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36.失われる大切なもの
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俺の携帯が突然鳴り響きだしていた。
ふと目をやると着信は母さんからだった。母さんが外から電話をかけてくるなんて珍しいなと思いながら、俺は電話にでる。
「もしもし。母さんどうし」
『隆史! 隆史!』
俺が喋る途中で母は慌てた声で俺の名前を呼んでいた。
『どうしよう……どうしよう……!? どうしたらいいの!?』
母は混乱しきった声でどうしようとだけ繰り返していた。
「母さん、落ち着いて。俺だけど。どうしたの」
『結依……結依が……』
電話ごしに結依の名前を呼んでいるようだった。
そういえば今日は駅前商店街の方に母さんと結依がでかけるって言っていたけれど。
俺の心の中に何か冷たいものが走る。
この先は訊いてはいけない。そんな気がしていた。
だけど訊かない訳にはいかない。俺は震える声で母にたずねる。
「結依が……どうしたんだよ」
『結依が……結依が……車にひかれて……ああ……』
母が何とか絞り出した声に、俺は思わずスマホを地面に落としていた。
同時にフェルが絞り出すような声でつぶやいていた。
『因果が再構成されて、穂花は事故に遭う事がなくなった。だけどね。三日戻した事によって失われる大切なものは、結依だったってこと』
その言葉に俺は声にはならない悲鳴をどこまでも上げ続けていた。
誰にも聞こえない叫び声は、だけど俺の中では天まですら届くような声だった。
「はは……なんだよ……。穂花の代わりに失われるのは結依だっていうのか。なんだよ。穂花を救うためなら何だってする。何が失われてもいいとは確かに思ったさ。だけどその代わりに誰か死んでもいいってことじゃないんだ……」
誰に話しかける訳でも無く、俺は一人でつぶやいていた。
フェルは神妙な面持ちで、ただそのつぶやきをきいていたようだった。
穂花は救われた。だけど代わりに結依が死ぬんじゃ意味がないだろ。
どうすればいいんだよ。どうすれば。
「なんだよ……なんなんだよ……。もし神様なんてものがこの世にいるんだとしたら、どれだけ残酷な奴なんだよ」
いもしない神様にでも文句を言わずにはいられなかった。
大切なものを無くしてしまう。確かにフェルはそう言った。
だけど三十分戻す事によって失われるものが消しゴムだったから、俺は失われるものが物品だと思い込んでいた。
だけどそうじゃなかった。
確かに結依は俺にとって大切だ。大事な妹だ。
穂花とどちらが大切かなんて比べるようなものじゃないんだよ。どっちも大切なんだ。神様はそれをどちらがより大切か選べというのか。
この選択も間違いだった。
だけど正しい選択なんてあり得るのか。ろくでもない神様は、俺が間違えるのをみて楽しんでやがるんじゃないか。だから正解なんてどこにも残されていないんじゃないか。
どうしたらいいのか、もうわからなかった。
再び三日戻して、やりなおすしかないのか。だけどそうした時に失われるものを正しく選ぶ事が出来るわけではない。穂花も結依も失わずに済む方法なんて有り得るのだろうか。
どちらも失う訳にはいなかった。
だけど時間を戻せば大切なものを失ってしまう。三日戻さなかったとしたら穂花は命を失ってしまう。だから時間を戻さない選択肢はありえなかった。だけどもういちど繰り返して、結依を失わずに済むのだとしたら、今度は無くすのは母さんか、父さんか。失われるものは戻した時間の総量に比例するとフェルは告げていた。なら同じくらいの時間を戻して失われる大切なものといえば、結依じゃなければ後は家族くらいしかあり得ないだろう。
しかしそれを失わなければ穂花を失う。
いま三日戻している間に三十分戻したとしたら、それはどの時間に戻るのだろうか。三日戻した後の三十分なのか、それとも最初の時間の三十分前なのだろうか。考えてみるけれど、どちらにしても穂花を失う選択肢はあり得なかった。
だとすれば結依を失うしかないのか。
俺にとってもう打つ手はなかった。
穂花かそれとも結依か。俺はそのどちらを失わずにいるかを選ぶしかないのかもしれない。
それも以前にフェルが言っていたように、全く同じ時間を繰り返す事なんて出来ない。だからどちらかを選ぶ事すら出来ないかもしれない。両方を失ってしまう事だってあるのかもしれない。
