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第六章 見えないところで誰かがきっと
キンダンの過去(3)
しおりを挟むご厚意に甘えて自宅にお邪魔する。
ようやく落ち着いてきたらしいサオリさんが、お茶を出してくれた。
「こんな所まで、良くお越しくださいました……。それで和矢は、元気にしていますか?」サオリさんが聞いてくる。
「はい。元気です。彼、外科医をしているんですが、とっても優秀で。私も何度も命を救ってもらいました」
病気の事は口が裂けても言わないが、このくらいは許してもらおう。
「何度も?」カズタカ氏に繰り返されて「あっ、そんな心境って意味ですけど……!」と慌てて付け加える。
本当の事だが、これでは何度も死にかけたと言っている事になる!普通はあり得ない。
「そう……。やっぱりあの子は優秀だったわね」涙を流してサオリさんが言った。
しばらくして、こんな事を口にする。「せっかく来ていただいたけど、私はあの子には会いません。……会わせる顔なんてないんです」
「そんな!待ってください、お母様……」思わずそう呼びかけてしまった。
「私はあの子を捨てたんです。和矢だって、そんな母親に会いたいはずがない。憎まれて当然ですもの」
隣りに座るカズタカ氏が、彼女の肩を擦っている。なぜか沈黙を貫く義弟に、私は声をかけた。
「あの!お父様の意見も聞かせてください!」わざとこう問いかけてみる。
すると、少しだけ笑ってカズタカ氏が否定した。「私は父ではありません」
それを受けてサオリさんは、真相を語る決意を固めたように毅然と私を見た。
「朝霧ユイさん。これは、私の懺悔と思って聞いてください」
彼女がここで語った事の全てを、私が本人に打ち明ける事はないだろう。それは私の期待を裏切るものだったからだ。
新堂さんに最も伝えてあげたかった、あなたは望まれて生まれてきたのだという言葉は、ここでただの綺麗事となった。
「あれは、望まない妊娠だったんです……」
告白が始まると、カズタカ氏は彼女の背にそっと手を当てて見守る。
「夫には、妊娠した事も和矢を生んだ事も、しばらくは伝えませんでした。当時、主に海外を拠点にしていたあの人に、秘密にする事は簡単でしたから」
新堂さんの父親は音楽家として、海外の楽団に所属したばかりだったそうだ。向こうで認められなければ日本での活動は難しく、まさにその途上だった。
「愛するあの人との子を身籠った時、私は心の底から嬉しかった。本当は、二人で育てて行きたかった。きっとあの人も、これを知れば帰って来てくれたのでしょう。でもそれは、あの人に夢を諦めろと宣告するようなもの!」
妊娠が分かり、悩んだ末に内密に生み育てる決意をしたものの、ナースとして働く傍らの出産で直後に体調を崩し途方に暮れたそうだ。
何も言い返せなかった。私ならどうしただろう?
「経済的にも苦しく、あのままでは私と和矢は……!あの子にだけは、不自由な思いをさせたくなかった」
ここでついに義弟が声を上げた。「なぜ!なぜ私に言ってくれなかった?もし言ってくれたらいくらでも……っ」
カズタカ氏は何も聞かされていなかったようだ。医者をしていたこの人なら、経済的にも余裕があっただろうに。
「それだけはできません。和孝さんが私に好意を寄せてくれていた事を知っていたから!そんな甘えは、……許されない」
「ええそうです!……私はずっと兄に嫉妬していました。なぜ私ではなく、あの奔放な兄を選んだのかと!でもあなたの心には、いつでも兄しかいなかった」
カズタカ氏はサオリさんを想っていた。けれどサオリさんは兄嫁。叶わぬ恋だ。
「私達は姉弟ですよ?好意とかどうとか言ってる場合ですか?助け合えたはずです」
「いいえ。夫の和良さんがそれを知ったら?どう思いますか。弟に経済的な面で助けられたなどと!そういうのって、男性は気にするでしょう」
「……ええ、そうですね。今さらあなたの選択に口を出す気はありません。全ては兄への愛がさせた事なんですから!」最後は吐き捨てるように言った。
不意に私を見て、カズタカ氏が我に返ったように苦笑いした。
「済みません……見苦しいところをお見せして」
「いいえ!私こそ何て言うか……」ケンカの種を持ち込んだようで申し訳ない。
穏やかに余生を過ごしていたであろう二人なのに。
「いいんですよ、ユイさん。私達はずっとこの話を避けていました。本当はこうして、本音を言い合ってぶつかるべきだったのに」サオリさんは泣きながら笑った。
そして兄、新堂さんの父の病が発症してカズタカ氏の病院で治療が始まった。白血病ならば当然骨髄移植の話になる。
サオリさんが再び口を開く。「私達の型がことごとく不一致になり、和矢の事が思い浮かびました。もしかしてあの子ならばと……」
「それで、打ち明けたんですね」黙り込んでしまった義弟を横目に、私は聞いた。
サオリさんは頷いた。「夫は、自分に息子がいると分かった時、涙を流していました。そして言いました。呼ぶ必要はない、巻き込んではいけないと」
自分が助かる唯一の道かもしれないのに、自分達の身勝手のために、何も知らされていない息子を振り回したくないと?
