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第六章 見えないところで誰かがきっと
ドクターストップ(2)
しおりを挟む翌朝。咳止めの効き目が切れたのか、また咳で目が覚める。今度はタンが絡んで辛い。これが風邪だと自分でも納得した。
「週末と月曜がちょうど休みだから、三日間安静にしてます」
反省の意も込めて宣言するも、「当然だ」とたった一言が返される。やはりニコリともしてくれない。
「……新堂さぁん、そんなに怒らないでよ」
「今回ばかりは愛想が尽きたよ」と即答。「そんなぁ!」
「大した仕事じゃない、暇つぶしにしてるだけ、いつ辞めてもいい、そう言ってなかったか?」
「言ってたけど……だから今回はさ!」
彼がため息の後に大きく首を真横に振った。言い訳は結構、という事か。
「おまえに一つ聞きたい」新堂さんが怖い顔で私を見下ろした。
何を言われるのかと緊張が走る。
「はい!何でしょう?」
彼は私を睨みながら言った。「本気で治す気があるのか?」
「あ……あるに決まってる。何でそんな事?」思ってもいない質問に慌てる。
「おまえを見ていると思うよ。今回は特にね。どう見ても悪化させようとしてるとしか思えん」
「そんな……。そんな事する訳ない。思う訳ない!酷いよ新堂さん。もういい。部屋で休みます」涙が出た。こんな時に泣けば鼻の症状が悪化するのが分かっていても!
彼がこんな事を本気で思っているとしたら、本当に悲しい。
個室に入ってその場で蹲る。
「どうして分かってくれないの?新堂さんだって、無茶して仕事した事くらいあるはずなのに!」
せっかくの週末は散々なものになりそうだ。私は部屋に籠もって過ごす事になるだろう。そしてやっぱり眠れない。薬で咳が止まっても!おまけに生理が来そうでお腹まで痛いと来た。もうサイアクだ。
週末に入り、すで土曜の夜を迎えている。個室のドアが開いて彼が顔を出した。
「ユイ、食事だ。雑炊を作った。持って来ようか?」
「大丈夫、そっちで食べる」
ダイニングに行って自分の席に腰を降ろす。ずっと寝ていたせいかクラクラする。
眠れていないから、正確には単に横になっていただけだが。
彼が私の顔をまじまじと見てくる。
「……何?」
「いや。さあ、味は薄めに作った。物足りなかったら言ってくれ」
「ありがとう」
そう言ってキッチンに戻ってしまう。
「ねえ、あなたは食べたの?」
「ああ」
一緒に食べられると思ったのに。ガッカリしながらもスプーンですくって口に運ぶ。彼が作ってくれた愛情の籠もった料理を。
「どうだ?」キッチンカウンター越しに聞かれる。
「……うん、美味しいよ」また涙が出そうになって鼻を啜った。
「また鼻炎が始まったか?」
「違うと思うっ!」下を向くと、涙が零れ落ちた。
私が泣いてる事に気づいたのか、彼が洗いものを中断して私に近づく。
「泣くほど美味かったとは。俺も食ってみるかな」
「……ふふっ。違うよ?あっ、じゃなくて……美味しいけど」
「少し多かったか。食べられるだけでいいから」そう言うと、またキッチンに戻った。
悪化するから泣くな!と怒鳴れば済むところを、こんなふうに言ってくれる。昔だったらあり得ないと思う半面、これが本当の姿なのかもとも思う。
「ご馳走様、美味しかったよ」
食べる事がこんなに疲れるのかというくらい疲労困憊で完食した。
「良かったよ。食器は置いておけ、後で洗うから」
「ううん、やらせて。作ってもらったんだもん、そのくらい。無理はしてないよ?」
「そうか。じゃ、よろしく。俺は書斎で少し仕事をする。何かあったら呼べ。薬、飲んでおけよ?」
「うん」
食べたら断然力が出てきた。咳でまともに食べられていなかったから、今久しぶりに食事をした気がする。
今回は栄養剤の点滴も登場していない。私が嫌がるからなのか、やっぱりお仕置き(!)なのか分からないが。栄養を摂らないとこんなに疲れるんだぞ、と?
