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第三章 適材適所が成功のカギ
22.魅惑のトライデント
しおりを挟むまるで侵入者を威嚇するかのように、我が家の庭に停まる黒の大型セダン。それは常に磨き上げられている。昔から新堂さんの車はいつもピカピカだ。
部屋の掃除はしないのに、洗車だけはマメにしている不可思議な人!
テラスから見えるそんな車を眺めながら、こんな話題を持ち出す。
「ねえ新堂さん。そろそろ車、買い換えない?」
「何だ、クワトロはもう飽きたのか?」ソファで雑誌を読みながら、彼が答える。
「そうじゃないけど。ベンツ卒業したんなら、この際もっと別のにも乗ってみたら?」
彼が雑誌から顔を上げて私を見た。
「ちょっと待て。何だ卒業って?ベンツに乗るのをやめた訳じゃないぞ」
そうなの?と視線だけで投げかける。
「ユイが黒ベンツはヤクザみたいで嫌だって言ってたから。ベンツとBMW以外のドイツ車にしただけだ」
そう。この車は、彼がこの家を手配した時に購入したもの。その時、まだ私は意識がなかった。なぜBMを排除したのか?
「ドイツ車好きねぇ。間を取ったって事?」
「そんなところか。あの時は時間もなかったし。もともとユイに選んでもらおうと思ってたから、取りあえずでね」
この言葉は、私が目覚める事を信じて疑わなかったという事。ジン……と来た。涙目になりそうなところを必死で抑える。
「で、候補はあるのか」
指摘されて気づく。特に考えていなかった。こんな事ならきちんと候補を決めておくべきだった!
「この際だからさ、また別の試そうよ!……そうねぇ、イタリア車とかは?」
「イタリア?ポルシェ、ランボルギーニ……普段使いには不向きなんじゃないか」
「そんな事ないわ、まだあるじゃない、ほら。海の神ポセイドンの矛をイメージしたっていうマークの、ほらっ!」名前が出てこない。
「マセラティ?」
「それそれ!凄くあなたに似合うと思うの!マセラティって、神の乗る車って言われてるそうよ」どこかで取り入れた豆知識を披露してみる。
「神ね……」新堂さんはそう呟いたきり無言だ。
ノートパソコンを開いてインターネットで調べながら話す。
「新堂さんセダン好きでしょ。そうすると……ほら、クワトロポルテっていうのがある」
現れた画像を彼にも見せた。
「またクワトロか」画面を覗き込んだ彼。
今乗っているものもクワトロと名が付いている。「イタリア語で、四って意味なの」四枚ドアという意味だろう。
ああそうか、と彼が納得した。
「あれも三年経つし、そろそろ換え時だな」
「そう来なくっちゃ!」
「でもね~。マセラティの難点は近くにディーラーがない事よ」
アウディのショップはすぐ近所にある。
「どの道、外車に乗る以上はメンテの面では不利だろ」
「いざとなったら、私がイタリアの店舗に直接かけ合うから安心して!」
母の住む国という事もあり、私にとっては身近に感じる。
自信たっぷりに言ってみると、彼が何かを考えている様子。
「どうかした?」
「ユイの習得した言語は、カーメーカーの有名どころが揃ってるなと思って」
「それは偶然でしょ」なぜその言語を選んだかは、キハラ師匠に聞いてもらいたい。
「何だ、そうか」なぜかどこか残念そうだ。
「そこまでのクルマ好きじゃないわ。新堂さんこそ好きでしょ!あの時のランボルには驚いたわ」あの時の衝撃は、記憶を取り戻した今も同様だ。
「あれはおまえが喜ぶだろうと思って借りたんだ。ポルシェだっておまえが乗りたいって言ってたろ?現地メーカーだし、あの時は勢いだよ」
「冗談でしょ?ポルシェはともかく、あれは普通の感覚じゃ乗れないから!」
イメージ的には映画スターが賞を取りに行く時とか?
