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第二章 中宮殿

一ノ巻ー気がかり①

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 私は怪我がよくなってすぐにお忍びで静姫のところへお伺いした。急にお客様がお見えになったとかで、女房達の控えの間でしばらく待たされた。

 半時ほど過ぎてすっかり日が陰ってしまったころ、志津さんが入ってきた。私の顔を見て、嬉しそうに笑った。

「ああ、夕月さん。元気になったんですね。姫様の為にあの時は本当にありがとう。相談してくれたら私も何かしましたのに、夕月さんひとりですべてのことをお引き受けになるからこんなことになるんですよ。本当にあなたったらもう……姫様もそれはご心配されて……」

「ええ、お見舞いもたくさんいただいて……ありがとうございました」

「いいえ、あなたが姫様の代わりに邪気を受けてくださったからこそ、姫様はあの縁談から逃れることができ、無傷でおられるのです。どれだけ感謝してもし足りないと仰せでした」

「そんな……お役に立てて何よりでした」

「さあ、大分お待たせしましたね。姫様がお待ちです」

 立ち上がり、女房の控室を出たところで、裳を付けている亀甲、青色の唐衣をまとった女房とすれ違った。二度見してしまう。間違いない。清涼殿の上臈女房だ。その後ろをついていく文箱を持ったの童がいる。私はびっくりした。

 彼女は人間じゃない、あやかしだ。私でもわかる。あたりが暗くなり、あやかしの力が強くなる時分。こんな私でも視えた。お日様の出ている時間ではわからなかっただろう。今来て良かった。

 すれ違いざまに振り向くと、彼女の周りにモヤモヤしたものが視える。歩き方に特徴がある。しっぽがあるので歩くとお尻がゆらゆらしているのだ。この耳としっぽは白藤と一緒だ。ということは間違いなく狐のあやかしだ。どうしよう。清涼殿の女房についている女の童があやかしだなんて……。

「どうしました、夕月さん」

 足が止まり、すれ違った御殿女房に目を奪われている私を見て、くすっと笑った志津さんは言う。

「ああ、清涼殿の中宮様のところからお使いが姫様のところに来ていたのです。それであなたをお待たせしてしまったのですよ」

「あの……中宮様の?」

「そうです。中宮様は姫様の伯母上様ですので、不思議ではありませんよ」

「……はい」

 私はとりあえず、姫様にお目にかかってからにしようと決めた。

 御簾をくぐる。目の前には懐かしい調度品。そして部屋には姫様のお好きな香りが薫る。姫様の衣擦れの音がした。一枚几帳を隔てて座った。

「夕月。何をそんなところにいるの?他人じゃないのよ。早く中にお入りなさい」

「姫様。今はおつきのものではございません。しきたりを……」

「……夕月。叱られたいの?私がいいと言っているのよ」

「……はい。わかりました。それでは失礼いたします」

 私は目の前の几帳をめくり、そうっと中に入った。頭を下げたまま姫様にご挨拶をした。

「静姫様。ご無沙汰しております。その際はたくさんのお見舞いの品を頂き、誠にありがとうございました」

「顔を御上げなさい」

 顔をそうっと上げると、目の前にはあの頃よりずっと美しくなった姫様がいた。

 思えばあの頃は、意に添わぬ縁談とそれに伴う恐れが姫様のお顔を常に暗くしていた。それがなくなり、本来の静姫様ご自身の明るさや美しさが前面に現れている。目を見張るほどのお美しさだ。兄上がこれをご覧になったら離れられないだろう。

「夕月。本当にありがとう。あなたのおかげで私はあの縁談もなくなり、こうやって心穏やかな毎日を過ごせるようになりました。感謝してもしきれない。でもそのせいであなたに怪我をさせてしまった。本当にごめんなさい」

「とんでもありません。怪我は自分の見識の甘さ故です。それにあの場に晴孝様がいらっしゃらなければ、私はどうなっていたか……あの時、晴孝様を女房に仕立てて部屋へ入れてくださった姫様のおかげで命があるのです」

「晴孝は血だらけのあなたを抱えて出てくるなり、蒼白になってあなたの名前を呼び続けていたわ。私は弟のそんな姿見たことがなくて、驚いて気を失ってしまったの。何もしていないのに情けないわよね」

「そんな……姫様をお守りするのが私のお役目でした。お気になさることはございません」

「何を言っているの!兼近様にとってあなたは唯一の家族で妹。私にとっても大切な友よ。自分を軽く考えるのはおやめなさい。いいですね。今後もあんな無茶は私が許しませんよ」

「姫様。私を友などと、恐れ多い……」

「そして、あなたは晴孝にとっても特別だとよくわかりました」

 私はびっくりして顔を上げた。そこには扇子を口元に当て、ほほ笑みをたたえた姫様がいる。

「それは、その……晴孝様はあの場におられたので心配をかけてしまっただけでございます」

「何をごまかしているの。聞いているわよ。晴孝があなたに文を送るようになったとか……」

「それはその、時候のご挨拶など……歌は頂いておりません」

「うふふ。歌はあの子苦手ですからね。それもあって女性を遠ざけていましたけど、あなたとは歌なしでも文をやり取りできると嬉しそうにこの間も話していました。そしてあなたになかなか会わせてもらえないと愚痴を申しておりましたよ」
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