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第三章 適材適所が成功のカギ
ウィークポイント(2)
しおりを挟むその夜は彼が夕飯を担当する事になった。
キッチンにて、食材を切る様子をカウンター越しに眺めている私。
「新堂さんの包丁捌きって、何だかゾクゾクするっ」
彼の手元を見ての率直な感想だ。
そんなコメントそっちのけで彼が言う。「この包丁、切れ味が微妙になってきたな」
「それで?嘘でしょ!」美しく切り分けられて行く食材達を横目に叫ぶ。
「おいおい、いつも使ってて感じないのか?」との問いには即座に「全く!」と返す。
「刃物ってのはな、力ずくで切ったんじゃダメなんだ。おまえはいつでも力ずくだが」
「言ったわね?」ジロリと睨みながら言い返した。
そんな私を無視して調理を再開する彼。
「繊維に沿って、素早く切る。見てみろ、こうすると、ほら、切り口が見えないだろ」
切断した肉を再び合わせると、切り口がどこか判別できなかった。
この人の手にかかれば、包丁がメスに見えてくる!
「えっ?しかも、くっついてない?!」
「付いてはいない。切断された細胞はすぐには結合しないからな」
一塊に見えた肉を、彼が容易に分断した。
「人間の皮膚の場合は皮膚割線という線が走っていて、それに沿って切開すれば、治りが早い上に痕跡もほぼ消える」
「凄いわね!さすが外科医」そう言って身震いする。
そんな私に包丁を光らせて、新堂さんがわざと悪戯っぽい笑みを投げかける。
「くわばら、くわばら!」
私はシガレットケースを手にテラスへと避難したのだった。
その後出来上がった美味しい料理に舌鼓を打っている最中、新堂さんが言った。
「片付けたら採血するからな」
なぜ突然こんな話題に?「ヤダ」と即答すると、当然彼の眉間にシワが寄る。
「何だと?」
「この間したばっかじゃない。必要ないわ」
草津旅行の折に、私が突然鼻血を出したり息切れを起こしたりした事で、我が主治医はかなり神経質になっている。
それは知っているが、そうしょっちゅう針を刺されては堪らない!
「それは俺が決める事だ」
「いやったら、イ~ヤっ!ごちそうさま!」
慌てて残りの料理を口に掻き込んで立ち上がる。自分の使った食器だけをキッチンへ運んで、逃げるように自室に向かった。
新堂さんは何も言ってこなかった。
やがて就寝時間となり、声もかけずにそのまま寝室へと移動してベッドに収まる。
少しすると新堂さんがやって来た。
「入るぞ」
「新堂さんも、もう寝る?」
期待してそんな事を聞いたのだが、手に持っていた採血セットを見て目的を知る。
急いで布団に入って、潜ったまま声を出す。「……いいって言ったじゃない!」
彼がベッドの枕元に座ったのが分かった。
「ユイ」
「いやっ」
「すぐに済む。腕を出せ」
「やだったら!」
「おい、いい加減にしろよ!」声の調子が変わった。
布団から顔を出して彼を睨む。「どうして私が怒られなきゃならなの?」
「聞き分けのない態度を取るからだろ」
「そんなに頻繁に調べなくてもいいでしょって言ってるの。まさかホントに欲求不満解消する気とか?」
彼はしばし黙った。少しして、持っていたトレイをサイドテーブルに置いた。
「分かってる。俺だって過剰だって……だけど不安なんだ。気になるんだよ」
起き上がって、ベッドの端に座った彼を見る。本当に不安そうな顔だ。
「おまえの言う通り必要ないかもしれない。だたの自己満足かも……それでも調べないと気が済まないんだ」悲痛な表情でそう言うと顔を俯けた。
「新堂さんて、徹底的な性格だもんね」融通が利かないともいう?