だとしたら少なくとも穂花だけは救われたこの時間を選ぶべきなのだろうか。
そこまで考えて、自分の考えに吐き気がもよおしてきていた。
そもそも誰が死ぬかを選ぶなんて、俺は何様のつもりなんだ。俺は神様にでもなったつもりなのか。
穂花を救うために時間を戻した時にフェルが言っていた。それは神様の領域だって。
俺はそれでも時間を戻すと決めた。
だけど本当は全くわかっちゃいなかったのだ。神様の領域に触れる事がどういう意味なのかって。誰が死んで誰が死なないのかなんて、俺に選べるはずもなかったんだ。俺は神様じゃないのだから、そんな覚悟なんて出来ちゃいなかったんだ。
結依が。どうして失われてしまうのか。どうして結依なんだ。どうして。
もう俺には何かを無くす選択肢なんて選べそうもなかった。
人の死を選ぶ権利なんて俺にはない。俺はそんな責任なんてとれなかった。
俺にはそんな事の出来る強さなんて持ち合わせていなかった。
その場に崩れ落ちて、両手で頭を抱え込んだ。
あまりに強く頭を握ったために、本当は痛みを覚えていたはずだけれど、その時は全く何も感じなかった。
ただ壊れてしまった時間に俺はただ恐れのいていただけだ。
自分が時間を巻き戻してしまった事で起きた事に、覚悟が足りていなかった。
もうこれ以上に時間を戻して穂花や結依が死ぬところをみる決心なんて出来なかった。
三日戻したところで、結依や両親が失われるのであれば、もうこのまま時間を過ごしていくしかないのかもしれない。でも結依が失われていいなんて事ではなくて、取り返しのつかない事をしてしまった後悔に、ただこれ以上新しい選択に身を任せる事は出来そうにもないだけだ。
だけどこのままでいいとも思えなかった。
結依は自分に出来る事なら何でもするからと言ってくれていた。澄ました態度でいたけれど、内心ではとても嬉しく思っていた。だけど結依が告げていたのは、穂花と俺のために命を失ってもいいという事じゃないだろ。俺だってそんなことは求めちゃいない。
結依との約束はこんな意味じゃないはずだった。だから取り返さなきゃいけない。
でもどうすればいい。どうしたらいい。誰か教えてくれ。誰か。
誰か。誰か。
心の中で叫び続ける。だけどその言葉をきいているのは、俺自身しかいなかった。
俺自身しか。
そこまで考えて、俺ははっとして立ち上がる。それから何とか落ち着かせようと呼吸を整えると、フェルに向けて、ゆっくりと訊ねる。
「失われる大切なものは基本的に戻した時間の総量によって変わる。そして時間を戻せば戻すほど、より大切なものが失われる。そうだったよな」
『そうね。そのとおりだけど』
フェルは急に俺が問いかけ始めたのに、訝しげな目を向けてくる。
「ならフェル。六日戻せるか。穂花と一緒に買い物に向かったあの日に」
『……戻せるけど、どうして。穂花の事故の因果の始まりはやっぱりあの日にあったから、それ以上戻すのは意味がないよ』
フェルは不思議そうな顔で答える。
確かに穂花を救うには意味がないだろう。だけど結依を失わないためには意味がある。意味があると思った。
「三日戻して失われるものが家族なんだとしたら、六日戻した時に失われるのは何かって考えた時、思いついたのは一つしかない。俺にとって家族よりも大事なものといったら、もう俺自身しかないと思う。だから穂花も結依も失わないためには、それ以上に遡るしかないって思うから」
俺自身が失われてもいい。それで穂花や結依が助かるのなら。
幸い大切なものが失われるのは、戻した時間を過ぎた後だ。穂花や結依が助かるのを見届けることができる。
フェルは何を考えているのか、俺の顔をじっと見つめていた。
俺の考えを図りかねているのだろうか。
『たかしはそれでいいの? ほのかとゆいを救うために自分がいなくなる。それでいいの?』
フェルはえんぴつ削りの上に立ち上がって、それから俺と目線を合わせる。
まっすぐな目はまるで俺に覚悟を問うているようだった。
「ああ、それでいい」
俺はうなづく。
それ以外に俺に出来る事はもうなかった。
しばらくの間、フェルはまっすぐに俺を見ていた。そして大きく息を吐き出すと、羽根をのばして宙にまって、俺の頭の上に留まっていた。
『ね、たかし。私と出会った日のこと、覚えてる?』
フェルの突然の問いに面食らうものの、もちろんはっきりと思い出せる。
どうしてそんな事を訊くのかわからなかけれど、俺はだからフェルに答える。
「ああ、覚えているよ」
『あの時のこと、私は本当に感謝してる。たかしのためなら、私は力を振るってもいいと思ったの』
