46 / 131
第三章 適材適所が成功のカギ
24.ふたりの客人(1)
しおりを挟む季節は春に向かってまっしぐらだ。冷えていた空気が一段と暖かくなったこの日、突然マキ教授がやって来た。
それは、私が一人で遅い朝食を摂っていた時だった。
「こんにちは。その後、お体の調子はいかがですか?」
好まない来客だからと追い返す訳にも行かず、取りあえず中に案内する。
「マキさん、せっかく来ていただいたけど、新堂先生は留守なの。ご用件は……」
「特に約束はしていませんのでお構いなく。あなたの様子を伺いに来ただけですから。突然済みません、ご迷惑でしたかな?」ダイニングに並べられた皿を見て言う。
「いいえ!のんびりしてたらこんな時間になってしまって。もう食事は済みました。気にしないでください」
慌てて皿を片付けて、キッチンで来客用のティーセットを用意する。
ソファに誘導して座ってもらい、茶を振る舞った。
「ありがとう。以前よりも顔色はよろしいみたいですね」私の顔を見上げて言う。
「ええ。度々耳の調子が変になって眩暈が起こるけど、寝込むほどではないわ」
きちんとパートの仕事にも行けている。
「そうですか」そう言ってマキは微笑み、いただきますとカップに手を伸ばす。
ティーポットをトレイに戻して、ソファではなく斜め前の床に腰を下ろす。
話が途切れた。この沈黙こそが耳に悪い……!
話題を探している私の顔を眺めながら、マキが口を開いた。「そんなに怖がらないでくださいよ……」
どこか悲しそうな物言いに思わず謝ってしまう。「ごめんなさい」
「まあ、無理もないでしょうがね」どうやら自覚しているらしい。
視線が私から外され、マキは窓の外を見た。
「今日のような陽気になると、妻の事を思い出してしまいます」
「確か、奥様はご病気でお亡くなりに……」あなたが安楽死させた、とはあえて言わないでおく。
「ええ。もうすぐ命日です。早々と今日、墓参りに行った帰りなんです」
「そうでしたか」
「どうしても、あなたと妻が重なってしまって。妻は全然あなたよりも年上なのですが。ユイさんのように強い女性でしたので」
「名前も偶然同じですしね」少しだけ微笑んで答える。
「ユイさんの事が気がかりで、気づけば足が向いていました」
「お気に留めていただいて、ありがとうございます」
マキは私に優しい笑みを向けた。最初に見た不気味な笑みの人物とは別人だ。
私から見ればマキは父親よりも上の年代。苦労が多いのか、さらに年配に見える。
「この年で一人だと、どうしても誰かに思い出話がしたくなる時があるんです」
妻を亡くしてからずっと一人で生きているマキ。この人にだって寂しいという感情があるのだと(これも失礼な言い草!)思い知らされた。
記憶を失くしていた時の自分は、その感情がピンと来ていなかった。もちろん今なら理解できる。大切な存在を思い出せたお陰で。
「……私で良ければ、聞かせてください」
奥さんの代わりはできないけれど、話くらいは聞いてあげられると思った。
「嬉しいですね、そういう心遣いが身に沁みます」
これまでの無礼で無神経な言動の数々を思い出し、思わず渋い顔になる。
「気にしていませんよ。実を言うと、初めの頃は私もあなたに冷たく当たりましたし?」
「そうでしょ~?だって別人みたいっ……て、ゴメンなさい」またもご無礼を。
「お互い、過去は水に流しましょう。よろしければあれ、弾かせてもらえますか?」
マキが窓際に置かれたグランドピアノを指す。
「ええ、是非っ!」お願いだから、この心を落ち着かせてください!
