この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

文字の大きさ
上 下
37 / 131
第二章 人生は万事、塞翁がウマ!

  アルジェリアの悲劇(2)

しおりを挟む

 耳の不調が落ち着いて、しばらくは何事もなく過ぎて行ったのだが……。

 この日、会社から帰宅する途中でまたもや体調がおかしくなった。それは耳だ。そして新たな発見だが、聴覚が変になるとまともに歩けない事が判明する。
 私はすぐに新堂さんに連絡を入れ、途中まで迎えに来てもらった。

 助手席に乗り込むなり、両耳を押さえて俯く。

 そんな私を見て彼が言う。「このまま検査に行くからな」反論する前に言葉は続いた。「おまえの返事は必要ない。答えなくていい」
「随分とまた一方的ね!」耳を塞ぎながら吐き出すように声を出す。
 音の反響のせいで頭が割れそうだ。痛む訳ではないのだが、気が遠退いて行きそうになる。
 そんな私を横目に、「話すのが辛いだろうと思っての、俺なりの優しさなんだが?」と彼。ああそうですか!目だけで、お構いなくと訴えた。


 近所の病院に着くと、聴覚や脳の検査を様々受けさせられた。

「聴力も鼓膜も、耳の方には異常はない。やはりもっと内部か……」
 横になっている私の前に椅子を持って来て座ると、状況を説明する彼。
「ねえ、眩暈がしてる割に、私のバランス感覚抜群だと思わない?」
 この日平衡感覚の確認もしたのだが、どういう訳かどれも優秀な成績を修めた。
「ああ全く!日々のトレーニングの賜物だな。恐れ入ったよ」そう言ってほしいんだろ?と彼の顔に書いてあった。

 おどけて返してきたものの、難しい表情をしているのを見て不安になる。
「新堂さん……」
 私の呼びかけにも答えず、何かを考え込んでいる。

 やがて立ち上がり言い放つ。「帰るぞ」
「もういいの?」
「ああ。少し時間をくれ」
「新堂先生がそんなに考え込むなんて、珍しいじゃない。……私、何か悪い病気?」
「まだ何とも言えんが、俺の考えが正しければ……」
「正しければ?」

 診療用の簡易ベッドから起き上がって靴を履く。途端に酷い眩暈に襲われて、きつく目を閉じて固まる。

 それに気づいた彼が手を差し伸べてくれる。「慌てるな、ゆっくりでいい」
「うん……。ああ、ダメっ。少し良くなったと思ったのに!」
「眩暈か」
「どうしよう、立てないよ」
「頭を動かさないで。そのまま少しじっとしてるんだ」傾いた私の体を支えながら新堂さんが言う。

 しばらくすると、彼の言うように落ち着いてきて立ち上がる事ができた。

「もう平気。ありがとう、行きましょう」
 彼が差し出してくれたコートを羽織る。
「またマキ教授に来てもらおう。考えていた事はその時に話すよ」
「マキさん、かぁ……」
 助けてもらった事を思い出した今も、あの人は苦手だ。

 無意識に身震いしていたようで、彼に指摘される。「寒いか?」
「ううん!違うの。ちょっと色々思い出しちゃって」
「……さあ、帰ろう」

 彼の暖かい手を背中に感じながら病院を出る。
 外はもう暗かった。冬も最終局面を迎えた。これから夜になるにつれ、どんどん冷えるだろう。


 家に帰り、早々に寝室に直行する。

「明日予定が合えば、マキ教授に来てもらう。今日はもう休め」
「ねえ、どうしてもあの人に診てもらわないとダメ?新堂先生だけで十分だよ」
「気になる事があるんだ。まあ、セカンドオピニオンとでも思ってくれればいい」
 自分の考えを確認したいという事か。やけに慎重だ。

 二つ並んだベッドのうちの、自分の方に入る。

「新堂さん……ごめんね」
「何が?」
「せっかく寝室を一緒にできたのに、私またこんな事になっちゃって……」
「そんなの気にするなよ」
「私、向こうの個室で寝た方がよければ……」横になりかけて動きを止めた。

 そんな私の体に手を添えて、静かに寝かせてくれる。
「こっちでいい、今はな。今のところ必要なのは、これくらいだから?」点滴を下げておくポールをベッドに近寄せながら言う。
「うん……」

