この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第二章 人生は万事、塞翁がウマ!

18.長湯効果(1)

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 我が主治医新堂和矢は、一度決めた事はすぐに実行する。

「いくらパートだからってね、こうしょっちゅう休んでたらクビになっちゃう!」
 私がこんな主張を繰り広げている理由は、勝手に会社に休暇を申請されたから。
「昨夜、検査に行くって言っただろ」
「だからって!あなただって、今日仕事に行くって言ってなかった?」
「ああ。午後からだから十分間に合う」事も無げに言う。

「あっそうですか!だけどさ、次のお休みの日でいいじゃない。緊急じゃないのに、何も会社休ませなくたって?」
「思い立ったが吉日って言うだろ。すぐにやった方がいい。おまえの会社の支社長さんは感じのいい人だな!」
 支社長こと我がボスは女性だ。この人物がまた強烈なキャラで……。ある意味私も恐れていたりする。

「……感じがいいのは当然よ!」こっそりと呟いた。
 営業職上がりという人種がどういうものか、お勤め経験の浅い私でも分かる。新堂さんがそれを理解しているかは不明だ。つまりそれは上辺だけという事!
 もちろんそんな人ばかりではないだろうが、ウチのボスに至っては裏の顔が恐ろしい……。


 膨れっ面の私を急き立てるのが実に上手い我が主治医は、あれよあれよという間に私を病院まで運んだ。
 勝手知った病院内で一人テキパキと準備してレントゲンやらMRIやらを撮り終える。
 病室で一人で休んでいると、ナースが控えめに顔を出した。

「こんにちは、朝霧さん」彼女は親し気に私の名を呼んだ。
 栗色の髪がとても美しいボブカットの女性だ。
「……こんにちは。あなたは?」
「前に別の病院に入院されていた時、お世話させていただいてました。澤村由美です」

 ユミ。この名前には覚えがあった。

 その病院がどこかはすぐに分かった。私がテロで大ケガを負って帰国した後に、世話になった場所だ。
 彼女に関しては、何分意識がなかった時の事なのでただの夢だと思っていたが、どうもそうではないらしい。あれは私が眠る病室で、新堂さんが親し気に話していた女性。
 意識が戻ってすぐに彼を問い詰めたが、ただのナースの一点張り!それにしては親密そうに見えたのだが?

 その渦中の人物が今目の前にいる!何という巡り合わせか。
 ここはいつも使っている近所の病院で、この人がいるはずがないのに?目の前のナース姿の彼女を見つめて首を傾げる。 
 けれど何よりも、この人と新堂さんを会わせたくない。こんな子供染みた独占欲の方が大きい。

「あの……大丈夫ですか?」不安そうに瞳を揺らしている。
「別に、何ともありません!」本音は全然何ともなくない。究極に複雑な心境だ。
 立て続けに口を開く。「お忙しいでしょ、わざわざ挨拶なんて申し訳ないわ。どうぞお仕事に戻って……」
 早く追い払おう、そう考えてここまで言った時、再び扉が開いた。

「ん?君は……」
 どうしてこうタイミングがいいのか!

「新堂先生!ご無沙汰しています」彼女がペコリと頭を下げて言う。
 続けて、不思議そうな顔をする彼に説明する。「職場の環境を考えるきっかけにと、一時的に勤務先を入れ替えて、ナース同士意見交換してるんです」今回初めてメンバーになったとの事。
「まさかこうしてお会いできるとは思いませんでした……」本当に嬉しそうだ。
 それに彼が答えた。「そうでしたか。私もまた会えて嬉しいですよ」

 面白くない。こんな新堂さんの顔は見たくない!

 私を取り残して会話は続く。
「朝霧さん、見違えるように元気になって……本当に良かったです」その瞳はキラキラと輝いている。
 喜んでいるのは私の事ではなく、その人に会えた事ではないのか?
「その節は本当に世話になった。ユイ、こちらが前に話したナースの……」
 彼の言葉を遮って話し出す。「もう話した。改めての紹介は不要よ」

 どこか冷たい口調になってしまう私。こんな大人げない自分が嫌で堪らないのに、どうする事もできず。こんな事なら、記憶など思い出さなければ良かったとさえ思う。

「あの、それじゃ私、失礼しますね。朝霧さん、どうぞお元気で」
「わざわざありがとうございます」私は下を向いたまま、目も合わせずに返した。
 彼は〝由美サン〟を笑顔で見送った後に私に目を向ける。
「ユイ」

