この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第五章 扉の先で待ち受けるものは

  知られざる欲求(3)

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 緊急停止した車内でハンドルに突っ伏して泣き出す私に、彼が驚いている。

「ユイ?どうしたって言うんだ、いきなり」
「ごめんなさい、泣くつもりなんてなかった……っ、だけど」
 彼が私の背中を擦ってくれるが、涙は止まらない。
「新堂さんっ、……他にいい人、見つけたんでしょ」

 一瞬の沈黙の後、彼が声を荒げた。「……何だって?」
 私も負けずに声を張り上げる。「だからっ!好きな人、いるんでしょ!」
「ああ。いるよ」予想外にも答えはすぐに返された。
「やっぱり……っ」
「ここにな。俺はおまえしか眼中にないって言ったろ?」彼が私の肩を叩く。
「今までは、でしょ!……いいのよ別に。新堂さんにだって、人を好きになる権利、あるもの」

 彼の手が私から離れた。こんな事でさえ孤独を感じる。

「ずっと前から言ってるように、私はあなたを縛りたくないの。あなたの優しさに、甘えてしまってたけど……。いい加減、自立しなきゃね」少し笑って言う。
「何の話だ」彼の声のトーンが変わった。
 顔に怒りの色が見え始めて、言葉が出なくなる。
「何の事だと聞いてるんだ。まさか別れ話でもしてるのか?それはやけに突然だな!」
「突然じゃないでしょ!あなたの態度を見てれば明らかよ!」

「俺の態度がどうしたって?」
「がっかりだわ。ここまで来て、そんなシラを切るなんて!」
 やっと涙が収まってくれた。でも彼の目を見る事はできなかった。

「運転、代わってくれる?私、電車で帰る」ドアを開けて歩道側に降りて言う。
「代わるのはいいが、別々に帰る必要あるのか」
「どこまでも女心が分からない人ね!」

 勢い良くドアを閉めて歩き出す。

「おい、待てよ!」彼が後を追って来る。
「車、放置したらダメよ!早く戻って」
「聞き分けのないヤツだな、来い」
「イヤって言ってるでしょ?」

 怒りがピークに達し、またも彼を投げ飛ばしそうになった。でもすぐに我に返る。
「……っ」
 そんな自分が嫌になり、持て余した力を使ってガードレールを思い切り蹴飛ばした。
「ユイ!何て態度だ?通行人が見てるぞ」
「ほっといて!」
 そのまま彼を残して後方へと足早に進んだ。もちろん携帯の電源はオフにして!

 諦めたのか、彼が追って来る事はなかった。
「愛車を放置する事はできないよ、あの人は!……バカバカっ」
 またも涙が溢れた。急いでサングラスで目元を隠す。

 これからどうしよう……。なぜこんな事に?今までの幸せは何だったのか。
「勢いで車を降りたはいいけど。あ~あ……」ここから自宅までは結構距離がある。
 所持金を確認しようと手元を見ると、左手薬指のエンゲージリングが変わらず煌めいて私の目を眩ませる。
 彼の態度がおかしくなってから、執拗にこれを着けろと強要された。それはなぜ?

「本当は全部、私の勘違いだったりして」

 そんな事を考えていたら、段々と落ち着きを取り戻してきた。
 途端に新堂さんの安否が心配になる。先ほどの不審車両の事もある。簡単に敵でないと決め付けすぎたかもしれない。
 奴等は間違いなくプロだ。どこか大掛かりな闇組織の殺し屋集団に違いない。

 立ち止まって携帯の電源を入れ、GPS機能を使って彼の居場所を特定してみる。
「ちゃんとオンにしてるじゃない」
 けれどそれは、自宅とは別方向に進んでいるではないか。
「どこに行く気?まさか、このままあの女の所?」

 再び沸々と湧き上がる怒り。今の私にはもう冷静な判断は期待できない。

 急激に追求心がメラメラと燃え始める。
「こうしてる場合じゃない。私も追わないと」
 シラを切り通すならば、現場を押さえて言い逃れできなくするだけだ!もう、彼を守りたいのか潰したいのか分からない。
「やっぱり私、刑事にかなり向いてるんじゃない?」

 通りでタクシーを掴まえて行き先を告げる。「急いでね!」


 向かった先は、閑静な住宅地の小洒落たアパートだ。サングラスを頭の上に押し上げて観察する。
 ベンツが駐車場に納まっていた。それはまるで、いつもそこにあるかのように。
 そう感じた理由は簡単だ。この建物が高級な佇まいで、停められている車がどれも高級車ばかりだったから。

