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第六章 見えないところで誰かがきっと
52.クルマ酔い(1)
しおりを挟むゴールデンウィークが始まった。
今年の四月で四年目となった新堂さんの定期検査は全く問題なし。主治医のお墨付きも得て、久々に旅行の計画を立てた。
「耳栓、ちゃんとしとけよ」山道に差し掛かって彼が言う。
気圧の変動は内耳に良くない。刺激されて眩暈が起こる心配がある。
ここのところ調子が良かったので、久しぶりの登場だ。
「もうしてる!ねえ、それより!この神社ってスゴイ混むんでしょ?」
今回の旅行先は秩父だ。神社が多く、ここ最近のパワースポット人気で火が点いた。中でも今向かっている場所は、あるスポーツ選手がご贔屓にしているとかで有名になったばかり。
「ここまでは順調だったんだがなぁ。どうやら駐車場渋滞のようだ」
「全然動かないね」しっかりハマってしまった。
辺りは深い山の中。行く手には延々と連なる車の列しか見えない。狭い道のためUターンも不可能だ。
「参ったね!」彼が吐き捨てるように言う。
「こんな時に何だけど……」
「何だ、また腹が空いたか?」
朝から空腹を連呼していたため、こう言われても仕方がない。
「そうなのかな……。何だか少し前から気持ち悪くて」
「調子に乗って朝食を食い過ぎたんじゃないのか。吐き気は?」
「そんなに食べてません!吐き気はないよ、まだね」そのうちに来そうな予感だが。
彼に顔を凝視される。車は一ミリも動く気配がないため、こんな行為も問題なくできてしまうのだ。
また小言を言う気か。そう感じ取り、目を逸らすために下を向くも、顎に手を掛けられて容赦なく顔を持ち上げられた。挙句に今度は眼球を覗き込まれる。
もう逃げられない……別に、悪い事をしている訳ではないけれど!
観念して「眩暈は感じないよ?」と訴える。
「……ああ、そのようだな。空腹感があるなら、何か腹に入れてみろ」
後部席に積んだバッグから、ちょっとした菓子の類いを取り出して渡される。
受け取ったものの、何だか食べる気がしない。「やっぱいいや。飲み物にする」
「そうか。無理に食べなくていい」
その後も車の列は一向に進まず。四十分は過ぎただろうか。ついに気持ち悪さが耐えられなくなった。
「私、先に歩いて行ってようかな!」ドアに手をかけて言ってみる。
「構わないが、休める場所がなかったら辛いだろ」
こう言われたのは、今日が五月とは思えないような陽気だからだ。外は太陽がギラギラと照っている。
けれど今はとにかく外に行きたい。「……でも降りたいっ」
後ろからはひっきりなしに人が歩いて来る。観光バスから降りた客だろう。そんな人の流れを見て気を紛らす。
「それより、後ろで横になったらどうだ」彼としては外に出る事は却下のよう。
「うん……」
外にいれば気兼ねなく吐ける、ただそう思っただけだ。けれど我が主治医は、患者を目の届かない所に行かせたりはしない。
降りるのを諦めてシートに深く身を沈める。
「あと数百メートルだ。もうすぐ着く。深呼吸を続けてろ」
「はぁーい……」
最悪だ。こんな徐行以下のスピードで酔うとは前代未聞!
