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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの
誘拐事件(3)
しおりを挟む朝霧邸に着くと、薄明かりに人影が見えた。
「神崎さん?!待っててくれたの?」
「グッドタイミングだな。気になってちょっと寄ってみたんだ。本当にお前が飛ばして来たんだな……」
操縦桿を握る姿を目にしてもなお、信じきれないといった様子だ。
「貸してくれてありがとう。凄く役に立った。あの、機体に少し傷が付いちゃったの。それと燃料もかなり使った。もし必要なら弁償……」こんな言葉は遮られる。
「気にするな。乗り物に傷は付き物だ。燃料もストックはある。帰るだろ?送るよ。お前達の新居に一度行ってみたかったんだ」
「うん!ありがと」
私は二つ返事で送ってもらう事にした。
案内された先に停められていたのは、普通の白いセダン車だ。
「乗れ」
「ああ良かった、リムジンじゃなくて」あれはどうにも落ち着かない。
「この時間に運転手を呼び出すのは気が引ける。俺もたまには運転したいしな」
「何て部下思いの社長さん!確かに神崎さんの運転って初めてね。あ~だけど、社長自らがリムジンを運転っていうのもある意味面白いよ」想像してクスリと笑ってしまう。
「そんなカッコ悪い事を、兄がしてもいいのか?」
「ダメ~っ!!」
そうして動き出した車内にて、早速例の件を確認にかかる。
「あの後、新堂さんと話したんでしょ?」
「ああ。電話がかかって来た。悪いと思ったが、拳銃を貸した事は伝えたぞ」
「何でよ!内緒にしてってお願いしたのに!」体ごと運転席に向けて抗議する。
「俺は隠し事が嫌いでね」知っているだろうが!と続ける。
この人は過去に、自分が隠し子だという事すら声を大にして発言してしまった人だから、そもそも頼む事自体が間違っていた。
「だが、取り上げられてはいないんだろ?」
「うん」チラリと問題のブツを出して見せる。「お陰で大いに役に立ったよ」
「弾が必要なら持って行け。トランクに乗せてある」
「ううん。大丈夫。まだ減ってないから」今日は威嚇のために取り出しただけだ。
「役立ったんだろ?撃たなかったのか」
「雑魚相手にそうそう撃たないわよ。私を誰だと思ってるの?」
「ははっ、言ってくれる!俺のセリフを奪われたな」
二人で笑った後、改めて口を開く。「だけど。こんな会話、神崎さんとする事になるとは思わなかったなぁ」
「俺はずっと、ユイのために何かしたいと思っていた。今それができて嬉しいよ」
真っ当な表の世界で生きていたこの人が、父の裏の顔までも継いだ理由。それが私のためでもあったという事だ。
「ありがとう、神崎さん。……大好きっ!」感極まって抱きつく。
運転中にこんな事をしたら、新堂さんならば必ず引き剥がされるが、神崎さんは何も言わない。こんな余裕な態度も素敵!
「ん?ユイ、またそれ着けてるのか」偶然左手に触れたのか、指輪に気づいた様子。
「あ、今日はね、あまりに急いでたから……」
「あんまりモタモタしてると、俺が新しいのをプレゼントしてしまうぞ!そうしたら、受け取ってくれるか?ユイ」
抱きついたまま顔を上げて、神崎さんを上目遣いで見上げる。
「それってどういう意味の?」
「想像にお任せするよ」
「そんな事言っていいの?妻子ある身で!」
低音の耳触りの良い笑い声が車内に響いた。とても疲れていたけれど、この時間はとても楽しかった。
楽しいドライブは束の間で終わり、自宅が見えてくる。
「ここか。見晴らしが良くていい所じゃないか」
車で丘をゆっくりと上りながら、神崎さんが言う。
「うん。新堂さんが探してくれたの」私の意識がなかった時に、と心の中で続ける。
この事は絶対に兄には言えない。私が爆弾テロに遭ったなどと知ったら、どんな顔をするだろう。想像するだけで心苦しい。
庭に車を停めて玄関に向かう。
「ただいま~」
ドアを開けて声をかけてから、神崎さんを中に通す。
「ユイに、神崎社長?これはまた……」現れた新堂さんは首を傾げている。
「こんばんは。夜分にお邪魔して済まない」
「偶然会って!乗せてもらったの」
偶然会ったのは本当だ。横に立つ神崎さんを見上げると、笑顔で頷いてくれた。
「ちょっと朝霧の家に行っていましてね。それにしても、ユイがヘリの操縦ができるとは知らなかった!先生は乗った事が?」
「あっ!神崎さん……っ、それは……」慌てるが、もう手遅れだ。
新堂さんが無言で私を見下ろす中、黙り込んで俯く私。それでなくてもお説教が待っているというのに!
