この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの

 空白のキオク(2)

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 人生初の会社勤めは、なかなか順調に進んでいる。企業スパイの仕事ならば過去に何度かやった。それとなく装うのは得意だ。
 それにこれならば、新堂の監視の目を掻い潜って自由に動ける!

 この日はいつもの帰宅ルートとは逆方向の、上り方面の電車に乗る。自宅マンションで手がかりを探すためだが、一番の目的は、自宅電話のメッセージを確認する事だ。
 記憶の限りでは、まだ手付かずだった仕事がいくつかあったはず。
 そんな状況から考えて、今電話がこんなに静かなのがどうしても納得できない。

「きっと、転送機能が上手く作動してないんだわ!」
 マンションへの道すがら、ブツブツ言いながら足を速める。

 見慣れた建物の前に到着し、勢い込んでエントランスの電子ロックを解除して中へと進んだ。
 最上階の我が家は何ら変わりはなかったが、私のお気に入りの白いグランドピアノだけが忽然と消えていた。
 ここから運んだというのは本当のようだ。私が頼んだのだろうか?

 しばし考えに耽ったが、まずはメッセージ確認が先だ。
 電話の前に立ち、早速操作を始める。思った通り大量の件数が吹き込まれていた。
「やっぱり!」
 順に再生して行くも、ほとんどが勧誘やら迷惑電話の類だ。「……どういう事?」
 そして最後の一件は、つい最近聞いたと思われる女性の声。

『もしもし。砂原だけど……覚えてるよね?私の事。久しぶり。朝霧ユイ、生きてたら電話ちょうだい。……あんたじゃないよね?あの記事のっ……』
 途中声が詰まり、涙声になって続く。『電話、待ってるから!必ずちょうだい!じゃ』

 彼女は警視庁勤務のSP砂原舞だ。年は私より一つ下。
 深夜の公園で、敵とたった一人で対峙していた砂原を助けて以来、似たような性格の私達はあっという間に仲良くなった。
 一度飲みに行っただけだが、合コンに誘ってくれると言ったきりになっている。

「何よこれ……。合コンのお誘いかと思ったのに!……生きてる、って何?」
 不審に思い録音された日付をもう一度確認すると、二年前の年が表示されているではないか!
「どういう事?!……。二年前って確か、私がテロに遭った時?」
 そう先生が話していた。それが事実ならば、砂原はテロのニュースをどこかで知り、巻き込まれたのが私かもしれないと確認してきたのか。

 私は慌ててその場で携帯を取り出し、砂原に連絡を入れた。
 呼び出し音の後、留守電に切り替わる。仕事中のようだ。

「もしもし!朝霧ユイよ。ごめんなさい、こんなに日が経ってしまって……私はちゃんと生きてるから心配しないで。それじゃ、お仕事頑張ってね」
 そこに取りあえずのメッセージを吹き込んで切った。

 五年分の記憶を失くしている私にとって、砂原舞はついこの間手を振って別れたばかりの相手。だが向こうは違う。そして二年も前の連絡に、私は今返事をしたのだ。
 きっと私が死んだと思っているだろう。その上、今の自分はこんな状態だ。会ったとしてもどう説明する?安易に連絡を入れるべきではなかったか……。
 けれど無事を伝えない訳には行かない。死んだ事になんてしたくない!

 様々な思いが過ぎって、電話の前でしばらく動けなかった。
 その後はもう何も手につかなくなり、何の収穫もないまま重い足取りで帰宅した。


 いつもよりも遅い帰りに、先生が若干不審な目を向けて来たがやり過ごした。
 いくら主治医でも、何もかもを把握する必要はないだろう。今日の事は体調とは無関係なのだから?