やがて順番が回って来て、ようやく場内に入れた。
「おいおい、これのどこが満車だ?全然空いてるじゃないか。どうなってるんだ!」
「ホント大迷惑ねっ」
奥の方には空きスペースがちらほら見られる。あんなに列をなしていた意味が分からない。
こんなひと悶着があったが、着いてみると幸い気分も落ち着いて来て、普通に神社を見て回る事ができた。
「ねえ、何か食べようよ。やっぱお腹空いた」
「大丈夫なのか?まあ、ちょうど昼だしな。俺は何でもいいよ」
「じゃ~、あれ!」
味噌田楽の芋バージョン。秩父の特産の芋らしく、じゃがいもとサツマイモのあいの子みたいな味がした。
軽く腹ごしらえをして再び散策する。敷地内は公園になっており、とても広い。
「ここの神社は、狛犬ではなくオオカミが出迎えてくれるぞ」
「あらホント。凛々しくてステキ」
あの車の行列からも察しは付くが、連休とあって客は多い。皆このオオカミの前で記念写真を撮ろうと必死だ。
そんな人混みに呆然となっていると、いきなり横から彼に腕を強く引かれた。
後ろ向きで歩いて来た女が私にぶつかるところだったようだ。
「っ!ゴメン、ありがとう」ぼうっとし過ぎの自分が恥ずかしい……。
「まったく前方ばかりに気を取られやがって。この混み具合なんだから、確認してから下がれ!」
てっきり自分が怒られるものと思っていたが違うようだ。
彼が女に向けて声を荒げた。けれど相手は中国人のようで全く通じていない。逆にギャーギャーと中国語で捲し立てられる。
車を降りてからずっと耳の調子が良くない私には、この騒音は堪らない!
「もういいよ、行こ。新堂さん。あなたも、シャオシン!ね!」
女に一言伝えてから、今度は私が彼の腕を勢い良く引っ張った。
「なあ、さっきの、何て言ったんだ?」小走りしながらの会話だ。
「気をつけてねって。それにしても耳が変で不快っ!」
ようやく立ち止まって訴える。
「中国語もできたんだな。さすがはマルチリンガルだ」
「褒めてくれたところ悔しいんだけど、できないわよ」フリだけは得意だ。
耳を押さえ続ける私を見下ろし、新堂さんが無表情で口を閉ざす。
「それで逃げるようにして離れた訳か!納得だな」
「言い逃げって?」
「そうじゃない。騒音、だったろ?俺も不快だ!」
女の声が不快だったのか、彼も耳が変なのか分からないが、同意を得られて満足だ。
ずっとしていた耳栓は外してしまった。音が完全に消える訳ではないとしても、煩わしい事に変わりはない。
「ここの標高は千メートルだ。無理もない」
耳栓の事を指摘されずにほっとする。
「だよね。来る時、山道を随分登ったし。頂上に神社建てるなんて、お城みたいね」
「神も将軍も、高い所が好きなのさ。そういえばおまえもか!」
「うん。好きよ」神や将軍と肩を並べられるなら、ここは素直に肯定しよう。
その後、緩やかな坂を登る事およそ十分。この敷地内には森林が広がるが、間引きしてあって多少の陽光は入って来るため鬱蒼とした感じはない。
再び立ち止まって上を見上げて深呼吸する。
涼しげな風が吹いている。
やはりぼんやりとした感じは消えていない。また人にぶつかられないように周囲に気をつけなければ……。
「どうした?」
「少し寒いね。何だかぼうっとしてて……眩暈、なのかな」気分は悪くない。むしろとても気持ちが良い。そんな中でクラクラが止まらない。
「掴まれ」
腕を差し出され、新堂さんの腕にがっしり掴みかかる。
「……掴み過ぎだ」
「えへへっ!」
ちょっぴり困り顔の彼を見上げて、今度は抱きつく。
「おい……、そんなにくっついたら歩けないだろ。人が見てるぞ?」
「少し待って。少しだけ……」
本当は歩けないほどフラフラだったのだ。大袈裟にしたくなくて誤魔化した。
それを察したのか、彼が人の少ない道の端に誘導してくれた。しばらくそのままの姿勢で、私の背中を擦ってくれる。
とても落ち着く……。
「ごめん、もう平気!さ、行こう」彼の手を握って、目の前の階段に進む。
「無理するなよ?辛いなら戻ろうか」
「今から戻っても、どうせ同じ距離行くのよ?だったら前に進もう」
すでに中間地点まで来ている。それに肝心のお参りがまだ済んでいない。神に祈るなんて私達らしくないけれど?