ところが新堂さんは思わぬ事を口にした。「ええ。ありますよ、もう随分前です。意識がなかったので覚えてはいませんが」
「そうでしたか!意識がなかったというのは?」
「遠方で事故に遭いましてね。本当に助かりました。あの時はありがとう、ユイ」
「いっ、いいえ!どういたしまして……っ」
神崎さんがいるお陰で、気持ちがセーブされているのか。帰らないで、神崎さん!
「ゆっくり話したいところだが……」神崎さんが私を見下ろして口籠もる。
して行ってください!私は神崎さんを見て懇願する。
「ユイも疲れているでしょうから、今日は帰ります」
ああ……そうですか。途端に疲労感が増して、ふらついてしまった。
「おっと!おい、大丈夫か?」神崎さんに支えられて事なきを得る。
「ごめん、ちょっと、ぼうっとして……」
「お前はもう寝ろ。それじゃ先生、ユイの事、よろしくお願いします」
「かしこまりました。神崎社長もお気をつけてお帰りください」
静かに玄関ドアが閉じられて、私はそのまま座り込んだ。
「ユイ、そんな所に座り込むな。何か食べるか?それとももう休むか?」
手を差し伸べられて立ち上がる。
「どうしよう……」頭が働かない。自分がどうしたいのか分からない。
しばし考えて、新堂さんが私をダイニングに座らせる。
「少し食べておいた方がいい。それからシャワーでも浴びて寝ろ。ベッドに入ったら診察する。それでどうだ?」
「うん。それでいい」
こうして指示をしてくれるのが有り難かった。
帰ったらすぐにお叱りの言葉が降って来るとばかり思っていたのに、今の彼は不気味なくらいに優しい。……何か裏があるのではと、勘ぐってしまう。
用意された食事を摂り、浴室に向かう。体が鉛を付けたように重い。一体どうした事か。心なしか動悸を感じた。
熱いシャワーを浴びて幾分がすっきりしたが、着替えもそこそこに今度は睡魔が襲って来る。
「ね、む、い……」
私は力尽きて、半裸状態のまま脱衣所で眠り込んでしまった。
目が覚めるとベッドの中にいた。もちろん寝室ではなく自室の方のリクライニングベッドだ。きちんと寝巻も着ている。彼がすべてしてくれたようだ。
カーテンの隙間から光が漏れている。夜はすでに明けたらしい。
「ああ~良く寝た!」
起き上がると体中がギシギシ痛む。これは筋肉痛というやつだ。ああ、ショック!
さらに時計を見て二度目のショック。現在、午後二時過ぎ!
「起きたか」
「新堂さん!起こしてよ、もうこんな時間!」
「別にいいだろ。好きなだけ寝れば。体は大丈夫か?」
「痛い、そこらじゅうが筋肉痛でっ!」
「暴れた代償は大きいな!」
そんな嫌味を言った彼の手に、銀色のトレイに載った点滴袋が見える。
「何それ」
「見れば分かるだろ。これからおまえに施す治療の器具と薬剤だよ」
「は?こんだけ寝た私を、まだベッドに縛り付ける気?」
「再発の心配がある。昨夜から動悸、感じてるんだろ?隠してもムダだぞ」
何も言えない。この人にも嘘はつけない。私の周りの人達は正直者が多い!
「だからって……目が覚めるまで律義に待たなくても!寝てる間にしてくれれば良かったじゃない!」
「ダメだ」
「何でよ!」
「知らない間に終わってたら、また無茶するだろ。こうやって治療してるのを見て、自分の置かれた状況を認識してもらわねば」
「はぁ~あ?!……恐ろしい、なんて恐ろしい人なの!」
「何とでも言え。大丈夫だ、横になっている必要はない。二食抜いてるんだ、食事はきちんと摂ってもらう」
「ああ、それなら二食じゃないよ。昨日の昼から食べてないから!」
また、いらぬ事を口走ってしまった。
もちろんこの後、懇々と新堂さんのお説教が始まったのは言うまでもない。
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