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第六章 まだ見ぬ世界を求めて
47.何がいちばん大切か(1)
しおりを挟むあの宣告以来、私は全てを拒否している。
「傷はもう完治している。そろそろ何か食べてみないか?」
「いらない」
「そう言わないで、食べたい物を用意するから……」
「い、ら、な、いっ!」
頑なに拒否する私に、今度は別の提案を始める彼。
「……そうか。じゃ、散歩にでも行くか?気分転換になるぞ!」
「行かないっ!もうほっといて!」
なぜこんな状態になってまで、生き続けなければいけないのか。それだけをただひたすら考え続ける毎日。食事も気分転換も今の自分には必要ない!
「分かった。では、何かあったら呼んでくれ。隣の部屋にいるから」
新堂さんが、ようやく私を誘うのを断念した。
この三ヶ月というもの、私は過去ばかりを見て過ごした。こんな体になる前の、今となっては輝かしいあの頃を。
自分がしてきた事。何よりも悪を憎み平和を願ってしてきた、あまりにも無謀でがむしゃらな行為の数々。自分の事よりも周りを優先して、ずっと全力で走ってきた。
これからもまだまだ、死ぬまでそうするつもりだった!なのに……。
「もう、何もできない……っ!」
私の啜り泣く声は、もちろん隣室の彼にも届いているだろう。
私をこんな下半身不随の不具にしたあの忌々しい事故から、もう半年になる。
「ユイ、体を拭こうか。今日も暑かったね、汗かいただろ?」
彼は朝晩、欠かさず私の体を丁寧に拭いてくれる。
脊髄損傷は、感覚、運動機能だけでなく、自律神経系も機能しなくなるそうだ。そのため発汗による体温調節も難しい。
小まめなケアが必要だとはいえ、彼のそれは些か神経質にも感じた。
向こうの生活で多少日焼けした肌も、今ではすっかり元の白さに戻ってしまった。
一方、私の長く伸びてしまった髪の方は、美容師戸田君の手によって今も美しく保たれている。
「お待ちしていました。では、今日もよろしく」新堂さんが笑顔で出迎える。
それに対し元気良く答える戸田良平。「かしこまりました!」
「ユイ、何かあったら呼んで」
最後に新堂さんが私に笑みを投げかけた。いつもの光景だ。
最初の数ヶ月は週に二回だった戸田君の訪問だが、その回数は月に二、三度に減った。
なぜなら、今では新堂さんがシャンプーからブローまで美容師並みに(!)してくれるようになったから。
彼は戸田君に手解きを受けては練習を繰り返し、こんな事まで習得してしまったという訳だ。
「どこか、痒い所はありませんか?朝霧さん」
そして今日は、その月に二、三度のうちの一回目。
「大丈夫よ」
「しかし、綺麗な髪ですね!是非、もっともっと伸ばしてほしいなぁ~」
「あなたのお手入れの成果じゃない?」
「そう言ってもらえると、遣り甲斐を感じます!」
雇われ美容師戸田良平は、毎回ひどく関心しながら同じようなセリフを言った。
こんな戸田君の存在も影響したのだろう。一時期口を閉ざしていた私だったが、最近は逆にやたらと口数が多くなった。
そのほとんどは不満だ。他に発散する手立てもなく、私は新堂さんに当たり続けた。
「お風呂に入りたい」
「やっと入る気になったな。いいよ、行こうか」
前に一度入浴させてもらったのだが、湯が体に触れる感覚に耐えられなくなり、大騒ぎして大暴れして、途中で中断となった苦い経緯がある。
あんな恥かしい思いはもうしたくない。
「一人で入りたい」
こんな申し出は呆気なく却下され、案の定彼は私の世話を焼く。
「危ないから手伝うよ」
脱衣所に運ばれ、手慣れた手つきで服を脱がされて行く。
「ねえ。どうして私ばっかり裸を見られてなきゃならないの?ずるいわ!」
「それなら今度、一緒に入るか」何の事もなくサラリとこんな答えが返される。
「っ!バカじゃない?何で一緒になんてっ!」
新堂さんは一人、高らかに笑った。
こんな私のどうしようもない文句に怒る様子もなく、彼は私を湯舟へと入れてくれたのだった。
そして、こんな事もあった。
「ユイ、着替えをしようか」
いつものようにベッドから起こされた時、シーツに付いた赤いものに同時に目が行く。
「あ……っ!」
「そろそろ、その時期だったな。私が気をつけていなかったんだ。申し訳ない」
生理が始まっていたのだ。経血がシーツにまで染みを作っていた。
今まで生きてきた中で、これほどの恥かしさを感じた事があっただろうか。
「どこまで情けない姿をさらさなければならないの?」
「大丈夫だ、うっかりミスは誰でもする。気にするなって」
彼が気を遣ってこんな慰めの言葉を口にする中、私は泣いた。彼に下着を替えてもらいながら、さめざめと泣き続けた。
新堂さんは私にどんな暴言を吐かれても、どんな態度を取られても、一切怒ったりはしなかった。ただ静かに微笑み、優しく接してくれる。
例え親を介護するのだって、こんなふうにできやしないというのに!