「どの部屋かしら……」
 察しをつけて二階へ上がると、途中で女の声が聞こえた。どうやらドアが開いているらしい。
 そっと室内を覗くと、部屋の真ん中で男女が抱き合っているのが見える。

「新堂さん……」それは彼だった。思った通りだ。
 私の声に気づいて玄関に視線を向ける二人。
「ユイ、早かったな……」
「悪かったわね、気まずいところにお邪魔して」
「いや。逆に好都合だ」
「何ですって?」開き直るとは、どこまでも図太い神経の持ち主だ。

 私の左手がコルトに伸びた。もちろん脅しのつもりで出そうとしただけだが。

「これで分かっただろう。申し訳ないが、私には婚約者がいるんだ。言いそびれていて悪かった」彼は私から視線を外して、肩を抱いたままだった女に向けて言った。
「……え?」婚約者がいるという発言。そして泣いている女。どう見ても別れ話のシーンだが、状況が飲み込めない。
「ユイ、こっちへ。紹介するよ」彼が私を手招きした。

「あ、あのぉ……」

 目を瞬くばかりの私に、彼が手を差し伸べている。
 訳も分からず、お邪魔しますと小声で断り室内へ歩みを進めた。

「私の婚約者、朝霧ユイさんだ。私は彼女以外の女性とはお付き合いできない。君との契約は今日で終了。君のご主人は間違いなく完治する」
 私を側に引き寄せると、見せつけるように私の左手を持ち上げてリングを着けた指に口づける。

 辛うじて立っている様子の女は、私達を凝視したまま肩を震わせている。

「ウソよ!お芝居でしょ?だって先生、結婚してないって……。私に、とても優しくしてくれたし!」
「相手がいないとは言ってない。君に優しくしたとすれば、そういう依頼だからだ」
「誰もそんな依頼してない!私がお願いしたのは夫の手術よ!」
「この件を依頼して来たのは、君のご両親だ」
「何ですって?」

「君の事を大事に思っている証拠だ。……羨ましいよ、本当に」
 この言葉は、彼の両親への想いが込められている気がした。

 その後女は自分の両親から事情を聞くと、さらに泣き崩れた。そんな彼女に対する新堂さんの態度はあまりにも冷酷で、思わず同情してしまった。
 私までがこの説得劇に巻き込まれ、どうにか彼女を病院のご主人の元へ送り届けた。


「さあ、朝霧ユイさん、一緒に帰ってくれますよね?」
 病院の駐車場にて、愛車の助手席ドアを開けて彼が言う。
「まあ、いいけど……」この時の私の顔は、きっと全然可愛くなかっただろう。
 あまりにも盛大に勘違いをしていた自分。合わせる顔がないとはこの事だ!

 乗り込むと、車は静かに走り出した。それは私が運転していた車とは別物のような、静かな走りだ。これがドライバーの心を映しているなら、今の彼の心は穏やかだという事になる。

「さっきの続き、しようじゃないか?」唐突に彼が言った。
 前を向いたまま答える。「何だっけ」
「別れ話、じゃなかったか?」
 今度は彼の顔を見て言い返す。「誰が別れたいなんて言った?」
「違うのか」

「私は、自立しなきゃって言っただけよ。そういうあなたこそ、別れたい訳?」
「バカな!むしろ、縛りつけたい気分だね」

 私は大きくため息をついて俯いた。そして「縛っていいよ」とボソリと呟く。
「何だって?」
「……私、自分が怖い。何をするか分からないって本気で思った。だから縛って」
 彼はこんな私の発言に、どこまでも真面目に答えた。
「俺はちっとも怖くない。縛る必要なんてない。俺の事、本気で想ってくれてるって分かって、実を言うと今、かなり嬉しいんだ」

「新堂さん、ごめんなさい!……私、勘違いしてたみたい」
「こっちこそ。ちゃんと説明しておくべきだった、申し訳ない。混乱させたのは俺だ」
「ホントよ!急に態度が冷たくなるんだもん……っ」
「意識したつもりはないんだが……。でもこれで、俺が器用な人間ではないって証明されただろ?」
「二股とか、絶対無理って?」

 彼はただ笑っていた。この人は本当に不器用なのか?どこまでもウラのありそうなその顔を見て思う。

「でもあの人、旦那さんがいるのにあなたに言い寄ってたの?」
「彼女の難病の夫が患者なんだ。死が近づいていると知り、助けたい一心で俺に依頼をして来たんだろうが……」
「あなたに会って、惚れちゃったのね」
 新堂さんは頷くでもなく続ける。「夫の死後に訪れるであろう孤独に、酷く怯えていた。その心配はないと何度言っても受け入れず!彼女の精神は崩壊しかけていた」