フェルの言葉にあの時の事を思い出す。
あの時のことを。
ふと目をやると着信は母さんからだった。母さんが外から電話をかけてくるなんて珍しいなと思いながら、俺は電話にでる。
「もしもし。母さんどうし」
『隆史! 隆史!』
俺が喋る途中で母は慌てた声で俺の名前を呼んでいた。
『どうしよう……どうしよう……!? どうしたらいいの!?』
母は混乱しきった声でどうしようとだけ繰り返していた。
「母さん、落ち着いて。俺だけど。どうしたの」
『結依……結依が……』
電話ごしに結依の名前を呼んでいるようだった。
そういえば今日は駅前商店街の方に母さんと結依がでかけるって言っていたけれど。
俺の心の中に何か冷たいものが走る。
この先は訊いてはいけない。そんな気がしていた。
だけど訊かない訳にはいかない。俺は震える声で母にたずねる。
「結依が……どうしたんだよ」
『結依が……結依が……車にひかれて……ああ……』
母が何とか絞り出した声に、俺は思わずスマホを地面に落としていた。
同時にフェルが絞り出すような声でつぶやいていた。
『因果が再構成されて、穂花は事故に遭う事がなくなった。だけどね。三日戻した事によって失われる大切なものは、結依だったってこと』
その言葉に俺は声にはならない悲鳴をどこまでも上げ続けていた。
誰にも聞こえない叫び声は、だけど俺の中では天まですら届くような声だった。
「はは……なんだよ……。穂花の代わりに失われるのは結依だっていうのか。なんだよ。穂花を救うためなら何だってする。何が失われてもいいとは確かに思ったさ。だけどその代わりに誰か死んでもいいってことじゃないんだ……」
誰に話しかける訳でも無く、俺は一人でつぶやいていた。
フェルは神妙な面持ちで、ただそのつぶやきをきいていたようだった。
穂花は救われた。だけど代わりに結依が死ぬんじゃ意味がないだろ。
どうすればいいんだよ。どうすれば。
「なんだよ……なんなんだよ……。もし神様なんてものがこの世にいるんだとしたら、どれだけ残酷な奴なんだよ」
いもしない神様にでも文句を言わずにはいられなかった。
大切なものを無くしてしまう。確かにフェルはそう言った。
だけど三十分戻す事によって失われるものが消しゴムだったから、俺は失われるものが物品だと思い込んでいた。
だけどそうじゃなかった。
確かに結依は俺にとって大切だ。大事な妹だ。
穂花とどちらが大切かなんて比べるようなものじゃないんだよ。どっちも大切なんだ。神様はそれをどちらがより大切か選べというのか。
この選択も間違いだった。
だけど正しい選択なんてあり得るのか。ろくでもない神様は、俺が間違えるのをみて楽しんでやがるんじゃないか。だから正解なんてどこにも残されていないんじゃないか。
どうしたらいいのか、もうわからなかった。
再び三日戻して、やりなおすしかないのか。だけどそうした時に失われるものを正しく選ぶ事が出来るわけではない。穂花も結依も失わずに済む方法なんて有り得るのだろうか。
どちらも失う訳にはいなかった。
だけど時間を戻せば大切なものを失ってしまう。三日戻さなかったとしたら穂花は命を失ってしまう。だから時間を戻さない選択肢はありえなかった。だけどもういちど繰り返して、結依を失わずに済むのだとしたら、今度は無くすのは母さんか、父さんか。失われるものは戻した時間の総量に比例するとフェルは告げていた。なら同じくらいの時間を戻して失われる大切なものといえば、結依じゃなければ後は家族くらいしかあり得ないだろう。
しかしそれを失わなければ穂花を失う。
いま三日戻している間に三十分戻したとしたら、それはどの時間に戻るのだろうか。三日戻した後の三十分なのか、それとも最初の時間の三十分前なのだろうか。考えてみるけれど、どちらにしても穂花を失う選択肢はあり得なかった。
だとすれば結依を失うしかないのか。
俺にとってもう打つ手はなかった。
穂花かそれとも結依か。俺はそのどちらを失わずにいるかを選ぶしかないのかもしれない。
それも以前にフェルが言っていたように、全く同じ時間を繰り返す事なんて出来ない。だからどちらかを選ぶ事すら出来ないかもしれない。両方を失ってしまう事だってあるのかもしれない。
だとしたら少なくとも穂花だけは救われたこの時間を選ぶべきなのだろうか。
そこまで考えて、自分の考えに吐き気がもよおしてきていた。
そもそも誰が死ぬかを選ぶなんて、俺は何様のつもりなんだ。俺は神様にでもなったつもりなのか。