「ユイ。依頼が入ったので明日出かける。おまえは?」
 食事中に確認されて、休みだと伝える。

「……そうか。仕事の日なら、ついでに乗せて行こうと思ったんだが」
「大丈夫。お気遣いありがとう、先生」
 私の返答に、彼が無言で見つめている。
「どうかした?」
「いや。やっぱり今日、何かあったのか?」

 目敏く私の顔色をチェックする彼が煩わしかった。
「別に。少し疲れただけ。だから今日は早めに休ませてもらうわ」


 食事と後片付けを終えて自室に入る。

 部屋の明かりを点けずに窓を全開にすると、生暖かい空気が部屋に入り込んだ。
 おもむろに煙草を取り出し、チラリとドアの方を振り返る。今は入って来てほしくないと思いながら。
「どうしてこの家はどこの部屋にも鍵が付いてないの?おかしいでしょ!」プライベートな空間は一つもないのか?
 うんざりしながら窓枠に腰を下ろして煙草に火を点け、一度大きく吸い込む。

 見上げた空は、ようやく夜の色に染まった。

 すぐ横の簡易デスクに置いた携帯が、突然バイブを始めた。急いで煙草の火を消して手を伸ばす。
 画面を覗くと、相手は砂原だ!携帯を持つ手に力が入る。

「もしもしっ!」
『もしもし。朝霧?砂原だけど』思ったよりも冷静な声が聞こえてきた。
「そう、朝霧ユイよ。ごめん、仕事中だったよね、さっき。こんなに早く電話もらえると思ってなかった。嬉しいわ」
 急に無音になり、不安が襲う。「もしもし?聞こえてる?砂原」

 すると次の瞬間、耳を突き刺すような声が響いた。『バカあっ!!』
 そして啜り泣く声に変わる。

「あっ、あの……。ホントに、ごめん。ちょっと色々あってさ。何言ってもいい訳だけど……でも私、今は元気だから!」
『バカバカ!マジで死んだと思ってたよ?幽霊じゃないって事、証明しなさい』
「もちろん!えっと、会えばいいかな……」
『それしか方法なんてないでしょ!明日!朝イチよ、朝イチ。いいね?』

 さすがに変な時間に家を出るのはマズいので、何とか昼にしてもらった。
 まるで示し合わせたように明日がお互い休みだったのには、どこか運命的なものを感じてしまう。ちょうど先生も外出するようだし、出かけるには打って付けだ。
 前回は砂原に来てもらったので、今回は私が都内に出向くと申し出た。


 翌朝、先生を送り出してから自分も支度を始める。装いはノースリーブに麻のジャケット、そしてスカートといつもと変わらないが、気合の入り方は全然別だ。
 どんな質問攻めが待っているか分からない。でもこれは嬉しい悲鳴。

 いつもの通勤よりも長く電車に揺られ、久方ぶりに都内にやって来た。

 待ち合わせした場所に、モスグリーンのカットソーに涼し気な麻のパンツ姿の、背の高いショートの女性が腕組みをして立っていた。
 目が合うと、彼女は私に向かって手を上げる。顔は全く笑っていない。

「げっ……やっぱお怒り?」

 苦笑いしながら小さく手を上げて答える私に、待ち切れない様子で大股でズンズンと迫って来る。
 そして見下ろされる。チビの私は見下ろされる事には慣れている。学生時代の友人も背が高かったし、いつだって先生は私を見下ろす。

「お待たせ。……待った?また遅刻したかしら」斜め上に向かって問いかける。
 前回の待ち合わせの時、私の方が家が近いにも関わらず遅く到着した事を、この女ならばしっかり覚えているはず。
 砂原の口元がわなわなと震え出すのが見えた。
「砂原のお怒りはごもっとも。どうぞ、一発殴って!」そう言って身構える。

 けれど、いつになっても拳が振り出される気配はない。

「バカバカぁ!!」
 そう大声で叫ぶと、勢い良く抱きすくめられた。その力が半端ない。息が詰まるくらいに!もしやこれは新手の締め技かも?
「ぐっ、ぐるじいっ……」何とか訴えると、ようやく力が抜かれた。
「ゴメンゴメン。せっかく生きてたのに、私が絞め殺すとこだったわ~」砂原が私から体を離して言った。