 きっと私のこんな態度にダメ出しをするのだろう、そう思った。
 けれど新堂さんは、それについては何も言わなかった。

「今のところ異常はないが、神経の伝達と血流が若干良くない部分がある。その影響で痛みが出たり動きが鈍くなるんだろう」
 黙ったまま説明を聞く。
「おまえの言うようにリハビリは大事だ。あまり負荷のかからないやり方で、やって行こう。……って、聞いてるのか?」反応しない私に確認してくる。

「聞いてるわ。異常なかったなら、今から会社に行ってもいい?まだ昼だし。午後の分の仕事はできるから」
「今から?慌ただしい!明日からでいいだろ」
「ダメ!やっと見つけた仕事なの。責任もってやりたいのっ!」
 さっきまで静かだった分、急に強く出た私に彼が面食らっている。

「そんなにムキになるなよ……。分かったよ、なら会社まで送ってやる」
「ありがと」
 そう、私はムキになったのだ。何かしていないと、この脳ミソが何を考え出すか分かったものじゃない!


 けれど、会社に着いても気分は晴れなかった。彼が何と言って休暇届を出したのか知らないが、何で来たんだと皆が質問責めにする始末!
 まるで腫れ物に触るように扱われ、ほとんど仕事させてもらえなかった。

「ああ~モヤモヤする!」記憶を失くす前よりもモヤモヤするのはなぜだろう?


 帰宅すると、新堂さんはまだ仕事から帰っていなかった。
 大きなため息の後、仕事用のズッシリとしたバッグを放り投げ、ソファにどっかりと腰を下ろす。

「何よ!どうしてこうなるの?私……何かいけなかったの?ねえキハラ!何とか言ってよ……キ、ハラ」自分で呟いておきながら首を傾げる。
 こんなふうにキハラに話しかけるなんて、どうかしている。まるでもう、この世にいないみたいではないか?

 けれど自分は今までも、度々こうしてキハラに問いかけていた気がする。

「変なの!我が師匠は神か仏にでもなったっていうの?バカバカしい!あの人がなるとしたら地獄の番人か何かよ、絶対」
 こう捨てゼリフを吐いた時、ふとこんなキハラの声が頭の中にこだました。
〝あの世で、待ってるぜ……ユイ〟

 どういう、事?



 数日後、仕事を終えた私は、会社の前で久しぶりにウキウキ気分で彼を待っていた。今日はこれから、新堂さんと箱根までドライブを予定している。
 あの検査の日から、私がイラ立ち気味な事を気にしてか誘ってくれたのだ。

 交差点の向こうに、信号待ちしている黒のアウディ・クワトロが見えた。
 それはスマートに私の前までやって来る。

「お疲れ様。待ったか?」助手席側の窓が開いて、彼の声がした。
「全然。今出て来たとこ」お決まりの回答をして微笑む。本当は結構待っていたのだが。今日くらいは穏やかに過ごそう、そう思った。
「じゃ、行こうか。早く乗れ」
「うん!」

 会社前に停車して会話していたこの数秒間に、同僚が一人現れた。
「あら!朝霧さ~ん、これからデート?いいわねぇ」
「あ……お疲れ様でした~!新堂さん、早く出して」急いで乗り込むと、彼に訴える。
 彼はその同僚に向けて軽く頭を下げてから、車を静かに動かした。
 これはこれは、愛想のいい対応で!大昔の彼が絶対にやらない類の?

「変な顔して、どうかしたか?」
「変な顔なんてしてません。いつもこういう顔です!」
「また不機嫌だな。今日のドライブ、延期にするか?」
 車内に不穏な空気が流れ出す。

「イヤっ!今日一日、このお楽しみのために頑張ってお仕事したのよ?そんな事言わないで……」せっかく穏やかに過ごそうと決めた矢先に!バカユイ!
「なら向かうよ。なあ。最近、イライラしすぎじゃないか?」
「うん……。甲状腺、また悪くなったかな」
 こんなイラ立ちは再発を疑う。あの時も些細な事で相当イラ立っていたから。

「その兆候は今のところないよ。今日は、ゆっくり気分転換しろ」
「うん、ありがとう」ようやく彼に笑顔を見せられた。

 車は順調に箱根路を行く。標高が上がるにつれて気温が下がってきた。

「ユイ、薄着じゃないか?」
「うん、会社の中、案外暑くて。こっちは意外に寒いわね」
「秋っていうか、もう冬に近いぞ。風邪引くなよ?そうだ、温泉にでも浸かってくか」
「いいわね、温泉!」血流の問題も解消されそうではないか。
 自ら提案しつつも、どこか難色を示す彼。「しかしな……問題が一つある」

 その後の説明を聞いて驚いた。彼は温泉施設を貸し切る気だったらしい。金に物を言わせて!何という人だ……やっぱり普通の感覚ではない。

「おまえを一人で入浴させるのは不安だ」
「何言ってるの?そこまで子供じゃないから!」
 こんな反論に彼は笑っただけだった。まさか本当に子供だと思ってたりする?
「で、温泉はどうなるの?」
「そうだな……」
「今日は平日だし、きっとそんなに混んでないわよ。ねえ~行こうよぉ~」
 こんな言い分は完全に子供だ。

 彼は前方を気にしつつも、チラチラと助手席に目を向けてくる。
「体調は問題ないんだな?」
 ここはあえてイエスとは言わない。「すぐにイライラするのが問題なければ?」
「まあ、命には関わらないか」言葉の後に少しの笑いを交えて答える。
「なら決まりね!」

 自分の要望が通りご満悦の私は、美しい夕暮れの富士を思う存分堪能した。風が冷たくて体はさらに冷えてしまったけれど、これからポカポカの温泉が待っている!

 目的地に着いてからも、彼は同じ事を何度も言った。
「何かあったらスタッフに言え。俺に伝言を……」そんな言葉を遮る。「何もないって!ただお湯に浸かるだけなんだから?」
 無言で私を見下ろす新堂さんに、これでもかというくらいの笑顔を見せる。

 しばらくしてようやく頷くと、女湯を掌で示してエスコートしてくれた。
「先生もごゆっくり!」
「ああ。羽根を伸ばしてくるよ」やっと彼に笑みが戻った。

 こうして別々にお湯に浸かりに行った訳だが、「私だって本当は一緒に入りたかったのよ?……なぁ~んてね、きゃっ大胆発言!」と上機嫌すぎる自分が怖い。
 こんな独り言を呟きながら、ニヤケ顔で脱衣所に足を踏み入れる。さすがに平日の夜だけあって客は疎らだ。

 一人の体格の良いナイスバディの女性と目が合った。

「お一人ですか?」その彼女が声をかけてくる。
「カレが向こうに」男湯の方向を指で示して答える。
「私も!」
 同年代くらいだろうか。とても感じの良い女性だ。
「良かったら、少しお話してもいいかしら?」湯舟を指しながら言われて、喜んで誘いを受けた。

 思わず視線は、彼女の豊満な胸へと行ってしまう。それくらい大きいのだから仕方がない。

「いいなあ~」気づけばこんな事を呟いていた。
「何が?」彼女が横で湯に浸かる私を見る。「胸おっきくて!そういうの憧れるな~って」と正直に答える。
「そう?あなただって、引き締まってて素敵よ!大きいだけがいいみたいに、オトコ共は言うけれど?」
「でも実際、私のは小さいから……」これは昔から身長と共に私のコンプレックスだ。
「大きさじゃないわ、要はカタチよ!カレは?気に入ってくれてるんでしょ?」

「さあ、どうかな。分からない」そんな話をした事はないと思う。
 こんな話題はよそう。私は別の話を持ち出した。「ねえ!それより、あなたの彼はどんな人?」
「ふふっ!私達、超ラブラブよ~!」
「それはご馳走様……」
 若干気遅れ気味に言う私に、透かさず彼女が突っ込む。「あら、あなた達は違うの?」
「私は……叱られてばかりだし」子供だし?

「何それぇ~!DV?ダメよ、やり返しな!」突如口調が変わった。
「そっ!そういうんじゃないの。彼、十も年上で。その上私がいつまでも子供だから」
「年上好きかぁ~。私は断然年下だな!で?あなたいくつなの?」
「三十二よ」
「ええっ、見えな~い!全然二十代で通用するよ?ちなみに私も三十路です!」
 改まって年齢を口にすると、体がズシリと重くなる気がする。二十代に見えるのは嬉しい事だが。

「いいじゃん?大人なカレならいっぱい甘えられるし!」
「うん。全っ然、頭上がんない」ちょっとおどけて言ってみる。
「あははっ!おっかし~!」
「うふふ……っ」

 女性同士の会話の楽しさはパートタイムの仕事を始めてからも実感しているが、同年代との会話はさらに楽しい。

「あれ、指輪してるけど、その彼って旦那さん?」
 彼女が私の左手薬指に輝くピンクゴールドのリングに気づいた。
「ああ、これ?これは結婚指輪じゃないわ。仕事柄、既婚者じゃないとまずくてね。カムフラージュってヤツ」そのために自分で買った安物だ。
 私は既婚者ではないが、パートナーと共に住んでいる事もあり、実質似たようなものという事で採用してもらったのだ。