義弟は悔しそうに下を向いたまま言った。「私は、その話を偶然聞いてしまったんです。医者として見過ごす訳には行かない、二人を説得して息子を呼ぼうと努力しました。ですがムダでした」
夫婦の意思は固かった。
「当時和矢はちょうど高校を卒業して、園を出た頃だったと思います」
こんなサオリさんの言葉に、ふと思い出す。「そういえば、園宛に現金書留を送られたのもその頃じゃ?」
これに答えたのは義弟だ。
「送りました。しっかりと私の名前と病院の住所を書き込んで。これを見て誰かが訪ねてはくれないか、もしかしたら和矢君が来てくれるかもしれないと、淡い期待を抱いていたんです」
向こうから来てくれる事をただ願うだけの毎日が、どれだけ辛かったか知れない。
自分が勝手に呼び出せば、サオリさんが許しはしないと分かっていたから。例え愛する夫の命が助かったとしても。
「けれど、誰も訪ねては来ませんでした。そのうちに兄は亡くなり、私達はお互いの傷を舐め合うようにこの地を出たのです」
離島での暮らしは楽ではなかった。昼夜問わず患者の世話、贅沢もできず娯楽もない。それでも二人は幸せだったそうだ。
「サオリさんを支えてあげられればそれで良い。私は後悔はしていません」
義弟のこの言葉は真実なのだろう。だがサオリさんは納得していないようだった。
「いいえ!私が間違っていたんです……。和孝さんの優しさに甘えて、この人の人生を壊してしまった!夫の夢も実現せず……私は、悪い女です」
「それは違う!私も兄も、あなたには幸せをたくさん貰ってる。それに、生まれて来てくれた和矢君だって……」そこで言葉を切り、カズタカ氏が私を見る。
彼の〝今〟を一番知っているのは私だ。
サオリさんに笑顔を向けて続きを伝える。「そうです。私、もし和矢さんのお母様にお会いできたら、どうしても言おうと思ってた言葉があるんです」
サオリさんが涙を零しながら顔を上げる。私を見て辛そうに唇を噛んでいる。
「和矢さんを生んでくれて、ありがとうございました。そのお陰で私は、運命の人に巡り逢えた。私は心から彼を愛しています。私達は、愛し合っています」
母の目から止め処なく涙が溢れていた。嗚咽を漏らして泣くその姿に耐え兼ねて、そっと肩を抱く。
「……もう、苦しまないでください。そして、私達の式に出席してください。彼に、会ってあげてください……どうかお願いします」いつの間にか私も涙声だ。
緩やかに時は過ぎて行く。窓の外を見れば、いつの間にか暗くなっていた。
ふとバッグの携帯が点滅しているのに気づいて取り出す。
「いっけない、連絡入れてなかった!」砂原の事を思い出す。
「……もしかして、和矢君ですか?」カズタカ氏が聞いてきた。
「いいえ。友人と旅行中なんです。まあ、そういう口実、ですけど」
少し肩を竦めて打ち明けるも、ハッと気づいて言い足す。「あの!でも彼に内緒なのは反対されてるとかじゃなくて、単にサプライズにしたくて!」
これでは彼が拒絶しているみたいではないか?実際されているようなものだが……。
慌て出した私に、サオリさんが少しだけ笑ってくれた。
「ユイさんは、本当にあの子を想ってくれているのね」そう言って義弟に微笑みかけた。
どうにか場の空気が和み始めたようだ。
ここぞとばかりに畳みかける。「お母様、和孝叔父様、お二人で是非結婚式に来ていただけませんか?」
しばしの沈黙の末、「……考えておきます」和孝叔父は無表情で言った。
その顔はどこか新堂さんを思わせて、兄を見ていないから何とも言えないが、父親は本当はこっちなのではとの疑惑が改めて持ち上がった。
さすがにこれは胸の中に収めておこう。今はまだ?
この後いくらか緊張感は和らぎ、離島での話や函館観光の話などをした。
「それじゃそろそろ。友人を待たせてるので行きます」
「せっかく来たんですから、観光、楽しんで行ってくださいね」サオリさんが気さくに言ってくれる。
とてもいい人じゃないか。しかもやっぱり美人だ。若い頃はさぞモテた事だろう。いや、今もか……。義弟までも虜にした、自称悪いオンナ?
そして和孝叔父が車を出してくれるとの事で、空港のコインロッカーまで向かい、荷物を無事に渡し終える。
そこで合流した砂原が、和孝叔父に遠巻きに会釈をした。
もうすっかり夜だ。
「ゴメン、連絡する暇がなくて……」二人になり、砂原に詫びる。
「いいって!で?あの感じだと成功?」腰を屈めて私の顔を覗き見る。彼女は背が高いので、至近距離ではこうしないと見えない。特に暗がりでは。
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「いいじゃん。今夜はカレの役、やったげる!来いよ、ユイっ!」
そう言ってオトコ顔負けの色気を感じさせる手つきで腰を抱かれ、引き寄せられる。
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砂原を連れて来て正解だ。警察手帳なんかより、ずっとずっと助けになる!
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「この先は、本人にしか決められない。どっちにしろ、大激怒されるだろうなぁ」
暴いてしまった新堂さんの出生の秘密。ドラマチックで物悲しく、まさに新堂和矢のイメージそのものだ。彼から漂うあの雰囲気はそうして出来上がったのか。
改めて、この人を幸せにしてあげたいと願わずにいられない私なのだった。
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