 こんな言いっぷりからするに、どうやら許してもらえたらしい。

「朝霧の髪!超~長いね。ずっと伸ばしてるんだ」驚きの眼差しで見ている。
「伸ばしてるっていうか……成り行きって言うか」
「分かった!カレでしょ。カレの趣味!ほら、医者と付き合ってるって言ってたじゃん?まだ続いてるんでしょ?」

 歩きながらも会話に花が咲く。五年も経っている自覚が全くないため、どうにも反応が難しい。これではすぐにバレそうだ。
 手頃な店に入りランチを注文する。料理を待つ間も会話は止まらない。

「今はね、先生と一緒に住んでる」
「同棲って事?結婚しないの?」
「さあ……どうなんだろうね」少なくとも、今の自分には判断できない。
 黙っているとあっさり話題を変えてくれた。どうやら自分も踏み込まれたくない話題らしい。助かった……。

「で?あのニュースは事実なの?」
「それって何て書いてあったの?」その内容が分からないため、答えようがない。
 砂原の話では、イラクで公用車に爆弾が仕掛けられ、現地の村役場のスタッフと、同乗していたボランティアの日本人女性が死亡したというものだった。

「ただの日本人ってだけで、朝霧だっていう確証なんて何もなかった。でも何となくピンと来たんだよ……何でか分かんないけど」砂原は小さな声で言った。
 これは声のデカい彼女には珍しい事だ。自信のなさを表しているのだろう。
 それを逆手に取って、私はこう言った。「もし私がそのテロに遭ってたら、こんなふうに無傷でいられると本気で思う?」

 砂原の鋭い目が私の頭からテーブル下の下半身まで、舐め回すように下りて行く。
 そして結論を出す。「思う訳ないだろ~!」
「でしょ?それは私じゃないわ」心配させないため、この嘘は必要だ。

「もし朝霧の腕や足が一本でもなかったら確信したけど」
「色々あったのは事実だけど、今のところは生きてるわ。そっちも元気みたいね」
「もち!体が基本だからね。こっちは増々オトコに近づいたよ。こうなったら朝霧と付き合おっかなぁ~?」茶目っ気たっぷりにこんな事を言ってくる。
「っ、冗談じゃない!そういう趣味あるの?あなた!」

「ジョーダンだよ、ジョーダン!あははっ」
 両手を上げて足をバタつかせながら笑う砂原だが、ふと真顔になって続ける。
「だってアンタには、ちゃんとお相手いるもん」
「いるにはいるけど……」今の私には恋人だと宣言できない。

「あれ~?もしかして上手く行ってないとか!同棲って仲が悪化するとかいうよね」
 どこか嬉しそうに言うので、私も思わず本音を漏らした。
「同棲のせいじゃないと思う。何だかんだお節介が過ぎるのよ、あの人!」
「ま~ま~言ってくれるわ。それって惚気って言うんだけど?」

 そんな気は全くなかった。あからさまに顔をしかめて否定してやった。

「で。次の質問よ。何で二年も音沙汰無しな訳?どこで何してたのか白状しなさい!」
「それは、海外に行ってたりしたから。その後すぐに引越して。その、先生と住むのに?でも、電話の引継ぎが上手く行ってなかったみたいで……」
 ここまでの内容に嘘はない。それでも砂原の視線が痛い。
「確認くらいできんでしょ?そんなに遠方な訳じゃないんだし!」

「ほら、今はあまり固定電話使ってないから!気づかなくて……」
「そうそう、私も職権乱用で入手した朝霧の家の番号しか知らなかったからさ~」
 合いの手を入れてくれた事にホッとしつつ、職権乱用の言葉に引っかかる。
 今だって本気で調べれば、何か知られてしまうかもしれない。海外の渡航履歴や病院の検査内容などで、イラクの件がバレる!
「もう二度と、職権乱用はしない事!いいわね?」ダメ元で言ってみると、「分かってるよ。私だってクビになりたくないし!」意外にあっさり承諾が得られた。

