
目次を見ると、十本ほどのタイトルが書いてある。
ミチは一番目の話を読んだ。
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