穂花を救うために時間を戻した時にフェルが言っていた。それは神様の領域だって。
俺はそれでも時間を戻すと決めた。
だけど本当は全くわかっちゃいなかったのだ。神様の領域に触れる事がどういう意味なのかって。誰が死んで誰が死なないのかなんて、俺に選べるはずもなかったんだ。俺は神様じゃないのだから、そんな覚悟なんて出来ちゃいなかったんだ。
結依が。どうして失われてしまうのか。どうして結依なんだ。どうして。
もう俺には何かを無くす選択肢なんて選べそうもなかった。
人の死を選ぶ権利なんて俺にはない。俺はそんな責任なんてとれなかった。
俺にはそんな事の出来る強さなんて持ち合わせていなかった。
その場に崩れ落ちて、両手で頭を抱え込んだ。
あまりに強く頭を握ったために、本当は痛みを覚えていたはずだけれど、その時は全く何も感じなかった。
ただ壊れてしまった時間に俺はただ恐れのいていただけだ。
自分が時間を巻き戻してしまった事で起きた事に、覚悟が足りていなかった。
もうこれ以上に時間を戻して穂花や結依が死ぬところをみる決心なんて出来なかった。
三日戻したところで、結依や両親が失われるのであれば、もうこのまま時間を過ごしていくしかないのかもしれない。でも結依が失われていいなんて事ではなくて、取り返しのつかない事をしてしまった後悔に、ただこれ以上新しい選択に身を任せる事は出来そうにもないだけだ。
だけどこのままでいいとも思えなかった。
結依は自分に出来る事なら何でもするからと言ってくれていた。澄ました態度でいたけれど、内心ではとても嬉しく思っていた。だけど結依が告げていたのは、穂花と俺のために命を失ってもいいという事じゃないだろ。俺だってそんなことは求めちゃいない。
結依との約束はこんな意味じゃないはずだった。だから取り返さなきゃいけない。
でもどうすればいい。どうしたらいい。誰か教えてくれ。誰か。
誰か。誰か。
心の中で叫び続ける。だけどその言葉をきいているのは、俺自身しかいなかった。
俺自身しか。
そこまで考えて、俺ははっとして立ち上がる。それから何とか落ち着かせようと呼吸を整えると、フェルに向けて、ゆっくりと訊ねる。
「失われる大切なものは基本的に戻した時間の総量によって変わる。そして時間を戻せば戻すほど、より大切なものが失われる。そうだったよな」
『そうね。そのとおりだけど』
フェルは急に俺が問いかけ始めたのに、訝しげな目を向けてくる。
「ならフェル。六日戻せるか。穂花と一緒に買い物に向かったあの日に」
『……戻せるけど、どうして。穂花の事故の因果の始まりはやっぱりあの日にあったから、それ以上戻すのは意味がないよ』
フェルは不思議そうな顔で答える。
確かに穂花を救うには意味がないだろう。だけど結依を失わないためには意味がある。意味があると思った。
「三日戻して失われるものが家族なんだとしたら、六日戻した時に失われるのは何かって考えた時、思いついたのは一つしかない。俺にとって家族よりも大事なものといったら、もう俺自身しかないと思う。だから穂花も結依も失わないためには、それ以上に遡るしかないって思うから」
俺自身が失われてもいい。それで穂花や結依が助かるのなら。
幸い大切なものが失われるのは、戻した時間を過ぎた後だ。穂花や結依が助かるのを見届けることができる。
フェルは何を考えているのか、俺の顔をじっと見つめていた。
俺の考えを図りかねているのだろうか。
『たかしはそれでいいの? ほのかとゆいを救うために自分がいなくなる。それでいいの?』
フェルはえんぴつ削りの上に立ち上がって、それから俺と目線を合わせる。
まっすぐな目はまるで俺に覚悟を問うているようだった。
「ああ、それでいい」
俺はうなづく。
それ以外に俺に出来る事はもうなかった。
しばらくの間、フェルはまっすぐに俺を見ていた。そして大きく息を吐き出すと、羽根をのばして宙にまって、俺の頭の上に留まっていた。
『ね、たかし。私と出会った日のこと、覚えてる?』
フェルの突然の問いに面食らうものの、もちろんはっきりと思い出せる。
どうしてそんな事を訊くのかわからなかけれど、俺はだからフェルに答える。
「ああ、覚えているよ」
『あの時のこと、私は本当に感謝してる。たかしのためなら、私は力を振るってもいいと思ったの』
フェルの言葉にあの時の事を思い出す。
あの時のことを。
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