この男はこんなに優しい人だった?何か後ろめたい事でも、あるんじゃないか。
こんなふうに思ってしまう私は、どこまで性格が捻じ曲がってしまったのだろう。以前の新堂和矢よりも、タチが悪いかもしれない。
とある昼過ぎ。
「ねえ。そろそろ終わりにしない?」
同じ部屋で雑誌を読んでいる彼に声をかける。
「ああ……、つい読み耽ってしまった。どうした、何かしようか?」
「そうじゃない!終わりにするのはこんな生活よ。私の面倒、一生見る気?あなたの人生、台無しになるわよ?」
私の言葉に一瞬目を丸くするも、彼は静かに雑誌を閉じて姿勢を正す。
「何を言い出すのかと思えば……」
「いいか?私は好きでおまえの世話を焼いてるんだ、放っておいてくれ」
「嘘よ!仕事の延長じゃない。私もう、あなたに払えるほどのお金は持ってないの」
「仕事をしているつもりはない。金などほしくない」
「なら同情ね!あなたの本音が全然聞こえないもの。同情なら、今すぐやめて」
「何と言われようと、私はユイの側にいる」
何を言っても淡々と返されて、それが本心とは到底思えない。
「何でよっ?もういいって言ってるでしょ!!」私はついにベッドの上で叫んだ。
「ユイ……」
「利き腕も足も動かない。トイレにも一人で行けないし、生理がきた事にも気づけない。何にもできない!全部あなた任せ。これ以上、迷惑をかけたくないの!」
「迷惑だなんて思ってない。それどころか、こうしてずっと一緒にいる事が、私の夢だったんだ。ユイが生きていてくれるだけで、十分満足だよ」
「そんな言葉、信じられるもんですか!口では何とでも言えるんだから」
「あまり興奮すると体に障る。少し休みなさい」
またしても鎮静剤を打たれたようだ。抵抗もできずに彼から顔を背ける。そんな私の髪を、新堂さんが優しく撫でる。
その仕草は、私の意識がなくなるまでずっと続いた。
それから数日経ち、ベッドの横に置かれた電動車椅子を見つめていると、彼が話しかけてきた。
「乗ってみる気になったか?外の風は気持ちがいいぞ」
「ふざけないで!どうして私がそんな物に乗るのよ。絶対にイヤ!」
病院で受けた屈辱を思い出し、またも怒りが込み上げる。
「ねえ。私のお願い、聞いてくれる?」
「私にできる事ならね。何をする?」
嬉しそうに彼が私に近づいた。
けれど私は新堂さんの期待を裏切る事になる。前向きに何かを始めようなどとはさらさら思っていないから。
「マキさんに、連絡を取りたいの」
その人物の名を耳にし、彼から笑顔が消える。私が何を望んでいるのかを察知したのだろう。彼は無表情で口をつぐんだ。
「ねえ、聞いてるの?新堂先生!」
答えを促すと、「ああ、もちろん」とすぐに返事がきた。
「連絡、取ってくれるの、くれないの?」
「……分かった。電話してみるよ」
こう答えてはくれたものの実行に移さない気がして、「今すぐよ」と透かさず加える。
「ああ……」
新堂さんは私をじっと見て何かを考えていたが、やがてポケットから携帯電話を取り出して私の前でかけ始めた。
「もしもし、マキ教授ですか。お久しぶりです。覚えてらっしゃいますか、新堂です」
「早く代わって」私は右手で引っ手繰るようにその携帯電話を奪う。
「もしもし、朝霧ユイです。あなたにお仕事を依頼するわ」
『どのような?』
「安楽死、させてくれない?」単刀直入に伝える。
『どなたをですか』
「この私、朝霧ユイをよ!」
『おや、またですか。お遊びに付き合っている暇はないと言ったでしょう?』
この人には一度おかしな依頼をしている。こう言われてしまっても仕方がない。
「今度は本気よ。私は、自分では何もできない体になってしまったの。依頼する権利はあると思うわ」
『何ですって?どういう事ですか!』マキの声が上ずる。
「受けてくださるの、くださらないの?」説明もせずに決断を迫る。
『……とにかく、後ほどこちらから、かけ直します』
「前向きに検討して。連絡待ってるわ」
私は電話を切った。
「何だって?」すぐさま新堂さんが身を乗り出して聞いてくる。