この言葉に、俯いていた彼が私の方に顔を上げた。
「分かったわ。仕方ないから付き合ってあげる」
「ユイ……ありがとな!」礼を述べるや早速腕を掴まれた。
全く容赦ない!「……あ~あ。だけど、悲劇のヒロインが罹る病の定番よね、白血病って。それを疑ってるんでしょ?何かこう、儚げで究極に美しい令嬢がさ?」
「悲劇のヒロイン?儚げで何だって?」
手元から目を離し、チラリと私を見て繰り返される。
何も答えず唇を真横に引き結んで採血の痛みに耐えていると、彼が笑って軽く首を振った。
「悲劇のヒロインにはさせない。これ以上、ユイを苦しめるような事は!今度そんな事があったら、俺が代わってやるさ」
「何言ってるの?そんなの絶対にダメ!私は名医に診てもらえるけど、新堂さんがそんな事になったら、私は何もしてあげられないんだから……っ」
興奮し始めた私を、そっと抱き寄せて頭を撫でてくれる。
「大丈夫だ。そんな事にはさせない」
「うん……」
「さあ済んだよ。楽にしていい」
私は顔を上げると、彼が押さえてくれていた箇所を自分で押さえた。
この時の検査結果はというと、もちろん問題なしだった。
そして数日後。
「痛……っ!」
うっかり調理中に手を滑らせて、右の小指を切ってしまった。念のためだが私は左利きだ。
「どうした?」彼が声に反応してキッチンへ入って来た。
「も~、サイアク!」
「傷口見せてみろ」
水道水を指に掛けて血を洗い流しながら、傷口の具合を確認してもらう。
「派手に切ったみたいだな。取りあえずこれで強く押さえて。今必要なもの取って来るからそこで座って待ってろ」
「うん……ありがと」
新堂さんがテキパキと指示を出してくれて助かった。一人だったら騒いでいるうちに血塗れだ!
ジワジワと痛みが現われ始めて、押さえたティッシュが血で染まって行くのをただ見つめる。ああ情けない……。
「お待たせ。手、出して」私の正面に座り、手を差し伸べられる。
おずおずと右手を差し出して尋ねる。「……そんなに深く切れてる?」
「そうだな……だがまあ、切断は免れたようだよ」傷口を覗き込みながら彼が答えた。
「笑えないよ、そんなジョーク!」小指だけは間違っても失いたくない。
「痛むか?」
「少し。出血の割にはそうでもないかも」
「迷うところだが、縫合しておくか。表面麻酔だけで行こう。痛みが強ければ……」
「注射はいいから!それでお願い」
処置が済んで、今日の調理は彼にバトンタッチとなった。
キッチンに立ってからも、彼は頻繁に私の傷を確認してくれた。
「出血はどうだ?」
「うん、滲んできてはいない。止まったみたいよ」
それを確認して、ようやく彼が一息ついた。「そうか……良かった」
「これで白血病の疑いは完全に消えたわね」
彼が私の方を見た。これを心配していたのだ。白血病患者ならば一度出血すれば簡単には止まらない。
そして食事中。
「なあユイ、まさかとは思うが……」不意に彼がこんな事を言い始める。
その先が想像できず首を傾げる。「何?」
「わざと切ったんじゃないよな?」
「は~?んな訳ないでしょ!こんな事になって自分が不甲斐なくて落ち込んでるっていうのに?」酷いわ、新堂さん。箸をテーブルに置いて俯く。
「ゴメンゴメン。違うならいいんだ。さあ、食べろ」
「んもうっ……」
「珍しいからさ、おまえが包丁で手を切るなんて?」
これでも刃物の扱いは慣れているつもりだった。まあ、包丁ではないけれど!
「もしかして最近、やっぱり調子悪いんじゃないのか」
「ね~。通り魔に髪を掴まれたり?全くいい加減にしたいわ!体調じゃなくて気持ちの問題よ」
重病の疑いも晴れた事だし、この辺で本格的に鍛え直さねば!
「切れ味のいい包丁にしすぎたかな」
前から切れ味の悪さをぼやいていた彼は、ついに先日自ら新調したところだ。
「違うわ。私が無謀な使い方したせいよ。体調不良でも切れ味のせいでもない」
「そうか……」そう答えながらも疑り深そうに見ている。
「何よ」
「おまえはよく体調不良を隠すからな。少々疑っているだけだ」
「そこまで素直に心境を語ってくれるとは。分かりやすくて助かるわ!」わざとらしく笑顔で丁寧に礼を述べてみる。
「そういえば、自分の体調を隠す性質を持つ動物がいるな」
「動物?何かしら」
「ウサギだ」
「まあ可愛い!で?私がそのウサギさんみたいだって?」
「そう」彼は頷いた。「それは嬉しい例えね」あなたにしては珍しく?