そしていよいよ本命のお参りの時がやって来た。
ここまで来て何だが、どうにもこの人には場違いな気がする。でも今は言わないでおこう。
「ねえ。新堂さんは何をお願いするの?」
「そういうのは人に言ったらダメだろ」
「そうなの?」
参拝者を出迎えるように、一際大きな木が両脇に聳えている。その木に触れて祈ると願いが叶うらしい。そんな訳で目前には大層な行列が三本出来上がっている。真ん中の列は本命の神社に続いている。
私達は真ん中に並んで、お賽銭を入れてお参りした。
ところが隣りから放たれた、賽銭箱に吸い込まれて行ったものからは音が聞こえなかった。
「ちょっと待って!今いくら入れた?」
「さあ……千円か一万か良く見なかった。なぜだ?」
ああ、やっぱり!「なぜって……。普通、お札は入れないの!こういうのはね、ご縁がありますようにで五円とか、十円でいいのよ」
「手持ちがなかったんだ」
あんぐりと口を開けてしまった。太っ腹の新堂和矢に感服した瞬間だった。
「で、ユイは何を願ったんだ?」聞かれて思い出す。「あ~っ!そうだ……忘れたっ!」
突如声を上げた私に彼が驚く。
「新堂さん!ちゃんと住所と名前言った?」
「は?」
「だから!願い事言う時、住所と名前言わないと、神様がどこの誰か分からないんだって。私ったら言うの忘れたぁ!」
「何だそりゃ?」
「あなたも言ってないのね。がっかり!もう並ぶのイヤだし……ま、いいや」あっさり諦める。
そんな私を見やり、彼が強気に言い放った。「神なんかより、俺に願いを言ってみろ、叶えてやれるかもしれないぞ?」
場違いは、間違いではなかった。「あらぁ、神様気取り?新堂先生ったら!」
「神だなんて滅相もない。俺はただの医者だ。金持ちの?」
「一言余計!残念でした~、私の願いはね、お金では叶えられません」
「それは残念」
なぜなら、私が願ったのは世界平和だから。そして自分のではなくあなたの健康。
ご神木の横を通って神社を後にする。
去り際に行列の後ろから、こっそりその木に触れてみた。それは湿り気を含んでひんやりとしていて、心が癒されるような気がした。
それにしても何て大きな木だろう。見上げれば自分が小人にでもなった気分だ。
しばしぼんやりと生い茂る大木を見上げていた。
ぼうっとする感じはさらに増して、喧騒までが遠ざかる。
「ユイ?行くぞ」
気づくと新堂さんが振り返って私を待っていた。
「……あ、うんゴメン。ねえ?……ちょっとトイレ行って来る。混んでるみたいだから時間かかるかも。どっかで休んでて」
「了解」
しばし彼と離れて洗面所に向かった。
「やっぱりこれは眩暈だ、相当酷いみたい……。薬、貰おうかな」
平気な振りをしていたが、さっきからずっと感じるこのクラクラは明らかに眩暈だ。治まる気配もない。急にこんな事になったのは、やはり途中で耳栓を外したせいか?
あまり大ごとにはしたくなかったが、そうも言っていられない。
「楽しい旅行は始まったばかり。ここで無理して意地張ってもしょうがないよね」
そう決めて戻ってみれば、彼が私をじっと見下ろしている。
これは言うまでもなく時間の問題で気づかれるだろう。ならば指摘される前に言うべし!「新堂さん!眩暈の薬飲みたいの。今持ってる?」
だが、どういう訳か我が主治医は無言だ。
「ねえってば」促すと、ようやく反応があった。「ああ、済まん。少々驚いていた」
「何でよ?」
「早速願いが叶ったから」
「え?」
「さっき、おまえが素直になってほしいって願ったんだ」
「言っちゃったら、ダメなんじゃなかった?」
「もう叶ったからいい。ユイ、これ」彼が小さな白い紙袋を差し出した。
受け取って中を見ると、クリーム色の小さなお守りが入っていた。
「これ、私に……?買ってくれたの」
「まあ何だ、今暇だったし?ああ、あと薬な。今出すから待ってろ」
彼はしっかりドクターズバッグを手にしている。いつものよりも小振りだが。
「水は持ってたよな」
「うん。ありがと」
木陰の木のベンチに腰掛けて、渡された薬を飲み干した。その横に座って、彼が私の眼球を覗き込む。
「ここじゃ暗くて良く見えないな……」
「実はさ、お参りした後、結構つらかったの」
「例のご神木に触れながら、微動だにせず長い事見上げてたよな」
「うん。ひんやりしてて、とても心地良くて」
「願い事の最中を邪魔しても悪いと思って、横で見てたんだが。あれはやっぱり辛かったのか」気づけなかった事を悔やんでいる様子の彼。
「ありがと、見守っててくれて。でも願い事はしてないよ?」それをしてしまったら、真面目に順番待ちしている人達に申し訳ないではないか。
「ああそうか。とにかく、ここで少し休め」
「うん」
彼の肩に頭を乗せて目を閉じた。ご神木とはまた違って、今度は新堂さんの温もりが心地良さを与えてくれる。
またしても周囲の喧騒が束の間聞こえなくなる。だが今度は静寂は訪れない。耳鳴りが鳴り響いているからだ。
「んもうっ。ここ、パワースポットなんじゃなかった?」耳を塞いで目を閉じたまま、自問自答のように口にする。
そう言われる場所は磁場が強いとも聞く。ああ、だからそれが眩暈を誘発しているのか!