見るからに慌てる私に、おかしそうにしながらマキがピアノの前に座った。
以前、この人が作曲したという曲を二度ほど聞いた事がある。あの美しい旋律を耳にした時から、この人が死神などではないと分かっていた気がする。
父義男への憎しみを、勝手にマキへ向けているだけだ。
失礼します、と小さく言ってから蓋を開け、静かに鍵盤に指を乗せるマキ。
「音楽の素晴らしさを教えてくれたのは、妻の由衣でした」演奏しながらマキが語る。
過去にも、音楽は安らぎを与えてくれると話していたのを思い出す。
「奥様はハープ奏者でしたよね?」
「覚えていてくれたんですね、嬉しいです」
緩やかなメロディを奏でながら、マキは控えめに話し続けた。
「彼女の演奏はそれは美しかった。魂を揺さぶられた。私だけじゃない、聞く者全ての心を捉えたに違いない。きっと人間だけでなく、動物も植物も……」
音楽は度々奇跡を起こす事がある。昏睡状態の人が目覚めるとか、心を閉ざした人が心を開くとか、さらには植物の成長を促すなど様々だ。
「けれど、奇跡を起こす本人が病で倒れた。もう二度とあの演奏は聞けない。私がどんなに努力して音を奏でても、あの感動は再現できないんです」
多くの人々に癒しと安らぎを与えてくれた彼女は、不治の病に苦しみもがいた。たった一つの願いさえ受け入れられずに。
「死以外に、苦痛を取り除く方法がない。今ならば、彼女は安楽死の対象になるでしょう。しかしあの当時はそんな基準もなかった。そもそも何のための法律なのか?苦しんでいる人間に手を差し伸べる事もできないなんて!」マキの口調が変わる。
そう、法律というものに感情論は通用しない。何一つ。
「……今だって、法律の壁に苦しむ人達は大勢いるわ。海外で活動中の自衛隊員が、法律のせいで目の前にいる住民の一人も救えない現実。それにあの大震災の時だって、法律の壁に阻まれて救出が遅れたりしたって聞いたわ」他にもまだまだある。
マキが大きく頷く。
「彼らは皆、強い信念を持って行動してる。例え自分の身を犠牲にしてでもって……。それなのに、下らない規則とやらが邪魔をするのよ!」
「法律やルールが、いつだって正しいとは限らない。私もそう思います。私達は案外話が合いますね。私の想いを理解してくださる方がいて嬉しく思います」
マキはいつしかピアノを弾く事も忘れて私を見ている。
この人と初めて会った日、自分が教授職を追われた理由を、法律の方が追い付いていないだけだと言い切ったマキに、あなたはそんなに偉いのかと返した。
でもそうじゃない。この人はこういう事を言っていたのだと、今改めて分かった。
「マキさんは、色んな意味で人を救っていたのね……私も救われた一人だけど」
この人が命だけでなく、心をも救ってきた事を身をもって知っている。
「今まで本当にごめんなさい!私、あなたに失礼な事ばかり言って……」
見た目や安楽死という言葉だけで、死神と決めつけた。この人には立派な医者としての信念があるのに。
でも正直、見た目はお世辞にも健全には見えない。イメージは濃いグレーか?