「あ、もし音の反響が辛くて、俺のイビキがうるさいって言うなら、向こうで寝てもいいぞ?」
「ふふっ!新堂さん、イビキかくんだ?知らなかった~!」何せずっと別々の部屋に寝ていたもので?
「低音が反響する今のユイの耳で聞いたら、間違いなく卒倒だな」
「それは怖い……!」

 私は耳を押さえながら笑った。彼は私が申し訳なく思っている事を知って、あえてこんな話で笑わせてくれたのだ。

「冗談はこれくらいにして。何かあったら呼べ。後で食事を持って来てやる」
「うん、ありがとう」

 そして彼は出て行った。

 個室にもあった呼出し用のブザーがこの寝室の枕元にもある。まるで病院にいるようで最初は堪らなかったが、今では大いに有り難い。
 たまに誤って押してしまったりするけれど、どんな時でも彼は怒る事もなく、優しく対応してくれる。


 こうして翌朝。それもかなり早い時間帯に、それは始まった。

「ユイ、起きてるか?」
 彼のこの声で目を覚ます。その後ろにもう一人誰かがいるのが分かるけれど、とにかくまだ眠い。
「……ん、何?……もう少し寝かせてよ、新堂さん」
 彼はいつも早起きだ。朝が苦手な私は絶対に起きない時間帯に起きている。

「おはようございます、ユイさん。早くにお邪魔して済みません。この時間しか空いていなくて、新堂先生が構わないとおっしゃるので来てしまいました」
「マキさん?……構わないって、勝手に決めないで。私は構うんだけど?」

 まだぼんやりしている私の頭に、何かの機械が取り付けられた。
 底知れない恐怖を感じ、彼に助けを求める。「ちょっと……ヤダ、新堂さん!」
「心配ない、ここにいる」

 昨夜は隙間なく付けられていたはずの二つのベッドが離され、そこの間に彼が立っていた。

「そのまま動かないで。リラックスしていてくださいね」
「何するの?あっ、頭が痺れる、おかしくなりそうよ。やめて……!」
「少しだけ辛抱してください」
「うう……っ」

 耳鳴りが酷くなり、それを過ぎると頭痛に変わった。そのうちに何も分からなくなり、また眠ったのだと思う。これは夢だ、そうに違いない。
 気づくと部屋には誰もおらず、私は寝室でいつも通りに寝ていた。隣りの彼のベッドとの隙間はなく、ピタリと付いている。

「やっぱり夢だったんだわ」

 ゆっくりと起き上がる。耳はまだ何となくおかしいけれど、大分楽になっていた。
 もう少し落ち着いてからと、しばらくベッドに上体を起こした状態で留まっていると、部屋に二人の医者が入って来た。……夢じゃなかった。

「ユイ、気分は?悪くないか」彼が先に私に近づき、額に手を当てて聞いた。
「うん。別に大丈夫」
 私の返答にマキが頷く。
「先ほど少々調べさせていただきました。どうやら過去に数回、脳内部へ強い刺激が加わったようです」

「刺激……?」
「その影響で耳の奥の器官に支障が出ていると考えられます」
 激しい眩暈や耳の不調はそのせいだと言うのだ。

「それに少し前に高熱を出されていたとか」
 これに答えたのは新堂さんだ。「感染症に罹り四十度以上の発熱が二度ありました」
「あらゆる要素が組み合わさってしまったのでしょう」
「そう思います」

 私は深刻な顔で語り合う二人の医者を交互に見た。
「それで、治るの?」
「どうでしょう。傷付いた神経は元には戻りません。ただ、症状を軽減させる事はできるでしょう」
 こんなセリフを前にも聞いたような……全く最近、厄介事が増える一方ではないか?