 今は個人情報の流出防止に相当厳しいらしく、以前のように気軽に閲覧できないのだとか。こんな事でも五年の歳月を改めて知らされた。

 やがて小洒落たプレートが運ばれてきて、食事が始まる。

「ホントは飲みに誘いたかったけど。カレと一緒に住んでるんじゃ無理だよね~」
「そんな事ないよ。別に男と会う訳じゃないし?」
 砂原が自分を指して、私はオンナ?と口パクだけで聞いてくる。
「どっからどうみても女!それもルックス抜群、もてない方がおかしい!」
「良く言われる!大人しくさえしてればって?」

 こんなコメントがあまりに的を得ていて、思わず吹き出してしまった。

「今度、お宅訪問しちゃおっかな~!」
「……それは」
 私が必死に隠している諸々を、先生がうっかり話してしまうかもしれない。
「ヤダ!そんなに困らないでよ。朝霧のカレ、奪ったりしないって!」
「は?」全く見当違いの言い分に目が点だ。
 砂原は一人高らかに笑っていた。

 相変わらず愉快な人だ。あの日の楽しい時間が昨日の事のように思い出される。
 そしてこう切り出す。「そうだ、合コンの話はどうなったのよ。待ってたのよ?」

「ああ、あれね。私も乗り気だったんだけど、あの後大口の仕事わんさと入ってさ。おまけに後輩が辞めて仕事倍になって!てんてこ舞いよ」ゴメン!と頭を下げられる。
「いいのいいの。仕事第一主義は賛成よ」
「そっちは?前に言ってくれた、信条は守ってるんでしょうね?さっきからその色々っていうのが気になるところだけど」

 砂原が何を言いたいのかはすぐに分かった。私が人殺しをしていないかの確認だ。
 私が拳銃を不法所持している事を知ってもなお、こうして見逃してくれている砂原。それは私の強い志に共感してくれたからだと、勝手に思っている。
 大切なものを全力で守る。そんな志を。

「もちろんよ。大体、今は民間会社のパート社員ですから?」専らデスクワークよ、とパソコンを打つ仕草をして見せる。
「あら意外っ!格闘技のインストラクターの方が合ってるんじゃないの?」
「なるほど、そういう方向もあったかぁ~」笑いながら返した。

 食事が終盤に入り、そして会話も終盤に入ったようだ。

「こっちはさ、朝霧の言う事、信じるしかないんだからね?」砂原がポツリと言った。
「あら。ウソは見抜けるって言ってなかったっけ?」最後のひと口を口に含んで、咀嚼しながら答える。
「っ!良く覚えてるね、そういうの!」どこか焦った様子で言う。

 当たり前だ。私にとってはつい先日の事なのだから?
「一言一句覚えてるよ、親友!」
 出会って間もない、そして会った回数だって数えるほどしかない。それでも彼女をこう呼びたかった。こんなにも私を心配してくれていた砂原を。

「あさぎりぃ~!!私達、親友だよね!うんうん、そうだそうだ!ああ~ん!」
 本気で涙を流している砂原。
「ちょっと!泣く事ないでしょ、ほら、メイク落ちちゃうよ?」

「平気。してないから」
「ノーメイク仲間がここにいたわ!」

 こうして私達は堅い友情を確かめ合い、たまに連絡を入れ合う事を約束して別れた。

 近しい仲になれないのは今も変わらない。昔のように危険な仕事をしている訳ではないが、私が裏社会の人間という事実に変わりはないのだから。それに私のパートナーは無資格医!

「砂原に迷惑はかけられない」

 現役警官の彼女は、私に関わるほど命取りなのだ。警察官という使命に燃える彼女から、その職を奪いたくはない。
 様々な葛藤はあれど、会えて良かったと心から思う。そして、数少ない友人としての位置にずっといてほしいと願うばかりだ。


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