「そういう過去は水に……そうだ、このメロディに流しましょう。どうです?」
中断していた演奏を再開させるマキ。次に弾き始めたのは、あの以前聞かせてくれた自作の曲だ。
「あ……これ好き!」
ありがとうございます、と言ってマキが笑った。
「マキさん。続けましょ、これからも!」
「え?」
「私達が、法律なんかに縛られないこちら側の世界から行動するの。私も新堂さんも、そしてあなたも」そう言ってニヤリと笑うと、マキも同じような笑みを返してきた。
そうそう、この笑顔を言ったのだ。濃いグレーの笑顔!ようやくこの人らしい顔に戻った。悲し気な顔は見たくない。
「ありがとう、ユイさん。私はどこかで、そういう言葉をかけてもらえるのを待っていたんでしょうね」
「今さら自分のしてきた事に怖気づいた、なんて、言わせないんだから?」
「ははは……!全くですな」
「ふふっ!」
「それじゃ、そろそろ私は失礼しますかな」
「えっもう?先生が帰るまでいたら?今日は早く帰れるって言ってたし」
「いえいえ、本当に。あなたとこんな素晴らしいお話ができて、十分に満足いたしました。お元気そうで何よりでした」
「またいつでも遊びにいらしてね」来た時とは正反対の対応だが、この言葉は本心だ。
「ありがとう。本当に来ますよ?」どこか試すように返される。
そんなマキに笑顔で答えた。「ええ、どうぞ!」
「でしたら、今回のお礼に次は是非、診察をさせてもらいましょうかね」
「え?!そっ、その件はお構いなく!」
うろたえる私を見てマキが笑っていた。どうやら冗談のようだ。
「ご安心ください、主治医の新堂先生に無断で、あなたの診察はできませんので」
「そっ、そうよ?もう、悪い冗談はやめてくださいって!」
こんな言い合いの後、私達は笑いながら別れた。
久しぶりに語りに熱が入ってしまった。でもマキさんとこんなに想いを共有できるとは思わなかった。とてもいい時間だった。
マキが帰ってすぐに再び来客があった。
「こんにちは~!年に一度の消防点検で~す!」
玄関ドアを開けると、若い男が帽子を目深に被り、ファイルを片手に立っていた。ユニフォームのような服装でもない。普段着の至ってごく普通の若者だ。
「どうも~。毎年ご主人に立ち会っていただいてます!」
「そうなの?」
私の不審げな視線にも明るく答える青年。
目立った殺気も感じられなかったので、取りあえず中に入れる。
「失礼します!ご主人はお留守ですね?」廊下を進みながら確認される。
「ええ。それが何か?」チラリと後ろを見やり答える。
「いいえ!じゃ、まずリビングからお願いします!」目的のリビングにやって来ると、男が言った。
「ねえ。消防って、あなたは消防局の方?」
「いいえ、僕は委託業者の者です」
男はファイル以外何も持っていない様子。「点検って、見るだけなの?」
「えっ、それは……目視も大切ですよ、奥さん!」
いかにも怪しい。夫のいない時間帯を狙った一般的な強盗か。例のリングのお客とは思えないし、ここは遊んであげようじゃない?
「僕、この辺一帯の地区担当なんです。最近、お車買い換えられましたよね!」
「詳しいのね」全く何の担当だというのか。
買い換える事になったのはつい先日。それも私の気まぐれによるものだ。そして納車したてのクワトロポルテは、彼が乗って行ったため今はない。
「ここら辺じゃお目にかかれないマセラティですよね~!凄いなぁ。僕、車好きなんです!見られなくて残念だ。ご主人は何のお仕事なんです?」
「それって今、関係あるのかしら?」
「嫌だな~、ただの世間話ですよ!」
そのくらいは教えてあげようじゃない。「彼はドクターよ」
「そうですか!それはそれは。どうりであんな高級車にお乗りな訳だ」
「そのうちに帰って来るわ。是非彼と話して行って。ついでに車も見れるし」
「いっ、いえいえ!そんなに長居をするつもりはないですから……!」急に態度がソワソワし出す。
私は隙を突いて男の手にしていたファイルを取り上げた。「何が書いてあるの?」
「あっ!!」
そこには非常時緊急避難用品チェックリスト、と書かれていた。しかも適当な場所にチェックが点けられている。
「何これ」
「かっ、返せっ!…いや、返してくださいっ!」
「あなた、点検に来たんじゃないわね」
ファイルを持ったまま、腕組みをして男を睨みつける。
「フン!今頃気づいてももう遅い!ここは周りの家とは距離があるし人通りもない。騒いでも、誰も助けに来ないぜ?」
裏は山だしね!「そのセリフ、そのままお返しするわ」
男がポケットから折り畳みナイフを取り出し、不敵な笑みで私に突きつける。
「金を出せ!たんまり蓄えてるんだろ?何せ一括であんな超高級車を買えるくらいだからな!」
「そんな事まで良く調べたわね。私達に目を付けてたって事?」
「オレは下調べを入念にするタチでね!」
こんなセリフに思わず笑ってしまう。入念にここを調べたなら、決して盗みに入ろうとは思わないはずだ。何せここには、朝霧ユイがいるのだから?