新堂さんが軽く咳払いしてから続ける。「喜んでるところ悪いが、俺は褒め言葉として言った訳じゃない」
「え~?だってウサギさんよ?十分褒めてるじゃない」
「まあ続きを聞け。体調不良を隠される訳だから、常にこちらが観察していなければならんって事だ」
「そうなるわね。でも私にはその必要は……」
言いかけて、彼の鋭い視線に圧されてやめた。
「それと性質がもう一つある。体調が悪くなると、汚れて行くんだとさ」
「汚れる?」
「体だよ。毛とか前足とか。グルーミングが出来なくなるそうだ」
「……っ!私、グルーミング元々しないし!」
必死に否定する私を見て、彼が笑いを堪えている。
「悪い悪いっ!勝手に俺が想像したんだ。イラクにいた頃のおまえは、きっとそんなだったろ?手紙に書いてあった言葉が頭に浮かんでね」
出す当てのない手紙をイラクに入る前日に書いた。向こうは衛生状態も悪く、シャワーを浴びる事すら困難な時もある。つまり、汚れて行くという事!
事故に遭った私を迎えに来た時、滞在していた掘っ建て小屋(!)からそれを偶然見つけ出した新堂さんがこっそり持ち帰っていた。
それを知ったのは、ここで暮らし始めてすぐの頃だ。当然奪い返してすぐに捨てた。
その内容をまだ覚えていたとは……。恥かしい!
「日焼けして黒くなったって言ったでしょ?むしろあの時は絶好調だったもん!」
「俺がいないのに?」
「どういう意味よ」
「俺達は、二人で一つだろ」こう言った彼は真顔だ。
思わずこっちが照れてしまった。「っ!もうっ、新堂さんったら何を言って……」
この人にはついて行くのが大変だ。その昔も実はジョークだったと知らされてガッカリした事が何度あったか……。
だからこんな時は、どうしたって素直に受け入れられない。
「あなたと一緒じゃないと、私は汚れるんだね」
すると彼が不安そうに否定した。「そういう意味じゃないよ」
「いいえ。……血で、汚れるのよ」
こんな事を言っておきながら、黙り込む彼の視線が険しくなって慌てる。
「ほら!ケガしても治してくれる人、いない訳だし?」
きっと彼は、私が人を殺めて血に塗れるところを想像したに違いないから。
気を取り直したのか彼が続ける。「それから、ウサギはストレスや恐怖を感じると、足を踏み鳴らすクセがあるそうだ」
「つまり、暴れるって事?」
「な?やっぱりおまえだろ!」こう言った顔にはもう、さっきの険しさはなかった。
「んもう!」
食事をすでに終えていた私達は同時に立ち上がる。
横に立って彼にわざとぶつかろうとするも、「おっと」上手く交わされてしまう。
「逃げるなんて卑怯よ!」
新堂さんを掴もうと右手を伸ばしたところで逆に掴まえられる。
「おい、まだこの手は絶対安静だぞ」
「……ああ、そうでした、ごめんなさい」
「その様子だと、痛みはないようだな」
そんな事を言われ全神経が傷口に集中し出す。
「思い出したら痛くなってきたかも」
「なら思い出すな」あっさり返される。
「ええ~ん、ジンジンする!助けて、新堂先生っ!」
「そのうち治まる」
「そんなぁ……見捨てないでよ」
上目遣いで訴えるも、彼は主張を変える気配もない。
「おまえはやっぱり、ウサギではないな」
「何でよ……」もはや膨れっ面の私。
「ウサギはデリケートな動物だからさ」
「私ってば、十分デリケートじゃない?」
この言い分にただ笑うばかりの彼。「今度は、お調子者の動物を探しておくよ」そう言ってさらに笑った。
ああ、ウサギでいい!体が汚れるとか暴れるとか言われても、ウサギの方がいいに決まっている!
「ちょっと~新堂さん?あなたはハスキー犬でいいかもしれないけど、わざと変な動物探さないでよね?」
「変とは何だ。その動物に失礼だろ」笑顔を引っ込めて急に真顔で言う。
そんな彼にややたじろきながらも、私は嬉しかった。
「あなたは本当に、誰にでも優しいのね」
そう。新堂さんは優しいのだ。私は元より動物にも、そして時には殺人者にも。
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