「確かに、やや高額ではある」
「値段の問題じゃなくて!」
二千万の車も大して高くないという男だが、さすがにランボルギーニは高価のようだ。それを知って少し安心した。
「でもユイは、スポーツタイプがお好みだろ?」
「カーチェイスにはね。でもあれは異常よ!目立ちすぎてすぐに見つかるわ」
「何しろあっちには、ランボルのパトカーがいるらしいからな!」
「逃げられっこなしね」
ランボル同士で競い合うところは、是非とも見てみたい。あくまで傍観者として!
「冗談はこのくらいにして。今のでもまだ十分だが、新車には興味があるな」
「じゃあ決まりね!明日お休みだし、早速見に行きましょ!」
翌日、私達は久々にみなとみらいへ出かけた。今の場所に越して以来、こちら方面にあまり来なくなった。
「来ないうちに、この辺も随分変わったな」車窓から周囲を眺めながら彼が言う。
「ホント~。ついでに、私のマンション見て行こうかな」
その昔色々あって、新堂さんが購入の手続きをしてくれた高層マンションの最上階。
「新堂さんの住んでた部屋もそのままなんでしょ?見てこうよ!」
「ああ、そのままだ。家具は全部今の家に運んでしまったから、何もないが」
別々に住んでいた時、お互いの居住地は偶然近所だった。こんな事でも縁を感じてしまう。最初の彼の住居があまりにおんぼろアパートだったので、かなり意表を突かれたのをよく覚えている。すぐに引越しを勧めたのは言うまでもない。
「部屋、もう使ってないんだし、売っちゃえば?」自分のを棚に上げて指摘する。
するとすぐさま返事があった。「いや。あのままでいいんだ」
「どうして?」
「あそこは、ユイが選んでくれた場所だからな……」小さな声でよく聞こえない。
「え?今何て?」聞き返すと彼が言い直した。「ケンカして追い出された時に退避するためだよ」
「ちょっとぉ?誰が追い出すっていうの、そんな事しないから。新堂さんったら!」
運転中の彼を叩きながら抗議する。
「痛い、やめろってっ……。そういうおまえだって、もうあそこは必要ないだろ」
「いいの!あのままで!」
私だって、あなたとの思い出が詰まった部屋を売りに出したくなんてない。
言い合う間も車は進んで行く。
海はもうすぐそこだというのに、どこまで近づいてもビル群が続いている。
「前はこの辺からも花火が見えたのになぁ。一体どれだけ建てるつもりかしら!」
車窓から海岸方面を眺めて嘆いた。年に一度、海面から花火が上がる。
「花火ならマンションから見えただろ?」
「臨場感を味わうために見に行ってたのよ。あの体を突き抜ける衝撃がいいんじゃない!」両腕を天井いっぱいに上げて、ドーン!と叫んでみる。
「そんなもんか?興味ないな」
「相っ変わらず冷めてるわね……新堂先生は!」
張り合いがないのでこの話は早々に切り上げた。
こうして目的地に到着し店内に入る。
「いらっしゃいませ!お乗り換えをご検討ですか?」停車されたアウディ・クワトロを横目に店員が言う。
「そうなんだ。妻がこちらの車を気に入ったようでね」
新堂さんが私の肩に手を置いて顔を覗いてきた。
「ふふっ!ええ、そうなの。あれと同等くらいので、何かお勧めないかしら?」
妻という響きを堪能しつつ極力自然に振る舞うが、顔がニヤけてしまう。
「ユイ。何かおかしいか?」
「っ!何でもないわ、カズヤさん!」
今のは絶対にわざとだ。仕返しに名前で呼ぶと、彼も意表を突かれたのか一瞬動きを止めた。
これだけ長い付き合いの私達だが、彼を下の名で呼んだ事がない。本人もこれと言って不満はなさそうだ。これは変だろうか?
顔を見合わせていた時、店員がパンフレットを持って戻って来た。
「お客様、こちらなどいかがでしょうか」
差し出された冊子を捲る彼。「おお、これか、おまえの言っていたヤツは」
「そうそう!これ。どう?カズヤさん」
「いい感じだな」
「ありがとうございます!こちらは当社でも一番の性能を誇っております。セダン車としては、お客様が今お乗りのものよりも遥かに高性能かと存知ます」
私達を奥の個室に通すと、店員がにこやかに自社製品のアピールを始めた。
「俺はあれも気に入ってるんだがね」
「もちろん、あちらのお客様のお車も素晴らしいですよね!」彼の言葉を受けて店員が慌ててフォローする。
「何しろ排気量が大きすぎてね」私を見て言う彼。
神妙な顔で頷いて答える。「そうなの。車重もね。もう少し身軽なのがいいわ」
「そうですね。アウディさんのクワトロは、馬力がかなりありますね。その点では当社のクワトロポルテは劣りますが、トータルで見ればバランスは取れているかと思いますよ。あちらよりも、ややお安いですし!」
私達は同時に頷いていた。どこから見ても仲の良い夫婦だろう。
「ねえ、スポーツタイプがいいんじゃない?」私はパンフレットを見ながら言う。
「それでしたら奥様、こちらのクワトロポルテGT‐Sが今度フルモデルチェンジするのですが」
「ふうん。どこを変えたの?」
「はい、ボディは少々サイズアップしまして、しかしながら軽量化も実現いたしました。より豪華で実用的なものとなっております」
「軽量化ね。どの道、私達が買うとすれば防弾仕様にしてもらうけど」
「ボウダン、でございますか?」
ポカンとする店員に、彼がさりげなく囁いた。「聞き流してくれ」
「やっぱり素敵じゃない!絶対これ、あなたに似合うわよ」
「はい、とても良くお似合いでございます!お客様のような方に乗っていただくためにお作りしているようなものですから!」
「ですってよ?」
私はすでに店員と意気投合している。彼がため息をついていた。
「まあ……取りあえず、試乗してみるか」
「かしこまりました!」
早速手配に向かう店員。確実に売り上げに繋がりそうな客に躍起になっている。
「奥様も運転されますか?」
私は手を振って否定の意を示す。
先に運転席に乗り込んだ新堂さん。続いて私も助手席に乗る。
「スポーツタイプの試乗車がご用意できずに済みません。でもこちらでも十分良さを分かっていただけると思いますので!」店員が説明しながら後部席に乗った。
車内を見渡した彼が頷きながら言った。「なるほど。いいじゃないか」
「うんうん!中も広いわ。明るい色もいいわね」
試乗車はシャンパンゴールド、内装はベージュだった。今までの車は全て黒だった(私は赤だが?)ので雰囲気が全然違う。
「でも買うのは黒だぞ」当然のように彼が言う。
「そこは譲らないのね……」
「そのくらいこだわってもいいだろ?」
私達の会話を聞いて店員が口を挟む。「ご主人様は、黒がお好きなんですね~!」
「そうなの。この人が黒以外の車に乗ってるとこ、見た事ないもの?ね!」
試乗コースを回り終えて店に戻る。
「いかがでしたでしょうか」
新堂さんが微笑みながら私を見る。「決まりかな」
「ええ」私も笑みを返して答えた。
「ありがとうございます!」
「で、当然スポーツタイプのGT-Sでお願いね」続けて店員に注文を付けた。
そちらの方が高額だが、この男には何の問題もないはず?彼をチラリと見るも、表情は穏やかだった。
こうして契約の手続きを終えて店を出る。
「あの人、ちゃんと分かってるかしら……」一つ不安な事がある。
「防弾仕様の件か?」彼にはすぐに分かったようだ。
「そう。ちょっぴり頼りない感じじゃない?あの人!」防弾仕様と言った時のあの顔は、何も分かっていない顔だった。
「平気だろ。一括払いしたんだし。要望通りにさせるだけさ」
またもや新車を一括払いで購入した。さすがに現金ではないが!高級車専門店とあって、そこまでの騒ぎにはならなかったが?
「それで実際、乗ってみてどうだった?これとどっちがお好み?」
「やっぱり俺は……、ベンツかな」
「新堂さんっ!今ベンツの話してないからね?」
「ならユイは?」
「そうね、実はポルシェもいいなって思ってる」
「やっぱりあそこでレンタルしたヤツが気に入ったんだろ?」そうだそうだ!と彼が一人で納得している。
「乗ってみて思ったのは事実よ」体調さえ良ければ、あの時運転してみたかった。
すっかりアウディとマセラティは話題から消えていた。
「納車が楽しみね!ねえ、ポルテちゃんで旅行に行きましょうよ」
「このクワトロ君はどうするんだ?」
「う~ん。そうだ、貴島さんにあげたら?」
「なるほど……。確かにあいつ、古いのに乗ってたからな!」
「そうすれば、会いたくなったら会えるし!」
「会いたくなるか?コレに」
「どうして?だってこれには、私達の思い出がたくさん詰まってるじゃない」
この車との思い出は、一緒に暮らし始めてからのもの。本当に色々あった。そのほとんどは辛い出来事だったような気がしないでもない。
案の定、彼が心配そうに尋ねてくる。「それは、いい思い出なのか?」
「いいか悪いかじゃない。新堂さんとの思い出だから大事にしたいの」
運転中の彼に抱きついて言う。その拍子にハンドルが動いて、一瞬車体が揺れる。
「危ないだろ!」
「ごめんなさい……っ」慌てて大人しく元の位置に戻る。
外を見れば沿岸の工場地帯が続いている。
「あ~あ。私も試乗運転したかったな~」つい本音が口から出てしまった。
「おまえはダメだ」当然の回答なのだが、「何よ、ぶつけないモン!」と張り合う。
「そうじゃない。いつ眩暈が起こるか分からないだろ?」
「それは……っ」分かっている。だから辞退したのだ。
下を向いて黙り込んだ私に彼が言ってくれた。「きっと改善される、大丈夫だ。そうすればいくらでも運転できる」
「本当に?」
「……まあ、約束はできないが」
嘘を言わないとするなら、この答えは正しい。
ここのところ激しい症状は出なくなったが、まだ異変を感じる事がしばしばだ。
不意に彼が私の方に手を伸ばした。私はその手を取って握る。
「ありがと。慰めてくれてるのね」
「そもそもこういう車は、ユイには似合わないよ」
「分かってる。大きすぎるもの!」やっと笑顔で彼を見られた。
そんな雑談を交わしながら、行きに話題となったお互いの部屋を回って帰った。
その夜の食卓にて。
「そう言えば、ディーラーで俺の事……」そこまで言って私を見る彼。
私はすぐにピンときて答えた。「和矢さ~ん!の事?夫婦を装うのに、夫を苗字で呼ぶのは不自然でしょ」
「それもそうだ」
実は呼んでいる自分も照れているのだが……っ。はにかみながら彼を見る。
「好きに呼んでくれ。俺はどちらでも構わん」
「何よ、ホントは気に入ったんでしょ?全く素直じゃないんだから」
膨れっ面で抗議するも、彼は構わず食事を続けている。しばらく彼を睨んでいたけれど、諦めて食事を再開した。
「そう言えば……」
「今度は何!」
また同じように話を切り出した彼に、少しイラ立って声が荒くなる。
「旅行、行くって言ってたろ。その話だったんだが、やめた」
「ええ~?何でっ!」私の機嫌が悪くなったのが原因?
「全くおまえは気性が荒いというか激しいというか……そんなだから疲れるんだ」
呆れたように言う彼に、増々膨れっ面になる。
「疲れてません!」言い返さずにはいられない。対する彼が「はいはい」と往なす。
「新堂さん!」
「下の名前で呼ぶんじゃなかったのか?」
「あ……っ」すっかり忘れていた。
「どっちでもいいぞ。俺は」目も合わせずに言い返してくる彼に、肩の力が抜けた。
「慣れない事は、しない方がいいみたいね。じゃ改めて。新堂さん?」
「何だ」
下の名で呼ばれない事を残念がっているのか否か、この返事からは判断できない。
「あの、旅行の話だけど……」恐る恐る切り出してみる。「やめないでしようよ」
彼が顔を上げた。「出先で何かあると困る。旅行はまだやめておく。そういう話をしようとしたんだ」
それは旅行の話ではないではないか!ガッカリして口をつぐむ。
「何だ、反論はなしか。これはこれで面食らうな!」
今気づいた。私の怒りを引き出しているのは紛れもなくこの人なのだと!
「新堂さんっ!」
食卓に、私の声が響き渡るのだった。
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