「何がおかしい?恐怖で頭がイカれちまったのか?ああ可哀想に!」
「きゃあ、どうしましょ!……って、騒いでほしいみたいだけど」
ファイルの角を使って、男の所持していたナイフを叩き落す。即座にそれを拾うと、逆にそいつに突きつけた。
「あ……、あのっ?!」
「さあ、どうされたい?」
「ひっ!」
背を向けて逃げようとした男に向かってナイフを投げつける。
ナイフは男の帽子を貫いて壁に刺さった。固まる男。
「騒いでも、誰も来ないんだったわね。残念ねぇ~」
「ヒィ~!たっ、助けて……っ」
「下調べをした割にはお粗末ね。なぜ複数で来ないの?あなたみたいなド素人一人じゃ、何もできやしないのよ?まあ、あなたみたいなのが何人いても一緒だけど!」
「っ!ここの奥さんは、病弱な女だって聞いたんだ!」
「あら。確かに私、病気持ちだけど?」
「うっ、嘘つけ!」
男に迫り、右腕で頸部を締め付けながら言う。「もう時期彼が帰宅するわ。さっきも言ったけど、是非会って行って」
「ぐっ、遠慮、しときま……」首を圧迫しているせいで声が途切れる。
男の言い分を無視して続ける。「あの人、侵入者を嫌うのよ。前にもね、泥棒に入られて……その時に彼言ったの。今度来た奴は殺す、ってね」
「こ、殺すって……、アンタの旦那は医者なんじゃ!?」
「だから何?それとこれとは別でしょ?」
「クソッ、何て力なんだ!」男は私の腕を解こうとしたができなかった。
「あ、そうだわ!いい事思いついた。ちょっと付き合ってくれない?」
逃げないように一旦男を縛り上げると、自室に戻ってコルトを取り出す。
「いい練習台だわ~!あそこの木の前に行って」
「んなっ、何なんだ、一体?」男は訳も分からず、押されるままにそこへ向かう。
「はい、これ持って。こっちは頭に載せて!落としちゃダメよ?」
男を幹に縛り付けると、両腕を広げさせた上で手の平に空き缶を載せる。さらに頭の上にもう一つ。
そして、これ見よがしにコルトを抜く。
「冗談だろ!モデルガンなんか?あんた、変わった趣味だな!」
「そう見える?なら玩具だと思ってればいいわ。動かないでね。動いたら命の保障しないわよ」
「おっ、おい!まさかホンモノ……?!」
私はわざと最初の一発を外してやった。それは男の左頬を掠めた。
「ギャアァ~~ッ!!」男の声にならない声が響く。
「ほら!動かないでって言ったでしょ?」
次は左手の空き缶を撃ち抜く。
「ヒィ~……」
「そうそう、じっとしててね!」
次を撃とうと構えた時、この丘を車が一台上って来るのが見えた。クワトロポルテ、新堂さんだ。
「あら、噂をすれば。ご主人様のお帰りだわ」
「たっ、助けて……っ!」
男は無謀にも、まだ見ぬこの家の主に助けを求めるのだった。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説

甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様

白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。
どうぞよろしくお願いいたします。



思い出してしまったのです
月樹《つき》
恋愛
同じ姉妹なのに、私だけ愛されない。
妹のルルだけが特別なのはどうして?
婚約者のレオナルド王子も、どうして妹ばかり可愛がるの?
でもある時、鏡を見て思い出してしまったのです。
愛されないのは当然です。
だって私は…。


私が、良いと言ってくれるので結婚します
あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。
しかし、その事を良く思わないクリスが・・。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる