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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの
6.レクイエム(1)
しおりを挟む梅雨も終わりに近づいた七月初頭。朝から降り続いている雨は、夕方になっても止む気配はない。
そろそろ夕飯の支度でもと立ち上がった時、新堂さんの携帯が鳴った。
「えっ!まさかお仕事の電話?」今夜は一人で夕食かぁ、と肩を落とす。
「誰だ、こんな悪天候の日に!」さも迷惑そうな言いっぷりだ。
この人は雨が好きではないようで、昔から毛嫌いしている。
「センセっ、患者さんに天気は関係ないから!」
チラリと私を見てから、渋々電話を取った。「……はい、新堂です」
出るなり彼が私に目配せした。私も知っている相手という事だ。
「お久しぶりですね。どうかされましたか?赤尾先生」
驚いた事に、相手は私の高校時代の先輩のよう。赤尾裕之先輩とは高校時代、短い期間だったが交際もしていた仲だ。
先輩は現在、内科医として都内の病院に勤めているのだが、以前、新堂さんの依頼先が偶然その病院で、その時に顔を合わせているのだ。
あれは忘れもしない西沢巧との一件があった日だ。その時に連絡先を伝えてあったのだろう。
ちなみにこのニシザワタクミという人物は、同じ施設で育った新堂さんの幼馴染。私と同い年の奈緒という妹がいる。この巧はかなりのシスコンで有名だ。
「ええ、朝霧ユイならここにおります。おい……ユイ、出ろ」
「うん。もしもし先輩?」
この後知らされた事実に、私の頭はパニック状態になる。
「えっ、ウソでしょ……。今日って……そんな突然!どうしてもっと前に教えてくれないのよ!ねえ、先輩は何か知ってたんじゃないのっ?」
私の突然の大声に、新堂さんが側にやって来る。
「どうした?」
こう声をかけられて我に返ると、今度はしばし思考停止に陥る。
『ユイちゃん?大丈夫?』電話越しで先輩が不安そうな声を出している。
何か答えなければ……。「ごめんなさい、先輩に当たっても仕方ないのに……」
『いいんだよ。ちょっと、新堂先生に代わってくれるかな』
私は無言で携帯を彼に返した。
訝し気に受け取り、新堂さんが応対する。「新堂です。一体……」
今日の昼に、片岡総合病院の院長、片岡先生が亡くなったそうだ。
母娘共にお世話になった先生で、家族のように親身になってくれた。それだけに、あまりに急な訃報に驚きを隠せない。
なぜ赤尾先輩が連絡をくれたのかというと、先輩の父親が院長先生と旧知の仲だったから。それを学生時代に知る事ができていたなら、また別の展開があったかも?
私は無意識に左胸を押さえていたらしい。いつの間にか電話を終えた新堂さんが、心配そうに私を覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
「……うん」
「葬儀の日程が決まったら連絡をくれるそうだ」
「私、今すぐ行きたい!」
しばし無言で私を見つめていた彼だが、再度携帯を取り上げると電話をし始めた。
「お忙しいところ、度々済みません。今から伺っても差し支えなければ……」
『きっと片岡先生も会いたがっていると思います。是非、いらしてください』
新堂さんは知っている。私がじっとしている訳がないと。だから何も言わずに出かける事を許してくれたのだ。体調にも不安があるというのに。
涙でぼやける目で彼を見る。
「新堂さん……っ」
「何ぼうっとしてるんだ。行くんだろ?」
「うん!」
こうして私達は片岡総合病院へと向かった。
「赤尾先輩!」
「ユイちゃん。六年ぶりの再会だというのに、こんな報告をしなければいけないのはとても辛いよ……」
最後に先輩に会ったのは、私が二十六歳の時だった。
「私、まだお別れの言葉も、今までのお礼も言ってないのに……!」
溢れる涙を子供のようにポロポロ零しながら、先輩の上着の裾を引っ張る。
そんな私の肩に先輩はただ優しく手を置いた。新堂さんは言葉を発する事なく先輩に一礼した。
すぐに案内されて、片岡院長の元へと通される。
「先生の奥様はすでに亡くなられている。お子さんもいないんだ。だからユイちゃんの事、良く自分の娘のように話していたんだよ」
赤尾先輩と再会した六年前のあの日、そんな話を聞いた。
実父を大いに嫌っていた私は、理想の父親そのものの優しい片岡先生が本当に好きだった。だから、それを聞いた時はとても嬉しかった。
先輩に促され顔を見せに行った時も、手放しで喜んでくれた。その姿は今も鮮明に覚えている。
「先生、私がまだ新堂さんと関わってるって、目を三角にして怒ってたっけ」
新堂和矢は悪魔のような男だから、関わってはダメだと。それでも、片岡先生は徐々に本当の新堂さんを知り、そして受け入れてくれていたと思う。
「院長はユイにぞっこんだったからな」新堂さんがため息交じりにこう付け加えた。
私と片岡先生があまりに仲が良かったため、どういう関係だと新堂さんに詰め寄られた事もある。
静かに横たわる片岡先生を見つめる。
その穏やかな表情を見ていて、ようやく心が落ち着いてきた。今はもう何も語る事のないその唇が、微かに微笑んだように見えて、私もそっと笑顔を作った。
一週間後に執り行われた告別式には、新堂さんと先輩の家族と共に参列した。
その場で終始ボロボロと泣いていたのは私だけ。
「ユイちゃん、……大丈夫?」
先輩に何度こんな言葉をかけられた事か……。
「お構いなく。気が済むまで泣かせてやってください」対する新堂さんはこんな調子で放任。ちゃんと横で支えてくれていたけれど。
ようやく涙が収まったのは、解散の号令がかかってからだ。
「先輩の息子さん達、将来、絶対イケメンになるね」
改めてその美形揃いの先輩一家を見渡しながら、率直な感想を述べる。
私が普通に会話を始めたのを見て、先輩は一安心といった様子で答えてくれた。
「う~ん、そうかなぁ?だといいけどね。ありがとう、ユイちゃん」
「先輩もすっかりお父さんしてるのかぁ。何だか複雑な気分だな……」
「ユイちゃん達は?結婚、したんでしょ?」
私の左手薬指に嵌められた例のリングが光る。
「あっ、私達は……」
先輩の質問に困って新堂さんを見上げると、彼はすぐさま答えた。「これからもずっと一緒におります。私には、彼女を幸せにする役目がありますので」
「そうですね。聞くまでもなかった。お幸せに!」
こんな二人のやり取りをぼんやりと眺める。ずっと、一緒にいる。結婚しますとは、言ってくれなかった。
こうして、長くて短い一日を終えて自宅へと戻って来た。
喪服から普段着へと着替えながら、改めて反省だ。あの場で号泣していたのは自分だけだったのだから!