「ホンット、話してくれないから、妄想ばかりが先走ってやんなっちゃう!」
こうして再び、早々にベッドへ入るのだった。
この日早朝に見た夢は強烈だった。夢を見たという事はようやく寝られたという事で、喜ぶべきではあるのだが。
「おはよう。早いな」
「おはよ。納得行かない夢見ちゃって」
「何だそれは」
「ちょっとね……」
私は彼に夢の内容を話して聞かせた。
それは新堂さんと二人で、どこかの娯楽施設に行く夢だ。そこで事件が起こる。ゴミを捨てに席を立った私がゴミ箱で目にしたのは、何とバラバラにされた遺体!手と足が三組。男女と子供のもので家族かもしれない。
「……全く、何でそんな夢見るんだ?で、その殺人鬼を捕まえ損ねた!とか?」
「まあ、当たらずとも遠からずかな」
振り返ると日本刀を持った男が立っていて、片手には大きなビニール袋を引き摺っている。半透明の袋には血塗れの何かが入ってる。
私の前には小太りの男が二人いたが、その一人があっという間に刺されてしまう。何度も何度もメッタ刺しだ。
「私ったら、あろう事かその人を盾にしたのよ?あり得ないでしょ!」
「そうか?状況的に前にいるヤツが刺されるのは仕方ないだろ」
「そうだけど……」私は助けたかった。なのにただ傍観していた。
それが許せなかった。そこで目が覚めてしまったのだ。
「納得行かなくても、夢の中ではどうしようもないな。それより、昨日よりも顔色が随分良くなった。安心したよ」そう言って笑顔を向けられた。
ようやくようやく新堂さんが笑ってくれた!
これは夢のお陰か?それとも回復の?何にせよ良かった……。
「私も安心した」
「ん?」
「ううん、何でもない!」
「昨夜は久々に病人の顔をしてたからな……」
それで私を凝視していたのか。あえて指摘しないのも優しさ。本当に彼はいい医者になった。今回改めてそう思う。
「ごめんなさい、心配かけて。もう無理しないから」
「当たり前だ」
その日は穏やかに過ぎって行った。
夜には久しぶりの入浴。一緒に入って、彼が髪や体を洗ってくれた。こんな事までしてくれる主治医もパートナーもそうはいないだろう。
まるでプロ並みの手つきで洗髪を終える。
「本気で副業できそうね。させないけど!」私以外の髪を弄る彼は見たくない。
「外科医やめたら始めるか。シャンプー専門で?」
「試しに聞くけど、お値段は?」
「相場が分からん。一万くらいか?」この発言には唖然。「高~い!取っても千円よ」
「何と……。安すぎる!やる気が失せた」
「一般庶民はそんなもんよ」億万長者のあなたには分からないでしょうけど?
楽しくこんな時間を過ごし、何とかサイアクの週末から抜け出せたと思っていた。
しかし翌日月曜。今度は酷い耳鳴りが始まって動けなくなる。それはソファで寛いでいた時だ。
「うっ!何なの?急に……気が遠く、なる……」
どうやら私は、そのまま気を失ったらしい。
気づくとまたも個室のベッドに寝ていた。傍らに心配そうな顔の彼がいる。
「気がついたか。気分は?」
「新堂さん?私……」
「どうも静かだと思ったら、リビングで倒れてるから驚いたよ」
「凄い耳鳴りがしたの。あんなの初めてかも……」
「眩暈じゃなくてか?」
眉間にシワを寄せながら答える。「うん……。よく分からない」
「それで今は?」
「治まってる」
答えている途中ですでに私の眼球を覗き込む抜かりない我が主治医。
しばし考えた末にこう言い放った。「朝霧ユイに今日から一週間の外出禁止を言い渡す。破ったら強制的に入院させる。いいな?」
「っ!ちょっと待ってよ、一週間は長くない?ただの耳鳴りだよ?明日はもちろん休むつもり。でもその後は……」
「これはドクターストップだ。おまえに反論の余地はない。最近休み取ってないだろ」
「そうだけど!だからって……」
やっと風邪が治ったのに、また休みを取れば完全に病弱者扱いされる!