「ふうん。でも、そろそろ結婚、するんでしょ?」
「……そうね」
「私も考えちゃう。でも、今のカレ!お金持ってないんだよねぇ」彼女は両手を頭の上に乗せて仰け反った。
「自分が稼げばいいじゃない」

「そうも行かないよ。給料全然上がんないし!あなたは何の仕事してるの?」
「今はただのデスクワーク。でも昔は……」言いかけて口籠もる。この先の何が言えるというのか?
「昔は?」興味津々の様子で身を乗り出され、目を逸らして誤魔化した。「あはは!色々してたな~ってね」
 拳銃構えて威嚇しながらブツを奪うとか、カーチェイスで追い詰めて、時には殺したりもするかなぁ……などと言えるものか!

「あなたは?」気を取り直して質問する。
「保険の外交員」
「へえ~!あなた美人だからオジサマ方がたくさん入ってくれるんじゃない?」
「そうでもないよ。最近どこのウチも、財布の紐は奥さんが締めてるからね~」
「そっかぁ。そう甘くないって事ね」

「ねっ、あなたのカレはお金持ちなの?」彼女が勢い良くこちらを向く。
「どうかな。直接聞いた事ないから」お金持ちには違いない。何せ温泉施設を貸し切ろうとした男だ。
「え~!何でっ!興味ないの?」
「興味、か……。あまりに仕事に行かない時は不安になったけどね」
 それは私のために他ならない。そんな事をしても生活には全く支障がない訳だが。
 
「何それ、どういう事?!それって、おウチで株とかやっちゃうトレーダーってヤツ?余裕のセリフだね、いいなぁ~超羨ましい」
「トレーダーね。凄いよね、そういう稼ぎ方も」
「って事は違うのね……。何にせよやっぱ金持ちがいいよ~。失敗したかも、私」

「何が?」
「実はさ、聞いてくれる?私を巡って二人の男が対決したのよ!」
「は?ちょっと、それマンガの読みすぎ!」真剣にそう思った。現実にはあり得ないと。

 笑い飛ばして湯舟に勢い良く手を沈ませた。飛沫しぶきが自分に降りかかって、無意識に目を閉じる。
 すると、不意に二人の男が私の前に立ちはだかった。

〝コイツは返してもらうよ〟この声は新堂さんだ。
〝そうはさせない。できるものならやってみるがいい!〟そしてこれはキハラだ。
 殺気だった二人は向かい合って言い合う。
 キハラの手にはコルト・パイソンが握られている!

「ねえ?大丈夫?」
「……っ。あ、うん、何でもない」突然現実に引き戻されて、反応が遅れる。
 今のは何だったんだろう?

 彼女が興奮した様子で続きを語り始める。「それでね!その決闘に打ち勝ったのが今の彼ってワケ!残念ながらお金持ってない方なのよ、これが」
「……でも、命がけであなたを勝ち取ったんでしょ。あなたにその価値があるって判断して。愛されてるじゃない?失敗なんて言っちゃダメよ」
「命がけはちょっと言い過ぎ!でもでも、そうだよね?そうだよね~!」

 彼女はとても嬉しそうに何度も頷いていた。きっと誰かに、そう肯定してもらいたかっただけなのだ。自分が愛しているのは今の彼だと。その選択は、間違っていなかったと。その……選択?

 ぼんやりしたまま時計を見上げる。マズイ時間だ。こんな話で盛り上がっていたら、かなり時間が過ぎてしまった。

「楽しかった、ありがとね!私、そろそろ出ないと」
「え~、もう少しいいじゃん?」本気で引き留められる。
「長湯してると、彼に叱られるから」
「ねえ~。アンタの言うそれってもしかして、お惚気なんじゃない?」

 私は答えず、肩を竦めて笑うだけにして湯から出た。叱られると話す時の自分が、どこか楽しんでいる事に気づいてしまったから。
 いつから自分はマゾになったのか……苦笑するしかない。

 脱衣所に戻ってみると、三人ほど客がいた。これから入ろうと服を脱ぐ二人と、もう一人は髪を乾かしている最中だ。

「ふ~……」
 会話に夢中になって少し浸かり過ぎた。一瞬流れた妙な映像の事も気にかかる。あれは現実なのだろうか?頭がぼんやりしたままだ。
「ううっ……何だか胸が苦し……っ」突然感じた胸の圧迫。

 そして次の瞬間には意識が薄れていた。私は濡れた体のまま、ロッカーを開ける目前で床に崩れ落ちたのだった。


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