「あ~あ、泣きすぎよね、私……家族でもないのに?」本当の父親が死んだ時よりも泣いたのは間違いない。
「いいんじゃないか。彼には、泣いてくれる家族がいなかったんだ。おまえがその分の涙を流したって事で」
「……ありがと。そういう事にしといてね」
新堂さんが私を抱きしめてくれた。またも涙が溢れた。私が泣き虫なのはすでに承知の彼だから、ここは大目に見てくれるだろう。
「お母さんにも伝えないと……」後で手紙に書いておこう。
「そうだな。ミサコさんの主治医だった訳だし……」
「複雑?あなたはただの執刀医だもんね!」
新堂さんが母に恋心を抱いていた事はすでに知っている。だからこれはもちろん冷やかしだったのだが……。
「別に。患者がすでに健康を取り戻した以上、どっちだろうと一緒だ」とバッサリ切り捨てられたのだった。
「だけど、ガンって怖いね……。毎日病院にいるのに、早期発見できなかったなんて」片岡先生は末期ガンで亡くなったのだ。
「二月に発見された時には、すでに転移していたらしい」
「もしかして、新堂さんになら治せた?」
「どうかな。この世に絶対はないから」
この後私達は、黙ってそれぞれ感慨に耽った。少しして彼が話題を変える。
「赤尾のご子息は賢そうだったな」これには即座に同意。「ええ、とっても!」
「……なあユイ、済まない……」
「ん?何急に」唐突に謝られ目を瞬く。
「家族を、作りたくなったかと思って」
「新堂さん!その事なら前に言ったはずよ?私は、あなたがいてくれれば満足だって」
そうだが、と納得行かない様子の彼に言い放つ。「私はあなたを独り占めできる!こんな贅沢な事はないんだからっ」
そして勢い良く抱きついて彼の顔を見上げた。
「幸せにしてくれるって話だけど、私は他力本願は嫌いなの。幸せは、二人で掴みたい。いいでしょ?」
「ああ、そうだな。ユイらしい答えだ」新堂さんが少し笑った。
どちらからともなく、私の指に嵌った宝石に目が行く。
「だからユイ、それ外せって言ってるだろ?こうなったら力づくで……」
「ヤ~ダよ~だっ!」
自分から抱きついておきながら、今度は突き放して背を向ける。
「おいっ、乱暴なヤツめ……」
新堂さんの脱力した声が後ろで響く中、個室に戻って明かりも点けずにベッドに腰を下ろす。大きなため息が口から漏れた。
「久しぶりに、一服でもしようかな」
引き出しから煙草を取り出す。こっそり買ってあったのだが、まだ吸った事はない。
カーテンを寄せて窓を開け放つと、夜風と共にぼんやりとした月明かりが室内に入り込んだ。
一本引き抜き先端に火を点す。今日の出来事を思い返しながら、ゆっくりと煙を吸い込んでは吐き出した。
半分ほど吸ったところで、いきなりドアが開いた。
「ユイ?入るぞ。電気も点けないで何やってるんだ」
「っ!入るぞって、もう入ってるし!ノックくらいしてよね……」
あまりに急だったため、手元の煙草を隠す事は不可能だった。当然すぐに見つかる。
「不良学生じゃあるまいし、隠れてタバコとはね!」つかつかと近づき奪われる。
「あん!もう立派な大人なんだから、いいでしょ、どこで吸っても。返して!」
「ダメだ。大人になろうが、体に悪いのは変わらない。特に甲状腺疾患に悪影響が出るんだぞ。再発させたいのか?」
「違うけど!……久しぶりなんだし、今日だけよ。お願い、許して?」
薄暗がりの部屋でしばらく私の顔を見つめた後、彼は無言で煙草を返してくれた。
「この一本だけだぞ」
そう言って窓際に置いていた箱とライターを取り上げると、部屋を出て行った。
「抜け目がないというか何というか!この部屋って、監視カメラ付いてるの?」
力なく笑って、一服を再開したのだった。
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