ここで部長が〝死んじゃう!〟と叫んだ言葉がリフレインした。そして考える。あの程度で死ぬのなら、もともと病弱に見られていたという事ではないかと。
なら問題ないか、とは言えない!この朝霧ユイにそんなレッテルは貼らせない!
「時に、生理は来たのか」
「まだだけど。もしかして、だから点滴しないでくれてるの?」
生理中の体はいつもよりも敏感になるという。それを聞いて、彼に言ってみた事がある。そんな体に針を刺すなんて酷だと!
「別にそうじゃない。必要ならばやる」
あ、そうですか……。そう簡単には言いくるめられないか。
「外出禁止の件、分かったな?何なら俺から会社に連絡を入れるが」
「ああ~!大丈夫、自分で入れます。お願いだからこれ以上大ごとにしないで!」
早速携帯を手にして、取りあえずリーダーに状況をメールする事にした。
〝先生のドクターストップがかかり、一週間休まされそう。取りあえず明日は休みます。それ以降は何とか交渉するので保留で!〟
「これは大変な事になった……」
自分で蒔いた種とはいえ、これに逆らえば本当に良くない状況になるのは目に見えている。
次の日の午後、携帯にメールが入った。見ると近所に住む彼女からだった。
〝大丈夫?何かゴメンね、無理させたみたいで。お見舞いに行きたいんだけどいい?良ければついでに新堂先生にもお詫びをしたいので。意向待ってます〟
「何であなたが彼に詫びるのよ!シフト制作者だから?」
そう思ったが、私達が勤務の件で険悪ムードになった事は知らないはず。
「ドクターストップなんて言ったの、マズかったかなぁ」勢いであんな文面を打ってしまったけれど、ここへ来て後悔する。
〝大した事ないんです。昨日倒れたせいで先生が驚いただけ。心配しないでください。お見舞いも結構です。皆さんに宜しく〟
「あの人が関わると何かと問題が起こるからイヤ!どうせ見舞いは口実で、新堂さんと話したいだけでしょ?」
家が近所という事もあって、土砂降りの日に家まで送った事がある。そういう意味では彼女が一番彼と面識がある。
「あの日、新堂さんを見る彼女の目、恋する乙女のように輝いてたっけ……」
そしてメールはすぐに返ってきた。
〝倒れた?!それは大変!なおの事お見舞いに行かせて!リーダーも行くって言ってるけど、私だけにするから。明日の会社帰りに寄るね。先生に宜しく!ではでは〟
「ではでは、じゃぁないわよ!意向聞いといて勝手に判断してるじゃない?」
彼にこの事を伝えると、何の感情も示さず頷かれた。
いっそ断ってくれたら良かったのに……。
こうなったら、余計な事を言わせないように見張っているしかない。
こう息巻いた私だったが、翌日も体調は思わしくなかった。
今回の風邪の影響で、また内耳の状態が悪くなったらしい。今度は本格的な眩暈が始まり、この日は朝から寝込んでいた。
おまけに生理も始まって、また病人の顔と言われるのは確定だ。
夕方に、玄関のチャイムがぼんやり聞こえた。
「いらっしゃい。わざわざ来ていただいて。少しお待ちください。彼女の様子を見てきますので」
「あの!もし具合良くないんだったら、無理に会わせてとは言いませんので!」
いつものせっかちな彼女の声が響く。自宅でこの声を聞くのは変な感じだ。
こんな事を思っていると、ドアが開いて彼が顔を出した。
「ユイ。起きてるか?同僚の方が見えたが、入れてもいいか」
「うん。通して」
彼は頷くと、彼女を連れて部屋に戻って来た。
「朝霧さん!大丈夫?とっても悪そう……。本当にゴメンね、私あの日さっさと帰っちゃって。ずっと気にしてたのよ」
入って来るなり捲くし立てる。これもいつもの事だ。気にしていたのは本当なのだろうが。
「気にしないで下さい、そういう勤務日程だった訳ですし」
「でも……」
彼女が口籠るのを見て、新堂さんは気を利かせて言う。「ユイ、何かあったら呼んでくれ。向こうにいるから」