「かけ直すって。電話がきたら、できるだけ早く来るように伝えてくれる?それから、私の銀行口座にいくらか残ってたはずだから。それを全額彼への報酬にして」
「……本気、なのか」
目を細めながら訝しげに聞かれ、胸を張って答えた。「これが冗談に見える?」
しばしの沈黙の後、彼はどこか吹っ切れたような顔になった。
「そうか、おまえの気持ちは分かった。もう何も言わない。望み通りにしようじゃないか」やはりそれは淡々とした口調だった。
「ありがとう。あなたのそういう物分りのいいとこが、昔から好きなのよ」
新堂さんは、もっともらしいお説教なんかしない。
「よし!ユイ、そうと決まれば、最後の日まで存分に楽しもうじゃないか」
「楽しむですって?今さら何を……」
「おまえの願いを聞いてやったんだ。今度は……俺の望みも叶えてくれよな?」
このセリフにどこか違和感を覚えるも、すぐに頷く。
「分かったわ。何をすればいい?」
「それじゃ、手始めにまずは食事だな。俺の手料理だぞ?食ってみろ」
「え……っ?新堂さんって、料理できたの?」
「最近は、大分上達したよ。ま、初めは食わずに正解だったかもな」
「ずっと、作ってくれてたの……」
彼が私を抱き上げてダイニングに連れて行く。
全然知らなかった。まさかこの人が手料理を用意してくれていたなんて!ずっと、悪い事をしてしまった……。
「さあ、食べてくれ」
促されて、恐る恐るスプーンを右手に持ち、目の前のスープをすくう。
彼が私の真横に移動して皿を持ち上げてくれた。
「あ、ありがと……」
「ゆっくりでいい。右手、使えそうか?」
「ええ、何とか……」慣れない右手で口元まで運んだ。
「あんまり自信はないんだ。無理せず食べてくれ。栄養面はバッチリのはずだよ」
「美味しいわ、とても……」
空っぽの胃にジワジワと染み渡る優しいスープの味と温かさに、涙が出そうになる。
今度はフォークでウインナーを突いて持ち上げる。
「そっちの方が無難だな。茹でただけだから?」彼が笑いながら言った。
私は涙を堪えるので精いっぱいで、気の利いた返しもできない。
ぎこちない右手の動きに見兼ねたのか、「俺が食わせてやろうか?」と続けた。
「いいよ!これくらい自分でできる」これには何とか反応できた。
ああ、自分はどれだけ想われているのだろう。彼は私のために毎日これを用意して待っていてくれたのに……。新堂さんがこんなに尽くすタイプだったとは予想外だ。
そして先ほどからずっと感じていた違和感が判明した。それは彼が自分の事を〝俺〟と言っている事だ。
これまでも時折あった。元恋人と対面した時や、施設でお世話になった園長夫人が亡くなった時、彼は自分を〝俺〟と言いながら語っていた。
今新堂さんが口にしている言葉は、全て心からのものなの?今の彼が、この人の本来の姿だと?
新堂さんの笑顔が心に沁みる。この数か月ずっと、彼は私に対して笑顔だった。
……でも私は?
食器を片付け終えた彼がキッチンから戻ってきた。
「さあ、次は散歩に行くぞ!」
「えっ、早速?……」あまりに威勢良く向かって来る様子に少々怖気づく。
「これ、乗ってくれるよな?それとも俺が背負ってくか?」
電動車椅子を動かしながら聞いてくる。
「それ、乗るわよ。背負うなんて大変でしょ」
「そうしてくれると助かるよ」
本当は凄く嫌だった。愚かなプライドが拒否しろと言っていた。けれど私はそれを無視して車椅子に乗った。
「じゃ、今説明したように動かしてみて」
「うん……」
操作方法を教わり恐る恐る動かしてみると、意外なくらいにあっさり移動できる事が分かった。こんなに簡単な事を、どうして今までやってみようとしなかったのか。
もう一人では何もできないと決め付けていた自分は、何と浅はかだったのだろう!
そんな事を今さら後悔しても、もう手遅れだ。何の意味もない。
だって私の人生は、明日終わるのだから。
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