「そういう話だが。来ておいて何だが、まったく興味が持てないよ」
「ふふっ、あなたらしい答えね。私なんて逆に、パワー吸い取られてる気さえするんだけど……!」
不意に彼が真面目な顔になる。「それは良くない。早々に退散しよう」
疲れる原因はお客が多すぎたせいもある。マナーの悪い外国人客が!今や全国どこに行ってもお目にかかる訳だが。
こうして車に戻り、神社を後にした。当然の事だが、ここからは登って来た分を降りなければならない。
「ごめんね新堂さん、峠道の運転苦手なのに」
「大丈夫だよ。ゆっくり行くから。気分悪くなったらすぐに言えよ?」
「うん」
彼の丁寧な運転で酔った事などないのに、今は自信がなかった。乗って数分ですでに怪しい。「……ゴメン、もう気持ち悪いかも……」
「この辺りは道が狭くて停車できない。もう少し我慢できるか?」
「うん。山下りたら停めて」
「分かった」
かなりの峠道だ。右に左に車体が揺れに揺れる。気を遣って運転してくれているのが手に取るように分かる。ひたすら深呼吸を繰り返すしかない。
ようやく麓まで降りて来て、側道で一旦止まってくれた。
「薬、効いてないみたいだな。……遅すぎたか」
「ゴメン、もっと早く言ってれば……」
「いや。ユイのせいじゃないよ」
「この先の道の駅まで行って。何とか我慢できそうだから」
「そうか?ならすぐに向かおう」
こんなのは久しぶりだ。遠い記憶で子供の頃、父親の運転で酔った事を思い出した。あれは何なのだろう。気分的なものだとすれば、父親が嫌いだったから、さらには運転が荒かったから(!)だ。
すると今は?彼の事は大好きで、運転はスマート、私の気分は最高なのに!
こんなおかしな事をグルグル考えては、猛烈な眠気に襲われる。
寝てはダメだ!経験上、寝て起きると収集がつかないほど悪化している事が多い。そうなったら、新堂さんの愛車で吐く事になる!
それだけは絶対にしたくない。
「ユイ?着いたぞ」
「……ん」
どうやら寝てしまっていたらしい。彼の声で目が覚める。
案の定吐き気がピークに達して、私は車から飛び出して女子トイレに駆け込んだ。
「ご丁寧にトイレのど真ん前に停めてくれて助かった……」
何度か餌付いて胃の中の物がせり上がって来たが、甘苦い液体しか出なかった。
トイレから出ると、彼が心配そうに出口で待ち構えていた。
「どうだ?」
「ダメ。食べてないから何も出ない!」
「顔色が酷い。後ろで横になれ。ここで点滴しよう」
「そうして……。何でもいいからこの気持ち悪さ、早く止めて!」
彼に支えられて車に向かい、膝を少し曲げて後部席に横たわる。
「体勢、辛くないか?エアコン入れよう。今日はだいぶ蒸し暑い」
「……凄く眠い。新堂さん、ごめんね」
「何で謝る?さあ、腕を出して」
テキパキと処置をしてくれる彼をぼんやりと見上げながら、私はあっという間に眠りについていた。
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