「うん。分かった」
彼が出て行ったのを確認した後、私は改めて口を開く。
「ちょっと!彼に謝罪とかやめてくださいよ?本当にいいですから!」
「でもさ、皆も気にしてるのよ、ほら、今回誰も代わってあげられなかったし、朝霧さんが無理したのって、あの子のためでしょ?」
私は黙り込んだ。それも皆知っている事だ。彼女が少々問題のある子だと。
「だからって。……もう済んだ事ですから」
「先生に誤解されてるんじゃないかって!こういうのはさ、第三者から説明した方がいいんだって。ね?私に任せて!」
「あ!ちょっと……っ!」
彼女はこう言い残してさっさと部屋を出て行った。
「私のお見舞いはもう終わり?」
半開きになったままのドアから、そっとリビングの方に聞き耳を立てる。
「おや。もうお話はお済みですか」
「あまり無理させては申し訳ないので。それで、新堂先生にどうしてもお伝えしたい事がありまして!」
「何でしょう」
彼が断る理由はない。私に関係する事は何でも知りたいはずだから。
促されたのか彼女がソファに腰を降ろした模様。キッチンでお湯を沸かす音がする。
「それにしても、とっても素敵なお宅ですねぇ!ここのお屋敷って大昔からありましたけど、こんなに素敵に改築されて!ここって元は確か……」
元から建っていたこの屋敷は何年も無人だった。その上裏は鬱蒼とした山だ。そんな所に付く愛称と言えば……。
「ええ。幽霊屋敷、でしたかね。地元の方なんですね」彼が指摘する。
「はい、生まれも育ちも。でも、ここがあの幽霊……スミマセンっ!」
「構いませんよ」
「全然雰囲気違います!ステキ!の一言。新堂先生もそうですけど。ああ、もちろん朝霧さんも!」
部屋で呟く。「ちょっと?何その取って付けたような言い回しは!」
しかも和やかに会話しすぎ!と思った矢先に彼が一言。「で、ご用件は?」
「ナイス、新堂さん!」
「……ああごめんなさい、余計な事をベラベラと」
居住まいを正した様子で本題に入る。
「朝霧さんの事、叱らないでやってください!彼女後輩思いだから、無理して出勤してくれて。皆、それに甘えちゃったんです。ああ、それに元々私があんなシフト作ったから……私、シフト担当なんです!それと一応、サブリーダーしてます!だから、お詫びしないとと思って……」
言葉を切ったところからすると、立て続けに言ってハッとしたのだろう。これもいつもの事。思った事をポンポン言うものだから、相手は圧倒されるのだ。
さて、新堂さんはどうだろう?
「ご心配には及びません。朝霧ユイの事は、私が一番理解しているつもりです」
「あ……そう、ですよねっ!私ったら出しゃばってごめんなさい!」
その後しばし沈黙が続く。
心配になってリビングを覗きに行くと、新堂さんと目が合ってしまう。
「ユイ?どうかしたか」
「あっ、その……私も何か飲みたいなって」なぜこのタイミングでこっちを見る?
しかし彼女の勢いがどういう訳か弱まっている。何が起きたのだろう?
新堂さんの表情もどこか険しい。いつもの愛想のいい笑顔がない。つまり素の姿というだけだが、きっと彼女は初めて見る顔だろう。
「紅茶でいいか?入れるよ。持って行くから部屋で待ってろ」
「あ、うん……」
「朝霧さん、私、夕飯のおかず買ってかなきゃならないから帰るね。お大事に!お邪魔しました」
「今日はわざわざ、ありがとうございました。皆に宜しく」
ぎこちない笑顔で、彼女は帰って行った。
「ねえ新堂さん。彼女何だか様子がおかしかったけど、何かあったの?」
「おかしかったか?さあ、分からないな。そんな事よりほら、部屋に戻れ」
「はぁ~い」
結局彼女は目的を果たせたのだろうか?納得行く顔には見えなかったけれど。
何があったのか気になりつつも、大人しくベッドに戻った。
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