「それで?」
「困り果ててね。彼女のご両親に相談を持ちかけたら、これが資産家の娘だったようで、あっさり依頼されたのさ」
 あんな高級アパートに住んでいるくらいだから、裕福なのは明らかだろう。
「依頼って……どういう?」まさか愛人になって心を支えてくれ、とか?
「五千万で、精神崩壊を防いでほしいと」
「それってあなたの専門外でしょ」

「ああそうだ。始めはそう断ったんだ。依頼された患者さえ助ければ問題ないからとね。だが問題が一つあった」
「難病、って言ってたわね」
 彼が頷いて言う。「かなり厄介なものでね。久々に手こずったよ」

 彼は難しい依頼を受けると、昔のようにポーカーフェイスの無口になる。ここ最近そう見えたのはそのせいだったようだ。

「言っておくが、自信がなかった訳じゃないからな?その上臨時収入だ。難解なオペでもないのに五千万だぞ?悪くない話だろ」
「それで?」
「やはり、専門外の事に手を出すのは良くないと思い知ったよ」

 金に目が眩んだとでもいうように語るが、これは真実じゃない。きっと新堂さんは二人とも救いたかったのだ。私はそう思いたい。
 孤独がどんなものかを知っている彼だからこそ。

「ドツボに嵌まってしまった訳ね」
「お恥ずかしながら」
「あなた、優しいから」
「そう思っているのはユイだけだと思うよ」
「それは……まあ、そうかもしれない」先ほどの彼女への態度を思い返して頷いてしまう。

 この後しばらく、私達は黙ったままだった。

 やがて新堂さんがポツリと言った。「そっちのリング、してくれてるんだな。嬉しいよ」
「あれだけ言われればね」
「お陰で説得力もあった」
 女はこういうところを良く見ているものだ。そんな事を彼が知っているかは定かではないが!こういう時のためにエンゲージリングを着けさせたがったのか。

「これで今回のお仕事は、本当に終了ね?」
「ああ」
「それじゃ、やっと一緒にお夕飯食べられる!」
「ああ」
「一緒にお風呂に入って、一緒にワインも飲める!」
「ああ」

「それから、一緒に……」
 ふと、こんな自分の言動があまりに子供染みていると感じて言葉を切る。
「それから?」何も知らず、新堂さんが楽しそうに続きを待っている。
 いつまでも続きを言わない私に、助手席をチラチラと気にし始めた。
「ユイ?」

「私って、何でこう子供なんだろう……。いつまで経っても大人になり切れてない気がする」
 彼は何も言ってくれない。反論はないという事か。
「今回の事だって、勝手に思い込んで、怒ったり落ち込んだりして!けど新堂さんは、いつだってクールで冷静で」運転もそうだ、と心の中で続ける。
 ここまで言ってようやく彼が反応してくれた。

「そんな事ないさ。俺は感情表現が苦手なだけだ。感情を表に出す事が子供染みているとは、一概には言えない」
「その上、依頼人に嫉妬よ?もう救いようが……っ」顔を両手で覆って俯く。
 そんな私の言葉を新堂さんが遮る。「実なは、子供染みていたのは俺の方かもしれない」
「え?」思わぬセリフに顔を上げて彼を見た。

「済まんユイ。俺はおまえを試した。おまえが、どれだけ俺を想ってくれてるのか、確認するために」
「わざと何の説明もせず、私を放置したっていうの?」
「そんな事、する必要もなかったのにな。さっきの不審車両の一件で分かったよ」
「何、……が?」

「本来の朝霧ユイならば、ああいう連中を放って置くはずがない。何しろあいつら、確実に誰かを殺しに行く途中なんだから?」
 私はあえて口を挟まずにいた。
「よその国に来て、あんな物騒な物を持ち歩くなど許せるか!ってね」
「ふふ!うんうん、それで?」楽しくなって続きを促す。
「あのまま追跡して、一網打尽にしてくれるってところか?」

「そこまで分かってて、引き下がった私に理由を聞いたの!」
「聞かなくても分かる。俺のためだろ。あのまま突っ込んでいれば、俺だけを遠ざける事は不可能だ。足手まとい確定だな」
 思わず笑ってしまった。周囲の状況が気になって不安そうに頭を上げた彼を思い出して。
「あら。手を出されなかったから、何もしなかったって言わなかった?」

 あなたを守るため。無用な危険には近づけない。

「ユイ。これからも俺と、一緒にいてくれるか」
「当たり前じゃない」
「それはガード対象として?」
「そっちこそ、主治医として?」

 一呼吸おいて、私達は同時に口にした。

「いいえ。フィアンセとして!」
「いいや。フィアンセとして!」


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