 私はあからさまに大きなため息をついた。
 それもこれも全部イーグルのせいだ。余計な事をしてくれたものだ!だがそれのお陰で、こんなに早く記憶を取り戻す事ができたのかもしれないのだが。

「まあ、あまり神経質にならずに、気持ちを強く持つ事です。私にできる事でしたら、喜んで協力いたします。遠慮なくご連絡ください」
 私にというよりも新堂さんに向かってこう言って、マキは微笑んだ。

 そして、朝早くからお邪魔しましたと言い残し、大量の飲み薬を置いて帰って行った。
 私の注射嫌いを分かってくれたマキには感謝しかない。

 体調もそれほど問題なさそうだ。着替えてリビングに向かうと、マキを見送って戻ってきた新堂さんから予想通りの言葉がかかる。
「ユイ、寝てなくていいのか」
「うん。むしろ起きてた方が楽なの」
 そうか、と頷いて彼が背を向けた。

「仕事?」
「ああ、書斎にいる。何かあったら呼べ。朝食は適当に……」
「自分でやるから大丈夫です!」
「ちゃんと食べろよ?それで薬も飲めよ?」
「もちろん。お腹ペコペコだし!」

 一人になったリビングで、ぼんやりと窓の向こうの見慣れた景色を眺める。
 その静かな空間で、グウと派手に音を鳴らした自分の腹に驚く。
「まさか聞かれてないよね?地獄耳の新堂さんに!」そっと廊下の方を振り返るも、彼の姿はなかった。

 口数の少ない彼。元々多い方ではないけれど、言ってくれなければ何を考えているのか分からない。私を不安にさせるのが天才的に上手いのだ。昔も、そして今も。

 キッチンで遅めの朝食を用意してダイニングに運ぶ。
「これじゃ、人助けどころじゃないよなぁ……」

 こんな皮肉を口にしながら一人寂しく食事を進めていると、新堂さんがこちらを覗いているのに気づいた。
「あら?仕事してたんじゃなかったの」
「やめた。俺も何か食べようかな。早くに朝食を摂りすぎて、腹が減ってしまった」
「何時に食べたのよ?」と問えば、「五時くらいかな」と返ってきたではないか。
 目を丸くする私を彼が笑った。

 こうして寂しかった食卓が、たちまち楽しい時間に変わった。
 ああでもない、こうでもないと言い合いながら食事を終えて、リビングのソファに並んで腰を下ろす。

 じっと見つめていた彼が、私の顔に手を触れてくる。今の彼は無表情ではない。ここ最近の私を不安にする顔では。
 優しい彼の眼差しに、思わずぼんやりとなってしまう。

「ユイ?また眩暈か……?」
「違う。……あなたが、あんまり素敵だから」見惚れているの。
「冗談が言えるならもう心配ないな」
「あら、冗談なんかじゃないわ」

 私も彼の顔にそっと触れる。

「何も心配ないからな。安心していい、ユイ」
「うん。ありがとう、新堂さん」

 私はとても幸せだ。体調が悪くても何が起きても。彼の優しさと愛に包まれていられるなら。このままいつまでもこうして……。


しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?

キミノ
恋愛
 職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、 帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。  二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。  彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。  無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。 このまま、私は彼と生きていくんだ。 そう思っていた。 彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。 「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」  報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?  代わりでもいい。  それでも一緒にいられるなら。  そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。  Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。 ――――――――――――――― ページを捲ってみてください。 貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。 【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

現在の政略結婚

詩織
恋愛
断れない政略結婚!?なんで私なの?そういう疑問も虚しくあっという間に結婚! 愛も何もないのに、こんな結婚生活続くんだろうか?

人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?

石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。 ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。 ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。 「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。 扉絵は汐の音さまに描いていただきました。

大好きな背中

詩織
恋愛
4年付き合ってた彼氏に振られて、同僚に合コンに誘われた。 あまり合コンなんか参加したことないから何話したらいいのか… 同じように困ってる男性が1人いた

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

アンコール マリアージュ

葉月 まい
恋愛
理想の恋って、ありますか? ファーストキスは、どんな場所で? プロポーズのシチュエーションは? ウェディングドレスはどんなものを? 誰よりも理想を思い描き、 いつの日かやってくる結婚式を夢見ていたのに、 ある日いきなり全てを奪われてしまい… そこから始まる恋の行方とは? そして本当の恋とはいったい? 古風な女の子の、泣き笑いの恋物語が始まります。 ━━ʚ♡ɞ━━ʚ♡ɞ━━ʚ♡ɞ━━ 恋に恋する純情な真菜は、 会ったばかりの見ず知らずの相手と 結婚式を挙げるはめに… 夢に描いていたファーストキス 人生でたった一度の結婚式 憧れていたウェディングドレス 全ての理想を奪われて、落ち込む真菜に 果たして本当の恋はやってくるのか?

処理中です...